2009年3月20日 (金)

共同研究 明治維新

だいぶ古い本ですが、思想の科学研究会編『共同研究 明治維新』(徳間書店、1967年)という、論文集があります。

この論文集の特徴としては、執筆陣が、日本史や明治維新の研究を専業としている人々ではないこと。例えば、執筆に参加している人々は、専門が哲学の研究者であったり、中国文学の研究者であったり、評論家だったりジャーナリストだったりと、様々な分野で活躍している人々です。

そのような、様々な分野で活躍している人々の「共同研究」という形で生まれた論文集の意義の1つとして、執筆者の1人である市井三郎氏は、序文において、次のように述べています。

そもそも学問は、異なった諸意見の活発なぶつけあいと、理性的な相互批判によってのみ前進するものだが、価値と事実判断とがわかち難くむすびつく歴史という分野では、そのような交流がもっとも困難であることはよく知られている。われわれは市民サークルであることの非拘束性を活用して、学界では望み難い度合にまで、この交流を実現することに努力しえた。

専門の研究者が参加していない論文集だけに、面白いテーマの論文も収録されているのが、個人的に楽しいところでもあります。以下、執筆者と収録論文を緑の文字で記します。

●中沢護人「二宮尊徳論―国内市場の開発」
●布川清司「農民の意識と行動―幕末・先進地域・一旗本領農民の場合」
●市井三郎「維新変革の思想―長州尊攘派の思想的系譜」
●林竹二「幕政改革と『共和』政治運動―横井小楠の『共和』政治思想とその展開」
●西春彦「生麦事件と維新の国際関係」
●葦津珍彦「禁門の変前後」
●浅井昭治「足利将軍木像梟首事件」
●しまね・きよし「幕末・維新における幕臣―川路聖謨・勝海舟を主軸にして」
●筑波常治「島津久光論―革命における旧支配層開明派の役割」
●佃實夫「維新の傍流―阿波藩の場合」
●判沢弘「宮島誠一郎と雲井竜雄―米沢藩の場合」
●久米茂「江藤新平論―佐賀藩の場合」
●大江満雄「浦上キリシタン農民の論争性―維新政府の象徴押しつけにたいする抵抗について」
●鶴見俊輔「明治天皇伝説」
●竹内好「明治維新と中国革命―孫文について」

『共同研究 明治維新』は何しろ40年以上前に刊行されたものなので、上記の収録論文のうち、それぞれの執筆者の著作集などに再録されている論文もあります。

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2009年2月 7日 (土)

紹介しておきたかった幕末維新史関連書籍5冊

非常に久々の更新となってしまいましたが、そんなことはまるでお構いなく、記事を書きます。

今回は、昨年から今年にかけて刊行された書籍で、なおかつ自分でもすでに購入済みの書籍のうち、幕末維新史に関係するものを5冊紹介しておこうと思います。長らく更新していなかったために、そのうち紹介しようと思っていながら、紹介できなかった書籍たちのうちの5冊です。

まずは、小高旭之『幕末維新埼玉人物列伝』(さきたま出版会、2008年)。

この書籍は、8ページの凡例を引用すると、「幕末から明治にかけての時代に足跡を残した埼玉県出身の人物を、関連する事象などを交えながら人物ごとに解説した」書籍と言えます。今では埼玉県と呼ばれている地域に生まれた幕末維新期の人物たち47人について、紹介しています。

紹介されている人物は例えば、明治の実業家として知られる渋沢栄一、彰義隊を援助した覚王院義観、浪士組に参加して上洛した根岸友山、江戸の薩摩藩邸に匿われていた浪士たちの一員である権田直助や桜国輔など、多岐にわたっています。有名な人物だけではなく、あまり有名とは言えない人物も数多く紹介していますので、いわゆる草莽の志士に興味がある方なら楽しめると思います。

著者の小高旭之氏には他に、『漂白の志士 北有馬太郎の生涯』(文芸社、2001年)や『埼玉の浪士たち 「浪士組」始末記』(埼玉新聞社、2004年)といった著書があります。

続いて紹介するのは、中村武生『京都の江戸時代をあるく‐秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで‐』(文理閣、2008年)。

「京都の歴史と文化財保護問題」というHPがある歴史地理研究者である著者の、3冊目の著書。2006年から2007年にかけて、『京都民報』で連載していた記事を修正・加筆したものです。

全部で50話構成となっていて、副題にもるように、幕末期だけではなく江戸時代全般について扱った内容ですが、全50話のうち半分ほどは、幕末期の話題となっています。

なかでも注目なのは、46話~59話まで費やして語られる「寺田屋伝説の虚実」。坂本龍馬の定宿として有名な寺田屋について論じたもの。現在の寺田屋の建物は、幕末当時の建物ではなく、再建されたものであるという説を提唱し、なおかつ深く論じたもの。現在の寺田屋が幕末当時の建物ではないということは、幕末史に興味のある人には元々それなりに知られていた話ではありますが、中村氏の文章はその話をさらに深く語り、説得力ある内容になっています。

3冊目は、松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)。

坂本龍馬という人物は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の影響もあって、幕末維新期に活躍した人物たちの中でも特に人気が高く、知名度もある人物だということに異論はないでしょう。そんな坂本龍馬をメインに扱った書籍も数え切れないぐらい刊行されています。

ところが、数え切れないぐらいぐらい刊行されている龍馬関連書籍は玉石混交。薄っぺらい内容のものも少なくありません。しかしながら、松浦玲氏は横井小楠や勝海舟の研究者として名高い幕末研究者ですので、この本は龍馬の生涯を手堅くコンパクトに、しかも最新の研究成果を取り入れつつ、非常に安心できる内容に仕上げています。

龍馬の実像を知りたい人や、2010年の大河ドラマ『龍馬伝』に向けて龍馬本を読んでおこうという方に、まずオススメしたい1冊です。著者の松浦氏には『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)という著書もありますので、そちらもオススメです。

続いては、町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ、2009年)。

この書籍のタイトルにある、島津久光を「幕末政治の焦点」とする視点に、私は非常に共感します。著者の町田氏は本書の冒頭で、「本書で論じたいのは、久光の梃子的活躍なくして、幕末は決して回天しなかったということである。まさに隠れて忘れさられている綺羅星なのだ。久光あっての幕末史であり、また久光なくして幕末は語ることができないはずである。特に文久期以降、元治期前半までの中央政局は、久光の存在を抜きにして、その多くを描き出すことは叶わないのだ」と述べていますが、全く同感です。

この本は、文久期の幕末政治史を主な研究対象にしている著者の初めての著書である点でも注目です。

最後は、宮地正人・伊藤克司・小林丈広・多田敏捷・宮川禎一『新選組の論じ方‐新選組史料フォーラムから‐』(新選組史料フォーラム実行委員会、2009年)。

この書籍は、2004年に東京都日野市で開催された「新選組史料フォーラム」の各報告者が、そのときの口述記録を手を加え、あるいは全面的に書き下ろした論考で構成されています。

個人的に一番面白かったのは、宮地正人氏の「新選組の論じ方」という論考。その構成は、「はじめに」、「一、新選組の影の担い手山崎丞」、「二、新選組の研究課題」、「三、剣術遣いの群をどうおさえるか」、「四、東国勤王派論」、「おわりに」となっています。宮地氏が著書『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)で取り上げられなかった問題点を含め、新選組を歴史学の研究対象として扱う上での様々な論点が提示された論考です。

そのほか、伊藤克司「水野弥太郎親分と新選組・赤報隊」も読み応えがあり、本書の中でもっとも多くのページ数が割かれている論考です。

この書籍は一般書店では販売しておらず、山口県のマツノ書店でのみ取り扱っています。もちろん、ネット上での購入も可能です。

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2008年10月 4日 (土)

アメリカ人女性が見た幕末

『山梨国際研究:山梨県立大学国際政策学部紀要』第2号(2007年)に、戸田徹子「マーガレット・バラの語る幕末日本」という論稿が掲載されています。

マーガレット・バラとは、宣教師の夫人として幕末の日本にやってきたアメリカ人女性だそうです。1861年(文久元年)~1866年(慶応2年)の間、日本に滞在し、その後1870年(明治3年)に再来日したそうです。

戸田徹子氏の文章は、そんなマーガレット・バラが1908年に出版した著書(当時の書簡も収録し、日本滞在時の出来事を綴ったもの)をもとに、幕末から明治初期に来日したアメリカ人女性宣教師たちが幕末の日本をどのように見ていたのか分析しています。

ちなみに、マーガレット・バラの著書の邦訳版が、川久保とくお訳『古き日本の瞥見』(有隣堂、1992年)です。

戸田徹子氏の文章はインターネット上でも閲覧することが可能で、下記のリンクをクリックすることで、PDFが開きます。

マーガレット・バラの語る幕末日本(国立情報学研究所・論文情報ナビゲータCiNii)

マーガレットは、薩英戦争で薩摩藩もしくは幕府に賠償金を求めるイギリスの態度や、長州藩による外国船砲撃で賠償金を求める、アメリカを含む西洋列強の態度を批判しているのが印象的でした。

興味のある方はぜひ読んでみてください。

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2008年9月18日 (木)

一歴史学者の歩み

だいぶ前に読んだ、家永三郎『一歴史学者の歩み』(岩波現代文庫、2003年)の紹介。家永三郎氏は2002年に89歳で亡くなった歴史家ですが、一般的には教科書裁判で名前が知られている方ですね。その家永氏の自伝です。

岩波現代文庫版『一歴史学者の歩み』は、『一歴史学者の歩み 新版』(三省堂、1977年)を部分的に修正した、『家永三郎集』第16巻(岩波書店、1999年)所収の文章を底本にしたものだそうです。未発表原稿「私と天皇制・天皇」を付篇として収録し、さらに鹿野政直氏の解説が付いています。

家永三郎氏の生涯と、教科書裁判に至るまでの経緯が詳しく記されていて、興味深く読むことができました。また単に面白いだけではなく、家永氏自身が「あとがき」で述べるように、「考えようによっては、私の貧しい体験も、それはそれなりにやはり一つの歴史的事実であるし、私が生きてきた半世紀の歴史を知ろうとする方々に、何ほどかの資料を提供することにならないともかぎらない」という面での価値もあると思います。

ところで、家永氏は戦後まもなくの頃、天皇制や明治憲法を賛美するような文章を公にしていたにもかかわらず、後には天皇の戦争責任を論じるような著作を書いたりしているため、「変節」の謗りを受けることもしばしばあるようです。

鹿野政直氏の解説によれば、付篇として収録された「私と天皇制・天皇」は、「変節」との誹謗に反撃するため、自身の天皇観の変遷をきちんと書いておきたいという目的から書かれたらしいです。その観点で読んでいくと、確かに言い訳がましく見える部分もあります。

しかし、いずれにしても家永三郎氏は戦後を代表する歴史家の1人です。鹿野政直氏の言葉を借りれば、「二十世紀の日本の歴史学界で家永は、傑出した思想史家として、また日本史の全領域にわたる視野をもつ歴史家として不抜の位置を占めている」人物です。

それだけではなく、教科書裁判でも有名な家永三郎氏の自伝とあって、その内容は非常に面白く、貴重な証言も含まれています。そのため、大変興味深く読むことができました。個人的には教科書裁判の話もさることながら、筑波大学創立をめぐる話も面白かったです。

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2008年8月28日 (木)

慶応元年の遠山三之助景之

財団法人・大倉精神文化研究所が発行している『大倉山論集』第52輯(2006年)に、岡崎寛徳氏の「慶応元年の遠山三之助景之」という論文が収録されています。「嘉永元年・安政二年の遠山左衛門尉景元」(『大倉山論集』第50輯、2004年)と「安政二・三年の遠山金四郎景纂・景彰」(『大倉山論集』第51輯、2005年)に続く論文です。

遠山三之助景之とは、時代劇『遠山の金さん』のモデルになった遠山左衛門尉景元の家を9代目として継いだ人物です。有名な景元は6代目です。9代目の景之は景元と同様、「金四郎」を名乗ったこともあるそうです。岡崎寛徳氏によれば、景元以降の遠山家については明らかでない部分が多いらしく、岡崎氏の研究もその部分に光を当てたものということになります。

岡崎氏の論文は、大倉精神文化研究所所蔵の「金沢甚衛氏旧蔵資料」中の「遠山日記三」を主な論拠史料として、慶応元年の遠山三之助景之の活動、遠山家の家族や親戚の動向、遠山家の家臣や領地などについて分析したもの。その結果として例えば、遠山三之助景之が小姓組番士として、慶応元年の将軍・徳川家茂の上洛に随従していたことなどが明らかにされています。

岡崎寛徳氏は「慶応元年の遠山三之助景之」ほか一連の論文で、遠山景元の家に関する事実を色々と明らかにされています。現在、遠山家5代の景晋以降が葬られた遠山家の墓所は、明治末年に移転しているそうですが、移転前と移転後では墓の配列が異なり、移転後には景元の墓が中央に配置されたそうです。その理由としては、明治末年の段階で景元が名町奉行として巷間に知れ渡っていたからではないかと、岡崎氏は推測しておられます。

なお、『大倉山論集』第53輯(2007年)には、岡崎寛徳「徒頭遠山金四郎景纂の役務」という論文が収録されています。景纂は9代目の景之よりも前の、7代目に相当する人物です。

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2008年8月13日 (水)

歴史上の人物・集団への好き嫌いと興味

「自分は佐幕派の視点から幕末を考えている」とか、「私は薩長びいきだから、幕府とか会津とか新選組は嫌い」とか公言されている方がいます。もちろん、誰にでも人それぞれの思い入れや好き嫌いはあるでしょうから、別にそれは構いません。

しかし、その気持ちをあまりに強く主張し過ぎているように感じられる人が時折いて、好きな人物を持ち上げて嫌いな人物を貶めることに力を注ぎ過ぎではないかと疑ってしまうことがあります。もちろん、ごく少数の人だとは思いますが。

私はどちらかというと、歴史を考えるとき・歴史上の人物や集団を評価するときに、自分の好き嫌いの感情は、あまり持ち込みたくないと思っています。例えば、「新選組とはどんな集団だったのか」という問題を考えるときに、新選組という集団への好き嫌いの感情、あるいは個々の隊士たちへの思い入れを重視してしまうと、客観的な評価が難しくなってしまうからです。

もちろん、完璧に客観的な評価など不可能かもしれません。どうしても主観が入るのはやむをえないでしょう。それでも、できるだけ好悪の感情を差し挟まないことで、少しでも客観的な意見・中立的な評価を形成したいと、常々気を付けているつもりです。

そもそも、私は「好き嫌い」よりも「興味」で歴史上の人物や集団を調べます。人間的には好きになれそうにない人物でも、その人物が残した史料が滅法面白い内容を含んでいたりすれば、その人物についての「興味」は高まります。人間的には嫌いでも、興味が出てくることがあるのです。

「好きになること・嫌いになること」と、「興味をもつこと」は別物で、「好きだから高い評価を下す、嫌いだから低い評価を下す」というものでもないよなぁと思う今日この頃です。

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2008年8月 5日 (火)

慶応元年前後における徳川玄同の政治的位置

雑誌『日本歴史』第658号(2003年)に、藤田英昭「慶応元年前後における徳川玄同の政治的位置」という論文が掲載されています。幕末維新史研究者である藤田英昭氏の、恐らく最も代表的な論文だと思います。以下、この論文の内容をごくごく簡単に紹介していきます。

その藤田氏の論文でクローズアップされている徳川玄同は、幕末の尾張藩主として有名な徳川慶勝の弟で、慶勝が安政の大獄で隠居した後に藩主に就任し、その後、御三卿の一橋家を相続した経歴を持つ人物です。一橋茂栄、徳川茂徳などの名前で呼ばれることもあります。会津藩主にして京都守護職の松平容保、桑名藩主にして京都所司代の松平定敬とも兄弟です。

実際のところ、玄同は徳川慶勝や松平容保、松平定敬に比べてイマイチ有名ではない人物でしょう。しかし藤田英昭氏は、慶応期の徳川玄同の政治動向が幕政にまで大きな影響力を及ぼしていたと指摘し、玄同を重要視する必要性を訴えているのです。

玄同は親幕派で、兄の慶勝と対立していました。慶勝によって掌握された尾張藩内では、玄同の主張はことごとく慶勝に握り潰されてしまうような状況にあったようです。藤田氏によれば、第二次征長をめぐる政局の中で、幕府からの上京命令を巧みに引き出し、中央政局に登場することに成功します。

幕権拡張論者でもあった玄同は、朝幕協調路線の一会桑権力とは対立するものの、将軍・徳川家茂には深く信頼され、家茂から精神的な「親」として尊敬されていたとのことです。それを邪魔に思った一会桑は、朝廷の意向で進めた幕閣再編の過程で玄同を江戸留守役に任命し、中央政局から追放させる措置を採りました。江戸下向後は御三卿の清水家相続が予定されていたそうです。

玄同の清水家相続は一会桑にとって、玄同を中央政局から失脚させる目的だったものの、将軍家と歴史的に親密な間柄にある御三卿に玄同が入ることは、むしろ玄同と将軍・家茂の精神的な「親子」関係を制度的に保証し、玄同と将軍家をさらに接近させてしまうという矛盾も含んでいたそうです。

その上、御三卿・一橋家の当主であり、朝幕協調論者の一橋慶喜にとっては、幕権拡張論者の玄同が御三卿の清水家に入ることは、自分と同じ立場の政敵を作ってしまう可能性もあったのだと、藤田氏は指摘しています。また、玄同は幕府内で将軍・家茂に次いで高い官位を授かっていて(慶喜よりも上)、その玄同が江戸留守役に就任したということも、藤田氏は決して軽視しません。そんな事情があってもなお、慶喜が玄同を江戸に下向させたのは、中央政局を円滑に運営するために採った慶喜なりの苦渋の措置だったようです。

以上のような観点から、一般的にもマイナーで従来の研究史においても重要視されてこなかった徳川玄同をもっと重視すべきことを、藤田英昭氏は盛んに強調されています。藤田氏は論文末尾において、「玄同のように当該期に大きな影響力があったにも拘わらず、その後の歴史で忘却されてしまった勢力を積極的に位置づけていく作業が、今後ますます必要なのではないかと考えている。」と述べておられますが、私も同感です。

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2008年7月30日 (水)

大政奉還後の高田藩の動向

上越教育大学社会科教育学会が発行している『上越社会研究』第16号(2001年)に、長部薫「大政奉還後の高田藩の動向-榊原家文書を中心に-」という論文が掲載されています。それを、最近読みました。

高田藩とは、徳川四天王と称された榊原家が藩主を務めていた譜代藩です。その高田藩を素材に、上越市立高田図書館所蔵の「榊原家文書」などを駆使して、いまだ十分に進展していない「旧体制」側の動向を考察して、幕末維新史研究の進展に寄与しようと試みたものです。

その論文によれば、徳川慶喜が朝敵とされてからの高田藩は、「哀訴諫争」を藩の方針としていたとのこと。つまり、朝廷に対しては徳川家の存続を願う「哀訴」、徳川慶喜に対しては朝廷への謝罪を促す「諫争」を方針として時局に対応していたそうです。徳川家の存続のため、朝廷と旧幕府の衝突を回避する戦争防止を目指したと言い換えることもできるでしょう。

ただ、この方針は、藩内に様々な考えを持った人間がいることに配慮して決まったものなので、会津藩などから文句を言われた場合、あるいは朝廷に文句を言われた場合にどのように対応するのか、そのあたりの態度が曖昧だったようです。そういったこともあって、朝廷から疑念を抱かれ、その払拭に苦心していたとのこと。

さらに、古屋佐久左衛門や今井信郎らの衝鋒隊が高田領内を通行したときには、高田藩が朝敵になりかねないと藩主以下が危機感を抱いたようです。衝鋒隊は表向き旧幕府によって組織されたものであるとの認識から、衝鋒隊と交戦することは徳川家に弓を引く行為になるとの認識が高田藩内に根強く、だからと言って朝廷との戦いも辞さない覚悟の衝鋒隊を全面的に支援しては朝敵になってしまうかもしれないとの危険性を、高田藩では感じていたようです。そのため、高田藩は衝鋒隊に対して、朝廷にも旧幕府にも等しく奉公すべきだという論理で説得を試みたそうです。

最終的に高田藩は、衝鋒隊を追討することになって、朝廷からの疑念を払拭することに成功するものの、衝鋒隊の領内通行を一旦は認めてしまった責任を取る形で北越戦争を先鋒として戦うことを強いられ、鳥羽・伏見の戦い以来の戦争回避の方針が挫折することになってしまったそうです。

幕末維新期の高田藩に関する研究は少ないと思いますし、私自身もあまり詳しく知らなかったので、長部薫氏の論文の内容は色々と興味深く、勉強になりました。

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2008年7月11日 (金)

幕末洋学教育史研究

坂本保富『幕末洋学教育史研究‐土佐藩「徳弘家資料」による実態分析‐』(高知市民図書館、2004年)という本があります。主役は、幕末土佐藩の西洋砲術家である徳弘孝蔵です。徳弘には坂本龍馬や武市瑞山、それに岡田以蔵など有名な志士たちが入門しています。

実は、私は『幕末洋学教育史研究』をまだ読んでおりません。しかし、竹中暉雄氏が『教育学研究』第72巻第3号(2005年)に本書の紹介文を載せていますし、坂本保富氏の論文は以前にいくつか読んだことがありますので、それらをもとに『幕末洋学教育史研究』を簡単に紹介してみたいと思います。

『幕末洋学教育史研究』は、高知市民図書館が所蔵している「徳弘家資料」581点を駆使して、下曽根信敦(金三郎。高島秋帆の弟子)から免許皆伝を受けた徳弘が、どのような教育を土佐の人々に施し、その教育にどんな特徴があったのかを分析した本だそうです。

また、徳弘の門人563名について、氏名・身分・住所・入門年・学習開始日・入門年齢・取得免許・取得年などを記した一覧表が付されているとのこと。それは大変便利なことでしょう。『幕末洋学教育史研究』はページ数にしても602ページで、それだけでも大変な労作であることがわかります。ただ、竹中暉雄氏によれば、先行研究の扱い方に問題点があるとのことです。

本書と関連がありそうなところで、著者の坂本保富氏にはほかに、以下のような論文もあります。

・坂本保富「『東洋道徳・西洋芸術』における教育認識の構造と特質‐象山における西洋理解との関連において‐」(『東京教育大学教育学研究集録』第16号、1976年)
・坂本保富「門人帳資料『訂正 及門録』からみた象山塾の入門者‐幕末期における『東洋道徳・西洋芸術』の教育的展開‐」(『日本歴史』第506号、1990年)

ちなみに、竹中暉雄氏の本書紹介文は、コチラで読むことができます。
(国立情報学研究所のCiNii論文情報ナビゲータより)

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2008年6月25日 (水)

慶応3年10月10日前後の坂本龍馬書簡

慶応3年10月10日頃に書かれたと思われる後藤象二郎宛の坂本龍馬の書簡には、有名な一節があります。以下に赤文字で引用してみます。

幕中の人情に行われざるもの一ヶ条これ在り候、其儀は江戸の銀座を京師にうつし候事なり、此一ヶ条さへ行われ候得は、かへりて将軍職は其まゝにても、名ありて実なけれは恐るゝにたらずと存じ奉り候
(宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社学術文庫、481ページ。ただし、読み下しに直しています)

龍馬書簡の上記の部分については、昔から色々と議論がありました。たとえば池田敬正『坂本龍馬』は、「幕府権力を経済的に支えている一つの条件として貨幣鋳造権の独占があるが、銀座の移転ということは、その鋳造権を奪いとれということである」と指摘した上で、「一面大変重要なところをついているが、やはり町人的な安易さがあったといえないだろうか」と主張されています。武力行使よりも平和的な手段を優先させているところが「町人的な安易さ」が出ているというわけです。

近年の成果である松岡司『定本 坂本龍馬伝』は、「将軍家が『天領』をもつ、日本最大の封建領主であることに目をつむったこの発言は、いかにも商業へかたむく龍馬らしく、政権返上策としてはいささか不徹底だ」と言います(その後で、「だが、これは象二郎の役割を考えてのことらしい」と付け加えておりますが)。

池田敬正氏の考えに真っ向から反対したのが、飛鳥井雅道『坂本龍馬』。飛鳥井氏は池田氏の記述を引用して批判しながら、「経済権を奪いとられることは、将軍や幕府にとって、絶対にできないことだった」と指摘した上で、王政復古政変後に「納地」すなわち土地取り上げを幕府がのめなかった事例を挙げて、「『納地』は経済権の封建的表現であり、銀座とりあげはそれを流通面でいいかえたものである」と主張されています。

上記3名とは異なる観点から、龍馬を「鋭い政治感覚」の持ち主と評価しているのが井上勲氏です。井上氏は色々なところで、「大政奉還」の「大政」の内容を具体的に決めることの重要性を述べている研究者ですが、要するに、一言で「大政」を奉還ないし返上すると言っても、その「大政」にはどんな権利が含まれているのかということです。

井上氏は、多くの大政奉還論者が「大政」の内容について曖昧に考えていたにもかかわらず、龍馬は曖昧のままにしておかなかったと、龍馬の上記書簡から判断します。龍馬は貨幣鋳造の権限もしっかり「大政」の中に含めるべきだと考えた、そのあたりに「鋭い政治感覚」が出ているというのが、井上氏の主張です。井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本 坂本龍馬の謎』新人物往来社、1985年)を参照。

ところで私は、佐々木克氏や青山忠正氏の薩土盟約関係の論文を読んだとき、何となく思いついたことがあります。慶応3年6月に結ばれた薩土盟約は9月になって、薩摩側が一方的に破棄を宣告しますが、その理由として佐々木氏や青山氏は「将軍辞職条項」を重視しています。つまり、6月の段階では土佐藩の方針として徳川慶喜に将軍辞職を求めるということで薩摩藩と合意したのに、9月の時点で土佐藩の方針から「将軍辞職条項」が消えていたということです。

龍馬はそのあたりで土佐と薩摩が疎隔する事態を避ける意味も込めて、「将軍職は其まゝにても、名ありて実なけれは恐るゝにたらず」と妥協的なことを言ったのではないか。つまり、将軍辞職を慶喜に求める薩摩と将軍辞職を求めない土佐の妥協案として、貨幣鋳造権を奪うことで将軍の名目はそのままに将軍職を実のないものにする案を後藤に提示したのではないか…佐々木氏や青山氏の主張に触れたとき、何となくそう思ったわけですが、詳しい検証をしたわけではないので、強く主張するつもりはありません。

いずれにしても、冒頭で引用した龍馬の書簡は、色々と面白い内容を含んでいると思います。

<参考文献>
・青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)
・青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2005年)
・飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)
・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)
・井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本 坂本龍馬の謎』新人物往来社、1985年)
・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)
・松岡司『定本 坂本龍馬伝』(新人物往来社、2003年)
・宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社学術文庫、2003年

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2008年6月17日 (火)

薩長連合の政治史

「『昭和を読もう』葦津珍彦の主張シリーズ」の2冊目である、葦津珍彦『永遠の維新者』(葦津事務所、2005年)に、「薩長連合の政治史」という論稿が収録されています。1960年代に雑誌『新勢力』に発表されたもので、『史学雑誌』の「回顧と展望」でも紹介されたものです。葦津珍彦『武士道‐戦闘者の精神‐』(神社新報社、2002年)などにも収録されています。1960年代に発表された薩長同盟に関する論文として、その内容をほんの少しだけ紹介してみます。

慶応2年正月に成立したいわゆる薩長同盟、葦津氏の論文では薩長連合と呼称されていますが、それを葦津氏は「慶応・明治・大正の約半世紀間にわたって日本の政局を全的に指導した」ものと位置付けた上で、薩長連合を成立させた人物たちの心理と思想を分析しています。

その際、葦津氏は坂本龍馬や中岡慎太郎のような仲介者よりも、西郷隆盛や木戸孝允といった薩摩藩・長州藩の指導者たちを分析の中心に据えていることを心がけています。それは葦津氏が、「薩長連合は、あくまでも薩長二藩の主体的な意思と利害との上に成立している。この二藩の指導者たちは、あくまでも藩の立場に立って連合している。ここにその本質がある」と認識しているからです。したがって、龍馬ら第三者の働きを必要以上に評価する風潮を戒めています。

薩長同盟成立の場に立ち会った坂本龍馬については、次のように評しています。

西郷が天下をいかに考え、藩をいかに考えたか、そのような基本的問題について、西郷、木戸がいまさらに坂本の言動に動かされたり啓発されたりすることはない。西郷は西郷のペースで動いている。ただ相対決した両者の間では、どこまで押せるか、どこまでが限度かの測定がつきかねる。この間に坂本が介在して、その木戸の受け入れうる限界を西郷に知らせたという点に、坂本の功がある。

その薩長連合の戦略は、成立時点では「いまだ防衛的・消極的な色彩がみられる」ものの、第二次長州征伐での長州藩勝利、孝明天皇死去による政治勢力バランスの変化などなどの政局の推移を経て、防衛から攻勢へと転じながら前進したのだと、葦津氏は述べます。葦津氏の主張によれば、この連合の威力は明治以後も続き、連合に反抗する者は許されず、政界の中枢から脱落していくしかなかったとのことです。

しかし、その連合は西郷と木戸が完全に感情的意気投合したことによって成立したものではなく、お互いの不信と反感を抑えた上での政治的理性の計算によって築かれたものであるとも、葦津氏は主張しています。つまり、そのことによって「いつも対決と不信の底流が解消しなかった」ということになり、薩摩閥が牛耳る海軍と、長州閥が牛耳る陸軍の対立は、その顕現と見なされます。

葦津氏は維新の志士たちには、詩人的精神を持っていた人物たちと、現実主義者がいたと見ていて、維新史を見る上で詩的側面と現実的側面の両方を見なければならないと言います。ここで紹介した「薩長連合の政治史」は、その現実的側面に関する問題を分析した論文です。

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2008年6月 5日 (木)

