2008年5月 6日 (火)

「公武合体」をめぐる朝幕藩関係

『日本の近世18 近代国家への志向』(中央公論社、1994年)には、佐々木克氏の「『公武合体』をめぐる朝幕藩関係」という論文が掲載されています。1980年代以前は明治初年の研究に力を注いでいた佐々木克氏が、初めて本格的に幕末史を論じた研究論文です。

幕末政局の変動の中で、天皇(朝廷)と将軍(幕府)と大名(藩)の権力関係が、徐々に変わっていく様相を、弘化年間から慶応3年の王政復古政変までを射程に入れて分析した論文です。特に文久期あたりを中心に分析されていて、10年以上前の論文ですが、今読んでも示唆に富む内容を含んでいると思います。

例えば、いわゆる公武合体論(佐々木克氏もそうですが、最近は「公武合体」という用語の使用に慎重な研究者が増えているように感じます)についての、次の記述。

公武合体論は、外圧に対抗するという国家的課題に直面して、民心一致の挙国一致体制を創出するため、まず朝・幕・藩が一体化しなければならないという論理で、具体的な政治課題として登場したものである。そのかぎりにおいて、一般の尊攘派のみならず尊攘激派の論理も同じで、尊攘激派の主張を、あまり倒幕論の方向にひきつけすぎて評価すべきではなく、天皇・朝廷に大きく比重をかける公武合体論の一種と見るべきである、と私は考えている。その公武合体が実現したかに見えたとき、じつは朝・幕と藩の分離が明らかになるという皮肉な結果をもたらしていたのであった。
(『日本の近世18 近代国家への志向』185ページ)

上記引用文の最後の一文については、元治元年の参預会議瓦解後の状況を述べたものです。有志大名が上京して開かれた参預会議は、横浜鎖港をめぐって、鎖港論を述べる一橋慶喜と反対の諸侯たちの意見が対立して瓦解しました。その後、横浜鎖港を願う朝廷と、鎖港の実現が困難であることを知りながら鎖港を朝廷に約束して公武合体の体制を築こうとする幕府に、諸藩が失望していた状況を説明したものです。

また、上記引用文に続く同じページの文章では、次のような指摘もなされています。

禁門の変における長州藩の行動は、あきらかに朝廷と幕府への武力をともなった抗議運動であったという、その画期的側面に目を注ぐべきである。

ほかにも、色々と興味深い論点が提示されている論文です。佐々木克氏の幕末政治史研究の端緒としても、意味のある論文だと私は思っています。

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2008年4月28日 (月)

幕末過渡期国家論

佐藤誠朗・河内八郎編『講座日本近世史8 幕藩制国家の崩壊』(有斐閣、1981年)と、宮地正人『天皇制の政治史的研究』(校倉書房、1981年)に、宮地正人氏の「幕末過渡期国家論」という論文が収録されています。後の幕末政治史研究に大きな影響を与えた、有名な論文です。それだけに、今読んでも示唆に富む内容が多いと思います。

論文タイトルにある「幕末過渡期国家」とは、宮地氏が論文の中で述べている言葉を借りれば、「幕府がそれ自体で公儀たりうる力量を失い、一大大名勢力に転落する過程において、条約勅許を強く拒否しつづける天皇・朝廷が反比例的に国家の中心的存在として浮上し、自らが『強力国家』を組織しようとする時、それを根軸としながら、外圧に堪え、国民を統合しうる国家形態が、支配諸階層によって真剣に模索されていく」として、その新しい国家形態を「幕末過渡期国家」と呼び、その構造を分析しています。

「幕末過渡期国家」の時期としては、文久2年4月から慶応元年10月と設定されます。文久2年4月は、宮地氏が「幕政史上、前代未聞の画期的大事件」と評価する島津久光の率兵上洛の時期。慶応元年10月は、兵庫沖にやってきた西洋列強の艦隊の圧力によって朝廷が条約を勅許した時期にあたります。