新選組と坂本龍馬をもとに考える史実とフィクション

昭和初期、幕末の浪士集団への関心から、平尾道雄氏は新選組と海援隊を研究対象にしました。平尾氏は昭和3年に『新撰組史』を自費出版し、翌年には『坂本龍馬海援隊始末』を万里閣書房から刊行しています。両著はそれぞれ、新選組と坂本龍馬の研究史において重要です。

さて、その平尾道雄氏は、坂本龍馬が率いた海援隊と近藤勇が率いた新選組について、色々と対照的な面があったことを指摘しています。それは、2つの組織の構成や構成員の違い、あるいはリーダーの個性の差などから出てきたものでしょう。

私は、現在の世間での海援隊と新選組の扱われ方・関心の持たれ方において、共通点と相違点を感じています。まず、両者とも人気はあります。その人気は、残念ながら平尾道雄氏の精力的な研究が直接の影響を与えたわけではなく、平尾氏の研究成果を参照しつつ書かれたと思われる、司馬遼太郎氏の小説によるものでしょう。それは共通性として指摘できると思います。

ただ、海援隊はリーダーの龍馬の人気が突出していて、ほかの隊士たちの人気や知名度はそれほどではないにもかかわらず、新選組の場合はリーダーの近藤勇に人気が集中しているわけではなく、むしろ各隊士に人気が分散していて、近藤よりも他の隊士たちの方が人気がありそうな点は、大きな相違点です。それも、司馬氏が龍馬を主人公にした小説を書いたのに対し、新選組の場合は近藤以外の隊士たちが大きくクローズアップされたことが原因でしょう。

司馬遼太郎氏の小説の影響は、別の面からも指摘できます。

海援隊にも新選組にも、あるいは坂本龍馬にも近藤勇にも共通していることは、それらを論じる人々が、必ずしもフィクションと史実の区別をせず、曖昧なままに議論していること場合が多いことだと思います。

「好きな歴史上の人物は?」という質問に対して、例えば坂本龍馬を答えた人が、果たして司馬遼太郎氏の小説に出てきた龍馬と史実の龍馬をはっきり区別した上で答えているのか、疑問に思うことがあります。

巷で研究本として流布している龍馬や新選組についての本も、司馬遼太郎氏の小説に影響を受けているものが少なくありません。司馬氏の小説は面白いですし、それで龍馬や新選組に興味を持つのも全然構わないと思います。ですが、司馬氏が小説の中で創作した龍馬像や新選組像というフィルターを通して史実を見ている人が、「研究家」を名乗っている人の中にも少なくないのです。

そのような、司馬氏の龍馬像・新選組像というフィルターを通してしか史実の龍馬や新選組を見ることができない人々が書いた文章が、司馬氏の小説をまだ読んでいない人にまで影響を与え、必ずしも史実とは思えない龍馬像や新選組像を、史実だと信じ込んでしまっている人が少なくありません。

しかし、私はフィクションと史実は厳密に区別して論じるべきだと思うのです。司馬氏だって、自分の文章を小説として書いている以上、自分の作品の中に登場する龍馬や新選組隊士たちについて、史実を忠実に再現している意識はなかったはずです。史実をベースに書いてはいるでしょうが、作品を面白くするために適宜フィクションを織り交ぜ、自分の好きな人物については史実以上にカッコいい活躍をさせたり、逆に嫌いな人物の活躍についてはあえて書かなかったりしている事例が見受けられます。

作家が書く小説には創作が許されるという点で、歴史研究者の研究とは大きく異なるのですが、それをよくわかっておらず、「歴史小説を書いている作家=歴史研究者」と誤解している人までいます。司馬氏の小説には、そのような錯覚をさせる力があるのかもしれません。

新選組や海援隊は、史実とフィクションが曖昧なままに議論がされる傾向が強いのも、そのせいでしょう。小説の中で、あたかも事実のように書かれていても、必ずしも事実ではないかもしれない、小説だからフィクションかもしれないという点を認識すべきだと思います。

史実は史実として楽しみ、フィクションはフィクションで楽しむべきです。一口に「龍馬ファン」とか「新選組ファン」とか言いますが、例えば「史実の龍馬ファン」と「司馬さんの『竜馬がゆく』に出てくる竜馬のファン」という風に分けるべきだと思います。本来、史実と歴史小説・時代劇は別ジャンルのものなのですから。

『燃えよ剣』や『新選組血風録』は嫌いだけれど、史実の新選組は大好きだという人がいても良いではないですか。『竜馬がゆく』は読んだことがないけれど、龍馬が書いた書簡を読んで龍馬に興味を持った人間がいても良いではないですか。もちろん、フィクションの世界における新選組や龍馬のみが好きなのであって、史実には興味がないという人がいても構わないですし、史実もフィクションも好きだという人がいても構わないでしょう。

私が気になるのは、新選組や龍馬の話を楽しそうにしている人がいたとして、その人が史実の彼らについて話しているのか、それとも小説や映画での彼らについて話しているのか、よくわからないことがあること。恐らく、話している本人たちに、その区別をしようという意識が希薄なのだと思いますが、できれば明確に区別した方がいいと思うんです。

なお、一方では面白い小説を書きつつ、他方では質の高い歴史研究をされている方もいます。例えば、歴史家の奈良本辰也氏は、歴史家として重要な研究を発表しつつ、小説も書いていました。最近では桐野作人氏も、創作・研究の両面において稀有な才能を発揮されています。そういう方々もいるということを、念のため述べておきます。

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2008年5月30日 (金)

薩摩藩島津家と近衛家の相互的「私」の関わり

雑誌『日本歴史』第657号(2003年)に、笹部昌利氏の「薩摩藩島津家と近衛家の相互的「私」の関わり‐文久二年島津久光「上京」を素材に‐」という論文が掲載されています。島津久光の、いわゆる率兵上京に関わる事について考察した論文です。

このブログでも以前に紹介した、宮地正人「幕末過渡期国家論」(『天皇制の政治史的研究』校倉書房、1981年)をはじめとして、文久2年の島津久光の政治活動に言及した著書や論文は数多いですが、笹部氏はそれら先行研究について、「運動の受け手となった人間の意思が議論に反映されていない」とか、「一個人の政治に対する心性と言動を踏まえた検討がなされていない」といった批判をしているのが特徴的です。

笹部氏は先行研究において、島津家の政治活動を政治体制再編のための公武合体運動として位置付けることに集約されて議論されてきた点をも批判します。笹部氏は島津家の政治活動に、島津家と近衛家の利得を企図した「私」的な論理が介在しているとして、それを重視してこなかった従来の研究を批判しているのです。したがって、例えば近衛忠房の妬みや偏見といった「心」を重視します。

島津久光が上京する直前の近衛家は、安政の大獄によって、本来は五摂家筆頭であるにもかかわらず、朝議から遠ざけられていました。笹部氏の言葉を借りれば、近衛忠房は「九条関白専制というべき現今の朝議において、近衛家から発せられた言論が受け入れられない」と認識していました。それを笹部氏は「このような忠房見解には、個人の妬みと偏見が反映されていよう。よってそのまま事実とは考えられない」と言います。

しかし笹部氏は、忠房がそのような妬みや偏見を抱いた「心」そのものに注目するのです。近衛家は摂家筆頭であるにもかかわらず朝議運営に参加できない、そのような屈辱、近衛家の「家」の復権を企図する忠房の「心」、忠房の九条家に対する私怨…そういったものに笹部氏は注目しつつ、以下のように述べます。

政治の「場」においては、武家と公家、それぞれが「私」の保全と「利」の獲得を目指し、その実現のために政治的・経済的リスクを負いながらも、不測の未来における「家」の存続と繁栄を志向したのである。

笹部氏が分析の素材とした島津家と近衛家も、その例だということです。島津宗家の繁栄を願う島津久光の希望、近衛家の政治的復権を願う近衛忠房の希望。その2つの利得獲得に向けた気持ちが相互に関わりあった結果が、島津久光の「上京」という政治活動に結びついていったことを、笹部氏は主張されています。

笹部氏は、「これまでの明治維新史研究は、それぞれの政治局面にみえる「私」の相互関係を捨象し、大名家の政治運動において目指された「天下」のための「公」的政治秩序の創出過程を論証することに終始し、政治運動の本質的な意味が検討されてこなかった」と述べていますが、個人的には同感ですし、笹部氏のようなアプローチは面白いと思います。

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2008年5月22日 (木)

坂本龍馬についての市井三郎氏の議論

哲学者・市井三郎氏には、『哲学的分析‐社会・歴史・論理についての基礎的試論‐』(岩波書店、1963年)という著書がありまして、その第一章に収録された論文が「維新史における主体性と法則性‐坂本竜馬の役割分析をめぐって‐」と題され、坂本龍馬について考察されています。

市井氏は、歴史の「法則性」とか「必然性」といったものの存在を認めつつも、歴史の動きには個々の人間の主体的な行動が必要な場面もあるということを、上記論文で何度も強調しています。局面ごとに人間の主体的行動次第で、歴史は変化するとも言います。

例えば市井氏は薩長同盟について、どんなに薩長両藩が同盟を結べるような客観的条件が整った・熟したとしても、それは「事態が新しく展開するためのいわば潜在的可能性が存在するにいたった、ということにすぎず、その可能性を現実に転化する作用因はつねに個々の人間」であるという立場から、龍馬の薩長同盟仲介を評価しているのです。

ところで市井氏は、坂本龍馬を大政奉還実現に向けて主体的に努力した人物と見なした上で、慶応三年の龍馬について、色々と分析しています。坂本龍馬の慶応三年の行動については、古くから疑問が呈されてきました。例えば、尾佐竹猛氏は「本来、武力討幕と大政奉還とは両立せざることを一身にて為し遂げた坂本の行動に付ては従来史家の疑問とするところであった」(尾佐竹猛『明治維新』下巻ノ二)と述べ、井上清氏は「二股主義」と評したことがあります(井上清『日本現代詩Ⅰ 明治維新』)。

しかし市井氏は、龍馬の慶応三年の行動は決して「二股主義」などではなく、整合的に説明できると主張していきます。市井氏は、「竜馬の主体性においては、薩長連合を推進してきたことと、『奉還』運動に文字通り決死的に当たっていることとの間には、なんら矛盾はない」と断言します。市井氏は、龍馬が大久保忠寛との交流によって早い時期から大政奉還の考えを抱き、薩長同盟の周旋もそれに向けてのものだったと理解しています。大政奉還を幕府にさせる上での「武力的威圧」だったというのです。

最終的には、単なる武力的威圧に止まらず武力討幕という事態に至ってしまったわけですが、それはあくまで龍馬の意図からの「若干のズレ」と市井氏は理解します。また、その武力討幕にしても、とりあえずは龍馬の目論見どおり大政奉還が実現したことが、武力討幕にも有利な作用をもたらしたことを指摘します。例えば、「フランス軍事使節団による訓練の下に、新兵器で武装されていた幕府軍が、もし『奉還』による名目の喪失という心理的ショックなしに討幕軍を迎え撃っていたならば、帰すうはにわかには決せられなかったのではないか」との指摘があります。

龍馬が大政奉還の実現に向けて主体性を発揮したことが、龍馬の意図とは若干ズレがあるものの、武力討幕にも有利に作用したとのことです。武力討幕を経た上での変革も、龍馬が採用しようとしていた「上策」、つまり武力は「威圧」だけに止めて実際には行使せず変革を進める策とは若干異なるものの、龍馬死後の実際の変革にも龍馬の主体性は活かされていったと市井氏は見ています。

個人的には、ここで紹介しなかった記述まで含めて、市井氏が述べている龍馬に関することには、おおむね賛同したい気持ちです。もちろん、細かい記述を見ていけば、現在の幕末史の研究状況も鑑みて異論を述べたい箇所が結構あります。しかし、大政奉還論と武力討幕論を妥協の余地のない隔たったものとして捉えるのではなく、龍馬の死後に起きた変革も龍馬の意図した変革と若干ズレが生じたに過ぎないとしている点など、注目したいところです。

ちなみに市井氏は、「いちじるしく歴史形成に参与する個人」を「キーパースン」と表現しておりまして、坂本龍馬をその1つの典型例として見ておられます。市井氏の議論に興味を持たれた方は、そのへんまで含めてお読みになることをオススメします。

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2008年5月15日 (木)

海援隊+陸援隊=翔天隊

土佐藩が、坂本龍馬の海援隊と中岡慎太郎の陸援隊を合わせて、「翔天隊」と呼ぼうとしていたらしいという話は、あまり知られていないような気がしますが、どうでしょうか。

上記の話はもともと、平尾道雄氏が『坂本龍馬 海援隊始末記』(中公文庫、1976年)などの著書の中で紹介した、「福岡孝弟手録」という史料(平尾氏の『龍馬のすべて』<久保書店、のち高知新聞社>の中では「福岡藤次の手記」と呼称されています)が出典です。福岡孝弟については、「明治維新と福岡孝弟」という過去記事も、よろしければご覧ください。

その「福岡孝弟手録」に、以下のような記載があったことによります。『坂本龍馬 海援隊始末記』中公文庫版から、引用してみます。

今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊と云ン。

「海陸」というのが、海援隊と陸援隊のことです。平尾道雄氏は、実際には「翔天隊」という隊名が使われることはなかったようだと指摘しています。龍馬の書記・長岡謙吉(今井純正)の慶応3年4月27日付武藤広陵宛書簡には、かろうじて「翔天」の文字が記されています(『坂本龍馬関係文書』第1巻や『坂本龍馬全集』に掲載)。

ところで、「福岡孝弟手録」は原文書が失われていて、平尾道雄氏が紹介した活字でしか読むことができません。しかし、「福岡孝弟手録」と同じ内容を記載した別の史料が残っています。それが、樋口真吉による「丁卯筆記」という史料で、四万十市立郷土資料館が所蔵しています。

樋口真吉は龍馬とも親しかった土佐出身の志士で、文久元年に龍馬が武市半平太の書簡を携えて長州藩の久坂玄瑞を訪問した際、日記に「坂龍飛騰」と記したことで知られています。その樋口真吉の「丁卯筆記」に、平尾道雄氏によって紹介された「福岡孝弟手録」と同じ文章が記載されているのだそうです。もちろん、「丁卯筆記」には「翔天隊」の呼称が記されています。

私はその現物を見たことがありませんが、幸い、『特別展 三館合同企画 暗殺140年!-時代が求めた”命”か?-坂本龍馬・中岡慎太郎展』という図録に写真が掲載されていますので、それで確認することができました。興味のある人は、その図録の32ページを見てください。

上記図録は、2007年夏に、高知県立歴史民俗資料館・高知県立坂本龍馬記念館・北川村立中岡慎太郎館が、合同で企画・開催した特別展の図録です。3つの博物館で図録を通信販売しているので、興味のある方は高知に行かなくても購入することが可能です。

ちなみに、上記図録には他にも多数の史料が写真で掲載されていますし、「特論」として、青山忠正氏(佛教大学教授)の論考「慶応期の政局と龍馬・慎太郎」や、豊田満広氏(中岡慎太郎館学芸員)の論考「土佐勤王党の活動と武市半平太の政治思想について」なども掲載されています。

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2008年5月 6日 (火)

「公武合体」をめぐる朝幕藩関係

『日本の近世18 近代国家への志向』(中央公論社、1994年)には、佐々木克氏の「『公武合体』をめぐる朝幕藩関係」という論文が掲載されています。1980年代以前は明治初年の研究に力を注いでいた佐々木克氏が、初めて本格的に幕末史を論じた研究論文です。

幕末政局の変動の中で、天皇(朝廷)と将軍(幕府)と大名(藩)の権力関係が、徐々に変わっていく様相を、弘化年間から慶応3年の王政復古政変までを射程に入れて分析した論文です。特に文久期あたりを中心に分析されていて、10年以上前の論文ですが、今読んでも示唆に富む内容を含んでいると思います。

例えば、いわゆる公武合体論(佐々木克氏もそうですが、最近は「公武合体」という用語の使用に慎重な研究者が増えているように感じます)についての、次の記述。

公武合体論は、外圧に対抗するという国家的課題に直面して、民心一致の挙国一致体制を創出するため、まず朝・幕・藩が一体化しなければならないという論理で、具体的な政治課題として登場したものである。そのかぎりにおいて、一般の尊攘派のみならず尊攘激派の論理も同じで、尊攘激派の主張を、あまり倒幕論の方向にひきつけすぎて評価すべきではなく、天皇・朝廷に大きく比重をかける公武合体論の一種と見るべきである、と私は考えている。その公武合体が実現したかに見えたとき、じつは朝・幕と藩の分離が明らかになるという皮肉な結果をもたらしていたのであった。
(『日本の近世18 近代国家への志向』185ページ)

上記引用文の最後の一文については、元治元年の参預会議瓦解後の状況を述べたものです。有志大名が上京して開かれた参預会議は、横浜鎖港をめぐって、鎖港論を述べる一橋慶喜と反対の諸侯たちの意見が対立して瓦解しました。その後、横浜鎖港を願う朝廷と、鎖港の実現が困難であることを知りながら鎖港を朝廷に約束して公武合体の体制を築こうとする幕府に、諸藩が失望していた状況を説明したものです。

また、上記引用文に続く同じページの文章では、次のような指摘もなされています。

禁門の変における長州藩の行動は、あきらかに朝廷と幕府への武力をともなった抗議運動であったという、その画期的側面に目を注ぐべきである。

ほかにも、色々と興味深い論点が提示されている論文です。佐々木克氏の幕末政治史研究の端緒としても、意味のある論文だと私は思っています。

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2008年4月28日 (月)

幕末過渡期国家論

佐藤誠朗・河内八郎編『講座日本近世史8 幕藩制国家の崩壊』(有斐閣、1981年)と、宮地正人『天皇制の政治史的研究』(校倉書房、1981年)に、宮地正人氏の「幕末過渡期国家論」という論文が収録されています。後の幕末政治史研究に大きな影響を与えた、有名な論文です。それだけに、今読んでも示唆に富む内容が多いと思います。

論文タイトルにある「幕末過渡期国家」とは、宮地氏が論文の中で述べている言葉を借りれば、「幕府がそれ自体で公儀たりうる力量を失い、一大大名勢力に転落する過程において、条約勅許を強く拒否しつづける天皇・朝廷が反比例的に国家の中心的存在として浮上し、自らが『強力国家』を組織しようとする時、それを根軸としながら、外圧に堪え、国民を統合しうる国家形態が、支配諸階層によって真剣に模索されていく」として、その新しい国家形態を「幕末過渡期国家」と呼び、その構造を分析しています。

「幕末過渡期国家」の時期としては、文久2年4月から慶応元年10月と設定されます。文久2年4月は、宮地氏が「幕政史上、前代未聞の画期的大事件」と評価する島津久光の率兵上洛の時期。慶応元年10月は、兵庫沖にやってきた西洋列強の艦隊の圧力によって朝廷が条約を勅許した時期にあたります。

もっと詳しく言えば、宮地氏は「幕末過渡期国家」の形成期を文久2年4月から文久3年8月と設定しています。そして、転換期が文久3年8月から元治元年7月。崩壊期が元治元年7月から慶応元年10月ということになります。

「幕末過渡期国家」が形成され始めたのは、宮地氏によれば、徳川家と徳川譜代の利害を優先し、先例と旧例の墨守を第一条件として行政を担ってきた従来の「将軍=譜代結合」体制が、幕末の新たな事態に対応できなくなってきたからです。それゆえに例えば、「幕末過渡期国家」の形成過程で新設された京都守護職は、幕府と深い関係を持ちつつも「将軍=譜代結合」の枠外にある家門が任じられ、「将軍=譜代結合」以外の方法で幕府維持を模索することになります。

そして宮地氏は、「幕末過渡期国家」の時代について、以下のような説明をしています。

文久二年から慶応元年に至る足かけ四年間は、よくいわれるような尊攘派の悔悟の時期でも、また無意味なテロリズムの時期でもない。幕藩体制という特殊日本的な封建制国家が、未曾有の外圧のもと、しかも人民のブルジョア的成長の不充分な段階において、そのありとあらゆる制度・伝統・心理・身分等々の諸モメントを総動員しながら、軍事的・国家的結集をなしとげようとする時、どうしても通過せざるをえなかった必然的な一つの局面、一つの場なのであった。

宮地氏の「幕末過渡期国家論」が収録された同氏の著書『天皇制の政治史的研究』はしばらくの間、品切れの状態になっていましたが、2004年に復刊されたそうです。もしかしたら、今ではもう購入できないかもしれませんが、所蔵している図書館も少なくないはず。幕末政治史や朝幕関係史において重要な研究成果だと思いますので、まだ読んだことがない幕末好きの方には、一読をオススメします。

ちなみに、宮地氏が「画期的大事件」と評価した島津久光の率兵上京については、宮地氏の研究を批判的に継承する形で展開した、笹部昌利「薩摩藩島津家と近衛家の相互的「私」の関わり‐文久二年島津久光「上京」を素材に‐」(『日本歴史』第657号、2003年)という論文があります。いずれ、詳しく紹介するかもしれません。

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2008年4月23日 (水)

戊辰戦争諷刺錦絵と薩摩藩

『諷刺眼維新変革-民衆は天皇をどう見ていたか-』(校倉書房、2004年)や『絵解き幕末諷刺画と天皇』(柏書房、2007年)などの著書がある奈倉哲三氏は、昨年3月に、「戊辰戦争諷刺錦絵の世界史的位置-国民国家草創期における民衆思想-」(『跡見学園女子大学文学部紀要』第40号)という論文を発表しています。国立情報学研究所が提供する「CiNii 論文情報ナビゲータ」のコチラのページから、PDF閲覧が可能です。

奈倉氏の論文は、「戊辰戦争諷刺錦絵が有する思想史的特質を、同時期ヨーロッパの諷刺画と比較することで、その世界史的位置の解明を試みたもの」です。ここでは、その全体を紹介するのではなく、私が特に興味を持った部分を断片的に紹介・引用することにします。全体の論旨が気になる方は、ぜひ上記のリンクからご自分でお読みください。

奈倉氏は考察の中で、諷刺錦絵2点を取り上げ、戊辰戦争前後の江戸市民が、新政府の中心をなしていた薩摩藩勢力に対して反感を抱いていたことを指摘しています。要するに、その気持ちが諷刺錦絵に出ていると。慶応3年11月頃から江戸で起きた強盗などの犯人が、薩摩藩士や薩摩藩邸に匿われている浪人たちであることを、江戸市民が知っていたことにもよるそうです。次のような指摘もされています。

江戸市民が薩摩を嫌ったのは、市民にとっては現実の恐怖であったからである。薩摩が、たとえ、神権性を喧伝され始めた天皇と「錦の御旗」によって、その正当性を主張しようとも、押し込み強盗を指揮した藩が新政府の中心にあるのであれば、その支配に対し、民衆が拒否の反応を示したのは当然であり、また、天皇による江戸親征に対しても、薩摩が担いでいる以上、忌避の反応を示したのも当然であった。

奈倉氏が指摘しているようなことも、江戸市民の感情としては実際にあったのかもしれません。

ただ、慶応3年末の薩摩藩による、いわゆる江戸撹乱工作ですが、従来は西郷隆盛ら薩摩藩の指導者層の指示を受けての行為と理解されていました。しかし近年、高橋秀直氏によって、京都の薩摩藩指導者から撹乱工作中止の指令が出ていたことが指摘されました。もしも高橋秀直氏の主張が正しければ、慶応3年末の撹乱工作は、藩としての方針ではなく、江戸藩邸の薩摩藩士たちの暴走という可能性も考えられることになります。高橋氏の主張が絶対に正しいとは言いませんが、検討すべきことだと思います。

なお、奈倉氏の論文を面白いと感じた方は、冒頭で紹介した奈倉氏の著書も、お読みになると良いと思います。論文と著書で、相互に補完し合う関係になっているはずです。

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2008年4月19日 (土)

福岡藩慶応元年の政変

『福岡大学人文論叢』第34巻第1号・通号132(2002年6月)に、梶原良則氏の「福岡藩慶応元年の政変」という論文が掲載されています。今回はその論文の内容を少しだけご紹介します。

梶原氏は論文の冒頭で、元治元年の第一次長州征伐をめぐる周旋活動を通じて、「諸藩の合意は幕府の命に優先する、名分のたたない幕府の命は拒否できるという論理」が、幕府に対抗する有力な手段として、慶応期には有力諸藩の間で認識されてきたと述べています。それはすなわち、「雄藩連合の政治路線ともよぶべき新たな政治動向」の登場です。

上記のような政治動向に関する研究蓄積は、必ずしも厚いものではないと梶原氏は言います。そして梶原氏の論文は、雄藩連合の政治路線の一翼を担った福岡藩を題材に、慶応元年前半の福岡藩の政治情況を明らかにすることで、その研究史に新しい1ページを加えることを目的として執筆されたものなのです。

当時の福岡藩の中には、「正義」派と呼ばれた勢力、「因循」派と呼ばれた勢力、「過激」派と呼ばれた勢力の、3つの政治集団が存在していたようです。このうち、元治元年の長州周旋活動において、一定の成果を収めた「正義」派が慶応元年には藩内で勢力を拡大しました。しかし、三条実美ら五卿の筑前渡海の交渉において藩主の意向を無視し、長州尊攘派の救援活動を展開していた月形洗蔵ら「過激」派の行動が、福岡藩主・黒田長溥の反感を買っていたため、「過激」派と近しい「正義」派の方針が、後に「正義」派を追い詰めることになったそうです。

梶原氏の論証によれば、「正義」派は藩の方針として、幕府および朝廷の命令に拘泥せず、藩の独立性を強めていくことを良しとし、だからと言って福岡藩だけで独立性を強めるのは危険という認識によって、薩摩藩や肥後藩などの近隣諸藩との連携、つまり雄藩連合の路線を推進しようとしていたとのことです。また、「正義」派は挙藩一致体制を実現させるため、藩主が嫌っている「過激」派にも寛容だったようです。それに対して藩主は、尊攘派を藩主と言えども統制しきれないような長州藩のような政治情況になること、つまり政治主導権を奪われることを恐れていたようです。

そのため、藩主と「正義」派との対立が深まり、藩主は藩主自身の政治的主導権を確保するため、「正義」派を藩政中枢から一掃しようと考えるようになったようです。そこで藩主が頼りにしたのが、「因循」派と呼ばれる勢力。しかし、「因循」派は「因循」派で、藩主に「過激」派の処分を求めるなどの要請を藩主にしたため、とても藩主が親政できる状況ではなかったとか。藩主には、「過激」派の存在を許容して挙藩一致を目指す「正義」派と、「過激」派の処分を求める「因循」派の、二者択一が迫られていたのだと梶原氏は述べています。

そんな状況の中、長州再征が現実味を帯びてきました。長州再征の実現は、第一次長州征伐の周旋活動を推進した「正義」派にとって、自身の成果を否定されかねないという意味で、何とか福岡藩の再征への出兵を阻止したかったようです。

そんな中、藩主は、中央政局の主導権が一会桑権力に握られ、雄藩連合を推進する勢力が退潮したと認識するようになります。その認識のもとに、藩主は「因循」派と連携して、「正義」派と「過激」派の粛清に乗り出したのだそうです。この選択について梶原氏は、「明治維新における福岡藩の動向を規定することになった」と述べています。

明治維新の変革に、福岡藩がどのように関わったのかを知る上で、非常に興味深く読めた論文でした。幕末の福岡藩を調べる上では、読まないわけにはいかない論文だと思います。

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2008年4月13日 (日)

明治維新と坂本龍馬

今回は、平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』(新人物往来社、1985年)という書籍を紹介します。

「坂本龍馬研究の第一人者」と言われていた平尾道雄氏の死後、雑誌や新聞などにすでに発表されていた平尾氏の文章や講演録を収めたものになります。あとがきを書いているのは広谷喜十郎氏です。

平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』に収録されている論稿を、いくつか紹介してみましょう。

まずは、大正15年に発行された雑誌『中央史壇』第79号に掲載されていた「坂本龍馬」と題された文章が、『明治維新と坂本龍馬』に再録されていることを紹介しておきましょう。この論稿は『中央史壇』第79号の特集「幕末明治人物史論」の一編として書かれたもので、坂本龍馬の小伝です。「井上道雄」の名義で執筆された、平尾氏の処女論文でもあります。

同じく、平尾氏の初期の業績の1つである、「幕末浪人運動雑観」という論文も、『明治維新と坂本龍馬』に収録されています。昭和3年に発行された『中央史壇』第97号に掲載されていたものです。幕末の浪人集団に興味を持って幕末維新史の研究を始められた平尾氏のスタンスを知る上で、面白い論文だと思います。

「岡田以蔵随考」という文章も収録されています。雑誌『日本歴史』第326号(1975年)に発表された文章で、幕末の人斬りとして有名な岡田以蔵の略伝です。非常に短い文章ではありますが、岡田以蔵の生涯を簡潔に記してくれていますので、岡田以蔵の実像を知りたい方には有益だと思います。

「龍馬と勝海舟書翰」と題された文章も、『明治維新と坂本龍馬』には収録されています。1958年発行の雑誌『土佐史談』第93号に発表された文章の再録ですが、勝海舟の庇護下にいた頃の坂本龍馬を考える上で重要な勝海舟書簡を紹介している文章です。

文久3年8月18日政変の後、土佐藩は勝海舟の庇護下にいた坂本龍馬ら土佐脱藩者に対して帰国命令を出しますが、それに対して勝海舟が、龍馬の帰国命令を猶予してほしい旨を土佐藩の江戸藩邸にいる徒目付に宛てて記した12月6日付書簡が紹介されているのです。また、それを受けて土佐藩の江戸藩邸留守居役が海舟の要求を断った拒絶書の写しと、事の顛末を江戸藩邸から土佐藩の重役に報告した書簡も紹介されています。

これらの書簡は、講談社版『勝海舟全集』の編集に携わり、勝海舟研究者として名高い松浦玲氏も原文書を読んだことがない旨を、著書『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)に記しています。その意味でも、平尾道雄氏の「龍馬と勝海舟書翰」は貴重と言えるかもしれません。ちなみに、これらの書簡は宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』(光風社、1978年)にも掲載されています。

そのほかにも『明治維新と坂本龍馬』には、『土佐史談』、『高知新聞』、『歴史読本』、『歴史と人物』、『司馬遼太郎全集』月報、『毎日新聞』、『高知県人』、『日本古書通信』、『日本公論』など、各種媒体に発表された平尾道雄氏の論稿が再録されています。どれも非常に面白いです。私は平尾道雄氏の文章が好きなので、平尾氏の執筆生活の初期から晩年に至るまでの論稿が収録されている『明治維新と坂本龍馬』という本を、重宝しています。

ちなみに、私だけかもしれませんが、平尾道雄氏が訳者として名前を連ねているマリウス・B・ジャンセン氏の『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社、1965年)と混同しそうになることがあるので、注意が必要です。

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2008年4月 9日 (水)

幕末維新史 3月刊行の個人的注目書籍

3月に刊行された幕末維新史関連書籍の中で、私がすぐに購入したのは2冊。青山忠正『明治維新史という冒険』(思文閣出版)と、原口泉『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社)

まず青山氏の新著『明治維新史という冒険』ですが、佛教大学鷹陵文化叢書というシリーズの第18冊目。同シリーズには他に、青山氏も執筆者の1人として参加されている、原田敬一編『幕末・維新を考える』などがあります。

『明治維新史という冒険』は青山氏が過去に雑誌・新聞・図録など、様々な媒体に発表してきた文章を1冊の書物としてまとめ直したものです。それらは幕末維新史の多様なテーマに及んでいます。比較的、一般向けの媒体(例えば『歴史読本』や『歴史群像』など)に掲載された文章の再録が多いように見受けられます。NHK学園の機関紙『れきし』第92号に掲載されていた「龍馬は『暗殺』されたのか」など、入手しにくい媒体からの再録が嬉しいです。

ともあれ、その目次は以下の通りです(青文字部分)。

明治維新史という冒険

Ⅰ 維新の足跡―フィールドノートより―
維新史を歩こう
京都の町並みのなかに
  桂小五郎と木屋町
  近藤勇と壬生の屯所
  徳川慶喜-京都の将軍-
  岩倉具視と幽棲旧宅
大阪のビルの陰に息づく
  橋本左内と適塾
  大久保利通と中之島
  五代友厚と商都大阪
  堺事件と妙国寺
関西近郊に足を伸ばして
  井伊直弼と埋木舎-彦根-
  勝海舟と海軍操練所-神戸-
  吉村寅太郎と天誅組-大和-
江華島の砲台―韓国―

Ⅱ 兵士と戦い
戊辰戦争と諸隊
馬関攘夷戦争
奇兵隊と四境戦争
ある奇兵隊士の処刑

Ⅲ 人と生きざま
吉田松陰―やさしい教え魔―
岩瀬忠震―辣腕外交官の憤死―
伴林光平と「南山踏雲録」
坂本龍馬と文久・元治年間の政局
龍馬は「暗殺」されたのか

Ⅳ 変動する政局
岩国と薩摩―水面下の薩長交渉―
薩長武力挙兵の勇断
長州の密使
政権奉還と王政復古
御一新と明治太政官制
草莽のゆくえ

あとがき

続いて、原口泉氏の『龍馬を超えた男 小松帯刀』。今年、同じグラフ社から『篤姫 わたくしこと一命にかけ』を刊行され、大河ドラマ『篤姫』の時代考証を担当されている原口氏による新著です。小松帯刀は一般的な知名度は低いですが、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ、あるいはそれ以上かもしれない幕末薩摩藩の逸材です。大河ドラマ『篤姫』でも重要な役割を演じるであろう小松の生涯を、原口泉氏が1冊にまとめました。

原口氏が新著の冒頭において、「小松帯刀は、坂本龍馬をはじめ西郷隆盛や大久保利通といった、巷間広く知られている幕末の英雄たち以上に、幕末史に影響を与えた人物、『龍馬を超えた男』だったのではないか」と述べています。原口氏がそれほどまでに高く評価する小松帯刀の事績を、多くの人に知ってもらいたいという願いが込められた書物です。

そのほか、まだ購入はしておりませんが、3月刊行で気になった書籍をいくつか。順不同です。

●村上泰賢編『小栗忠順のすべて』(新人物往来社)
●猪飼隆明『西南戦争‐戦争の大義と動員される民衆‐』(吉川弘文館)
●一坂太郎『幕末・英傑たちのヒーロー‐靖国神社前史‐』(朝日新書)
●安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書)


新人物往来社の『○○のすべて』シリーズは、『伊庭八郎のすべて』などのマイナーどころも出されているので、むしろ小栗忠順(上野介)は出ていなかったのかと意外な感じがしたぐらいです。

そのほか、朝日文庫版の萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の、第11巻と第12巻が出ました。11巻は『北京交渉』、12巻は『賜暇』です。

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2008年4月 4日 (金)

「人斬り」と幕末政治

笹部昌利氏に、「『人斬り』と幕末政治‐土佐山内家の政治運動と個性‐」(『鷹陵史学』第31号、2005年9月)という論文があります。その冒頭、武市瑞山をはじめとする土佐勤王党とその支持者たちの顕彰を目的に編纂された『維新土佐勤王史』を引き合いに、笹部氏は次のような指摘をしています。

日本近代に編まれた歴史書においては、幕末維新期における人間の言動はすなわち、それがいかに「皇国的」であるかに重きが置かれた。ゆえに土佐有志こそ、正義だと述べる『維新土佐勤王史』の叙述方法は決してイレギュラーなものではない。しかし、このような幕末維新に根ざした固定観念は、人物や組織それぞれの姿、形、動きのありようにベールをかけ、見えにくくさせてしまったばかりか、それぞれのオリジナリティーが捨象され、「尊王」「攘夷」というようなイデオロギーのみがひとり歩きをはじめ、そのような枠組みが政治の場に身をおいた存在を包括してしまう形となった。

笹部氏は以上のように指摘した上で、いわゆる「天誅」についても、従来はイメージで理解されていたとの認識を述べています。つまり笹部氏は、「天誅」という事象が安政大獄で同志を失った復讐心とか怨念といった遺恨的側面で起こってきたと従来から言われているけれど、そのような側面は強調し過ぎない方が良いと言うのです。笹部氏は「天誅」について、政治手段として「人斬り」という行為が使われたのだと述べます。

つまり、「天誅」事件の実行犯が岡田以蔵であったり、あるいは田中新兵衛であったりしても、それはあくまで「天」が斬った、「天」が裁いたものだという論理を、武市半平太ら土佐有志は政治手段として、自己の正当化を企図したとのことです。「天」とは万物を支配する観念です。笹部氏は次のように「天誅」を簡潔に定義しています。

「天誅」とは、人々の心理や思考のなかに芽生え始めた公共的「正義」としての「天」。これに作用するように働きかける「人斬り」を手段とした政治運動の一形態なのである。

特に安政大獄の推進者が「天誅」の対象として狙われたのは、京都の公家や町衆の中にも安政大獄が「トラウマ」としてイメージされていたためで、笹部氏によれば、「大獄関係者への攻撃はすなわち、京都で暗に形成された世論に、その政治勢力が正しいと判断させるのに十分、事足りた」からだそうです。つまり、「天」が裁くという意味合いを持つ「天誅」という名の「人斬り」を安政大獄関係者に向けることによって、「天誅」実行者たちの政治的正当性を世情に認めさせることを武市ら在京の土佐藩勢力は意識していたというのが、笹部氏の見解です。

その武市らの狙いに狂いが生じてきたのは、どうやら姉小路公知が暗殺された朔平門外の変だそうです。その事件の責任が薩摩出身の田中新兵衛に転化されたことで、薩摩藩の京都政局における影響力が後退します。それゆえ、「天誅」という名の「人斬り」は政治的駆け引きにおいて相手を追い落とすための手段になってしまい、「天」が斬ったのだという論理付けをしにくくなってしまったとのことです。

ほかにも面白いことが書かれているので、興味のある方は、笹部昌利氏の論文「『人斬り』と幕末政治‐土佐山内家の政治運動と個性‐」(『鷹陵史学』第31号)をお読みください。「天誅」と、慶応3年の坂本龍馬・中岡慎太郎の殺害事件が根本的に異なることの指摘もあります。

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2008年3月31日 (月)

京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場

以前、タイトルと著者名だけご紹介したことがありますが、雑誌『ヒストリア』第206号(2007年9月)に、馬部隆弘氏の「京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場」という論文が掲載されています。幕末期の京都防衛の重要拠点と言うべき楠葉台場について考察したものです。以下、馬部氏の論文の内容を、あくまで部分的になってしまいますが、紹介していきましょう。

馬部氏の論文は、軍事史的観点からの事例紹介にとどまっていた台場研究と、あるいはそれと切り結ぶことのなかった考古学的成果をも踏まえた上で、台場遺構を幕末政治史の素材として検討しています。その観点で分析の対象となったのが楠葉台場。

楠葉台場は、淀川沿いで山城国との国境にあたる河内国交野郡楠葉村(現在の大阪府枚方市)に設置されていたものです。完成は慶応元年で、設計者は勝海舟。

その楠葉台場について、会津藩との密接な関わりを指摘しているのが、馬部氏の論文でもあります。もともと、淀川に台場を築く計画は朝廷内の、国事御用掛の設置を推進した人物あたり(特に馬部氏が指摘しているのは正親町三条実愛)から出たものだと、馬部氏は分析しています。文久2年末のことです。もちろん攘夷の目的で、淀川に外国船が入ってくることを危惧したことによります。

ただ、その構想について意見を尋ねられた諸藩の間では、台場の築造不要との意見が大勢を占めていました。そのとき京都にいた会津藩重臣も、調査の結果として台場の築造については積極的に必要性を主張しなかったようです。結局、文久3年2月、淀川台場構想は沙汰やみとなりました。

ところが、それから約1ヶ月後の文久3年3月、会津藩主にして京都守護職の松平容保が、八幡・山崎に関門を築くべきとの建白を、幕府要路に宛てて提出したというのです。八幡・山崎というのは淀川沿いですから、2月に沙汰やみとなって、しかも会津藩自身も消極的だった淀川防衛の構想を、会津藩自らが再燃させたらしいのです。ただ、朝廷が提案した台場の構想ではなく、陸上の関門だという点が、会津藩の独自性のようです。

いずれにしても、最初は淀川沿いの防衛に消極的だった会津藩が方針を転換させた理由は、馬部氏によれば尊攘派への対応方針の転換が理由だったようです。つまり、最初は尊攘派に対して温和な態度で臨もうとしていた会津藩が、全面対決も辞さない構えになったことが要因と馬部氏は見るのです。

つまり、会津藩が設置を望む関門というのは、攘夷の目的ではなく、西国から来る尊王攘夷派浪士の入京を制限する目的だったようなのです。やがて、8月18日の政変が起きたことで、その関門には浪士だけでなく、長州藩士の入京をも制限する目的が付加されるようになります。

ともあれ、その関門は実際に作られることになり、それが楠葉台場ということになります。「関門」なのに「台場」の形態を採用しているのは、攘夷対策のための台場を作りたかった朝廷の意を汲み取ってのことだと、馬部氏は推測されています。また、現実に攘夷に役立つかどうかはともかく、ともかく攘夷対策の台場を作ったという政治的アピールを、朝廷に対してする目的もあったと馬部氏は推測しています。

さらに馬部氏によれば、アピールは朝廷に対してだけではなく、広く一般にもされていただろうとのこと。つまり、京都・朝廷を守るのは京都守護職・会津藩および幕府なのだということを、世間に知らしめる目的があった、そのため最新の築城技術を取り込んで作られたのだと、馬部氏は述べています。

そのような目的のため、楠葉台場は台場を関門として利用するという形態になったのだそうです。それが仇となって、現在では「楠葉台場」と「楠葉関門」が別の施設であるかのように誤解される場合もあって、研究史上の混乱を招いていたとか。

ともあれ、楠葉台場の設置に京都守護職・会津藩が密接に関わっていて、尊攘派・長州藩対策の目的があったとなると、その重要性は言うまでもないことでしょう。それゆえに、楠葉台場跡は現在、大阪歴史学会(『ヒストリア』を発行している学会です)などが保存を求めています。

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2008年3月30日 (日)

HP「幕末維新史を読む」 更新情報

私が作成している別HP「幕末維新史を読む」を、少しだけ更新して、以下の文献を追加しました。

「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」に以下の文献を追加

★青山忠正『明治維新史という冒険』思文閣出版、2008年
★田中洋史「長岡出身の新選組隊士―再興長岡藩東京藩邸の風景」
『長岡郷土史』第44号、2007年
★松尾正人編『日本の時代史21 明治維新と文明開化』吉川弘文館、2004年

「中岡慎太郎についての主な研究文献」に以下の文献を追加

★高知県立歴史民俗資料館・高知県立坂本龍馬記念館・北川村立中岡慎太郎館編
『特別展三館合同企画 坂本龍馬・中岡慎太郎展‐暗殺一四〇年!-時代が求めた"命"か?‐』高知県立歴史民俗資料館、2007年

今年は戊辰戦争が勃発した年から140年、日米修好通商条約の年から150年です。それだけではなく、平成20年という節目の年ということもありまして、今年も幕末維新史について、色々と興味深い研究が出てくるのではないかと楽しみにしています。

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2008年3月26日 (水)

天璋院篤姫展 ほか

先日、江戸東京博物館の1F企画展示室で開催中の、特別展「天璋院篤姫展」を観てきました。だいぶ混雑していて、あまりゆっくり観ることはできなかったのですが、貴重な品々が展示されていて、とても面白かったです。4/6まで開催中ですので、幕末維新史に興味のある方や、NHKの大河ドラマ『篤姫』をご覧の方は、行ってみてはいかがでしょうか。

展示構成は「プロローグ 篤姫のふるさと薩摩」、「第1章 御台所への道のり」、「第2章 婚礼~将軍家定と敬子~」、「第3章 江戸城大奥」、「第4章 幕府瓦解~徳川家存続への思い~」、「エピローグ 明治の天璋院」という順番になっています。篤姫に直接関連のある資料だけではなく、ペリー横浜上陸の図、孝明天皇宸翰、薩長同盟覚書写、討幕の密勅などなど、展示品は多岐に及んでいます。

図録も販売されていて、1冊2,300円。展示品のほとんどが掲載されていて、眺めているだけでも十分に楽しめる図録になっています。ゆっくり観られなかった部分については、図録を参照することで補うことが可能です(もちろん、直接見ることに大きな意義と楽しみがあるのですが)。

また、図録には展示品以外にも、下記の論考が掲載されています。

・芳即正「天璋院と幕末の薩摩」
・松尾正人「幕末の徳川将軍家と天璋院」
・寺尾美保「篤姫の結婚-幕末維新史の伏流水-」
・崎山健文「御台所敬子の実像-将軍継嗣問題を中心に-」
・藤田英昭「知られざる戊辰戦争期の天璋院」
・柳田直美「江戸から東京へ 転換期を生きた天璋院」

それぞれ興味深い内容が記されていて、篤姫や幕末の徳川家・薩摩藩などのことをより深く知るためには非常に有意義です。ただ、個々の執筆者は統一された見解のもとに文章を書いているわけではなく、それぞれの文章で異なる解釈が主張されている場合もありますので、幕末史に詳しくない方だと、混乱する場合ももしかしたらあるかもしれません。

上記の論考の中で、個人的に一番面白かったのは、藤田英昭氏の文章。天璋院篤姫の関連書籍に記されている「通説」を疑う姿勢で貫かれていて、例えば篤姫の奔走が西郷隆盛の江戸攻撃を思いとどまらせる上で効果があったという説が広く知られている一方で、藤田氏は別の可能性を指摘しています。

つまり、徳川家の家名存続を願う篤姫の嘆願書のうち、西郷は家名存続への願いに対する記述よりもむしろ、徳川慶喜への批判が記された部分に着目し、西郷の気持ちは慶喜排除の方向へさらに動かされた可能性が指摘しているのです。それがもしも事実だとすれば、篤姫の行動は江戸を戦火から救ったのではなく、場合によってはむしろ戦火に巻き込みかねない場合に立ち至った可能性もあるということになります。

また、江戸開城の後で徳川家の駿河への70万石移封が決まった際、篤姫はその処置に大きな不満を抱き、江戸での徳川家再興を念願します。篤姫は特に薩摩藩を批判し、会津藩・仙台藩に対して、新政府軍の征伐を依頼しました。

そのような篤姫の行動について藤田氏は、「天璋院が徳川家の再興を志向し、先祖供養にこだわっていたのは、彼女が徳川一門ではなく、外様大名から嫁いできた人間だからこそといえよう。天璋院は一層婚家の人間になろうと、徳川の血筋の人以上に、強く徳川家とその先祖を意識したのである」と述べていますが、そういった意識も恐らくあったのでしょう。

藤田英昭氏のように、他家出身の人間が、その家の人間以上にその家の人間になりきろうと努めることがありうる点については、かつて井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)も指摘しています。井上氏の場合は岩倉具視や松平慶永などの有志大名についての指摘ですが、例えば他家から岩倉家に入った岩倉具視について井上氏は、「そうした人には、しばしば、継いだ家の伝統に過剰なまでに同化する傾向があらわれる。他から入っただけに、その家の人になりきろうと努力するからである」と述べています。藤田氏の天璋院に対する指摘も、恐らく同様の視点によるものでしょう。

ともあれ、図録も含めて、「天璋院篤姫展」は非常に面白かったです。

また、3/23(日)で終わってしまいましたが、私が江戸東京博物館を訪れた日には、まだギリギリ、特集展「家康・吉宗・家達~転換期の徳川家~」も開催中でしたので、それも併せて観てきました。徳川家達が含まれているのが新鮮ですね。こちらも興味深い展示がされていて、1,000円の図録もしっかり購入してきました。

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2008年3月23日 (日)

大木喬任伝記史料「談話筆記」について

最近、重松優氏の、「大木喬任伝記史料『談話筆記』について」と題された研究ノートを読みました。早稲田大学大学院社会科学研究科が発行している『ソシオサイエンス』第12号(2006年3月)に掲載されているものです。

「談話筆記」とは、国立国会図書館・憲政資料室に所蔵されている大木文書の中にある史料で、大木喬任の息子・遠吉が大木喬任伝の編纂を計画し、関係者が語った逸話を収集したものだそうです。実際に関係者を訪問して談話を筆記したのは、大木家で働いていたこともあるらしい内田鉄三郎という人物とのこと。談話が筆記されたのは、明治33年から明治35年だったそうです。ちなみに、大木喬任が亡くなったのは明治32年。

その「談話筆記」で大木喬任のことを語っている関係者には、例えば土方久元、副島種臣、香川敬三、福岡孝悌、由利公正、大隈重信、谷干城などの有名どころも含まれています。重松優氏は「談話筆記」について、「藩政期の佐賀の様子や明治前期の政治行政事情にも話は及んだので、その価値は大木喬任研究に限定されるものではない」と述べています。

重松氏は「談話筆記」の目的の第一には、大木喬任が東京奠都の発議者・功労者であることを証することがあったと分析しています。重松氏によれば、その当時、東京奠都の第一の功労者として知られていたのは、大坂遷都を主張した大久保利通だったので、大木家としては不満があったらしいのです。そこで、維新の変革において重要な働きをした関係者から、大木喬任が東京奠都の功労者であることを証明する談話を得たかったようなのですが、結果は芳しくなく、土方久元に至っては全く知らなかったとのこと。

重松氏の研究ノートは、「談話筆記」の編纂過程を検討し、大木遠吉が父親の大木喬任をどのように顕彰しようとしたのか、それを明らかにしようとしたもの。早稲田大学リポリトジの、コチラのページを開いて、「View/Open」と書かれた部分をクリックすれば、重松氏の研究ノートをPDFで閲覧することが可能です。興味のある方は、是非お読みください。

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2008年3月19日 (水)

下野の幕末維新

國學院大學栃木短期大学史学会が発行している『栃木史学』第20号(2006年3月)に、宮地正人氏の「下野の幕末維新」という論文が掲載されています。

その論文の概要としては、宮地氏自身が論文冒頭で述べている言葉を引用すれば、「私がこれまで当該時期の下野に関し、折にふれ史料を見、そこで興味を引かれてきたいくつかの事件・人物に筋をつけ論理を組みたててみると、どのような歴史像を構成できるのか、という一つの試論」ということになります。

宮地氏が「下野の幕末維新」というテーマに関心を持った最初のきっかけは、栃木県都賀郡の『壬生町史』編纂に協力したことだったそうです。その際に、幕末維新期の政治的変動が壬生藩という三万石の譜代小藩にもしっかり刻印されていることを感じ取り、また壬生藩尊攘派のリーダーが百姓身分出身の松本誠庵という独眼流の医者だったことが、強く印象に残ったのだそうです。

その後、島崎藤村の『夜明け前』の歴史的背景を探るため、中津川での史料調査をしていたところ、予想外に松本誠庵の書簡を発見することができ、幕末維新期の下野を一地方史にとどまるものとしてではなく、全国的政治動向の中に組み入れて論じることが可能なのではないかとの手応えを感じられたとのこと。

さらには、『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)の執筆過程において、下野から浪士組に参加した人物が案外多いことに改めて驚き、佐野市で行われた田中正造に関する講演会の準備過程で、下野(特に西南地域)の歴史的動きの特質・面白さに確信を抱かれたようです。

宮地氏の論文は、以上のような興味・関心に沿って叙述されています。最初の章が「ペリー来航と下野の諸藩、旗本領」と題され、続いて、「在村漢学塾の族生」、「平田国学の浸透」、「坂下門外の変と下野政情の変化」、「浪士組徴募と下野」、「筑波挙兵と下野」、「亀山・横田と中津川宿」、「水戸学から平田国学へ」、「出流山事件と下野」、「御一新と下野の志士達」といった章が設けられています。まさに下野の事情や、下野出身者の政治活動が、全国的政治動向の中に位置付けて考察されています。

ちなみに、宮地氏が最初に注目した松本誠庵は新政府の中でしっかりとした政治的地歩を築いていたようです。松本は脱藩して上京後、尾張藩を頼って活動し、さらには刑部省・司法省で働くこととなり、佐々木高行の厚い信頼を勝ち取ったらしいです。色々と知らなかったことが記されていて、興味深く読むことができました。

宮地氏は論文の最後において、次のように述べています。

明治維新というと、すぐに薩摩の西郷、長州の高杉、土佐の坂本といった話となる。しかし、なにも西をむく必要はさらさら無い。この下野の地にもまた、幕末維新期の変革を考えさせる上での大切な材料がごろごろころがっているのである。地元の史料に関心をよせず、はるか離れた遠方の史料を見たところで、それほどの発見があるとは思われない。下野をふくめ、各地域からの視座と各地域からの史料によってこそ、地域にねざした幕末維新の物語りがつむぎ出されるのだ、と私は考えているのである。

上に引用した宮地氏の言葉は、従来の幕末維新史研究が西南雄藩の研究に偏りすぎていたことの批判ともなっていて、重く受け止める必要があるだろうと私は感じています。幕末維新の変動・変革・激動は、何も薩長をはじめとする西南雄藩だけで起きていたものではなく、全国各地で起きていたことだということです。

今回ご紹介した論文で、宮地氏は、下野の政治状況や下野出身者の政治活動が、全国的な政治動向や中央政局の動向と密接に関係していたことを論述しています。薩摩には薩摩の、長州には長州の幕末維新史があるように、下野には下野の幕末維新史があるということです。もちろん、その他の地域も同様でしょう。それら様々な地域に根ざした研究が促進されることで、幕末維新史全体の認識を変化させるような発見が出てくるかもしれません。個人的には、そんな発見が意外なところから出てくるのに期待したいものです。

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2008年3月17日 (月)

箱石大氏による母利美和『井伊直弼』の書評

同じ本を複数の人が読むとしても、きっと各々の着眼点は異なるはずです。自分がある本の記述の一部分に特に注目したとしても、他の人が同じポイントに注目しているとは限りません。逆もまた真です。

そういう意味で、自分以外の人が書いた書評というのは、非常に参考になります。自分がまだ読んだことのない本であれば、その本のどこに着目して読むべきなのか、どのようなことが書かれている本なのか、それを簡潔に知ることができます。また、自分もすでに読んでいる本でも、他人が書いた書評を読むと、「なるほど、その点については気付かなかった。確かにそういう見方もあるな」と、勉強になることが多いです。

とりあえず前置きはその程度にして、私が最近読んだ書評の中でも比較的読み応えがあって、インターネット上で閲覧することが可能な書評を1点紹介します。東京大学史料編纂所の箱石大氏による、母利美和『幕末維新の個性6 井伊直弼』(吉川弘文館、2006年)の書評です。京都女子大学史学会が発行している『史窓』第64号(2007年)に掲載されたものです。

上記書評を、以下のリンクから閲覧することができます。国立情報学研究所の「CiNii 論文情報ナビゲータ」を利用したものです(3/18追記:リンクが間違っていたので修正しました)。

《書評》 母利美和著『幕末維新の個性6 井伊直弼』

母利美和氏の『井伊直弼』の大きな特徴は、上記書評で箱石大氏も指摘しておりますが、井伊直弼の大老就任以前の記述が多いということです。近年、次々と新たな研究成果が公にされている彦根藩政史研究の成果をも十分に取り入れて、井伊家の史料などを読み込んだ上で書かれたものです。

母利氏の『井伊直弼』はだいぶ前(多分、刊行された直後ぐらい)に1度だけ読んだのですが、せっかくだからもう1度読んでみようかと、箱石氏の書評を読んで感じた次第です。内容を忘れてしまっている部分も少なくないですし。

誤解と偏見に基づく井伊直弼の虚像イメージ克服を目指した母利氏の『井伊直弼』は面白い本ですので、井伊直弼に興味のある方は箱石氏の書評と併せて読まれてはいかがでしょうか。

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2008年3月12日 (水)

HP「幕末維新史を読む」 最近の更新情報

HP「幕末維新史を読む」の、今年に入ってからの更新情報。以下に記載した通りの文献を、HPに追加掲載しました。

2008年3月4日更新内容
「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」に以下の文献を追加

★遠藤潤『平田国学と近世社会』ぺりかん社、2008年
★小河扶希子『平野國臣』西日本新聞社、2004年
★久住真也「幕末政治史研究発展のために‐奈良勝司氏による拙著書評について‐」『日本史研究』第545号、2008年
★奈良勝司「書評 久住真也著『長州戦争と徳川将軍‐幕末期畿内の政治空間‐』」『日本史研究』第536号、2007年
★八王子市郷土資料館編『八王子の天然理心流‐受け継がれた剣術・槍術・棒術‐』八王子市教育委員会、2008年
★宮地正人「下野の幕末維新」『栃木史学』第20号、2006年
★山口宗之『真木保臣』西日本新聞社、1995年

「中岡慎太郎についての主な研究文献」に以下の文献を追加

★豊田満広「中岡慎太郎から岩倉具視への書状が見つかった!」『歴史読本』第825号、2008年

2008年1月16日更新内容
「川村恵十郎研究文献」に以下の文献を追加

★川村文吾「旧幕臣川村正平(惠十郎)の生涯 補遺」『大日光』第74号、2004年

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2008年3月10日 (月)

幕末維新史 2008年1月・2月に発売された主な書籍

先月刊行された幕末維新史関連の書籍のうち、個人的にいくつか気になったものをピックアップして紹介します。

まず、辻ミチ子『和宮‐後世まで清き名を残したく候‐』。ミネルヴァ書房の「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの1冊として刊行されました。孝明天皇の妹で、江戸幕府の14代将軍・徳川家茂に嫁いだ和宮の評伝です。

著者の辻ミチ子氏は『女たちの幕末京都』(中公新書、2003年)という著書もある研究者です。『女たちの幕末京都』の中でも和宮についての記述はありましたが、今回はさらに分析が深化していると思われますので、読むのが楽しみです(私はまだ読んでいません)。

それから、萩原延壽氏の『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の朝日文庫版が、7巻『江戸開城』、8巻『帰国』、9巻『岩倉使節団』、10巻『大分裂』と出ています。

『萩原延壽集』の3作目として、『陸奥宗光』下巻も発売されました。陸奥宗光の評伝として定評ある著作の復刊です。宇野俊一氏との対談も収録されています。

他の記事でも書きましたが、石井孝『戊辰戦争論』(吉川弘文館)には注目しておいて良いと思います。「歴史文化セレクション」の1冊として復刊されたものですが、戊辰戦争に興味のある人にとっては必読書籍と言ってよいと思います。巻末の解説を家近良樹氏が担当しています。

遠藤潤『平田国学と近世社会』(ぺりかん社)は、19世紀における平田篤胤と気吹舎の思想と実践について考察したものになっているようです。「平田篤胤研究文献目録」も付いているようなので、きっと重宝することでしょう。

梅溪昇『続 洪庵・適塾の研究』(思文閣出版)は、中身を確認していないので詳細は不明ですが、タイトルからして、1993年に刊行された『洪庵・適塾の研究』(思文閣出版)の続編にあたるようです。

そのほか、谷川穣『明治前期の教育・教化・仏教』(思文閣出版)、松田宏一郎『江戸の知識から明治の政治へ』(ぺりかん社)など。

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2008年3月 6日 (木)

「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」ほか

坂本龍馬に詳しい方ならば、龍馬と親しかった女性として、お龍だけではなく、千葉佐那を挙げる人が多いのではないでしょうか。「千葉さな子」と書いた方が、馴染み深く感じる方もいらっしゃるかもしれません。

千葉佐那はご存じの通り、坂本龍馬が剣術を学んだと伝えられる、北辰一刀流・千葉貞吉の娘です。その佐那には、明治になってから龍馬との関係などを語った談話が残されています。それは「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」という題名で、明治26年(1893年)発行の『女学雑誌』第352号に、山本節という人物が発表したものです。

この談話、存在自体はよく知られていて、明治26年の『女学雑誌』に掲載されていることは色々な書籍や、はたまた様々なHPなどに記されております。しかし、掲載されている『女学雑誌』の巻号数までは記されていない場合が多く(記してある本もあります)、発表したのが山本節という人物であることも、あまり知られていないような気がします。もう1度書いておくと、千葉佐那の談話が掲載されているのは『女学雑誌』の352号です。