もっと詳しく言えば、宮地氏は「幕末過渡期国家」の形成期を文久2年4月から文久3年8月と設定しています。そして、転換期が文久3年8月から元治元年7月。崩壊期が元治元年7月から慶応元年10月ということになります。

「幕末過渡期国家」が形成され始めたのは、宮地氏によれば、徳川家と徳川譜代の利害を優先し、先例と旧例の墨守を第一条件として行政を担ってきた従来の「将軍=譜代結合」体制が、幕末の新たな事態に対応できなくなってきたからです。それゆえに例えば、「幕末過渡期国家」の形成過程で新設された京都守護職は、幕府と深い関係を持ちつつも「将軍=譜代結合」の枠外にある家門が任じられ、「将軍=譜代結合」以外の方法で幕府維持を模索することになります。

そして宮地氏は、「幕末過渡期国家」の時代について、以下のような説明をしています。

文久二年から慶応元年に至る足かけ四年間は、よくいわれるような尊攘派の悔悟の時期でも、また無意味なテロリズムの時期でもない。幕藩体制という特殊日本的な封建制国家が、未曾有の外圧のもと、しかも人民のブルジョア的成長の不充分な段階において、そのありとあらゆる制度・伝統・心理・身分等々の諸モメントを総動員しながら、軍事的・国家的結集をなしとげようとする時、どうしても通過せざるをえなかった必然的な一つの局面、一つの場なのであった。

宮地氏の「幕末過渡期国家論」が収録された同氏の著書『天皇制の政治史的研究』はしばらくの間、品切れの状態になっていましたが、2004年に復刊されたそうです。もしかしたら、今ではもう購入できないかもしれませんが、所蔵している図書館も少なくないはず。幕末政治史や朝幕関係史において重要な研究成果だと思いますので、まだ読んだことがない幕末好きの方には、一読をオススメします。

ちなみに、宮地氏が「画期的大事件」と評価した島津久光の率兵上京については、宮地氏の研究を批判的に継承する形で展開した、笹部昌利「薩摩藩島津家と近衛家の相互的「私」の関わり‐文久二年島津久光「上京」を素材に‐」(『日本歴史』第657号、2003年)という論文があります。いずれ、詳しく紹介するかもしれません。

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2008年4月23日 (水)

戊辰戦争諷刺錦絵と薩摩藩

『諷刺眼維新変革-民衆は天皇をどう見ていたか-』(校倉書房、2004年)や『絵解き幕末諷刺画と天皇』(柏書房、2007年)などの著書がある奈倉哲三氏は、昨年3月に、「戊辰戦争諷刺錦絵の世界史的位置-国民国家草創期における民衆思想-」(『跡見学園女子大学文学部紀要』第40号)という論文を発表しています。国立情報学研究所が提供する「CiNii 論文情報ナビゲータ」のコチラのページから、PDF閲覧が可能です。

奈倉氏の論文は、「戊辰戦争諷刺錦絵が有する思想史的特質を、同時期ヨーロッパの諷刺画と比較することで、その世界史的位置の解明を試みたもの」です。ここでは、その全体を紹介するのではなく、私が特に興味を持った部分を断片的に紹介・引用することにします。全体の論旨が気になる方は、ぜひ上記のリンクからご自分でお読みください。

奈倉氏は考察の中で、諷刺錦絵2点を取り上げ、戊辰戦争前後の江戸市民が、新政府の中心をなしていた薩摩藩勢力に対して反感を抱いていたことを指摘しています。要するに、その気持ちが諷刺錦絵に出ていると。慶応3年11月頃から江戸で起きた強盗などの犯人が、薩摩藩士や薩摩藩邸に匿われている浪人たちであることを、江戸市民が知っていたことにもよるそうです。次のような指摘もされています。

江戸市民が薩摩を嫌ったのは、市民にとっては現実の恐怖であったからである。薩摩が、たとえ、神権性を喧伝され始めた天皇と「錦の御旗」によって、その正当性を主張しようとも、押し込み強盗を指揮した藩が新政府の中心にあるのであれば、その支配に対し、民衆が拒否の反応を示したのは当然であり、また、天皇による江戸親征に対しても、薩摩が担いでいる以上、忌避の反応を示したのも当然であった。