ちなみに、「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」というタイトルについても、微妙に間違ったタイトルを紹介している書籍なども少なくありません。まぁ、『女学雑誌』の巻号数さえわかれば、興味のある人が千葉佐那の談話を探す分には影響ないとは思いますが、念のため。ちなみに、『女学雑誌』は1966~1967年に臨川書店から複製版が刊行されています。

その、「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」によれば、龍馬の方から佐那を嫁に貰いたい旨、佐那の父親に申し出たようです。佐那も龍馬との結婚を承諾し、「天下静定の後」に結婚式を挙げようという話になったらしいです。そして、千葉家から龍馬に短刀を贈ったものの、龍馬は千葉家に贈るに足るものがなかったため、松平春嶽から貰い受けて着古していた袷衣(桔梗の紋が付いているもの)を千葉家に贈ったとか。どこまで事実を伝えているのかはわかりませんが、ともかくそのような話が記されています。

一方で、高本薫明氏が『土佐史談』第170号(1985年)に発表した「千葉灸治院」には、佐那が語った話として、「私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし、父も坂本ならばと高知の坂本家へ手紙を出した様でした」という談話が紹介されております。

また、その「千葉灸治院」では、佐那が桔梗の紋を染めぬいた着物の小袖を持っていて、その小袖について佐那が、「之は父が坂本さんに贈る為に染めましたが国事に奔走し道場へも余り来なくなり私が切り取り形見として持っております」と語った話が紹介されています。「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」で語られている話と、「千葉灸治院」で語られている話のどちらが正しいのか、詳細は不明です。

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2008年3月 1日 (土)

池田屋事件の基礎的考察

講談社現代新書で『池田屋事件』を刊行されるご予定の中村武生氏には、「池田屋事件の基礎的考察―『御所向放火』をめぐって」という論文があります。奈良歴史研究会が発行している『奈良歴史研究』第65号(2006年3月)に掲載されている論文です。

文久3年の8月18日の政変から、翌元治元年の禁門の変に至る政治過程の解明を期したもので、原口清氏の先行研究と密接な関連を持つテーマで、原口説を批判しながら論述が展開されています。

原口清氏の先行研究とは、私も過去に「池田屋事件についての原口清氏の問題提起」という記事で部分的に紹介したことがある、「禁門の変の一考察」という論文。名城大学が発行している『名城商学』第46巻第2号と第46巻第3号(どちらも1996年)に、2回にわたって掲載された論文で、昨年刊行された『原口清著作集2 王政復古への道』(岩田書院)に再録されています。

池田屋事件の発端は、よく知られているように古高俊太郎が新選組に捕縛されたことによります。従来、古高は「御所辺放火」の計画を供述したとされていましたが、原口清氏はその計画の存在を否定的に捉えていたのです。中村武生氏はその点を再検討されています。

中村氏は、原口氏の論文が発表された数年前に、著名な新選組研究家の菊地明氏が紹介した史料を、古高俊太郎の供述書(の、良質な写本)だと判断しました。その供述書には、中川宮朝彦親王の屋敷を放火する計画について記されていました。中村氏は供述書という性格上、古高がすべての事実を正直に供述していない可能性も想定して注意しつつ、どうも中川宮の屋敷を放火するという計画に関しては事実を供述しているらしいと判定されました。

中川宮の屋敷は御所のすぐ近くにあったため、中川宮の屋敷に火をつけるということは、すなわち「御所辺放火」と同じ意味を持つ…と中村氏は判断されました。つまり、原口清氏が存在を否定した「御所辺放火」計画を、中村氏は確かに存在した計画だと論じたのです。

しかし中村氏は、「御所辺放火」計画が事実だったとしても、それが新選組の池田屋襲撃に結び付いたとは見なしません。何故なら、池田屋事件直後に書かれた会津松平家家臣の公的な書簡には、古高の供述内容を知っているとは思えないようなことしか記されていないからです。

つまり、古高の供述は池田屋事件の前になされたものではなく、事件の後になっての供述であって、池田屋事件の前には新選組も会津藩も、「御所辺放火」計画のことを知らなかったのではないかということです。新選組が池田屋に踏み込んだのは古高の供述によるものではなく、古高とその周辺の連中がどうも怪しいという、そういう曖昧な理由によるものだったのかもしれないということです。

中村氏の考察・論点はほかにも色々ありますし、今回取り扱った話題についても、かなり要約してしまっている部分も多いので、興味のある方はぜひご自分でお読みになってください。個人的な印象として、中村氏の述べていることには説得力があって、納得できるものでした。『池田屋事件』の刊行も心待ちにしたいところです。

ついでながら、最後に余談を述べておきます。新人物往来社から最近発売された『図説 新選組クロニクル』(『別冊歴史読本』98)には、藤堂利寿氏の「『池田屋事件』論争」という文章が掲載されていて、池田屋事件に関する研究史を紹介していますが、今回紹介した中村武生氏の論文や、同じく中村氏の別の論考(例えば、「古高俊太郎考」『明治維新史研究』創刊号)については言及されていませんでした。非常に残念です。

また、町田明広氏の「池田屋事変における吉田稔麿について」(『霊山歴史館紀要』第16号)も、池田屋事件の研究史を語る上では重要だと思うのですが、言及されていませんでした。こちらも残念でした。

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2008年2月26日 (火)

大隈重信 西日本人物誌

大隈重信は肥前佐賀藩出身にして、立憲改進党を率いたことや総理大臣を務めた経験があること、あるいは早稲田大学の創立者として有名な人物だと思います。最近、その大隈重信について叙述された、大園隆二郎『大隈重信』(西日本新聞社、2005年)という書籍を購入しました。まだほとんど読んでいないため、内容を詳しくご紹介することはできないのですが、できる範囲で簡単にご紹介します。

同書は、西日本新聞社の「西日本人物誌」というシリーズの第18冊目。「西日本人物誌」シリーズには他に、山口宗之『真木保臣』、小河扶希子『平野國臣』などもあります。

著者の大園隆二郎氏は、佐賀県を基盤に近世から近代の佐賀について研究をされている方で、佐賀県立図書館近世資料編さん室長です。

早稲田大学社会科学学会が発行している『早稲田社会科学総合研究』には、江藤新平関係文書研究会による「史料翻刻 江藤新平関係文書」が、私が把握しているだけでも2003年7月発行の第4巻第1号から2007年7月発行の第8巻第1号まで掲載されています。「書翰の部(一)」から始まり、昨年7月の第8巻第1号で、「書翰の部(九)」となりました。大園隆二郎氏は、その江藤新平関係文書研究会の構成メンバーの1人でもあります。

ともかく、その大園隆二郎氏による『大隈重信』を、最近購入しました。大隈重信と言えば明治以降のイメージが強いですが、大園氏の著書では大隈の幼年期から青少年期を重視しているそうです。つまり、明治期よりも幕末期の大隈を描くことに多くのページ数が割かれているというわけで、その点に強い興味を抱いて購入した次第です。

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2008年2月23日 (土)

尊王攘夷論と公議輿論思潮

丸山真男氏に、「明治国家の思想」という講演録があります。1946年10月の講演を文章にしたもので、歴史学研究会編『日本社会の史的究明』(岩波書店、1949年)、丸山真男『戦中と戦後の間』(みすず書房、1976年)、松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男集』第4巻(岩波書店、1995年)などに収録されています。

その「明治国家の思想」は、丸山真男氏自身が語っていることを引用すれば、「一つの精神的な雰囲気として捉えたところの明治時代というものを、主として国家思想という面から考察して見るとどういうことになるか」という趣旨で話がされたものです。そしてその冒頭、丸山氏が「明治維新の精神的立地点」あるいは「明治維新の精神的な背景」として挙げているのが、尊王攘夷論と公議輿論思潮の2つです。そしてさらに、その2つの思想の絡み合いの中に、明治の精神のその後の発展が見られるというのが、丸山氏の意見です。

丸山氏は尊王論を、「政治的集中の表現」と説明し、公議輿論を「政治的拡大の原理」と説明します。そして、「明治国家というものは二つの要素の対立の統一である」と見ているのです。つまり、尊王論が中央集権的統一国家建設に向かい、それが対外的には国権論として発展していく一方で、公議輿論思潮は自由民権運動へと発展していく、その2つが絡み合いながら発展していくのが、「思想的に見た明治国家の発展態様」だと述べています。

王政復古の大号令においても、尊王論に沿って神武創業に復古することを謳いつつ、言論洞開など「公議」の重視をも謳っている点から、「明治維新は政治的集中と政治的拡大の二要素の統一として一応スタートを切った」と、丸山氏は説明しています。丸山氏は、名明治国家について、「国権主義と民権主義というものが同時性を持ち、同時的に登場して来、且つ相互に規定し合っている」状態で始まったものだとも言っています。

さらに、2つの思想の絡み合いについて、丸山氏は征韓論を例に出して説明している箇所もあります。丸山氏は征韓論を「国権論的なものの第一の表現形態」としつつ、その国権論の表現形態たる征韓論者たちが、一方で民権論の実践的表現たる民選議院の建白を征韓論者たちが行っている事実を指摘しています。

このように、丸山真男氏の「明治国家の思想」は、尊王攘夷論を国権論につながるものと捉え、そして公議輿論思潮を民権論につながるものと捉えた上で、その両者の関係性や絡み合いを色々と論じながら、明治時代全体の国家思想の性格を考察しようと試みた講演録です。幕末から続く「天皇」と「公議」の問題について、何らかの示唆を与えてくれる文章だと思います。

ちなみに、植手通有氏は『丸山眞男集』第4巻の解題で、丸山氏の「明治国家の思想」を高く評価しています。しかし、丸山氏が尊王攘夷論を「政治権力の集中を推進した」と捉え、公議輿論思潮を「政治権力の基盤の拡大を推進した」と捉えている部分については、「それぞれが権力の集中と拡大の両契機をもっていた」はずだと批判しています。

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2008年2月17日 (日)

慶応三年の高野山出張に関する一考察

王政復古の政変が起きる直前の慶応3年12月8日、侍従の鷲尾隆聚と数十名の浪士が朝廷からの内勅を受け、武装した上で紀州の高野山を目指して京都を出発しました。「高野山義挙」とも呼ばれることがあります。最終的には十津川郷士を加えて千名を超える集団となり、京都から出張していた期間は約1ヶ月間に及んだ行動です。

この鷲尾隆聚と浪士たちの高野山行きについて、詳細に研究している先行研究は少なかったのですが、それを「高野山出張概略」(国立国会図書館憲政資料室蔵「岩倉具視関係文書」実記編纂資料156)などの史料を駆使して詳細に分析したのが、ここで紹介する亀尾美香氏の論文「慶応三年の高野山出張に関する一考察‐岩倉具視周辺の浪士を中心に‐」(『中央史学』第27号、2004年3月)です。

亀尾氏は論点を3つに絞って分析しています。その分析のため、鷲尾隆聚らの京都出発から帰還までの事実経過も詳細に記されています。

論点の1つ目は、当時の政局との関連です。鷲尾隆聚らが高野山に出張した時期には、王政復古政変や鳥羽・伏見の戦いが起こりました。亀尾氏は、その政局との関連で高野山出張を検討し、その意義を探ります。

2つ目は、岩倉具視と高野山出張の関係性です。岩倉具視が高野山出張に関してどのように携わったのか、それを検討しています。

3つ目は、鷲尾隆聚と浪士たちの高野山行きに関して、当時の史料には「出張」と記されている例が多い者の、参加者たちの後年の回顧や履歴などでは「義挙」や「挙兵」と表記されていることが多いそうです。果たして、鷲尾隆聚と浪士たちの行動は「義挙」や「挙兵」と呼べるような内容のものだったのか、それが3つ目の論点になっています。

それら3つの論点について、「高野山出張概略」などを駆使して分析した亀尾氏は、どのような結論を導き出したのでしょうか。

まず1点目ですが、浪士たちの高野山出張の目的は極めて曖昧だそうです。後年の回顧などには、討幕戦争に呼応することや紀州藩を軍事的に牽制することが目的だったと記されていたりするようですが、少なくとも当時の史料から浪士たちの目的を断定できるような記述は見つからなかったようです。鷲尾隆聚らは出張後に錦旗を賜って「官軍」となりますが、小規模な集団だったので大した戦闘もできず、また周辺諸藩の疑念もあって、軽挙は厳に戒めている状態だったようです。

また、先行研究の一部には鷲尾隆聚と浪士たちの行動を「脱走」と見なしているものもあるそうですが、決して浪士たちの行動を突出と見ることはできないというのが亀尾氏の意見です。形式的にせよ内勅が出ている点や、計画の当初から岩倉具視が関与していた点、西郷隆盛らも高野山の兵力を自分たちの行動計画の一部に組み入れていた様子が窺えるなどの点からだそうです。亀尾氏は、「今回は不十分となったが、当該期の討幕計画全体に高野山出張を明確に位置づける作業が不可欠となろう」と指摘しています。

2つ目の論点として、高野山出張と岩倉具視の関係性について。すでに述べたように、亀尾氏は高野山出張の計画に岩倉が深く携わっていた点を指摘しています。また、浪士たちの中心人物である香川敬三や大橋慎三らは岩倉と懇意だったため、高野山に到着してからも、京都にいる岩倉と頻繁に連絡を取り合っていたようです。

また、亀尾氏が高野山出張浪士の中心人物と目する24名のうち、香川敬三・大橋慎三・田中顕助・中島作太郎ら17名は陸援隊に所属していました。陸援隊の隊長だった中岡慎太郎も岩倉と懇意にしていましたから、そういった岩倉と浪士たちの交際の延長線上に高野山出張を位置づけることができると、亀尾氏は述べています。

3つ目の論点について。高野山出張について、参加者たちの後年の回顧では「出張」ではなく「義挙」の表現が用いられることが多い理由として、出張の舞台となった土地、参加者たちの出身、参加者たちの思想傾向に、文久3年の天誅組の変との共通性が指摘されています。土佐出身の尊王攘夷論者の参加が多かった天誅組の変を「失敗した義挙」と捉える認識が、高野山出張に参加している土佐出身者たちに自分たちの行動を「義挙」と表現させたのではないかとの指摘がなされています。

また、高野山出張が「挙兵」だったかという点については、出張の目的が本当に討幕戦争への呼応だったかどうか断定できないこと、浪士たち自身が「暴発」を自制していたこと、戦闘は自発的に起こしたわけではない小規模なものに止まったことなどから、亀尾氏は否定的です。当時の史料に「出張」と表記されていることを重視しつつ、さらに当時の不安定な政情を考慮すれば、「挙兵」とか「義挙」とか表現するよりも「出張」としておく方が適切ではないかと指摘されています。

とにかく、先行研究で詳細に語られることの少ない鷲尾隆聚と浪士たち(中心人物の多くが陸援隊出身者)の高野山出張に関して、亀尾氏の論文は詳しく分析してくれていますので、新鮮で面白いです。興味のある方は、『中央史学』第27号に掲載されている、亀尾美香氏の論文、「慶応三年の高野山出張に関する一考察‐岩倉具視周辺の浪士を中心に‐」をお読みください。

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2008年2月15日 (金)

幕末人の肖像

発売開始からだいぶ時が経ってしまいましたが、各地の書店では現在、雑誌『歴史読本』2008年3月号(第53巻第3号・通巻825号)が発売されております。個人的に興味深い文章が色々と掲載されていました。特集は、「古写真集成 幕末人の肖像」です。

その特集に沿って、「特別セミナー/古写真研究最前線」と題して、以下の3氏の文章が掲載されています。

・斎藤多喜夫「わたしの古写真研究史」
・松本健「港区立郷土資料館所蔵古写真の現況と課題」
・林司「肖像古写真が語る世界~資料から復元される歴史」

斎藤氏は横浜都市発展記念館調査研究員。斎藤氏はご自身がどのように幕末維新期の古写真研究に取り組まれてきたかを語られ、横浜開港資料館が出している写真集も紹介しています。

松本氏は港区立郷土資料館学芸員。港区立郷土資料館で所蔵している写真コレクションのうち、特に代表的な井関盛艮(第5代神奈川県知事)のコレクションなどを紹介しています。井関は幕末期に宇和島藩士として京都で周旋活動を行っていて、井関が記した幕末期に面識を得た人物を記した史料には、高杉晋作・伊藤博文・後藤象二郎・坂本龍馬・大隈重信など、錚々たる人物たちがいたようです。

林氏は、川崎市市民ミュージアムの学芸員。博物館や美術館ではどのように資料を収集しているのかなど、一般の人ではなかなか知ることのできない情報を教えてくれています。また、一番最初に写真撮影された日本人の話も面白いです。

「特別論考」と題して、以下の論文が掲載されています。

・倉持基「明治天皇『御真影』と『フルベッキ写真』の関係性を探る」
・山下大輔「《史料発掘》龍馬から慎蔵への手紙-幕府崩壊を予見した龍馬の書翰を読み解く-」

「フルベッキ写真」については、私も今年に入ってから、「フルベッキと海援隊と『フルベッキ写真』」という記事で少し書きましたが、倉持氏の文章は、その「フルベッキ写真」と明治天皇の「御真影」の、岩倉具定・岩倉具経(2人とも岩倉具視の息子)を介しての意外な関係性・繋がりを論じておられまして、大変面白かったです。

また倉持氏は私と同様、「フルベッキ写真」に幕末維新期の有名な志士たちが多数写っているという説には否定的な見解を書かれておられます。

山下氏の論考は、昨年のTV番組で紹介されたらしい(私は見ていないので詳しくは存じておりません)三吉慎蔵宛の坂本龍馬書簡を2通、改めて紹介・分析しています。1つは慶応2年8月16日付の三吉宛書簡で、もう1つは慶応3年2月22日付の書簡です。

それらの書簡は大正期に刊行された『坂本龍馬関係文書』に活字で掲載され、宮地佐一郎氏の『坂本龍馬全集』や『龍馬の手紙』には写真版も掲載されているため、全くの新史料の紹介というわけではありません。そのため、そんなに目新しさは感じませんでしたが、改めてそれらの龍馬書簡を読むと、色々と興味深い内容が書かれているなぁと改めて感じた次第です。

そして、中岡慎太郎館の学芸員である豊田満広氏によって、中岡慎太郎が岩倉具視に宛てて出した新出書簡が紹介されています。『中岡慎太郎全集』にも収録されていないもので、日付は慶応3年9月10日。「慶応3年」とは明記されていないものの、後藤象二郎が兵力を率いずに来たことなどが記されておりますので、慶応3年のものに間違いないでしょう。短い書簡ですが、非常に興味深いです。

今回の特集とは直接関係ありませんが、桐野作人氏による連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ」第3回にも注目です。

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2008年2月10日 (日)

維新の記憶と「勤王志士」の創出

最近、高田祐介氏の「維新の記憶と『勤王志士』の創出-田中光顕の顕彰活動を中心に-」という論文を読みました。大阪歴史学会が発行している、雑誌『ヒストリア』第204号(2007年3月)に掲載されている論文です。以下、その内容紹介と感想を簡単に。

田中光顕とは、幕末期には土佐出身の志士として活動し、中岡慎太郎の陸援隊にも参加していた人物です。田中顕助という名前でご存知の方もいらっしゃるかもしれません。明治期には宮内大臣を11年間も務め、昭和14年まで生きました。

高田氏の論文は、田中が宮内大臣を務めていた時期から昭和初期までにおいて、明治維新期の志士顕彰が田中の政治活動の重要な側面だったと見て、その志士顕彰の意義を探ったものです。

高田氏の研究によれば、田中は宮中関係の仕事に就く以前から、維新志士らに対する贈位斡旋活動を行っていた可能性があるようです。そして、明治期に贈位された人物は全部で1091名いるものの、その約60%が田中の宮内大臣の任期に贈位されているとの指摘がなされています。これはもちろん、田中の宮内大臣就任期間が長かったことにもよりますが、それだけではなく、田中が宮内大臣という地位を活用して、積極的に維新の志士たちを顕彰しようと努めていたことも大きいのでしょう。

高田氏は、「贈位を通した『勤王家』像の形成あるいはその一般化」に、田中の果たした役割は大きかったと指摘しています。また、田中が特に積極的に顕彰しようとしたのが、同郷の土佐出身者と水戸出身者だったそうですが、田中は独自の判断と権限で、土佐・水戸出身者に位階の追贈を行っていた可能性もありうるそうです。

高田氏も指摘していることですが、大胆な言い方をしてしまえば、今現在、「勤王の志士」として名前を知られている人物たちは、田中光顕が顕彰すべき対象として選んだからこそ、「勤王の志士」として名前が知られるようになったのかもしれません。

ところで、高田氏の論文の中で、私が特に興味を持って読んだのは、「昭憲皇后瑞夢事件」絡みの記述。昭憲皇后瑞夢事件とは、明治37年、昭憲皇太后の夢に坂本龍馬が現われ、日本海軍を守護する旨を述べて消え、それを聞いた香川敬三が龍馬の写真を奉献したというもの。

これを香川や田中らの捏造話と見る意見もありますが、捏造とまで言えることではなく、皇后が龍馬の夢を見たこと自体は確かだろうと私は考えております。ただ、高田氏も述べているように、「何れにしても、この事件は日露戦争時の戦意高揚と宣伝に利用され、そのような意味においては政治的意味を持つ事件であった」と言えそうです。

ただ、この事件に関する注(17)の記述が気になりました。『坂本龍馬関係文書』第1巻には、上記事件が明治37年3月の『時事新報』で報道されたと記されています。高田氏もその記述を見て、『時事新報』明治37年3月の記事を探したらしいのですが、上記事件についての記事は確認できていない旨、記されています。それもそのはずで、松岡司『定本坂本龍馬伝―青い航跡』(新人物往来社、2003年)によれば、上記事件の記事が『時事新報』に掲載されたのは明治37年4月13日だったそうです。

つまり、『坂本龍馬関係文書』第1巻は何らかの理由により、明治37年4月13日付『時事新報』の記事について、間違って明治37年3月と記してしまい、高田氏も『坂本龍馬関係文書』の間違いを鵜呑みにしてしまったということなのでしょう。ちなみに、『時事新報』明治37年4月13日のことについて、私は松岡司氏『定本坂本龍馬伝』を読んで知りましたが、松岡氏よりも前に、近藤功氏(このブログにコメントしてくださったこともある鏡川伊一郎さん)が、『龍馬研究』No.119(1999年)に「『皇后の夢』の真実」と題して発表されているそうです。

ともあれ、この事件の後、「坂本・中岡没後40年祭」が皇室から祭祀料が下賜される形で開催され、坂本や中岡の遺墨が展示されたそうです。もちろん、高田氏も指摘しているように、皇室からの祭祀料下賜などには田中の周旋があったものと推察されます。そして、坂本龍馬について海軍の守護者としてのイメージが広まっていったそうですが、そこには高田氏が述べているように、「国家に引きつけた形での歴史像の創出と展開が企図」があったと見ることもできそうです。その歴史像創出の上で、志士たちの遺墨は活用されていくことになります。

田中の顕彰活動は政治の表面に出てくるものではないものの、裏面でかなり重要な働きをしていて、「勤王の志士」の確定と国民の歴史像形成の面で、影響力があったようです。高田氏の論文を拝読して、そのような感想を抱きました。

雑誌『ヒストリア』第204号(2007年3月)に掲載されている、高田祐介氏の論文「維新の記憶と『勤王志士』の創出-田中光顕の顕彰活動を中心に-」には、もっと多くの論点について詳細な分析がなされています。興味のある方は読んでみてください。

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2008年2月 8日 (金)

『日本史研究』最新号の幕末政治史記事2点

雑誌『日本史研究』の最新号(第545号)を私はまだ入手しておりません(つまり、まだ読んでおりません)が、その『日本史研究』最新号には、幕末政治史に興味ある者としてチェックしておいても良さそうな文章が2つほど掲載されているようです。

1つは、久住真也氏による「幕末政治史研究発展のために‐奈良勝司氏による拙著書評について‐」と題された研究展望。

久住真也氏は、『長州戦争と徳川将軍‐幕末期畿内の政治空間‐』(岩田書院、2005年10月)という著書を刊行されています。その久住氏の著書について、『日本史研究』第536号(2007年4月)に、奈良勝司氏による書評が載りました。今回の久住氏の文章は、奈良氏の批判を受けてのもののようです。まだ読んでいないので、詳細は存じませんが。

ちなみに、久住真也氏の著書について、奈良勝司氏を含めていくつか書評が出ていることを、「『長州戦争と徳川将軍』の書評いろいろ」という過去記事で紹介しています。興味のある方はご参照ください。

『日本史研究』第545号に掲載されているらしい、もう1つの注目は、家近良樹氏による高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)の書評です。

家近良樹氏は『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)、『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)、『幕末維新の個性1 徳川慶喜』(吉川弘文館、2004年)、『幕末の朝廷』(中公叢書、2007年)など、幕末政治史を論じた著書をいくつも出されている研究者。恐らく、研究者ではない一般の幕末好きにも、結構名前の知られている研究者だと思います。

その家近氏が書評を書いている高橋秀直氏の著書は、数年前に亡くなられた高橋氏の遺稿を収録した論文集です。高橋氏は亡くなるまでの数年間に、内容的にも分量的にも物凄く読み応えのある、幕末政治史に関する学術論文を次々に発表されていた研究者。一般的な知名度は家近氏ほど高くないと思われますが、幕末政治史研究者のほとんどが名前を知っている研究者だと思います。

特に高橋氏と家近氏は、お互いの著書や論文で、よくお互いの研究成果を参照していて、相互に影響し合っているように見えました。例えば、家近氏の『徳川慶喜』の「あとがき」には、執筆にあたって最も参考にした研究者として、原口清氏と共に高橋氏の名前を挙げています。それもあって、家近氏による高橋氏の著書の書評は興味があります。

以上、『日本史研究』最新号に掲載された、幕末政治史関連の文章2点について、興味のある方はチェックしてみてはいかがでしょうか。

ついでに全くの余談ながら、石井孝『戊辰戦争論』が先月、吉川弘文館から復刊されました。その巻末解説を担当されているのも家近良樹氏。家近良樹氏好きの方は、併せてチェックされると良いかもしれません。

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2008年1月31日 (木)

幕末維新史 2007年の主要記事40

昨年書いた幕末維新史関連の記事のうち、特に力を入れたものや個人的にオススメしたい記事などを以下に40個ピックアップしてみました。興味のある方はぜひお読みください。

新選組にも関連のある、多摩地域・多摩出身者の近代史(1/13)

中間層論からみる浪士組と新選組(1/17)

幕末の武士は、みんな佐幕的で勤王精神あり?(1/30)

維新の変革と幕臣の系譜(2/3)

幕末英雄史観(2/9)

文久期の相楽総三(2/25)

情報戦としての将軍進発問題(3/1)

歴史家・高橋秀直氏の論文をネットで(3/8)

服部之総「新撰組」(3/25)

イギリス軍艦「イカルス」号水夫暗殺一件(4/11)

幕末の老中・阿部正外と中根雪江の会話(4/14)

長州再征と福沢諭吉(4/18)

暗殺-明治維新の思想と行動-(4/23)

龍馬暗殺事件をめぐって(5/3)

志士たちの詩<うた>(5/12)

「兵農未分離」の八王子千人同心(5/28)

公家討幕派の独自性(6/7)

幕長戦争までの伊予諸藩の動向(6/10)

『史学雑誌』回顧と展望 2006年の歴史学界(6/20)

新選組隊士 武田観柳斎について(6/30)

「龍馬暗殺」議論において軽視されていること(7/7)

孝明天皇の死因について(7/12)

王臣と陪臣と(7/21)

新選組に対する申し訳ない気持ち(7/30)

文久3年8月18日政変についての最新の研究(8/4)

草莽の志士・城多董(8/10)

山内容堂の「風流」(8/14)

天領における草莽の志士の行動と思想(8/25)

幕末維新期の山科郷士と「勤王思想」(9/7)

長州藩・小倉藩の確執と、朝陽丸事件(9/12)

幕末維新期の農民日記と新選組(9/21)

幕末中央政局における朔平門外の変(10/9)

『長州戦争と徳川将軍』の書評いろいろ(10/15)

定本 坂本龍馬伝―青い航跡(11/1)

元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募(11/8)

孝明天皇と岩倉具視(11/10)

幕末政治史研究の現状と課題(11/16)

津山藩と幕末政局(12/2)

中津川国学者と薩長同盟(12/15)

湯浅五郎兵衛と幕末維新(12/21)

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2008年1月25日 (金)

若き薩摩の群像を完成させる会

歴史作家・桐野作人さんのブログの1/21の記事に、「若き薩摩の群像を完成させる会」のホームページが完成した旨、記されています。「若き薩摩の群像を完成させる会」HPへは、下記をクリックしてください。

若き薩摩の群像を完成させる会

「若き薩摩の群像を完成させる会」の発足趣旨に関しては、桐野作人さんの上記ブログや、「若き薩摩の群像を完成させる会」HPを見ていただければ詳しく書いてありますので、そちらをご覧いただければ良いとは思いますが、念のため私も少しだけ書いておきましょう。

慶応元(1865)年、薩摩藩は19人の男たちを外交使節あるいは留学生として、イギリスに派遣しました。その中で特に名前が知られている人物としては、寺島宗則、五代友厚、森有礼がいます。日本に帰国した後、政治家や実業家として活躍した人物です。その活躍に、このイギリス行きが有益な経験として活かされたのでしょう。

この英国留学生・使節たちの活躍を称えて、JR鹿児島中央駅前に、「若き薩摩の群像」を題されたモニュメントが建てられているそうです。ところが、そのモニュメントの数は全部で17体。薩摩藩からイギリスに派遣されたのは19人なので、2人足りません。使節一行に加わっていた高見弥一と堀孝之については、モニュメントが建立されていないのだそうです。

実は、高見は土佐藩出身で、堀は長崎出身。つまり、「薩摩藩士ではない」という理由で、高見と堀のモニュメントは建立されなかったようなのです。しかし、桐野作人さんは史料を提示した上で、イギリス行きの段階で、高見と堀が薩摩藩士として遇されていた可能性を指摘しています。桐野さんの主張が正しければ、「薩摩藩士ではない」という理由でモニュメントを建立しないことは正当性を失うことでしょう。

また、それ以前に、高見と堀は薩摩藩外の出身者とは言え、正式に薩摩藩からイギリスに派遣されたわけですから、そもそも他の渡航メンバーと区別する必要はないわけです。そう考えると、藩外出身ということで高見と堀のモニュメントを建立していない鹿児島市はちょっと度量が小さいのではないか、そして高見と堀のモニュメントも建立してあげるべきではないかというのが、「若き薩摩の群像を完成させる会」の発足趣旨というわけです。私も同会の趣旨に賛成です。

「若き薩摩の群像を完成させる会」の発足人には、『薩摩藩英国留学生』(中公新書、1974年)という著書をお持ちの犬塚孝明氏や、近世~幕末維新期にかけての薩摩藩・島津氏の研究で著名な芳即正氏、大河ドラマ『篤姫』の時代考証を担当されている原口泉氏など、錚々たる方々が名を連ねています。

「若き薩摩の群像を完成させる会」の、高見・堀のモニュメント追加建立を鹿児島市に求める趣旨に賛同される方は、HPにある署名用紙に記入の上、FAXや郵送でお送りすることで活動に協力することができます。ご興味のある方は、ぜひ検討してみてください。私も、署名で協力できればと思っております。

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2008年1月20日 (日)

谷干城の慶応三年

『駒沢史学』第64号(2005年2月)には、小林和幸氏による「谷干城の慶応三年」という論文が掲載されています。小林氏は『谷干城関係文書』の編者の1人で、谷干城に関する論文を複数執筆されている研究者。「谷干城の慶応三年」という論文は、小林氏の、「谷干城の生涯を明らかにしようとする筆者の研究課題の一環」として書かれたものだそうです。

慶応3年の谷干城と言えば、『谷干城遺稿』上巻に収録された「慶応三年隈山詒謀録」という谷干城の回顧録を思い浮かべるところです。その回顧録について小林氏は、「史料に基づいて書かれた部分と、記憶に頼り書かれた部分とがある」と指摘して、事実関係の確定に「慶応三年隈山詒謀録」を用いる場合の注意を促しています。

その上で、「一方、谷自身が限られた情報を解釈した結果が表れたものであるので、ここには谷の認識が表出していると考えられ、谷の思想を検討するのには格好の材料とすることもできるであろう」と、「慶応三年隈山詒謀録」の谷干城研究における有効性を説かれています。小林氏の論文は「慶応三年隈山詒謀録」ほか、『谷干城遺稿』に収録された史料はもとより、新出の谷家史料も活用した上で、谷干城の慶応三年における思想・活動を分析しているのです。

個人的に興味深かったのが、慶応3年5月21日の、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と、板垣退助・谷干城らの「密約」についての小林氏の見解。この「密約」は薩摩藩側と土佐藩側が武力討幕の密約を結んだものとして、昔は「薩土討幕同盟」などと呼ばれることもあったもの。しかし、井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)や佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)はそのような見方に否定的です。

つまり、西郷や板垣が討幕について語り合ったという慶応3年5月21日の段階では、まだ西郷や大久保は武力討幕の決意を固めている状態ではなく、しかも板垣や谷も土佐藩の代表として会談に臨んでいるわけではないので、西郷や大久保は「薩摩藩と土佐藩の間で討幕の『密約』が結ばれた」とは認識していなかっただろうというのが、井上勲氏や佐々木克氏の意見。要するに、慶応3年5月21日に板垣退助・谷干城らと西郷の間で討幕について話したことがあったとしても、それを「薩土討幕同盟」とか「薩摩藩と土佐藩の武力討幕密約」とは到底呼べないということ。

しかし、西郷隆盛にとっては「密約」と呼べるほどのものではなかったとしても、谷干城にとってはそのときの「密約」が重要なものとして認識され、「以後の行動の規範となった」と小林氏は指摘しています。そのため、慶応3年6月に後藤象二郎と坂本龍馬が長崎から上京してきたことを契機にして、西郷隆盛や大久保利通との協議を経て結ばれた有名な「薩土盟約」も、谷にとっては5月の「密約」の延長線上に位置付けられるものだったとのことです。つまり、谷干城は薩土盟約を、あくまで討幕のためのものと認識していたということです。

谷干城がそのような討幕論を構想するようになったきっかけは、小林氏も先行研究と同様に、慶応3年初頭の長崎・上海行きと、後藤象二郎・坂本龍馬との長崎での接触によると述べています。また、西郷隆盛について谷干城は、5月の「密約」以来、「一貫して討幕を目指しているという強い結びつきを有する同志である」という「信念」を持っていたことも指摘されています。

小林和幸氏の「谷干城の慶応三年」は16ページの論文ですので、論点は限られたものになっていますが、谷干城や慶応3年の政治史に興味のある方ならば、興味深く読めると思います。

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2008年1月13日 (日)

フルベッキと海援隊と「フルベッキ写真」

フルベッキとは、幕末維新期の長崎で約10年を過ごし、その後も約30年間日本に住んでいたオランダ人宣教師です。フルベッキは、幕府が長崎に設立した済美館と、大隈重信や副島種臣などが中心となって佐賀藩が長崎に設立した致遠館で、日本の人々に英語などを教授していました。

そんなフルベッキの、長崎時代の交友関係を詳細に分析したのが、村瀬寿代氏の論文「長崎におけるフルベッキの人脈」(『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、2000年)です。村瀬氏は、勝海舟や横井小楠の研究で知られる思想史家・松浦玲氏の教え子にあたる研究者です。

学術論文を検索することができ、その一部をPDFで公開している「CiNii 論文情報ナビゲータ」(国立情報学研究所の提供)のことは、このブログでも何度かご紹介しました。今回の村瀬氏の論文も例によって、PDFで閲覧することが可能です。下記のリンクをクリックすれば、PDFで村瀬氏の論文が開きます。

長崎におけるフルベッキの人脈

興味のある方には上記リンクから村瀬氏の論文を直接お読みいただくのが一番なのですが、私が特に興味のあった部分だけ手短にご紹介しましょう。

済美館の学頭を務めていた時期のある何礼之(が・のりゆき)という人物は、長崎奉行の援助も受けつつ長崎に私塾を開いていました(文久4年開設)。そして何礼之はそれ以前からフルベッキとかなり緊密な交流があり、その縁でフルベッキに私塾の授業も頼んでいたようです。つまり、何礼之の私塾に入っていた人物は、フルベッキの教えをも受けていた可能性があります。

そして、何礼之の私塾の慶応元年における塾生名簿によると、郵便制度を創設した前島密や、明治4年の岩倉使節団の副使となる山口尚芳に混じって、林謙三(安保清康)や陸奥宗光・白峰駿馬・野村維章などの人名も見えます。坂本龍馬に興味ある人間としては、見過ごせない人名です。

林謙三(安保清康)は幕末期には薩摩藩海軍の一員として活躍していた人物で、坂本龍馬と親しかった人でもあります。龍馬が林謙三(安保清康)に送った書簡が何通か残っていますし、林の自伝である『男爵安保清康自叙伝』にも龍馬の話が出てきます。

陸奥宗光・白峰駿馬・野村維章の3人は、亀山社中と海援隊で龍馬と一緒に活動した人物たちです。野村は「野村辰太郎」の名前でご存知の方が多いかもしれません。彼らが何礼之の私塾に入っていたということは、フルベッキとの関わりも可能性として想定できるわけです。

特に白峰は、明治になってから同じく海援隊の隊士だった菅野覚兵衛と共に米国ラトガース大学に留学していますが、当時ラトガース大学に日本からの留学生の大部分を紹介していたのがフルベッキだったそうです。したがって、菅野にも何らかの形でフルベッキとの関わりがあるのかもしれません。それらのことから村瀬氏は、坂本龍馬や中岡慎太郎が、フルベッキとも関わりを持っていた可能性を指摘しています。

ところで、フルベッキと言えば、「フルベッキ写真」と呼ばれる群像写真の話題で名前をご存じだという方もいらっしゃるのではないでしょうか。西郷隆盛・大久保利通・伊藤博文・横井小楠・江藤新平・中岡慎太郎などなど、錚々たる人物が写っていると噂されている写真です。

私も過去の記事「ニセモノにご注意~幕末の志士の集合写真~」で、その写真について話題にしたことがありますが、村瀬氏はその写真について最も詳しく検討されている研究者です。村瀬氏の論文「長崎におけるフルベッキの人脈」は、この写真の問題も詳しく分析しています。

村瀬氏の結論を述べれば、写真には西郷隆盛や中岡慎太郎は写っていません。そもそも村瀬氏によれば、問題の写真は明治になってから撮影されたものなので、慶応3年に死んでいる中岡慎太郎が写れるはずはないのです。ただ、大隈重信・岩倉具定・岩倉具経は写っているようです。詳細について興味ある方は、村瀬氏の論文をお読みください。下記のリンクから読むことができます。

長崎におけるフルベッキの人脈

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2008年1月 6日 (日)

京都守護職に対する幕府の財政援助

『お茶の水史学』第45号(2001年)に、新田美香氏の「京都守護職に対する幕府の財政援助」という論文が掲載されています。幕末の、「京都守護職中の会津藩の財政収入、就中幕府の財政援助の実態を明らかにしよう」と試みた論文です。…と言っても、私はまだ、パラパラ拾い読みしただけで全部に目を通していない段階なので、その内容を断片的に紹介します。

大口勇次郎氏や飯島千秋氏の幕府財政に関する研究、あるいは庄司吉之助氏の会津藩財政に関する研究を踏まえた上での論文です。具体的には例えば、以下のような文献が挙げられるでしょう。

・大口勇次郎「文久期の幕府財政」(家近良樹編『幕政改革』吉川弘文館、2001年)
・飯島千秋『江戸幕府財政の研究』(吉川弘文館、2004年)
・庄司吉之助『京都守護職と会津藩財政』(歴史春秋社、1981年)

ただし、上記の飯島氏の著書などは新田氏の論文が公にされた後での出版となるため、新田氏の論文には出てきません。しかし、新田氏が紹介している飯島氏の論文を収録しています。新田氏はほかにも、色々な研究成果をご自身の研究に取り入れているようです。

冒頭で述べたとおり、私はまだ新田氏の論文をすべて読んだわけではなく、パラパラ拾い読みしただけの状態です。ただ、その中でいくつか目に付いた記述もありまして、例えば京都守護職が「譜代・旗本を中心とした従来の幕府政治機構の改変を意図して、一橋慶喜・松平慶永の指導下において設置されたという性格上、財政の決定権をもつ在江戸の老中・勘定所とは対立することもしばしばであった」ことを指摘しています。

また、「元治元年に稲葉正邦の『御英断』により、会津藩に一万両の拝借が認められていることを考えれば、在京の老中にも財政に関するある程度の裁量権があったと考えられるが、手当支給など重要事項についての最終判断は江戸においてなされていたようである」といった事実も指摘しています。

新田美香氏の論文「京都守護職に対する幕府の財政援助」は、例によって国立情報学研究所のCiNii(論文検索サービス)から、PDFで閲覧できます。コチラのページが、閲覧直前のページです。興味のある方は、ぜひご自身でお読みください。

ちなみに、「お茶の水女子大学 教育・研究成果コレクション Tea Pot」からも、閲覧することができます。

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2008年1月 4日 (金)

京都守護職に関する昨年の論文ほか

昨年、タイトルに「京都守護職」を含む論文がいくつか公にされました。私が知っているものだけでも、以下の3つがあります。…と言っても、杉谷昭氏のものは京都守護職を分析したものではなく、山川浩『京都守護職始末』において幕末政局がどのように描かれているのかを考察したものですが。

・杉谷昭「『京都守護職始末』にみる文久年間」(『諫早史談』第39号)
・杉谷昭「『京都守護職始末』にみる元治・慶応」(『純心人文研究』第13号、長崎純心大学)
・馬部隆弘「京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場」(『ヒストリア』第206号)

上記のうち、杉谷昭氏の「『京都守護職始末』にみる元治・慶応」は、国立情報学研究所の「CiNii 論文情報ナビゲータ」からPDFで閲覧することができます。下記のリンクをクリックしていただければ、杉谷氏の論文がすぐに開きます。

『京都守護職始末』にみる元治・慶応

上記の論文は、HP「幕末維新史を読む」を最近更新した際にも、追加で掲載しました。また、HP「幕末維新史を読む」には下記の文献も追加掲載しています。

・辻ミチ子『女たちの幕末京都』(中公新書、2003年)
・芳賀登・右島亜希子「和歌を通路にしてみた戊辰戦争‐会津藩を中心にして‐」(『東京家政学院大学紀要』第36号、1996年)

それから以前、HPの更新作業中に何らかのトラブルで、一部のデータが消えてしまっていたようなので、できる範囲で修正しました。

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2007年12月29日 (土)

年末なので

2007年も残すところ、あとわずか。小休止ということで、過去記事をご覧ください。

ディズニー関係オススメ過去記事30

思い入れがある歴史記事10個

2005年に書いた歴史系記事、厳選20

2005年に書いたディズニー系記事、厳選20

2006年 オススメ記事50

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2007年12月27日 (木)

幕末維新史 今月の主な新刊書籍

今月発売された幕末維新史関連の新刊書籍について、個人的に興味を抱いたもの(そのうち読んでみようと思ったもの)をいくつかご紹介してみます。ちなみに、まだ読んでいない本ばかりです。

まず、中央公論新社の中公新書から、小川原正道『西南戦争‐西郷隆盛と日本最後の内戦‐』。西南戦争を近代日本における最大の内戦と捉えた上で、その全貌を叙述していきます。巻末の参考文献が驚くほど充実していて、便利だと思います。

著者の小川原氏は、『評伝岡部長職‐明治を生きた最後の藩主‐』(慶應義塾大学出版会、2006年)や『大教院の研究‐明治初期宗教行政の展開と挫折‐』(慶應義塾大学出版会、2004年)といった著書がある研究者です。

来年の大河ドラマに関連した書籍が2点。まずは、原口泉『篤姫‐わたくしこと一命にかけ‐』(グラフ社)
原口泉氏は来年の大河ドラマの時代考証を担当される方で、『鹿児島県の歴史』(山川出版社、1999年)などの著書がある研究者です。

続いては、畑尚子『幕末の大奥‐天璋院と薩摩藩‐』(岩波新書)
畑氏は『江戸奥女中物語』(講談社現代新書、2001年)という著書をお持ちの研究者。

先月や先々月も話題にしたような気がする萩原延壽氏の著作について。まず、『萩原延壽集』シリーズの第2巻として、『陸奥宗光』上巻(朝日新聞社)が発売されました。陸奥宗光の評伝として、定評ある著作です。

また、同じく萩原延壽氏による『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の朝日文庫版も、第5巻と第6巻が刊行されました。

少々お高い金額のところでは、奈倉哲三編著『絵解き幕末諷刺画と天皇』(柏書房)
天璋院篤姫、和宮、徳川慶喜、明治天皇などが描かれた戊辰戦争期の諷刺錦絵を、オールカラーで紹介してくれるそうです。

吉川弘文館の歴史文化ライブラリーの1冊として、松田敬之『次男坊たちの江戸時代‐公家社会の<厄介者>‐』も出ました。
江戸時代、家長の兄弟姉妹で被扶養者となっている者を「厄介」と呼び、次男以下で分家・独立をしないで親や兄の家にいる者を「部屋住」と呼びますが、それを題材にして近世社会の公家から近代の華族にまで論及しているそうです。

井上泰至『サムライたちの書斎-江戸武家文人列伝-』(ぺりかん社)は、江戸時代の「武士による文学」を担った人々の列伝。
その第8章が「蘇る武士道 岡谷繁実」と題されています。岡谷繁実は館林藩に生まれ、幕末期にはいわゆる勤王の志士として活動し、『名将言行録』という著述を残した人物です。

覚えているところでは、大体こんなところでしょうか。私は新刊書籍のすべてを熟知しているわけではありませんし、ここで紹介したものはあくまで私が興味を抱いたものに限られていますので、ほかにも面白い幕末維新史関連の新刊書籍は、たくさんあるはずです。

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2007年12月21日 (金)

湯浅五郎兵衛と幕末維新

青山忠正監修『湯浅五郎兵と幕末維新』(日吉町郷土資料館、2005年)という図録があります。京都府にある日吉町郷土資料館が、2004年に開催した企画展「湯浅五郎兵衛と幕末維新」の、展示解説図録です。池田屋事件で死んだ北添佶麿や、天誅組を結成した吉村寅太郎、あるいは佐久間象山を暗殺したことで知られる河上彦斎、神風連の乱の中心的人物だった加屋栄太らが湯浅五郎兵衛に宛てて書いた書簡などが掲載されています。

もっとも、湯浅五郎兵衛という人を、よく知らない人は少なくないはず。私も、この図録を読むまで、湯浅五郎兵衛の事績について、ほとんど知りませんでした。五郎兵衛は丹波国船井郡に生まれた郷士で、五郎兵衛が政治活動を始める事になるきっかけは、湯浅家が肥後細川家と血縁関係があったことにあるようです。肥後出身の志士・松田重助(後、池田屋事件で新選組に斬殺される)の訪問を受けたことによって、五郎兵衛は肥後藩の勤王党のメンバーと交流を持ちながら政治活動を始めたらしいです。

新選組による池田屋事件襲撃の前、古高俊太郎という志士が新選組に捕縛され、それが池田屋事件につながっていったことはよく知られていますが、古高が養子として継いだ枡屋という商家は、湯浅五郎兵衛家の分家でした。新選組に捕縛された頃の古高俊太郎は湯浅喜衛門と名乗っていて、もちろん五郎兵衛とも交流があります。枡屋には池田屋事件の災難に遭う志士たちが多数出入していて、五郎兵衛もそれによって交友関係を広げて政治活動の幅を広げていたようです。

五郎兵衛は当初、天誅組にも参加する予定だったらしく、また、公家の鷲尾隆聚邸に潜伏して政治活動を行っていたこともあるようです。もちろん、新選組に狙われたこともあります。最初は肥後藩勤王党の意に沿うような形で政治活動を始めた湯浅も、段々と活動の幅を広げて、特に長州藩との関係も深めたようです。一説によると、薩長同盟の周旋に向けて尽力し、木戸孝允が西郷隆盛ら薩摩藩代表との会談のため上京した際には同行したとか。

明治元年には河上彦斎と共に、肥後藩の「外向御用懸京地詰」に就任し、明治2年には岩倉具視の附属として、京坂地域での情報収集を行っていたとか。死後、従五位を贈られています。

ともかく、湯浅五郎兵衛はあまり知られていない志士の1人ですが、よく知られている志士たちと交わりつつ、なかなか興味深い政治活動を行っていたようです。史料不足のため、五郎兵衛がどのような考えで幕末政局に臨んでいたのか、はっきりわからない部分が多いようですが、その解明に少なからず寄与しそうな資料が、図録『湯浅五郎兵と幕末維新』に掲載されているのです。掲載されている資料の解説は笹部昌利氏と平良聡弘氏が担当されています。

ちなみに、『湯浅五郎兵と幕末維新』には面白いコラムと、「特集史論」と題された論稿が掲載されています。まず、掲載されているコラムは以下の通り。

Ⅰ 辻ミチ子「おんな勤王家-若江薫子の生涯-」
Ⅱ 笹部昌利「「志」の背景-一領具足から土佐勤王党へ-」
Ⅲ 平良聡弘「明治の義挙と敬神党」
Ⅳ 笹部昌利「贈位のゆくえ-ある志士の顕彰運動と近代日本-」

辻ミチ子氏は『女たちの幕末京都』(中公新書、2003年)の著者。Ⅰは湯浅五兵衛とも交流があり、明治天皇の皇后となる寿栄姫の侍読を務めていた若江薫子についてのコラム。Ⅱは武市半平太や吉村寅太郎ら土佐勤王党出身者について。Ⅲは神風連の乱で知られる敬神党について。Ⅳは天誅組に参加していた松本奎堂について。

一方、「特集史論」は3つ掲載されていて、どれも読み応えのある論稿になっています。「特集史論」として掲載されている論稿は以下の通り。

1 青山忠正「草莽の明治維新―志士と攘夷論」
2 笹部昌利「志士と由緒―丹波郷士湯浅五郎兵衛と幕末政治をつなぐもの」
3 平良聡弘「明治初年における志士の政治活動―丹波郷士湯浅五郎兵衛の「御一新」」

青山忠正氏はここで紹介している図録の監修者で、『明治維新と国家形成』(吉川弘文館)などの著書がある幕末政治史研究者です。どの論稿も面白い内容が含まれていて、読んで損はありません。

図録『湯浅五郎兵と幕末維新』は掲載されている史料も、論稿も、どれも面白いので、幕末政治史や、いわゆる「勤王の志士」に興味のある方にオススメしたい図録です。日吉町郷土資料館では通信販売も行っているようなので、購入しやすい図録と言えそうです。

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2007年12月15日 (土)

中津川国学者と薩長同盟

なかなか入手しにくい冊子ですが、中山道歴史資料保存会が発行している『街道の歴史と文化』第5号(2003年)には、宮地正人氏の「中津川国学者と薩長同盟‐薩長盟約新史料の紹介を糸口として‐」という論文が収録されています。

近年、いわゆる薩長同盟をめぐる議論が盛んでした。その議論の発端ともなった論文「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』557号、1986年)を公にしたのは青山忠正氏でしたが、青山氏は薩長同盟を軍事同盟もしくは攻守同盟と呼ぶのは誤りであるとの意見を主張し、それは青山氏の著書『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)でも変わらず主張されています。

そのような研究状況を鑑みつつ、宮地氏は冒頭で紹介した論文において、薩長同盟に関連する新史料を紹介して、薩長同盟をめぐる議論に一石を投じたのです。宮地氏が紹介した史料とは、京都の染物商・池村久兵衛邦則が中津川の平田国学者たちに宛てた書簡(慶応元年12月26日付)。池村の書簡に記されていたのは、大宰府に赴いた後に帰京した水戸藩士が池村に語った内容です。水戸藩士たちは大宰府訪問の後、下関で薩摩藩士・黒田了介(清隆)に会っていて、水戸藩士たちが京都で池村に話した内容は、その黒田から聞いた話。

黒田が語った内容は、西郷隆盛の内意で、以下のような内容。京都で薩摩の兵士が挙兵して、いわゆる一会桑を踏み潰し、それを機に長州藩も挙兵して、幕府軍がその頃まで上方に滞在していれば、一会桑だけでなく幕府軍も攻撃対象となるというもの。黒田は以上の戦略を西郷から聞き、その戦略を相談するため、木戸孝允の上京を促しに下関に来たことを水戸藩士たちに語ったらしいのです。黒田は確かに、京都での薩長首脳会談実現のため、木戸孝允の上京を促しに下関に来ていて、実際に木戸は黒田と一緒に上京することになりますので、池村書簡に書かれた内容もそれなりに信用できそうです。

上記の新史料を紹介しつつ、宮地氏は薩長同盟に軍事同盟の要素が強かったことを主張されているのです。私も、薩長同盟には軍事同盟・攻守同盟の要素があったと思っています。ただし、宮地氏も述べているごとく、軍事同盟・攻守同盟だからと言って、即座にそれを「討幕を目指したもの」と理解することには反対です。

興味のある方は、『街道の歴史と文化』第5号に掲載された宮地氏の論文をお読みください。

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2007年12月12日 (水)

お姫様たちの西南戦争

熊本大学が発行している『文学部論叢(歴史学篇)』第93号(2007年3月)に、三澤純氏の「お姫様たちの西南戦争‐史料の解題と紹介‐」という、史料紹介文が掲載されています。

三澤氏が紹介している史料は、細川護久(熊本藩知事)の3人の娘(数え年で9歳、7歳、6歳)が、西南戦争や阿蘇一揆を避けながら熊本県内各地を疎開していた際の生活記録。熊本大学附属図書館寄託永青文庫細川家文書「明治十年 日誌」の最後尾に綴じ込まれている、「御子様方所々御立退中日記」と題された史料です。

三澤氏は、68日間にわたるお姫様たちの「逃避行」の様子を記した本史料を紹介することで、今まで知られていなかった西南戦争の側面を照射する意義があるという趣旨のことを述べておられます。

三澤純氏の史料紹介は、コチラのHPから閲覧することが可能ですので、興味のある方はご覧になってみてください。

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2007年12月 8日 (土)

明治維新と福岡孝弟

雑誌『土佐史談』第118号(1967年11月)に、平尾道雄氏の「明治維新と福岡孝弟‐小御所の会議と五箇条の誓文について‐」という短い文章が掲載されています。その文章の冒頭で、平尾氏は次のように述べています。

明治の政界で、代表的な土佐人を挙げるならば板垣退助と後藤象二郎、それに日本主義を唱えて政府の欧化政策にまっこうから反対した谷干城を見落とすことはあるまい。ところで、これに劣らぬ実力者福岡孝弟を見送っている人が案外多いのではあるまいか。

福岡孝弟は「福岡孝悌」とも表記される人物で、幕末期の史料には通称の福岡藤次の名前で出てくる人物です。確かに平尾氏が言うように、福岡の名前は世間一般にはあまり知られていないと私も思います。しかし、例えば幕末期においても福岡孝弟は後藤象二郎や坂本龍馬と一緒に大政奉還の実現に向けて活躍した人物なので、軽視することはできません。

また、平尾氏は福岡孝弟について、「明治維新と福岡孝弟‐小御所の会議と五箇条の誓文について‐」の中で以下のようにも言っています。

各種の建議書を見て、その思想や学問がはるかに後藤、板垣以上のものがあったらしいと感じていた

私は幕末の土佐藩、特に慶応3年の大政奉還運動に興味を持っておりますので、福岡孝弟の存在は気にしておきたいところです。ちなみに、平尾道雄氏の「明治維新と福岡孝弟‐小御所の会議と五箇条の誓文について‐」(『土佐史談』118号)は、平尾氏自身の考察よりも、福岡孝弟の回顧録を紹介する部分の比重が大きいです。

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2007年12月 4日 (火)

HP更新情報と、最近の個人的注目書籍

11月に発売された幕末維新史関連書籍のうち、個人的に気になったものをいくつか紹介。

まず、保谷徹『戦争の日本史18 戊辰戦争』(吉川弘文館)。これは、原口清・石井孝・佐々木克・工藤威といった、戊辰戦争についての代表的な研究者の研究を踏まえながら、軍事史の視点から戊辰戦争を考察したものです。

それと、同じく吉川弘文館から刊行された、伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』第3巻も気になっています。

新人物往来社から発売された、鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』と、徳永和喜『天璋院篤姫-徳川家を護った将軍御台所-』も気になるところ。

鈴木氏は日本中世史を主に専門とされているそうですが、横須賀市(晩年のお龍が住んだ土地)からお龍に関する史料の調査を頼まれて、お龍の調査研究に入っていかれたとのこと。徳永氏は『薩摩藩対外交渉史の研究』(九州大学出版会、2005年)という著書をお持ちの研究者です。

そして、『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄-』の著者として知られる研究者・萩原延壽氏の過去の著書をまとめた、『萩原延壽集』(朝日新聞社)の刊行が始まりました。その第1冊目は『馬場辰猪』です。萩原氏の最初の著書『馬場辰猪』(中央公論社、1967年)をベースに、付録に初公表のものを含む数篇の論稿を収録しています。

『萩原延壽集』は全7冊で、毎月1冊ずつ刊行されるそうで、次回は『陸奥宗光』上巻、そしてその次が『陸奥宗光』下巻です。萩原氏の『陸奥宗光』上下巻(朝日新聞社、1997年)をベースにしたものになるようですが、萩原氏の陸奥宗光研究は定評があるので、楽しみです。

以下、HP「幕末維新史を読む」の最近の更新情報。
「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」のページに、以下の3つの文献を追加。

・青山忠正監修『湯浅五郎兵衛と幕末維新』日吉町郷土資料館、2005年
・友田昌宏「幕末政治研究の現状と課題」『歴史評論』第691号、2007年
・保谷徹『戦争を読む18 戊辰戦争』吉川弘文館、2007年

「薩長同盟についての主な研究文献」のページに、以下の文献を追加。

・葦津珍彦「薩長連合の政治史」
『「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ2 永遠の維新者』葦津事務所、2005年

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2007年12月 2日 (日)

津山藩と幕末政局

『佛教大学大学院紀要』第27号(1999年3月)には、笹部昌利氏の「津山藩と幕末政局‐中央政治と『攘夷』への対応の一形態‐」という論文が収録されています。

かつての幕末政治史研究は西南雄藩(特に長州藩)の分析に偏る傾向がありましたが、同時に幕府や朝廷あるいは中小諸藩を分析する必要性が古くから主張されてきました。ここで紹介する笹部氏の論文は、その研究が遅れている中小諸藩の1つである津山藩の、幕末維新期における政治動向を分析した貴重な研究成果です。

津山藩とは現在の岡山県津山市近辺に位置し、元禄11年に越前松平家の松平長矩が入封して以来、10万石(一時的に5万石)の藩でした。津山藩の松平家は、徳川家康の第二子・結城秀康を祖とする越前松平家の嫡流筋の家柄です。

津山藩が一時的に10万石から5万石に減封されたのは、幕府によって禁じられていた末期養子を立てたからですが、文化14年に将軍・徳川家斉の子が津山藩主の養子になる際、10万石に復帰しています。家斉の子が津山藩主の養子になることに関連して、笹部氏は以下のような指摘もしています(赤文字で引用、以下同じ)。

家斉の実子の他家への流入過程については、意外にあきらかにされておらず、詳細な分析を要しよう。なぜなら文化文政期における将軍家斉の子の他家への流入動向が、幕末政治の重層性を規定する一つの要因となってゆくからである。

そして、笹部氏の論文の本題となる、津山藩の政治運動についてですが、活発化するのは文久2年11月頃のようです。笹部氏によれば、「薩摩、長州を初めとする外様藩勢力が京坂地域に滞在して、朝廷との関係を密にし、それに伴い京都において幕府権力が希薄化していく状況へのアンチテーゼとして津山藩の政治運動は企画された」とのことです。

笹部氏によれば、津山藩内には、津山藩独自の政治運動展開を願う藩士もいたものの、藩主・松平慶倫はそれを容れず、あくまで幕府が主体となって攘夷問題を解決していくべきだという考え(独自の明確なビジョンは持たない考え)のもと、朝廷の望む攘夷を行うよう幕府に促すといった程度の運動を展開していたそうです。『津山市史』5巻や『岡山県史』9巻といった先行研究では、「尊王攘夷」の藩是に一決した上で慶倫の上京周旋が行われたとされているものの、それは誤りだと笹部氏は強調しています。

そのため、幕府が横浜鎖港を諸外国と交渉するようになると、慶倫は京都での政治運動の必要性をなくし、さっさと退京してしまいます。そのような津山藩の活動を、笹部氏は「地味」と評した上で、その「地味」な運動を展開した諸藩を研究する意味を、次のように述べています。

何かにつけてダイナミックな側面が強調される幕末期の政治史において、大胆かつ際立った政治運動を展開した藩は明らかに薩長土の外藩勢力、これに付け加えるなら鳥取藩など朝議と密接な関係にあった藩のみであり、いうなればこれらの藩は特殊、かつ少数派である。(中略)薩長両藩が維新変革の主体となったことは否定できない事実であるが、変革には客体つまり「変えられる側」と「変わってゆく」或いは「変わる」勢力が存在する。以後、明治維新研究において考えられるべきは、維新変革において客体となった勢力についてであろう。

私は基本的に、笹部氏が述べている上記の意見に賛成です。もちろん、薩摩藩や長州藩のことについても判明していない問題が色々とあるので、それは今後も研究されて然るべきだと思います。特に薩摩藩は、長州藩に比べると研究が遅れていると思いますし。ただ、笹部氏が言うように、従来の研究では重要視されなかった諸藩の研究が進むことによって、幕末維新史をより深い次元で理解することができるようになるはずです。

笹部昌利氏の論文「津山藩と幕末政局‐中央政治と『攘夷』への対応の一形態‐」(『佛教大学大学院紀要』第27号)は、今から8年前に公にされた論文ですが、新史料の紹介もあり、今まで知られていなかった事実も明らかにされていて、貴重な成果だと感じました。

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2007年11月26日 (月)

文献を探すための本

この記事は、以前に書いた「私の文献探索手段」という記事と関連する内容になります。今回は私の文献探索手段を紹介するのではなく、様々な文献探索手段を解説している書籍を何冊か紹介しようと思っています。

まず紹介する1冊目の本は、この記事のタイトルにもした、斉藤孝・佐野眞・甲斐静子『文献を探すための本』(日本エディタースクール、1989年)。この時期はちょうど、全国の大学4年生の多くが、卒業論文の執筆に四苦八苦している頃だと思いますが、卒業論文を書かなければならない大学生にとっても有意義な内容になっています。

『文献を探すための本』は単純に文献を探す方法を紹介してくれているだけではなく、卒業論文やレポートを書く上での心構え的な部分においても、重要な指摘をしてくれます。ただ、その中で「最近の学生」にとっては耳の痛くなるような話も出てくるかもしれません。例えば、『文献を探すための本』を思い立った理由の1つとして、以下のようなことが「はしがき」に書かれています。

私たちがこの本を思い立ったのは、最近の学生の「活字離れ」の進行に戦慄を覚えるからであります。大学生ともあろうものが、平気で一冊か二冊の、しかも、研究書ではない際物の丸写しをして、しかも著者の名を一言も出さないで、あたかも自分の研究のような顔をして、何とも思わない風潮は、何としても改善しなければという思いがあるのです。

上記引用文で槍玉に挙げられている「最近の学生」の中には、上記のような意見に対して「それの何が悪いの?」と思う人もいるかもしれません。しかし、大学の先生方は、そのような学生に多かれ少なかれ苦労しているものです(少なくとも、私が直接知っている先生方は)。

大学の先生たちも大量の卒業論文を読まなければいけないわけですから、少しでも内容豊かな論文を読みたいですし、自分が授業で面倒を見てきた学生たちの論文やレポートが、それなりに立派に書けている方が嬉しいものです。しかし、「際物」の文献を1冊丸写しして出典も明記しないような卒業論文やレポートを読むことは、いくら仕事とは言え大学の先生方も嫌なはずです。

ともあれ、上記引用文のような切実な想いが込められているからこそ、『文献を探すための本』は文献探しの基本や応用を身に付けるために必要なことを色々と書いています。1989年の出版で少し古いため、データベース検索の方法などについてはあまり触れられていないのは欠点かもしれませんが、それでも有意義なことには変わりありません。今まさに卒業論文を執筆中の学生には今さらでしょうが、これから卒業論文を書くことになるような学生にとっては役立つ本だと思います。

ちなみに、『文献を探すための本』の著者の1人である斉藤孝氏には、『学術論文の技法』新訂版(日本エディタースクール、2005年)という著書もあります。西岡達裕氏との共著です。論文の書き方を知る上で、役に立つ本だと思います。この『学術論文の技法』新訂版には、附録として、「文献をさがすためのオンライン情報」、「文献をさがすための文献一覧」、「専門資料所蔵館一覧」が付いていますので、便利です。

そのほかのものとして、池田祥子『文科系学生のための文献調査ガイド』(青弓社、1995年)を紹介しておきます。全体的な印象としては、『文献を探すための本』よりもさらに、細かく詳細な文献探しの方法を解説してくれているように思います。例えば、各大学が発行している紀要類に掲載された論文の探し方など。

それから、これは歴史学限定の話です。以前の「私の文献探索手段」という記事で、『史学雑誌』の「回顧と展望」について書きましたが、それに関連することで書き忘れたことがあります。それは、1949年から1985年までの「回顧と展望」をまとめた『日本歴史学界の回顧と展望』という書籍の存在です。

『日本歴史学界の回顧と展望』は日本史・西洋史・東洋史の各時代ごとに巻を分けて、1949~1985年までの「回顧と展望」を収録したシリーズです。例えば、『日本歴史学界の回顧と展望』の第8巻は「日本近世1 1949~1971」と題して、1949~1971年までの「回顧と展望」の日本近世史に関わる部分だけ収録しています。このシリーズを活用すれば、少なくとも1985年ごろまでの、歴史関連の重要な研究書・論文の存在を知ることができると思います。

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2007年11月20日 (火)

龍馬の影を生きた男

坂本龍馬ファンならば、近藤長次郎という人物をご存じでしょう。「饅頭屋」という愛称で知られる人物で、上杉宋次郎という名前も使っていました。龍馬と同様に勝海舟に学び、次いで亀山社中に所属して薩摩藩と長州藩の提携に向けて尽力するも、切腹して死んでいった人物です。

彼の切腹について、坂本龍馬の妻だったお龍の回顧談によれば、「おれがおったら殺しはせぬのじゃった」と龍馬が残念がっていたということです。『坂本龍馬全集』所収の「千里駒後日譚」に載っている話で、明治32年にお龍が語った話です。

その近藤長次郎には、15年前に刊行された伝記があります。吉村淑甫『近藤長次郎』(毎日新聞社、1992年)です。「龍馬の影を生きた男」というサブタイトルが付けられています。このサブタイトルは毎日新聞社の編集者の発案だそうですが、長次郎の生涯を的確に評した言葉のように思います。

長次郎は、薩長の提携に向けて、かなりの努力をしていました。その長次郎の活躍について、松岡司『定本 坂本龍馬伝』(新人物往来社、2003年)は、「薩摩への密使は長州藩の浮沈にかかわるまことに重大な役割で、これを長州藩父子から、また社中からまかされた長次郎という人物がいかに大きな存在だったか、この一事でわかる」と評しているほどです(344ページ)。

近年、歴史家の高橋秀直氏が、薩長同盟について衝撃的な新説を発表しました。通説では慶応2年1月とされている薩長同盟の成立日は、それよりも数ヶ月早い、慶応元年9月8日だと主張されたのです。その根拠は、薩摩藩主父子に宛てた長州藩主父子の書簡が慶応元年9月8日で、藩主の名による意思表示だからというものです。

実は、その長州藩主父子の書簡を薩摩藩に届けたのが、「龍馬の影を生きた男」たる近藤長次郎なのです。高橋秀直氏の説が正しければ、近藤長次郎は坂本龍馬以上に、薩長同盟成立の決定的場面において重要な働きをしたということにもなりえます。

ただし、桐野作人氏の高橋説への反論にもあるように、長州藩主父子の書簡が薩長同盟という重要な案件を扱ったものであるのなら、それを浪士である長次郎が使者となって薩摩藩主父子に届けていること自体、問題視すべきだと私も思います。重要であるならば、浪士の長次郎ではなく、正規の長州藩士が使者になるべきだと思います。

いずれにしても、薩長の提携に向けて、近藤長次郎がそれなりに活躍したことは事実だと思います。龍馬の功績ばかりが喧伝されているがために、長次郎が「龍馬の影を生きた男」のように見えるという面もあるような気がします。高橋秀直氏の説を肯定するにせよ否定するにせよ、長次郎の活躍を正当に評価して判断する必要はありそうです。漠然とした今の気持ちですが。

<参考文献>
・桐野作人「薩長同盟研究最新動向‐同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?‐」
(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
・高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)
・松岡司『定本 坂本龍馬伝‐青い航跡‐』(新人物往来社、2003年)
・吉村淑甫『近藤長次郎‐龍馬の影を生きた男‐』(毎日新聞社、1992年)

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2007年11月16日 (金)

幕末政治史研究の現状と課題

先月に刊行された雑誌『歴史評論』第691号(2007年11月号)は、「2007年度歴史学の焦点」という特集を組んでいます。その一環として、友田昌宏氏の「幕末政治史研究の現状と課題」という論稿が掲載されています。

友田氏の論稿は、1980年代以降から最近に至るまでの幕末政治史の研究状況を概観しようと試みたもの。1980年代以降とは言っても、それ以前の研究との関係性もしっかり見据えた上で、1980年代以前と以後の研究では何が変わったのかまで、簡潔ではありますが的確に記しているのが特徴です。

要するに友田氏の論稿は、幕末政治史の研究史を大まかにまとめたものですが、大変手際がよく、重要な論文や主要と思われる研究書を数多く紹介してくれるので、非常に勉強になります。「もっと、この文献も紹介してほしい」とか「この論点にも触れてほしかった」とか感じる部分もありますが、それは紙幅の関係で仕方のないこと。友田氏の論稿は、幕末政治史研究の現状を概略的に知るためには充分すぎるほどの内容を備えていると思います。

個人的に首肯できる指摘も結構多くて、例えば「公武合体」には幕府(将軍)の下に諸侯会議を置こうとする路線(一橋慶喜の路線)と、大名と将軍が対等な関係になる諸侯会議を開こうとする路線(薩摩は次第にこれにシフト→王政復古へ発展する)の2種類があって、それら2つの路線は必ずしも相容れないものではなく、お互いに妥協を重ねながら政局が進展するため、幕末政治史は複雑な推移をたどるという指摘。

それに関連して、前者の慶喜路線の「公武合体」は天皇原理を正統性の根拠とし、後者の薩摩路線「公武合体」は「公議」原理を正統性の根拠としたものの、双方ともに相手が依拠する原理を否定することができなかったため、維新政権はその2つの正統性原理を有しているという指摘。あくまで個人的にですが、このあたりの指摘に共感できる部分も多かったです。

最後に友田氏は幕末政治史研究の課題をいくつか挙げています。例えば、実証が深化したがゆえに、幕末政治史研究者が、維新期以降の時代まで視野に入れて研究する余裕を失っている点。またあるいは、政治史研究が外交史・経済史・文化史などとの連携が欠けている点などです。これらの問題点は友田氏以外の研究者も指摘していることですし、実際そのとおりだと思います。

そこで友田氏は、上記の問題点を解決しつつ幕末維新史を総体的に理解するため、共同研究を積極的に行うことと、多様な立場の人物を研究する人物史を有効に利用することを提唱されています。個人的には同意したい気持ちです。

友田氏は共同研究の方法として、論文集を刊行するにあたって複数の執筆者が何の連携もなくバラバラに個別の論文を書いても、それは論文の寄せ集めにしかならない、だから複数の執筆者が論文執筆前にあらかじめ議論して、論点を整理してから論文執筆に取り組むべきだと主張しています。それができれば、個々の論文の質も向上すると思いますので、私は賛成です。なかなか難しいとは思いますが。

共同研究については、友田氏の論文をお読みになった桐野作人氏も、重要性をブログで指摘しています。特に、近年の研究で発掘が進んで人物像が鮮明になった人物も多いので、新たに網羅的な人名辞典を作れば有益だという指摘です(桐野作人氏のブログのコチラの記事(コメント欄)を参照)。私も同感です。

友田氏の論稿は内容が豊富で重要な指摘も含まれていますが、平易な文章なので読みやすいです。雑誌『歴史評論』は大きな書店に行けば販売しているケースもありますので、幕末政治史に興味のある多くの人にぜひ読んでもらいたいです(研究者に限らず)。

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2007年11月10日 (土)

孝明天皇と岩倉具視

原口清氏と言えば、近年の幕末政治史研究に大きな影響を与えた研究者の1人。『原口清著作集』第2巻も、岩田書院から先月刊行されたばかりです(コチラの記事をご参照ください)。

その原口清著作集・第2巻の『王政復古への道』に収録された論文の1つに、「孝明天皇と岩倉具視」があります。初出は名城大学が発行している『名城商学』第39巻別冊(1990年)です。この論文に影響を受けている研究者は多いと思われますし、幕末の朝廷や岩倉具視を論じる上でも決して無視できない研究成果だと思います。

原口清氏は、孝明天皇の死因について病死説を採用し、毒殺説の石井孝氏と論争したことでも知られている研究者です。論争の決着は付いていませんし、どちらかが絶対に正しいと言い切るには史料も不足しているとは思いますが、幕末政治史研究者にとっては、原口清氏の主張に説得力を感じられた方が多かったようです。例えば、佐々木克氏は原口説の登場までは毒殺論者だったにもかかわらず、原口説の登場後に病死説に転換しているぐらいです。そのため、現在では病死説の方が支持されているのが歴史学界の現状です。

原口清氏の「孝明天皇と岩倉具視」は、孝明天皇毒殺説を主張している研究者が、その黒幕として岩倉具視ないし武力倒幕派の存在を指摘することが多いことから生まれたもののようです。つまり、毒殺論者の多くが、孝明天皇が生きていては武力倒幕ができないから、岩倉や武力倒幕派が天皇を毒殺したのだという説に対して、原口氏は異議を唱えているわけです。原口氏の言い分によれば、孝明天皇死去前後の岩倉に武力倒幕の考えはなく、また朝廷内にも武力倒幕派と呼べるほどの勢力は存在しなかったということになります。

それを論証するために原口氏は、岩倉が幽閉されることになった文久2年の「四姦二嬪」排斥問題にまで遡って、そのときの幽閉人とその後の幽閉人たちに対して、孝明天皇や朝廷首脳部たちがどのような態度で処置にあたっていたのかを解明していきます。その論証によって、孝明天皇の死後に岩倉が赦免されることになったのは、天皇毒殺による成果とか、岩倉の政治的手腕による画策の成果といった説を否定します。

そして、孝明天皇死去前後の岩倉の政見については、次のようなものであったとの指摘がなされています。

当面の具体的な政策としては、武力倒幕でもなく平和的倒幕でもなく、朝廷主導の対外政策を前面におし出すなかで国内一致の体制を樹立すること、幕府の存在は認めながらもその権力は削減し、幕府・薩摩藩・長州藩等の協力のもとで朝廷を実質的にも国家最高意志の決定者とする「王政復古」の実現を目ざしていた

そのため、「岩倉は武力倒幕を目指していた→天皇の存在が邪魔→岩倉が黒幕となって天皇を毒殺」という図式が成り立ち得ないことと原口氏は強調しています。私も原口氏の見解に同感です。

どうしても岩倉を孝明天皇毒殺(それ以外の殺害方法でもいいですが)の黒幕に仕立て上げたければ、「岩倉は武力倒幕を目指していた~」という図式以外の動機を持ち出すしかないでしょうが、ほかの動機で岩倉黒幕説を主張するのは、史料的にもなおさら難しいと思います。むしろ、そこまでして岩倉を疑わなくてもいいと思いますし、むしろ何故そこまでして岩倉を徹底的に疑う必要があるのだろうかという気もします。

ともかく、私は原口氏が述べる、孝明天皇死去前後の岩倉の政見について、特に異論はありません。また、原口氏は、岩倉以外にも、当時の公家にまだ武力倒幕派と呼べる人はいなかったと主張されていますが、これにも同感です。

原口氏は、慶応2年末~慶応3年初頭の頃について、「幕府に対抗し得る最大の強藩であり、岩倉らが最も期待していた薩摩藩でさえも、武力倒幕にはふみきっていない」と言います。かつては、慶応2年1月の薩長同盟を、武力倒幕のための軍事同盟と考える見解が有力でしたが、青山忠正氏の研究以来、そのような考えは否定的になってきています(青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」『歴史学研究』557号、1986年。そのほかの薩長同盟研究の文献については、コチラのHPをご覧ください。)。

現在では、武力倒幕派の成立は、四侯会議の後、すなわち慶応3年5月後半~6月ごろと考える説が有力です。そもそも、武力倒幕派という政治勢力を設定する必要性すらないとする研究者もいて、例えば家近良樹氏は四侯会議後の西郷隆盛や大久保利通といった人物を、「対幕強硬派」と呼んでいます(家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』文春新書、2002年)。また、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)のように、武力倒幕派と呼ばれた勢力も平和的な倒幕に反対していたわけではないという説も、それなりに支持されているように感じます。

いずれにせよ、孝明天皇が死んだ頃の岩倉具視に武力倒幕を推進する気はなく、したがって天皇の存在が武力倒幕の障害だから岩倉の画策によって殺されたと考えることは不可能だとする原口氏の見解に、私も賛成です。

原口氏の論文はせっかく『原口清著作集』の第2巻にも収録されたので、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。それに、ここで紹介した原口氏の論文は後の研究者にも大きな影響を与えていますので、それを読むことで、幕末政治史研究の現状の一端も知ることができるはずです。

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2007年11月 8日 (木)

元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募

今年刊行された『國學院雑誌』第108巻第5号(通巻1201号)に、加藤弘之氏の「元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募」という論文が掲載されています。

幕末の中央政局(幕藩権力)に包摂されていく草莽層集団の実態と、中央政局における草莽層集団のダイナミズムの持続に関する問題を、「一橋徳川家における草莽層集団的性格を持つグループ」を対象として考察した論文です。以下、その内容をごく簡単に紹介していきます。

幕末の一橋家は軍事力が不足していたため、外部から積極的に人材登用を進めました。加藤弘之氏は上記論文で、その一環である関東の有志徴募を大きく取り上げ、「出自・思想・行動等で新撰組のような草莽層集団と近似する性格がみられる」と指摘しています。

一橋家に登用された渋沢栄一と渋沢成一郎は、一橋慶喜をして幕府に攘夷実行させることを目指し、活動します。渋沢両名は、そのために関東での有志徴募を画策しますが、その狙いは単なる農民兵の徴募ではなく、攘夷を目指す同志集団の形成にあったと加藤氏は述べています。政治的な志を持たない農民ではダメだったのです。そして撃剣に優れていることも、渋沢両名が重視したポイントです。

ところが、渋沢両名を支持していた平岡円四郎が暗殺されると、一橋家上層部は有志徴募に消極的な姿勢を示したようです。むしろ、一橋家上層部は一橋家の軍事力を整える上で、渋沢両名が重視していた剣術の腕前や志を持つ者の登用を、制限する方針に出ていたようです。

加藤氏によれば、「上層部が求めたのは、命令が浸透し均質な行動をとれる組織的軍隊であり、そのために農民―銃撃戦に不要な撃剣を身につけておらず、思想的個性もない者たちを徴発しようとした」そうです。そのため、撃剣に優れた関東の有志たちも、結局は銃隊に編成され、農民兵たちと同様の扱いになったそうです。「有志たちの身に付けた武士文化は武芸・思想両面とも顧みられなかったのであり、一橋家という組織のなかで存在意義を失いつつあった」ということが言えそうです。

しかし鳥羽・伏見の戦い後、一橋家の当主であった徳川慶喜が朝敵となったとき、これに敏感に反応して彰義隊を結成したのは、それこそ一橋家の中で存在意義を失っていた関東の有志たちだったと指摘されます。慶喜の冤罪を雪ごうとする自発的な行動です。

関東から徴募された有志たちはそれ以外の人々(例えば一橋家譜代の家臣)に比べて、「有志のダイナミズムは、一度否定されても根強く残っていた」と加藤氏は述べ、そのようなダイナミズムは維新政権側と旧幕府側とを問わず、当時の草莽層にとって普遍的な心性だったのではないかと結論付けられています。

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2007年11月 1日 (木)

定本 坂本龍馬伝―青い航跡

松岡司『定本 坂本龍馬伝―青い航跡』(新人物往来社、2003年)は、雑誌『歴史読本』に連載された文章を1冊にまとめたもので、950ページに及ぶ坂本龍馬の伝記。最新の龍馬研究の動向(もちろん、出版された段階でのもの)も踏まえて叙述された力作です。坂本龍馬に興味のある方なら、とりあえず読んでみて損はない著作だと思います。最近、読み返してみました。

読んでいて共感できたのは、薩長同盟仲介以後の龍馬に関する、以下の記述。おおむね、私の認識と同様で、納得できるものでした。赤文字で引用してみます。

龍馬への幕府の対応は、用兵建白を基本としていたはずである。龍馬は慎太郎とともに薩長同盟を成立させた。新しい日本をつくるための布石で、したがってこのあと生じた薩長路線とか土佐路線とかは問題の本質ではない。しいて言えば、薩長土三藩の協力による新しい日本づくりが最良だった。そしてその最良の策にいちばん近いものが、武力をうしろ盾とした大政奉還建白策だった。いわば薩長路線と土佐路線の中道といえ、これが実現してこそ三藩の協力がなる。
(754ページ)

また、龍馬殺害の近江屋事件の犯人についても、実行犯を見廻組とすることは当然として、見廻組の佐々木只三郎に指令を下した人物のラインを会津藩主・松平容保―手代木直右衛門と想定しているのも、もっとも妥当な判断だと私には思えます。そのほかの説について否定的に述べている次の記述も、納得できるものでした。

 龍馬暗殺についてはこのほか、土佐藩へ身柄をうつされた宮川助五郎の一味といった内紛がらみの見方や、あるいは薩摩のしわざだろうといった情報がないでもない。しかしいずれも第三者的藩の風聞報告にすぎず、とてもそのまま採用はできない。
 数年前に京の井口家が世にだした新海援隊士佐佐木多門の書状が、薩摩黒幕説の史料のように解釈されている。奇妙な見方で、ふつうに読めば犯人探索にたいする薩摩の好意的な処置を述べているとしかとれない。

(869ページ)

そのほか、松岡氏の著書の大きな特徴の1つとして、松岡氏が「あとがき」で述べているように、「執筆にあたっては、まず既存史料集の史料批判に留意してあらためて年次を特定している」(913ページ)ことが挙げられます。『坂本龍馬関係文書』や『坂本龍馬全集』などに収録されている龍馬書簡のうち、いくつかの年次を訂正しています。

ただその際、年次比定の考証を詳しく書かず、『坂本龍馬全集』などの年次が間違っていると述べるだけの部分が少なくないように感じました。もう少し、詳しい考証過程を記してほしかったと思います。また、もう1つ欠点を挙げるとすれば、幕末維新史の最新の研究成果が反映されていないように感じる部分があったことです。

しかし、950ページの力作なので、非常に読み応えがあります。龍馬に関する史実において、あまり知られていないことも掘り起こしているので、龍馬に興味ある方なら興味深く読める著作だと思います。

ちなみに松岡司氏は、高知県佐川町立青山文庫の館長をされている方。そのほかの著書として、『武市半平太伝―月と影と』(新人物往来社)や『中岡慎太郎伝―大輪の回天』(新人物往来社)などがあります。また青山文庫とは、土佐出身の志士で宮内大臣を務めた田中光顕の寄贈コレクションを中心に、多数の幕末維新史関係資料を所蔵・展示している施設です。

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2007年10月27日 (土)

近藤勇の書簡(慶応3年11月11日付)

「新選組検証!」さんのブログ(10/8の記事)に、近藤勇書簡集の出版を切に願う旨の記述があるのを最近読みました。近藤勇書簡集の出版は、もとより私も望んでいることです。何故なら、新選組の研究(新選組をメインテーマに据えたものだけでなく、間接的に言及するものも含む)の質を向上させるためには、近藤勇の書簡はかなり重要だと感じられるからです。

何せ、近藤勇は新選組隊士たちの中でも最も多くの手紙を書き、その手紙も長文のものが多く、政治的に重要な内容も多く含んでいる場合が多いからこそ、重要だと思うのです。おまけに、近藤が郷里・多摩に宛てた手紙の多くは、多摩の有力者たちにも回覧されていたようで、多摩地域の指導者たちの政治意識に、近藤の手紙は大きな影響を及ぼしていた節もあるからです。

「新選組検証!」さんのブログ(10/8の記事)を読んで触発された部分もあるので、インターネット上で読める一通の近藤書簡を紹介しましょう。すでに、宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)に部分的に引用されていた書簡です。慶応3年11月11日付、松本良順宛ての書簡で、東京大学史料編纂所で所蔵している『大日本維新史料稿本』に収録されています。

慶応3年11月と言えば、すでに大政奉還の後です。その頃の近藤は大政奉還以前の幕政に何とか戻そうとして、色々と画策していたと言われることがありますが、松本良順宛ての書簡には、近藤勇の考え方がよく出ていると思います。

書簡を読む方法ですが、まず東京大学史料編纂所のHPに飛んでください。そこから、「データベース検索」のページに行き、さらに「データベース検索」ページの一番下に書かれた「データベース選択画面」をクリックします。

「データベース選択画面」にたどり着いたら、「維新史料綱要DB」をクリックします。するとキーワード検索の画面に移りますので、「近藤勇」をキーワードにして検索し、「慶応3年11月11日」と記された「No.12」の「詳細」をクリックします。そして、移動先の画面で「イメージ」をクリック。

そして、小さい画面が開きますので、左側の「0884.tif」、「0885.tif」、「0886.tif」あたりをクリックしてみてください。近藤勇の書簡が表示されます。クリックすると、「ファイルのダウンロード」表示が出ますが、「開く」をクリックすれば近藤の書簡が表示されます。

興味がある上に、上記の書簡をまだ読んだことがない方は、ぜひお試しください。

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2007年10月24日 (水)

HP「幕末維新史を読む」 最近の更新情報

最近、HP「幕末維新史を読む」を更新しました。「幕末維新史の中で新選組を考えるための文献」のページに、以下の文献を追加したのです。

・家近良樹『幕末の朝廷‐若き孝明帝と鷹司関白‐』中公叢書、2007年
・石井良助『天皇‐天皇の生成および不親政の伝統‐』山川出版社、1982年
・大江志乃夫『徳川慶喜評伝立風書房、1998年
・正親町季董『明治維新の先駆者天忠組中山忠光』第一書房、1941年

・大口勇次郎「文久期の幕府財政」家近良樹編『幕政改革』吉川弘文館、2001年

・勝田政治『〈政事家〉大久保利通‐近代日本の設計者‐』講談社選書メチエ、2003年
・くにたち郷土文化館編『幕末から自由の権へ‐本田家の人々が見た時代‐』くにたち文化・スポーツ振興財団、2006年
・久保田辰彦『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』大阪毎日新聞社、1931年(改訂版、大阪毎日新聞社、1941年)
・白石良夫『幕末のインテリジェンス‐江戸留守居役日記を読む‐』新潮文庫、2007年
・杉谷昭「『京都守護職始末』にみる元治・慶応」『純心人文研究』第13号、長崎純心大学、2007年
・瀬尾謙一編『元見廻組肝煎渡辺篤略年表』私家版、1977年
・瀬尾謙一『撓のひびき』神修館、1982年

・中田早智子「京都守護の基礎的考察」『聖心女子大学大学院論集』第26巻第1号(通号26号)、2004年
・中村春作『江戸儒教と近代の「知」』ぺりかん社、2002年
・中村武生「幕末の動乱をみた道-上街道と天誅組の乱・冷泉為恭暗殺-」天理大学文学部編『山辺の歴史と文化-天理大学創立八十周年記念-』奈良新聞社、2006年
・新田美香「幕末期の農兵組織‐会津藩預所を例として‐」『人間文化論叢』第1号、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科、1998年
・新田美香「京都守護職に対する幕府の財政援助」『お茶の水史学』第45号、2001年

・平尾道雄『吉村虎太郎-天誅組烈士-』大道書房、1941年(土佐史談会、1988年)
・町田明広「幕末中央政局における朔平門外の変-その背景と影響について-」『日本歴史』第713号、2007年
・毛利敏彦『明治維新の再発見』吉川弘文館、1993年
・望月始『告白の告発‐祖父の戊辰戦争体験記に託して‐』三和書房、1974年
・由井正臣編著『幕末維新期の情報活動と政治構想‐宮島誠一郎研究‐』梓出版社、2004年
・吉見良三『天誅組紀行』人文書院、1993年

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2007年10月19日 (金)

『幕末の朝廷』ほか

最近発売された幕末維新史関係の書籍の中で、個人的にもっとも注目しているのが、家近良樹『幕末の朝廷‐若き孝明帝と鷹司関白‐』(中公叢書)。まだちゃんと読んでいないので、詳しい内容を語ることはできませんが、『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)という著書をお持ちの家近良樹氏が、安政期以前の孝明天皇に着目したもの。

『孝明天皇と「一会桑」』では、文久~慶応の政治史が詳しく語られ、そこでの孝明天皇の意義についても論じられていますが、そのときの家近氏には、安政以前の孝明天皇に関する知識と関心が欠如していたとの事。しかしながら、家近氏は歴史を長いスパンで考察すべきとのお考えをお持ちのようでして、そのため孝明天皇についての知識・関心を欠如させていた以前の自分を反省し、今回の著書の執筆となったようです。

家近良樹『幕末の朝廷』は、藤田覚氏『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年)や井上勝生『幕末維新政治史の研究』(塙書房、1994年)、あるいは石井良助『天皇』(山川出版社、1982年)などの先行研究を踏まえて、安政期以前を中心に孝明天皇像の再検討に挑んでいます。

それから、萩原延壽氏の『遠い崖‐アーネスト・サトウ日記抄‐』全14巻(朝日新聞社)の文庫化が始まったようで、今のところ第1巻『旅立ち』と第2巻『薩英戦争』が朝日文庫から出ています。今までの単行本版『遠い崖』は、1冊2,400~2,800円ほどでしたから、文庫化されて1,000円前後の金額で買えるようになったのはお得だと思います。

それから、過去の記事でも話題にした白石良夫『最後の江戸留守居役』(ちくま新書)が、『幕末のインテリジェンス‐江戸留守居役日記を読む‐』と改題されて、新潮文庫の1冊として刊行されています。

そして、講談社学術文庫の1冊として、大久保利謙『明六社』が刊行されました。

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2007年10月15日 (月)

『長州戦争と徳川将軍』の書評いろいろ

久住真也氏の著書『長州戦争と徳川将軍‐幕末期畿内の政治空間‐』(岩田書院)が刊行されて、もう2年になります。幕末政治史において、西南雄藩に比べて幕府勢力の研究が遅れていることは従来から指摘されていますが、久住氏の著書は、その幕府勢力の動向を詳しく分析した、貴重な研究書です。幕末政治史研究において、重要な研究だと言えるでしょう。

その久住氏の著書も刊行されて2年経つということで、学術誌にも書評がいくつか掲載されています。私が現段階で知っている最新の書評は、家近良樹氏が書いたもので、『歴史評論』第689号(今年9月号)に掲載されています。

家近氏は久住氏の著書の長所として、遅れている幕府勢力の研究として価値がある点、先行研究を的確に把握・批判している点、研究書とは思えぬほど明快な叙述になっている点、多くの史料が紹介されている点などなどを挙げ、高い評価を与えています。

一方で、久住氏の論が原口清氏の影響を強く受けている点(久住氏自身も著書の中で自ら述べていることです)が家近氏は気になったと述べた上で、率直な感想として、まるで原口清氏が書いた本であるかのように感じたとも述べています。家近氏は、原口清氏がもっと若ければ、久住氏の著書と同じようなものを書いたのではないかと感じたほどだそうです。そのような率直な感想は、久住氏のさらなる研究に期待して、あえて記したそうです。

久住氏は『長州戦争と徳川将軍』の冒頭で、一会桑権力の研究史を詳しく紹介していますが、家近氏は一会桑の分析で有名な研究者ですので、それだけに家近氏の書評は面白かったです。

そのほか、家近氏と同じく一会桑を分析した論文がある白石烈氏も、久住真也『長州戦争と徳川将軍』の書評を書いています。『関東近世史研究』第62号(今年7月号)に掲載されているものです。白石氏は久住氏の著書を、「何といってもその緻密な政局分析の量の多さには驚かされる」とまで述べて、高く評価しています。

白石烈氏の書評は、幕末史の最新の研究成果を必要に応じて紹介しながら進展し、文章量も多いので、結構読み応えがあります。例えば、後藤致人氏の「孝明新政府」論や、ジョン・ブリーン氏の「孝明政権」論を紹介しながら、書評が展開されているのです。

家近良樹氏の書評(『歴史評論』689号)と白石烈氏の書評(『関東近世史研究』62号)のほかには、以下の書評があります。

・星野尚文氏の書評…『地方史研究』第322号(2006年8月号)に掲載
・奈良勝司氏の書評…『日本史研究』第536号(2007年4月号)に掲載

ちなみに、白石烈氏の書評と星野尚文氏の書評は、岩田書院のホームページで読むことができます。

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2007年10月 9日 (火)

幕末中央政局における朔平門外の変

先月下旬に刊行された、雑誌『日本歴史』第713号(2007年10月号)に、町田明広氏の「幕末中央政局における朔平門外の変-その背景と影響について-」という論文が掲載されています。朔平門外の変とは、文久3年5月20日に起きた、姉小路公知の暗殺事件のことです。

その朔平門外の変について詳しく分析したのが、町田明広氏の最新論文。従来の幕末維新史研究では、朔平門外の変は単なる暗殺劇の1つであるかのように扱われ、簡単な事件経過のみが紹介され、犯人推理が行われる程度の言及しかされていなかったようです。しかし、町田氏は朔平門外の変が後の政局推移に与えた影響は甚大だと言います。

そもそも朔平門外の変は、度重なる天誅の中で唯一、堂上公家が殺された事件であったため、当時の朝廷をかなり動揺させました。そして、一連の天誅の多くは「即今破約攘夷派」(後に8・18政変で追放されるグループが中心)に属する人間によって起こされたものであるにもかかわらず、朔平門外の変で殺された姉小路公知は「即今破約攘夷派」の首領だったという点で、かなり特異な事件でもあります。

町田氏は朔平門外の変を、「その影響力から見て、江戸・武家側で起こった桜田門外の変と対称をなす中央・公家側における最大の謀略事件」と評価しています。

事件の実行犯として捕まったのは、薩摩藩の田中新兵衛でした。町田氏はとりあえず、史料を見ていく限り、田中が犯人であることは否定できない旨を述べています。ただ、実行犯は田中のほかに2人いたということなので、その2人は滋野井公寿と西四辻公業の家臣と推理しています。

詳しくは町田氏の論文をお読みいただきたいのですが、事件後の同日に、滋野井・西四辻の家臣2名の出奔と、滋野井・西四辻両名の禁足申渡、薩摩藩の九門出入り解禁(田中が犯人と目されたことで、薩摩藩士の九門出入りは禁止されていました)が一気に発生したことを、「一連の流れで捉えない方が不自然であろう」と述べています。

田中新兵衛は土佐勤王党の武市瑞山らと親しく、また滋野井公寿・西四辻公業の両公は「即今破約攘夷派」の一員です。そのため、町田氏の犯人推理が正しければ、「即今破約攘夷派」が自分たちの首領を殺害したということになります。その理由としては、従来から言われていることですが、姉小路公知が勝海舟の影響を受けて通商条約容認に傾いてきていたことが挙げられます。町田氏も当時の勝海舟や姉小路公知の言動を詳しく分析した上で、従来から言われていた暗殺理由を首肯しています。

朔平門外の変の実行犯が薩摩藩の田中新兵衛と目されたことで、薩摩藩は朝敵にもなりかねない窮地に陥ったと町田氏は述べています。実際、事件の後に薩摩藩の乾門警備が免じられ、先述したように薩摩藩士の九門出入りが禁止されてしまいました。町田氏の言葉を借りれば、「薩摩藩にとっては事実上、表立った政治的活動の禁止を意味する最悪の展開」です。

さらに、事件の首謀者として中川宮朝彦親王も「即今破約攘夷派」に疑われます。薩摩藩と同様に、「攘夷慎重派」に属する人物です。そのため、宮は自ら攘夷先鋒を申し出るなど、「即今破約攘夷派」に迎合する姿勢を示します。しかし町田氏によれば、あくまで迎合する姿勢を示すことが目的の保身行動で、本心から「即今破約攘夷派」に鞍替えしたわけではないようです。

そのような状況を「即今破約攘夷派」は巧みに利用して、中川宮は西国鎮撫大将軍に任じられます。町田氏によれば、攘夷行動に消極的であるがゆえに隣国の長州藩と対立している小倉藩を征伐する総帥にあたるそうです。「攘夷慎重派」の宮にとっては受け入れがたい任務ですが、宮が断れば、いよいよ孝明天皇自身が攘夷親征に赴かねばならないとのことで、宮は絶体絶命の状況を迎えます。

「即今破約攘夷派」は薩摩藩の田中新兵衛や中川宮が犯人として疑われた朔平門外の変を利用して、薩摩藩の権威を失墜させ、中川宮を攘夷実行に向かわせるなど、「攘夷実行慎重派」を追い詰めていったということになります。町田氏は、それゆえに薩摩藩や中川宮が8月18日の政変を断行するに至ったと結論づけています。

つまり、町田明広氏は朔平門外の変を、一連の天誅のうちの一事件として扱うのではなく、8月18日政変が起きるまでの中央政局の動向に、甚大な影響を与えた最も重要な事件として捉えたのです。

その論旨には個人的に納得できる部分が多く、またここで紹介した以外にも、興味深い論点が多数提示されております。幕末政治史に興味のある方には、必読の論文だと思います。『日本歴史』713号(今年10月号)に掲載された、町田明広氏「幕末中央政局における朔平門外の変-その背景と影響について-」です。

関連記事
文久3年8月18日政変についての最新の研究
長州藩・小倉藩の確執と、朝陽丸事件

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2007年10月 5日 (金)

王政復古への道―原口清著作集

近年の幕末維新政治史研究に多大な影響を与えた歴史家・原口清氏の論文をまとめた、『原口清著作集』の第2巻が、岩田書院から今月あたりに発売されるようです。価格は税込8,295円。

第2巻のタイトルは『王政復古への道』です。元治元年から慶応3年あたりまでを記述した論文が収録されるとのこと。主な収録論文は以下の赤文字部分の通りです。

・禁門の変の一考察
・孝明天皇と岩倉具視
・孝明天皇の死因について
・医学と歴史学
・慶応三年前半期の政治情勢
・明治太政官制成立の政治的背景
・王政復古小考
・王政復古と摂関体制小考
・明治維新研究と私

また、解説を歴史家の家近良樹氏が担当されています。家近氏はご自身の著書『徳川慶喜』(吉川弘文館、2004年)の「あとがき」で、原口氏の研究成果に影響を受けた旨を語っておられる研究者です。

第1巻を紹介した際にも述べましたが、原口氏の重要な論文は『名城商学』など、入手が難しく、またコピーするのも楽ではない冊子に掲載されているものが多かったため、それが一般書店でも販売される1冊の本に集約されるだけでも、貴重な成果だと思います。

幕末維新史の学術研究に興味のある方ならば、読んでみて損はない本だと思います。むしろ、原口清氏の名前を知らない方にも、原口氏の研究成果を知ってもらえればと思います。

主な関連記事
幕末中央政局の動向―原口清著作集
池田屋事件についての原口清氏の提起
孝明天皇は毒殺されたのか

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2007年10月 1日 (月)

田中光顕関係文書

法政大学図書館には、「田中光顕関係文書」なる史料が保管されています。田中光顕とは、天保14年(1843年)に土佐藩に生まれ、幕末期の志士としての活動を経た後、明治政府に出仕し、宮内大臣を務めた経歴を持つ人物です。没年は昭和14年(1939年)。

「田中光顕関係文書」は合計80の巻子本からなり、各巻には木戸孝允・伊藤博文・山県有朋の3名が田中に宛てて発信した書簡が貼り込んであるそうです。つまり、田中が交流していた政治家たちからの重要な政治情報が記された史料と言えるわけで、明治以後の日本近代史の研究に有益だと思われます。

この「田中光顕関係文書」が、『法政大学文学部紀要』に安岡昭男氏・長井純市氏の名前で翻刻・紹介されています。今のところ、「田中光顕関係文書紹介」として3回にわたって、『法政大学文学部紀要』第52~54号(2005~2007年)に掲載されています。

「田中光顕関係文書紹介(一)」(『法政大学文学部紀要』第52号)では、木戸孝允の書簡2通と伊藤博文の書簡31通が紹介されています。

「田中光顕関係文書紹介(二)」(『法政大学文学部紀要』第53号)で紹介されているのは、伊藤博文の書簡17通と山県有朋の書簡18通です。

「田中光顕関係文書紹介(三)」(『法政大学文学部紀要』第54号)には、山県有朋書簡33通が紹介されています。

特に、1回目と2回目の分(『法政大学文学部紀要』第52・53号)については、すでに国立情報学研究所の「CiNii(NII論文情報ナビゲータ)」を使って、インターネット上で閲覧が可能です。下記のリンクをクリックすれば、閲覧できる直前のページに飛びますので、興味のある方は、飛んだページの右上の方にある「CiNii PDF」という書かれたボタンをクリックしてください。PDFが開きます。

安岡昭男・長井純市「田中光顕関係文書紹介(一)」(『法政大学文学部紀要』第52号)

安岡昭男・長井純市「田中光顕関係文書紹介(二)」(『法政大学文学部紀要』第53号)

まだネット上では閲覧できない3回目の分も、いずれネット上で閲覧できるようになるはずです。また、「田中光顕関係文書」は今後も『法政大学文学部紀要』で紹介されていくものと思われます。

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2007年9月25日 (火)

「幕末維新史を読む」 更新

HP「幕末維新史を読む」を更新しました。

まず、「薩長同盟についての主な研究文献」を公開しました。青山忠正氏や芳即正氏、あるいは三宅紹宣氏や宮地正人氏など、薩長同盟(あるいは薩長盟約)に関する研究文献の中で主要と思われる研究者の著書・論文はしっかり掲載しております。主要とは言えそうにないものでも、薩長同盟を大きく取り上げているものは、なるべく掲載しています。

それから、「中岡慎太郎についての主な研究文献」のページにも、文献を2つほど追加しました。井上清氏の「戦闘的民族主義者中岡慎太郎」(『歴史と人物』1978年4月号)と、寺尾五郎『薩長連合の舞台裏』(復刻版『中岡慎太郎と坂本竜馬』)の2つです。

興味のある方は、ご覧になってみてください。

HP「幕末維新史を読む」

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2007年9月21日 (金)

幕末維新期の農民日記と新選組

赤報隊をはじめとして、草莽諸隊や草莽の志士の研究で著名な維新史研究者・高木俊輔氏は、近年は農民が書き記した日記を研究素材にして、幕末維新期の農民生活史を描くことに取り組んでおられます。

例えば昨年に限って言えば、高木氏は、「幕末維新期農民日記にみる地域情報‐『大黒屋日記』の諸家関係記事について ‐」(『立正大学文学部論叢』123号)という、農民日記を研究素材にした論文を発表しています。

近年の高木氏はそのほかにも、色々な農民日記を研究素材にしています。その1つに、「富沢家日記」の分析があります。富沢家は武蔵野国多摩郡連光寺村において、名主を務めていた家です。

「富沢家日記」は天保14(1843)年から明治41(1908)年までの分が現存していて、国文学研究資料館に所蔵されています(閲覧可能です)。そのうち、安政7(1860)年~明治2(1869)年の分は翻刻されて、国文学研究資料館史料館編『史料叢書5 農民の日記』(名著出版、2001年)として刊行されています。その解説を書いているのが、高木俊輔氏です。

また、高木氏にはほかに、「幕末維新期の日記史料研究‐武蔵野国多摩郡連光寺村『富沢家日記』の場合‐」(『立正大学文学部研究紀要』20号、2004年)という論文もあります。タイトルどおり、「富沢家日記」を研究素材にした論文で、「在地に生きた、ごく普通の、どこの村でも見かけたような農民の手になる日記から、民衆生活史を組み立てること」を目的に書かれたものです(色文字部分は高木氏の論文からの引用)。

高木氏は同論文で、多摩地方の農民の手になる日記はたくさん現存していることを指摘し、2004年時点ですでに活字化されている多摩地方の農民日記22点を、表にまとめてくれています(例えば『小島日記』や比留間七十郎の日記など)。多摩地方の農民日記に興味のある人には、とても便利です。

これは私の興味関心によるところが大きいのですが、高木氏が取り上げた「富沢家日記」ほか多摩地方の日記は、新選組を知る上でも役立つものが多いはずです。高木氏も、「幕末期多摩地方の動向としては、新選組関係の情報を欠落させる訳にはいかない」と指摘しています。

もちろん「富沢家日記」にも、新選組情報は登場します。例えば、慶応4年3月6日条には、「新選組近藤勢、甲州警固に差向候処、間に合兼、途中に罷在候由」と記されています。

「富沢家日記」には新選組以外にも、戊辰戦争時の彰義隊の動向などが記されています。新選組や戊辰戦争に興味がある方には、「富沢家日記」をはじめとした多摩地方の農民日記が、有意義な情報を提供してくれそうです。

そのような「富沢家日記」や、そのほか幕末維新期の農民日記を研究している研究者として、高木俊輔氏がいるということを改めて紹介しておきます。著書として刊行されている研究成果には、『「夜明け前の世界」‐「大黒屋日記」を読む‐』(平凡社、1998年)があります。

ちなみに、国立情報学研究所(CiNii)のコチラのページから、高木氏の論文「幕末維新期の日記史料研究‐武蔵野国多摩郡連光寺村『富沢家日記』の場合‐」がPDFで閲覧可能です。興味のある方はご参照ください。

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2007年9月15日 (土)

HP「幕末維新史を読む」 更新

HP「幕末維新史を読む」を更新しました。更新内容は以下の通りです。

「文久3年8月18日の政変についての主な研究文献」に、論文を1点追加。

「中岡慎太郎についての主な研究文献」を公開。

「草莽の志士・城多董についての主な研究文献」を公開。

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2007年9月12日 (水)

長州藩・小倉藩の確執と、朝陽丸事件

以前、「文久3年8月18日政変についての最新の研究」という記事で、町田明広「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について-八月十八日政変を中心に-」(『日本史研究』539号、2007年)という論文を紹介しました。8月18日の政変は言うまでもなく、幕末中央政局の重要事件です。

上記論文の執筆者である町田明広氏は、8月18日政変に至る当時の中央政局に大きな影響を与えたものとして、政令二途をめぐる長州藩と小倉藩の確執の問題を重視します。そして、その確執が原因となって発生した朝陽丸事件も含めて、長州藩と小倉藩の確執から生じる諸問題は、中央政局の最重要案件だと町田氏は主張されているのです。町田氏はその意見を、次の2つの論文にまとめています。

・町田明広「幕末長州藩における朝陽丸事件について」『山口県地方史研究』92号、2004年
・町田明広「政令二途をめぐる長州藩と小倉藩の確執について」『山口県地方史研究』94号、2005年

町田氏の論文を参考にして、まずは政令二途をめぐる長州藩と小倉藩の確執について、ごくごく簡単に概略を紹介してみましょう。詳しいことを知りたい方は、町田氏の論文を参照するようにしてください。

文久3年前半の朝廷は、即時攘夷を主張する三条実美らに主導されていました。そのため、幕府は将軍・徳川家茂が上洛した上で、5月10日を攘夷期限とすることを朝廷に約束させられました。

ところが、攘夷についての幕府の認識は「襲来打払」で、朝廷の認識は「無二念打払」だったというのが、町田氏の論文で指摘されていることです。そのため、攘夷に対する幕府の命令と朝廷の命令に違いが出てくるわけで、それが「政令二途」ということになります。

長州藩は朝廷の命令を重視して「無二念打払」の方針で外国船を砲撃しますが、譜代藩である小倉藩は幕府の命令を重視して、長州藩に協力しません。海を挟んで隣同士である長州藩と小倉藩は、攘夷についての政令二途をめぐって対立してしまうわけです。結果として、奇兵隊による小倉藩領武力占拠という事態を発生させます。

この長州藩と小倉藩の対立は、単なる局地的な争いにとどまらず、中央政局に大きな影響を与えます。町田氏によれば、長州藩・小倉藩がそれぞれ朝廷と幕府の異なる命令に従っていて、あたかも朝廷と幕府の代理戦争のような様相を示していたからです。特に、8月18日政変への直接の影響については、町田氏によって以下のような指摘がなされています。

そこ(長州藩と小倉藩の確執-管理人注)から派生した諸問題は、「無二念打払」の無謀さを共通の認識としていた孝明天皇、中川宮、攘夷実行慎重派公家、また京都守護職や九州諸藩に衝撃を与え、幕令への帰一による事態打開策としての八月十八日政変へと向かわせた。特に政変の主体となった京都守護職松平容保への小倉藩からの度重なる懇請や情報伝播は、会津藩の政変への決断においては看過できない影響を持ち得た。
(町田明広「政令二途をめぐる長州藩と小倉藩の確執について」『山口県地方史研究』第94号、63ページ)

そして、小倉藩の要請を受けた幕府は、幕府の命令に背く外国船砲撃を行ったこと、および小倉藩への不法の行いを糺すため、糾問使を長州に派遣することになります。その糾問使が乗っていた船が、朝陽丸というわけです。

しかし、朝陽丸に小倉藩士が乗船していたことや、糾問書を将軍の直書と偽ったことなどが長州藩側を刺激し、奇兵隊による朝陽丸武力占拠という状況を出現させ、また糾問使として派遣された使番・中根一之丞が殺害されるという事態にも至ります。朝陽丸事件とは、この中根の派遣から殺害に至る一連の経過です。

朝陽丸事件を本格的に分析したのは、恐らく町田明広氏が初めてでしょう。町田氏は朝陽丸事件について、「朝陽丸事件は幕末長州藩史における対幕府戦につながる直接的起点と位置付けられ、また、藩内抗争の火種となった。その重要性は正当に評価されるべきである」と結論づけています。また、町田氏によれば、反幕的な方針を主導しているのは奇兵隊など長州藩内の一部であって、藩の上層部が過激な反幕的方針を主導しているわけではないとのことです。

そのため、8月18日政変の後、長州藩は幕府との関係改善を模索します。その任務に尽力していた吉田稔麿が、不幸にも池田屋事件で命を落とすことになります。ただし、新選組が池田屋に踏み込んだとき、吉田稔麿は池田屋にいなかったことを、町田明広氏は実証しています。それについては、町田明広氏の別の論文、「池田屋事変における吉田稔麿について」(『霊山歴史館紀要』16号、2003年)に詳しいです。

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2007年9月 7日 (金)

幕末維新期の山科郷士と「勤王思想」

雑誌『日本歴史』第654号(2002年11月)に、谷口真康氏の「幕末維新期の山科郷士と『勤王思想』」という論文が掲載されています。幕末維新期における民衆の「勤王」思想について、山城国宇治郡山科郷の特権的農民である「山科郷士」たちが結成した草莽隊・山科隊を手がかりに検討した論文です。

まず谷口氏は、草莽隊を以下の3種類に分類しています。簡単に紹介します。

A:「浪士組織型草莽隊」…藩権力や地域共同体から距離を置き、「勤王」の浪士を中心に結成された寄せ集め部隊。相楽総三の赤報隊が代表格。

B:「地域共同体型草莽隊」…ある地域共同体に属する人々が、自分たちの利益保全と地域防備を目的に結成した、地縁的要素の強い草莽隊。山科隊はここに分類される。

C:「藩権力型草莽隊」…各藩が民衆を取り込んで組織した非正規軍部隊。長州藩の奇兵隊が代表格。

従来の草莽隊研究は、高木俊輔氏の研究に代表されるように、谷口氏が言うところのAタイプの分析に力が注がれてきました。谷口氏曰く、民衆の世直し願望が「勤王」思想にストレートに結び付けられた草莽隊像が描かれてきたとのことです。

その後、Bタイプの分析も進みました。その研究成果によると、Bタイプ草莽隊は必ずしも民衆の世直し願望を汲むものではなく、むしろ村落への利益誘導・地域安定のための活動に終始する傾向があったと指摘されているようです。

そのBタイプ草莽隊分析において、民衆の「勤王」思想が全面的に地域の利益誘導に結びついていたような捉え方がされていることに、谷口氏は異議を唱えます。そして、「草莽隊の中で『勤王』という理念と『地域利益』という現実がいかなる構造で結びついていたかを明らかにする」必要があると主張しているのです。

そして、その検討のために谷口氏が考察対象にしたのが、山城国宇治郡山科郷でした。谷口氏によれば山科郷は近世以来、禁裏御料となっていて、山科郷の人々は伝統的に宮中儀礼に関わる機会も多く、天皇を比較的身近に感じていたという特徴があります。

そのため、山科郷士たちが作ったBタイプ草莽隊は、「禁裏御料の民」特有の「勤王」思想を背景に結成されたというのも事実のようです。彼らの「勤王」思想と「地域利益」目的が、どのように整合的に結び付けられていたのか、それを谷口氏は詳しく考察しています。

山科郷は禁裏御料でしたが、幕府の代官が治めていました。いわば朝幕二重支配ですが、それは山科郷士たちにとって矛盾・対立するものではなく、代官を通じて独自の「勤王」活動を行っていました。

幕末期の山科郷士たちは貧富差の拡大によって、一般農民の村政参加要求などの事態に直面し、自分たちの村落支配を維持する必要に迫られました。身分秩序の解体を防ごうとしたのです。そのため、代官とは別のパイプを朝廷に作り、「勤王」活動を拡大していきました。

彼らが「勤王」活動を拡大したことには理由があります。山科郷士たちが宮中儀礼に参加するとき、一般農民を率いて奉仕することが決められていたため、山科郷士のリーダーシップを示すことができるというのが理由の第1点。そして、禁裏関係の奉仕活動に参加すれば、金品が下賜されるなどの経済的利益があったからです。そのような利益は「山科郷士」としての由緒に基づくということで、一般農民の動きを沈静化させる効果があったのです。

要するに、山科郷士たちにとって、「勤王」思想と「地域利益」は密接不可分のものだったわけで、山科郷士としての存在を維持するためにはどちらも不可欠だったということになります。そのため山科郷士たちは、大政奉還の際には岩倉具視に接近し、その指示によって山科隊を結成して戊辰戦争に参加します。彼らは「勤王」活動を続けていく必要があったからです。

幕末維新期の山科郷士について、もっと詳しいことは谷口真康氏の「幕末維新期の山科郷士と『勤王思想』」(『日本歴史』654号)に書かれています。山科郷士に興味のある方は、ぜひ谷口氏の論文をお読みください。

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2007年9月 3日 (月)

最後の江戸留守居役

明治の文人に、依田学海という人物がいます。森鴎外の少年時代における漢文の師匠で、演劇改良運動にも関わっていました。一方で、その学海には、明治の文学者としての動向とは別の顔があります。学海は幕末期に佐倉藩の江戸留守居役を務め、王政復古政変の後、徳川慶喜助命嘆願運動を推進していたのです。また、明治政府の公議人を務めていた時期もあります。

国文学者の白石良夫氏は、国文学研究者がほとんど言及しない、佐倉藩江戸留守居役時代(慶応3~4年)の依田学海の動向に興味を持ち、『最後の江戸留守居役』(ちくま新書、1996年)という著書にまとめています。幕末期の留守居役の仕事内容や、大政奉還の知らせを江戸で受けた親藩・譜代の藩士たちの空気が、コンパクトに叙述されています。

白石良夫氏が『最後の江戸留守居役』を執筆するにあたって、もっとも活用した史料が『学海日録』。学海の日記で、活字化されたものが岩波書店から刊行されています。『学海日録』は非常に分量が多く、活字化されたものは1冊平均400ページで全11冊(ほかに索引が1冊)。

分量が多いだけではなく、『学海日録』原本には漢文や漢詩が多用され、判読が困難な崩し字も多く、活字化には総勢24人の研究者が関わったそうです。白石氏も活字化に尽力した研究者の1人です。『学海日録』刊行の詳しい事情は、『最後の江戸留守居役』の巻末に記載されています。

『最後の江戸留守居役』を読んでいて色々と興味深いことは多かったのですが、大政奉還の前後は特に面白かったです。江戸にいた学海が大政奉還に関する第一報を受けたのは、慶応3年10月20日の早朝。しかし、学海が詳しい情報を得たのは、もともと飲む約束をしていた画家の家だったとのこと。その時点で、すでに松代藩や郡山藩の江戸藩邸は対応策を決めていたとのこと。

どうも、佐倉藩の江戸藩邸は他藩に後れて京都の政治情報を知ることが多かったようです。その理由としては、佐倉藩の京都における情報組織が他藩に比べて貧弱だったことが原因のようです。京都には藩邸も置いていなかったようですし。京都の政治情報がどのように江戸に伝わっているのかという点で、興味深く感じました。

また、大政奉還の前後、学海はかなり積極的に佐幕的意見を主張していたようです。以前、「王臣と陪臣と」という記事で紹介した、紀州藩の竹内孫介(武内孫介)とも親しくしていたようですし。白石良夫氏は、慶応3年末の庄内藩による薩摩藩江戸藩邸の焼き討ち事件に、佐倉藩も関与していた可能性を指摘しています。

ところで、依田学海は成島柳北や西村茂樹、あるいは加藤弘之といった人物たちと近い世代に属する人物です。幕臣や徳川譜代藩出身者として、薩長に敵対する意見を持っていて、明治には知識人として活躍していた点にも共通性があります。その依田学海が残した『学海日録』は、佐倉藩江戸留守居役・依田学海を通じた「敗者の維新史」でもあります。

ご興味のある方は、岩波書店から刊行されている『学海日録』か、もしくは『学海日録』を活用して慶応3~4年の依田学海を描いた『最後の江戸留守居役』をお読みください。

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2007年8月31日 (金)

近世の天皇・朝廷研究 第1回大会

9/22(土)と9/23(日)の2日間にわたって、学習院大学で「近世の天皇・朝廷研究 第1回大会」という催しが行われるそうです。1日目には、『天皇制の政治史的研究』(校倉書房)などの著書がある宮地正人氏の記念講演もあります。

事前申し込み不要で参加費500円で、22日に行われる懇親会の参加費が3000円だそうです。そのほか、詳細は以下の通り。

会場:学習院大学・西5号館202教室

9/22(土) 14:00~16:30(受付は13:30から)

<趣旨説明>
高埜利彦(学習院大学教授)「これからの近世天皇・朝廷研究」


<記念講演>
宮地正人(東京大学名誉教授)「江戸時代の天皇の論じ方」

9/23(日) 10:00~16:30(受付は9:30から)

<自由論題研究発表>
渡辺修「近世朝廷と神宮式年遷宮」
田中潤「徳川将軍の年忌法要にみる門跡」
村和明「近世の四方拝について―天皇・院の『政務』をめぐる一考察」
佐藤雄介「近世後期の朝廷財政と江戸幕府‐寛政・文政期を中心に‐」
上田長生「朝廷『権威』と在地社会‐山城国の陵墓を事例に‐」

このイベントは、学習院大学人文科学研究所の共同研究プロジェクト「近世朝幕研究の基盤形成」の共催で行われるとのこと。幕末維新史研究者の井上勲氏を代表とするプロジェクトだそうです。

ちなみに、このイベントの詳細について、問い合わせ先は学習院大学人文科学研究所。下記のリンクをクリックすると、電話番号・メールなどの問い合わせ先が表示されます。

学習院大学人文科学研究所

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2007年8月25日 (土)

天領における草莽の志士の行動と思想

雑誌『日本歴史』622号(2000年3月号)には、小佐野淳氏による論文、「天領における草莽の志士の行動と思想‐甲州上暮地村暮地義信を事例として‐」が掲載されています。同論文は、幕末維新期の草莽の志士・暮地義信を研究対象に据えたものです。後述しますが、暮地義信の幕末期の経歴はなかなか興味深いです。

小佐野氏は、草莽の志士たちを7種類の身分に類型化しています。具体的には、①浪人、②郷士、③村役人、④豪農・豪商、⑤中農層、⑥知識層(医者・神官・僧侶など)、⑦博徒の7つです。小佐野氏によれば、暮地義信は③と⑤の折衷型に見ることができるそうです。どういうことでしょうか。

暮地義信の家は甲州の百姓代、つまり村役人を務めてきた家柄です。その意味では上記類型の③と言えるわけですが、甲州の自然環境では余剰農産物の蓄積が困難で、村役人と一般農民の経済格差は特筆するほどのものではないそうです。そのため、⑤の面をも持つと言えるわけです。

その暮地義信が自発的対外活動、つまり志士としての活動を始めた理由を、小佐野氏は2つ指摘します。1つは彼が生まれ育った甲州上暮地村の財政的蓄積基盤(石高185石)。もう1つは、士籍獲得への意志だそうです。

後者については、武士身分獲得を目指して志士活動を行ったというより、むしろ志士として活動するには武士身分の方が都合が良いという側面もあったのではないかとも感じます。ただし、私は義信について詳しく調べたことはないので、あまり強く主張する気はありません。

その義信は江戸の玄武館(北辰一刀流)の道場で、清河八郎と剣の修業をともにしています。また義信は、同じく伊東甲子太郎とも親交を持ちました。慶応3年に義信の門人・高山兵蔵が新選組に入隊する際、義信は高山を伊東甲子太郎に随行させたそうです。清河や伊東の影響を受けたことが、後の義信の行動を規定していきます。

玄武館での剣術修行を経た義信は、清河が指導する浪士組に参加します。そしてその後、江戸で新徴組に所属することになります。小佐野氏は新徴組について、「外圧に対する名分論的対応として成立した尊王攘夷派が、幕藩体制を否定する論理を内在化させた結果、既存の体制の外部にある草莽によって組織されたもの」と定義しています。

そして、新徴組は表向き庄内藩に属したものの、清河八郎の意志を継ごうとする生粋の勤王家も多く、暮地義信はその代表格だと小佐野氏は言います。そのような志を持つ義信は、鳥羽伏見の戦い後、新徴組を脱退して官軍に従い、徳川慶勝のもとで帰順正気隊を組織して戊辰戦争を戦います。帰順正気隊の隊士は出身地も身分もバラバラで、いわば浪士組の小型版だそうです。

小佐野氏の論文では、維新後の義信が郷里の殖産興業に尽くした様子が詳述されていますが、ここでは割愛します。その代わり、私が共感した小佐野氏の考え方を最後に紹介しておきましょう。小佐野氏は、暮地義信のような存在を、幕末維新史全体から見れば一分子に過ぎない存在だと言います。しかし、小佐野氏は次のようにも言うのです。

浪士組も新徴組もその実態は分子の集合体である。分子の正確な把握ができてこそ、幕末諸隊の真の性格を認識できるものと考える。

上記の言葉は気に留めておいて良いと思います。ただ、「分子の正確な把握を通じて、幕末諸隊の真の性格の認識、あるいは幕末維新史全体の重層的な理解に結び付けよう」という意図を忘れると、瑣末な事実の探索に終始する危険性があります。その兼ね合いには気をつけるべきでしょう。

ちなみに、暮地義信には『天性剣術日本武基』、『明倫義信歌集』、『新徴組略記』などの著作があり、それら3つは小佐野淳『富士北麓幕末偉人伝』(山梨日日新聞社出版局、1995年)に収録されています。

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2007年8月20日 (月)

児玉幸多監修『ふるさとが語る土方歳三』

『ふるさとが語る土方歳三』(日野郷土史研究会、2003年)という書籍をご存知でしょうか。日野の郷土史家で新選組研究者でもある谷春雄氏と、日野郷土史研究会主宰の大空智明氏の対談集です。大空氏の質問に谷氏が答えるという形で対談が進んでいきます。タイトルからもわかるとおり、日野出身の土方歳三を中心に新選組全般について、谷春雄氏が語った本です。

私は特に興味のある部分を拾い読みしているだけの段階で、通読していないのですが、谷春雄氏の史料重視の姿勢が印象的です。史料が残っていない(見つかっていない)部分について、谷氏はいい加減な推測や適当な憶測を語ることをできるだけ排除する姿勢が明確です。

例えば、土方歳三を剣の達人であるかのように語ることに対しては、土方が人を斬ったことを証する記録が見当たらないことなどから、慎重な態度をとっています。

日野にある新選組関係史料をたくさん発掘・発表されている谷春雄氏が、読みやすい対談集という形で日野出身の土方歳三について語っていますので、新選組や土方歳三に興味のある方は、『ふるさとが語る土方歳三』を読んでみても損はないと思います(もちろん、谷氏が述べていることすべてに首肯できるわけではありませんが)。ただし、『ふるさとが語る土方歳三』は一般書店では販売していないようです。

ちなみに、谷春雄氏は『ふるさとが語る土方歳三』刊行の翌年、大河ドラマ『新選組!』が始まった2004年に、残念ながら亡くなられています。谷氏は1926(大正15)年の生まれでした。

それから、『ふるさとが語る土方歳三』について、もう1つ特筆しておくべきこととして、監修者が児玉幸多氏(学習院大学名誉教授)だということを挙げておきます。児玉幸多氏は日本近世史研究の大家で、残念ながら先月亡くなられました。

児玉氏は監修者として『ふるさとが語る土方歳三』の原稿にすべて目を通されたそうなのですが、そのときのお歳が何と93歳。児玉氏は1909(明治42)年の生まれです。日露戦争勃発の5年後、韓国併合の1年前ですね。驚きました。

『ふるさとが語る土方歳三』には、児玉幸多氏の執筆による「序」が付いています。その意味でも貴重な書物だと思います。

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2007年8月18日 (土)

HP「幕末維新史を読む」 開設

以前、「新選組関連の研究文献をリスト化する構想」という記事で予告していた、このブログとは別のHPを開設してみました。タイトルは「幕末維新史を読む」で、トップページのURLは下記となります。HPのデザインなどはあまりこだわっていません。作りかけでもありますし。

http://tosatoad.web.fc2.com/index.html

上記の過去記事でお約束していた通り、まずは新選組の関連文献のリストを公開してみました。新選組の関連文献とは言うものの、新選組に直接言及したものばかりでなく、例えば石井孝『戊辰戦争論』(吉川弘文館、1984年)ですとか、梅溪昇『高杉晋作』(吉川弘文館、2002年)ですとか、新選組を直接メインに扱っているわけではない文献も多数掲載しています。

何故そのようにしたかと言えば、「野口武彦『新選組の遠景』読了。新選組中心史観への批判」という過去記事で述べた、野口武彦氏の指摘による「新選組中心史観」を強く意識したからです。新選組ファンの多くは天動説で、新選組の内部ばかりに目を注いでいるが、新選組の真の姿は新選組ばかり見ていたのではわからないという指摘です。

要するに、新選組を取り巻く時代状況や政治状況、あるいは新選組が関わった人物・組織のことや、直接関わりがなくても敵対していた政治集団のリーダーのことなど、色んなことに目配せできた方が、新選組そのものの理解も深まろうというものです。例えば池田屋事件を考えるにしても、新選組のことばかりではなく、当時の長州藩が置かれていた政治状況や池田屋に集まった志士たちについて、詳しく知るべきだと思いますしね。

それは何も新選組に限ったことではないのですが、野口武彦氏が言うように、新選組の場合は特に注意が必要なようですので、あえて新選組に言及していない文献もたくさん紹介しました。そのため煩雑になっているかもしれませんが、ご理解いただければ幸いです。

また、リストは暫定的なものですので、今後も更新し続けることになると思います。新しいものでも古いものでも、私が新たに知った文献を追加していくことになろうと思います。

それから、新選組以外の各組織や各人物、あるいは各事件や各テーマに関する文献も、随時リスト化して掲載していこうと考えていて、ただ今準備中の状況です。特に幕末政治史について興味ある方のお役に立てるような文献リストを掲載していこうと思います。興味のある方は、ご覧になってみてください。

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2007年8月14日 (火)

山内容堂の「風流」

歴史家の大久保利謙氏には、「山内容堂の『風流』」という論文があります。初出は中央公論社の『歴史と人物』8-4(1978年)で、『大久保利謙歴史著作集8 明治維新の人物像』(吉川弘文館、1989年)に再録されています。

その論文の中で大久保氏は、幕府廃絶の王政復古から廃藩置県に至るまでの約5年間を「大名罷免の過程」と呼び、その過程の中で一部の有力大名は新政府の大臣クラスになったものの、結局は「新政府の飾り棚の陳列物」に過ぎなかったという評価を下しています。そしてそれらの大名たちは、「もはや自分たち大名の時代は終ったという悲哀を身にしみて痛感したはず」だと言います。

そして大久保氏によれば、そのような悲哀を味わった旧大名の新政への対応には、3つの形態が存在していたそうです。

1つ目は「反目型」で、その代表が薩摩の島津久光です。そして、2つ目が「順応型」で、越前の松平春嶽や宇和島の伊達宗城がこのグループ。そして3つ目が「自嘲型」で、土佐の山内容堂が代表格だと、大久保氏は言います。

「自嘲型」とは何かと言えば、新政府に反目もできず、かと言って順応するのも気に食わない、そんな色々な不平不満を酒と女に遊ぶ「風流」に託したタイプだそうです。容堂の遊びは時に度が過ぎ、政府内でも問題視されたことがあったようです。

ところで、山内容堂は何ゆえに、「風流」に生きる「自嘲型」になったのでしょうか。、大久保氏によれば、土佐藩演出の大政奉還、容堂が目指した「佐幕王政復古」が薩長の「討幕王政復古」に敗れたことへの不満からだったとのことです。容堂は新政府の中にあって何とか徳川慶喜を救おうと努力した人物ですが、結局は徳川慶喜追討令が出されるという状況に至って、「勝って敗けたという苦しい立場に追い込まれた」のだと、大久保氏は言います。

大久保氏の見解の是非をここで問うつもりはありませんが、明治以後の容堂の行動が興味深い特色を持っているのは確かだと思います。「反目型」、「順応型」、「自嘲型」の分類も面白いと感じました。

ちなみにですが、明治以後の容堂の「風流」な生活の様子を綴った伝記として、吉村淑甫『鯨海酔侯 山内容堂』(新潮社、1991年。中公文庫、2000年)という本があります。著者の吉村氏は高知県の郷土史家。中公文庫版には歴史家の羽賀祥二氏による解説が付されています。

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2007年8月10日 (金)

草莽の志士・城多董

幕末維新期に活躍した草莽の志士・城多董(きだ ただす)をご存知でしょうか。研究もあまりされていない人物なので、一般的には知らない人が多いでしょう。しかし、この城多董は、志士としてなかなか面白い経歴を持っている人物でもあります。

城多董は天保3年、近江国甲賀郡牛飼村(現在の滋賀県甲賀市)に、農業の傍ら搾油肥料商を営む家に生まれました。なかなかの豪家だったようです。しかし、城多は若い頃から家業よりも学問に興味を持ち、家業で上京した折に柳川星巌の門下に参加するなどしていたそうです。

そして城多はペリー来航以来、国事に奔走するようになります。最初は水口藩を拠りどころにして、収集した京都情報を水口藩の儒者・中村栗園や水口藩内の同志に伝えるような活動をしていました。城多が伝える京都情報は、水口藩が尊王攘夷の藩論でまとまるために役立つことになります。

その後、段々と城多も独自の行動を開始し、尊王攘夷派として多くの志士と交流するようになります。文久・元治期に城多が交流していた志士たちは、宮部鼎蔵・松田重助・轟武兵衛・久坂玄瑞・北添佶摩・藤本鉄石・松本奎堂などなど、錚々たる顔ぶれです。池田屋事件や禁門の変で死ぬ尊攘激派の志士たちが含まれています。

しかし、城多はそれらの志士たちと交わりながらも、突出には参加しなかったため、池田屋事件や禁門の変で散ることなく、慶応期まで生き延びます。そして慶応期に入ると、城多は嫌疑をかけられて新選組に追われたり、見廻組に狙われたりします。

見廻組が城多を狙った原因は、水口藩の城多に反対する勢力(城多の立場で言えば俗論党)の密告があったようです。それを城多に教えてくれたのは新選組の伊東甲子太郎。これは慶応2年の夏ごろのことで、伊東がまだ新選組から分離する前のことなので、伊東のスタンスも気になるところです。

また、この伊東と城多の面談を取り次いだのが、のちの赤報隊結成の中心人物・山科元行でした。伊東と城多の面談の場所も山科の家でした。城多は山科元行とも頻繁に交流していたようです。

そして、城多の生涯にとって特筆すべきことは、岩倉具視と出会ったことでしょう。慶応元年末、かねてより交流のあった松尾但馬に岩倉との面談を勧められた城多は当初、それを躊躇します。いわゆる尊王攘夷派の城多は、和宮降嫁を推進した岩倉のことを快く思わないのです。

しかし、いざ岩倉と会ってみた城多は、岩倉の識見の高さに心酔し、以後は王政復古に向けた岩倉の行動に協力することになります。「柳之図子党」と呼ばれるグループに属して活動するようになったのです。佐々木克氏によれば、城多は「岩倉の私的空間を知り得る一人」となったのです(参考文献の①より引用)。

また、岩倉の伝記・史料として活用される『岩倉公実記』には、時折見てきたかのような臨場感たっぷりの記述が出てきますが、それらは城多の談話や筆記を典拠としているとの佐々木克氏の指摘があります。城多の立場がよくわかります。

維新後、多くの草莽の志士たちが明治政府に失望したり、あるいは政府によって切り捨てられたりする中で、城多は栄達の道を歩みました。王政復古政府の総裁・有栖川宮熾仁親王に近侍したり、由利公正と共に金穀出納取締に任じられたりして、最終的には元老院少書記官となって、正六位に叙されています。それには、岩倉との出会いが大きく寄与していたことは間違いないでしょう。

城多董をもっと詳しく知りたい方は、例えば以下の文献をお読みください。この記事を書く上でも下記の文献を参考にしました。

① 佐々木克「草莽の志士城多董と岩倉具視」『日本歴史』第500号、1990年
② 佐々木克『岩倉具視』吉川弘文館、2006年
③ 竹山靖玄「忘れられた草莽の志士『城多董』―その伝記的研究への序章」
宮地正人編『幕末維新論集12 明治維新の人物像』吉川弘文館、2000年
④ 竹山靖玄「幕末水口藩と新撰組の城多董探索‐新撰組による慶応元年、近江出動事件の顛末‐」 『歴史読本』第757号、2002年

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2007年8月 4日 (土)

文久3年8月18日政変についての最新の研究

先月刊行された、雑誌『日本史研究』の最新号(第539号)に、町田明広氏の「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について‐八月十八日政変を中心に‐」という論文が収録されています。幕末史に興味のある人なら誰でも聞いたことがある、八月十八日政変についての最新の研究成果です。

八月十八日政変は有名な事件なので、幕末史の概説書などでは必ずと言っていいほど記述されていることが多いです。しかしながら、その八月十八日政変そのものを主たるテーマに据えた研究は意外に少なく、町田明広氏も主要な研究成果として、以下の3つの論文しか紹介していません。

・原口清「文久三年八月十八日政変に関する一考察」
(明治維新史学会編『幕藩権力と明治維新』吉川弘文館、1992年)

・芳即正「文久三年八月十八日の政変と島津久光」
(『明治維新史学会報』第39号、2001年)

・佐々木克「文久三年八月政変と薩摩藩」
(京都大学『人文学報』第87号、2002年)


ちなみに、町田明広氏の論文には明記されていませんが、上記の原口清氏の論文は『原口清著作集1 幕末中央政局の動向』(岩田書院、2007年)に再録され、佐々木克氏の論文は加筆・訂正の上、佐々木氏の著書『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)に収録されています。

町田氏は、上記の先行研究において、政変の実行には島津久光や大久保利通の指示があったという前提によって、江戸および京都藩邸における薩摩藩士たちの具体的な活動の分析がないがしろにされ、大胆な推論が展開されている状況を批判します。さらに、政変そのものの画策者や動機なども曖昧なままだと指摘しています。以下、町田氏の論文において、私が特に興味深いと思った論点を紹介してみます。

○ 政変において排除された長州藩や三条実美などを便宜的に「即時攘夷派」と呼称し、政変の主体となった孝明天皇・中川宮朝彦親王・薩摩藩などを便宜的に「攘夷慎重派」と呼称。文久二年の段階では、三条実美は「攘夷慎重派」から期待されている人物だった。

○ 生麦事件後の英国との緊張関係によって、島津久光は長い期間京都に留まったり、朝廷の要請に応じて即座に上京することはできない状態だった。

○ 朔平門外の変(姉小路公知の暗殺事件)において、薩摩藩の田中新兵衛が主犯と見られたことによって、中央政局における薩摩藩の影響力が後退し、「即時攘夷派」の威勢が強まった。例えば、薩英戦争の後で朝廷から島津久光の上京命令が出ると、「即時攘夷派」の宮部鼎蔵の画策によって取り消された。そのような状況を打開することも、政変決行の一因。

○ 八月十八日政変の決行について、島津久光や大久保利通の直接の指示はなかった。政変直前の時期に島津久光が考えていたことは、薩英戦争の後始末と英国との和議を最重要課題とし、その状況次第で自分も上京して「即時攘夷派」勢力を駆逐し、国是を攘夷から通商条約容認に変えるつもりだった。薩摩藩の政変計画はあくまで久光の上京とセットで検討されていた。

○ 政変は京都の薩摩藩邸にいる薩摩藩士たちが画策したもので、薩摩藩が会津藩に協力を申し入れるという形で計画が進行した。会津藩の方が多くの兵力を提供したため、会津藩の方が薩摩藩よりも「即時攘夷派」から大きい恨みを買うことになってしまったが、もともとは薩摩藩が会津藩に提携を申し入れた。政変の首謀者・主役と呼ぶべき人物は、薩摩藩士・高崎正風。

○ 政変には中川宮朝彦親王の窮地を救うという目的もあった。当時の政局は真木和泉の攘夷親征策に沿って展開し、中川宮は不本意にも西国鎮撫大将軍に任命されてしまい、攘夷親征の先鋒を務めさせられる可能性があった。中川宮が辞退すれば、孝明天皇自身がいよいよ親征しなければならない事態にもなりかねない。こうした窮地に陥った中川宮が親しい高崎正風に相談・指示したことから、高崎の政変に向けての活動が始まった。

○ 島津久光の直接の指示を受けることなく、高崎ら在京薩摩藩士が政変を独自に画策できたのは、中川宮の指示があったから。久光と中川宮は摂関制の廃止を目指す点で意見が一致していた。中川宮は幕府の存在を認めつつも自分が摂関に代わって中央政局でを執る皇威伸張を企図し、その後ろ盾を求めていた。

○ 島津久光は自分が幕政に深く関与できるような幕政改革を勅諚によって実現しようと考え、その方策として「皇国復古」を主張し、中央政局に強力なパートナー(薩摩藩にとっての「玉」)を求めていた。中川宮と久光の利害は一致し、「久光―中川宮―在京藩士」の連絡関係が成立。それによって、在京薩摩藩士は久光の指令がなくても中川宮の指示さえあれば臨機の対応をとることが可能となり、久光の直接の指示なしで政変を決行することができた。

町田氏の論文を読んで個人的に特に興味深かったのが、以上のような論点です。町田氏の論文にはほかにも重要な論点がありますし、個々の論点については史料を駆使した実証的な記述が心がけられています。興味のある方には、ぜひ実際に町田氏の論文をお読みいただきたいと思います。

『日本史研究』第539号(2007年7月号)に収録された、町田明広「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について‐八月十八日政変を中心に‐」という論文です。

ついでながら、町田氏が重視している「皇国復古」という概念については、別稿で詳しく述べる予定だそうです。現段階では、歴史作家・桐野作人さんのブログ「膏肓記」(2007年6月11日の記事)に、町田明広氏が寄せたコメントが参考になります。

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2007年7月30日 (月)

新選組に対する申し訳ない気持ち

数年前の私は、幕末史を研究する大学生でした。大学を卒業するまでの間に松浦玲氏の著書『新選組』(岩波新書、2003年)が刊行され、同じ年に平尾道雄氏の『定本新撰組史録』が新人物往来社から復刻されましたが、そのときまで私は、新選組を歴史学の研究対象として見てはいませんでした。そのことについて、今では新選組に対して申し訳ない気持ちです。

そもそも、大学での歴史研究においては、「何故、それを研究する必要があるのか」とか、「それを研究して、どんな意味があるのか」という意識で研究に臨むことを求められます。少なくとも私は、先生や先輩から、そのように教わりました。要するに、研究するからには問題意識を持つことが求められたのです。

例えば、「新選組のことが好きだから、新選組を研究する」という理由では、批判されるかもしれません。「新選組を研究することで、何が明らかにできるのか。また、新選組を研究することが、幕末史の研究の進展にどのように寄与するのか」といったところまで踏み込んで考えておかないと、大学で新選組を研究することは諦めざるを得ません。大学での研究は、何よりも「学問」であることを求められるからです。

巷に新選組の研究本は溢れていますが、それらの本には、上記のような問題意識が希薄のように感じられました。幕末史の中に新選組を正しく位置づけようとか、そのような問題意識・課題意識が見られないものが多かったのです。そこにあったのは、「新選組のことが好きだから、新選組について多くのことを知りたい。だから研究する」という意識が大半だと感じられました。しかしそこには恐らく、「学問」の発展に貢献しようという意識は希薄でしょう。

これは何も新選組に限ったことではありません。一般的に歴史小説や時代劇に頻繁に取り上げられるような人物や集団、あるいは事件は、研究者の研究対象としては敬遠される傾向があります。世間に人気のある人物や集団は、小説などでのフィクションと史実を峻別することなく勝手なイメージが形成されていることがよくありますが、研究者はそのような対象に首を突っ込みたがらない傾向があるようです。それらの世間のイメージは、「学問」を意識して語られているものではないからでしょう。

幕末史で言えば、新選組はその最たるものでしょう。新選組は、本格的に研究した歴史学者が少ない状況が長く続き、新選組研究を牽引しているのは、「学問」への貢献を意図していないと思われる在野の研究家たちでした。それが進めば進むほど、歴史学は新選組を相手にしなくなっているように見える状況がありました。

私も大学時代、そのような歴史学の風土で幕末史を学んでいました。はっきり言ってしまえば、私が所属していた大学の史学科には、「『新選組に興味があるから研究したい』なんてことを言ったら恥ずかしい」と思えるような空気すら漂っていました。それで何となく、私は新選組を避けていました。

ところが、冒頭で述べた平尾道雄氏の『定本新撰組史録』を読んでみたところ、これが大変面白いではないですか。平尾道雄氏はすでに亡くなっている方ですが、生前は土佐藩や坂本龍馬の研究において、歴史学界でも定評ある研究者でした。私も好きな歴史家でした。だから、それなりに期待して『定本新撰組史録』を読んだのですが、これが当たりだったのです。私は平尾氏の著書を読んでから、徐々に新選組に対する認識を改め始めました。

平尾氏の『定本新撰組歴録』が復刻されたのと同じ年に、松浦玲氏の『新選組』が岩波新書から刊行されました。松浦氏は思想史を専門とする歴史学者で、勝海舟や横井小楠の研究で定評があります。平尾氏と並んで、私が好きな歴史家の1人でした。その松浦氏が新選組の本を出したと知ったときは、衝撃を受けました。さっそく読んでみたところ、平尾氏の著書を読んで抱いた気持ちが、確信に変わり、新選組は面白い存在なのだと、ようやく認識したのです。

その後、宮地正人氏や大石学氏、鶴巻孝雄氏や平川新氏など、アカデミズムに属する歴史学者が次々と新選組論を展開していく中で、私は自分を恥じるようになりました。「新選組を研究する価値はない」なんて思い込みをしていた以前の自分が恥ずかしく、また新選組にも申し訳ないです。

今では、私は新選組を興味深い集団だと感じています。彼らを史実の中にしっかり位置づける必要性があると思っています。そのためには近藤勇が正しく分析されることが必要であるとも思います。このブログでも、それは何度も主張してきました。

ただ、今でも史実とフィクションを峻別しない新選組研究本、新選組を幕末史の中に性格に位置づけようという意識が希薄な研究本が多く見受けられます。アカデミズムに属する研究者には、ぜひそのような状況を是正できるよう、頑張ってもらいたいものです。本来、史実を扱う歴史学と、フィクションが許容される小説や時代劇の世界は別物ですから。

在野の研究家や新選組ファンにありがちなことですが、新選組を単体で考え過ぎている面があります。新選組の内部ばかりに目を注ぐのではなく、新選組は幕府内の一組織という視点を持って、もう少し広い視野で幕末史全体を見てみる必要があると思います。アカデミズムが新選組を敬遠してきた理由には、それもあるでしょう。新選組を通じて幕末史を見る視点を変える必要があると思います。

しかし、史実と乖離した新選組イメージが流布しているのは、アカデミズムが新選組をまともに取りあげようとしなかったことも原因の1つだと、歴史学者には意識してもらいたいです。松浦玲氏にしろ宮地正人氏にしろ、優れた新選組研究を出していますが、それが可能だったのは、彼らの批判の矛先にいる在野研究家たちの研究成果があったからだということを、私自身への自戒と反省の意味も込めて、指摘しておいても良いでしょう。

<関連記事>
歴史家と「ファン系研究者」-主に新選組研究を素材にして-

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2007年7月26日 (木)

最近気になった歴史書籍いくつか

ここ2~3ヶ月以内に刊行された歴史関係の書籍のうち、私が特に気になったものをいくつかピックアップして簡単に紹介してみます(ほかの記事ですでに紹介済みのものは除きます)。

まずは、熊倉功夫編『井伊直弼の茶の湯』(国書刊行会)。編者の熊倉功夫氏は国立民族学博物館名誉教授で、『史料井伊直弼の茶の湯』上巻(サンライズ出版)の編者でもある研究者です。

幕末の大老・井伊直弼については、近年では政治家の側面だけでなく、文化人の側面も大いに注目されています。『井伊直弼の茶の湯』もその観点から、井伊直弼を「独自の茶の湯を確立した稀代の茶人」と評価して、複数の研究者が井伊直弼の茶の湯を追及しています。

執筆陣には、『井伊直弼』(吉川弘文館、2006年)の著者・母利美和氏や、『千利休の「わび」とはなにか』(角川選書、2005年)の著者・神津朝夫氏、『公家茶道の研究』の著者・谷端昭夫などが揃っています。

続いて、寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書房)を挙げておきます。来年のNHK大河ドラマが『篤姫』ということで、それに関連した出版です。

著者の寺尾美保氏は鹿児島県にある尚古集成館の学芸員。「公爵島津家の編纂事業と家政事情」(明治維新史学会編『明治維新の新視角』高城書房、2001年)などの論文がある研究者です。

女性歴史研究者としての立場から、史実の天璋院篤姫を考察しています。また、天璋院篤姫の学問的研究の基礎を作った芳即正氏の功績についても、しっかり言及されています。

栗本瀬兵衛編『栗本鋤雲遺稿』(彗文社)は、幕末の幕臣で明治の新聞記者・栗本鋤雲の史料を多数収録した1冊。1943年に鎌倉書房から刊行された同書の新訂版だそうで、そっくりそのまま「復刻」したわけではないところがポイントのようです。序文を島崎藤村が執筆しています。

続いて紹介するのは、『別冊「本」 RATIO(ラチオ)』第03号(講談社)。『RATIO』とは、講談社が昨年から刊行を始めた思想誌で、今年刊行された3冊目は、「『日本の近代』とは何か」という特集を組み、興味深い論考を多数収録しています。個人的な興味・関心で言えば、ジョン・ブリーン氏の「明治天皇を読む」という論考にもっとも注目しました。

そのほかにも宮川敬之「和辻哲郎と表現の問題」などの論考が収録されています。『RATIO』を雑誌コーナーに置いている書店がある一方で、哲学・思想などの書籍コーナーに置いてある書店もあるそうなので、書店で探すときは注意が必要です。

最後は、高埜利彦編『身分的周縁と近世社会8 朝廷をとりまく人びと』(吉川弘文館)。「公家鑑にみる朝廷の人びと」、「地下官人」、「堂上公家の部屋住」、「摂家の家司たち」、「門跡に出入りの人びと」、「禁裏付武家‐朝廷内の旗本‐」、「禁裏大工」、「朝廷をとりまく人びと‐江戸幕府の統制の下で‐」といった興味深い論考が収録されています。

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2007年7月25日 (水)

歴史と「信じたいことを信じる」心

だいぶ前の話になってしまいますが、ある日の朝、テレビの天気予報を見ていたら、天気予報士の方が、「今日は一日を通して雨はそんなに降らないでしょうが、多くの方の出勤・通学の時間帯に一時的に強い雨が降るかもしれません。長い傘を持ってお出かけください」という感じのことを言っていました。

それを聞いた私は、「強い雨が降るのが少しの時間だけならば、長い傘を持っていくのは面倒だ」と思い、続いて「強い雨が降るのはきっと、自分が電車に乗っている間だけ、もしくは自分が職場に着いてからだろう」と、自分に都合のよい勝手な願望を信じることにして、長い傘は持たずに出かけたのです。「雨は降らない」と信じたかったのです。

その結果、電車に乗る前にかなり強い雨が降ってきて、電車を降りた後も雨はやまず、折り畳み傘しか持って