奈倉氏が指摘しているようなことも、江戸市民の感情としては実際にあったのかもしれません。

ただ、慶応3年末の薩摩藩による、いわゆる江戸撹乱工作ですが、従来は西郷隆盛ら薩摩藩の指導者層の指示を受けての行為と理解されていました。しかし近年、高橋秀直氏によって、京都の薩摩藩指導者から撹乱工作中止の指令が出ていたことが指摘されました。もしも高橋秀直氏の主張が正しければ、慶応3年末の撹乱工作は、藩としての方針ではなく、江戸藩邸の薩摩藩士たちの暴走という可能性も考えられることになります。高橋氏の主張が絶対に正しいとは言いませんが、検討すべきことだと思います。

なお、奈倉氏の論文を面白いと感じた方は、冒頭で紹介した奈倉氏の著書も、お読みになると良いと思います。論文と著書で、相互に補完し合う関係になっているはずです。

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2008年4月19日 (土)

福岡藩慶応元年の政変

『福岡大学人文論叢』第34巻第1号・通号132(2002年6月)に、梶原良則氏の「福岡藩慶応元年の政変」という論文が掲載されています。今回はその論文の内容を少しだけご紹介します。

梶原氏は論文の冒頭で、元治元年の第一次長州征伐をめぐる周旋活動を通じて、「諸藩の合意は幕府の命に優先する、名分のたたない幕府の命は拒否できるという論理」が、幕府に対抗する有力な手段として、慶応期には有力諸藩の間で認識されてきたと述べています。それはすなわち、「雄藩連合の政治路線ともよぶべき新たな政治動向」の登場です。

上記のような政治動向に関する研究蓄積は、必ずしも厚いものではないと梶原氏は言います。そして梶原氏の論文は、雄藩連合の政治路線の一翼を担った福岡藩を題材に、慶応元年前半の福岡藩の政治情況を明らかにすることで、その研究史に新しい1ページを加えることを目的として執筆されたものなのです。

当時の福岡藩の中には、「正義」派と呼ばれた勢力、「因循」派と呼ばれた勢力、「過激」派と呼ばれた勢力の、3つの政治集団が存在していたようです。このうち、元治元年の長州周旋活動において、一定の成果を収めた「正義」派が慶応元年には藩内で勢力を拡大しました。しかし、三条実美ら五卿の筑前渡海の交渉において藩主の意向を無視し、長州尊攘派の救援活動を展開していた月形洗蔵ら「過激」派の行動が、福岡藩主・黒田長溥の反感を買っていたため、「過激」派と近しい「正義」派の方針が、後に「正義」派を追い詰めることになったそうです。

梶原氏の論証によれば、「正義」派は藩の方針として、幕府および朝廷の命令に拘泥せず、藩の独立性を強めていくことを良しとし、だからと言って福岡藩だけで独立性を強めるのは危険という認識によって、薩摩藩や肥後藩などの近隣諸藩との連携、つまり雄藩連合の路線を推進しようとしていたとのことです。また、「正義」派は挙藩一致体制を実現させるため、藩主が嫌っている「過激」派にも寛容だったようです。それに対して藩主は、尊攘派を藩主と言えども統制しきれないような長州藩のような政治情況になること、つまり政治主導権を奪われることを恐れていたようです。

そのため、藩主と「正義」派との対立が深まり、藩主は藩主自身の政治的主導権を確保するため、「正義」派を藩政中枢から一掃しようと考えるようになったようです。そこで藩主が頼りにしたのが、「因循」派と呼ばれる勢力。しかし、「因循」派は「因循」派で、藩主に「過激」派の処分を求めるなどの要請を藩主にしたため、とても藩主が親政できる状況ではなかったとか。藩主には、「過激」派の存在を許容して挙藩一致を目指す「正義」派と、「過激」派の処分を求める「因循」派の、二者択一が迫られていたのだと梶原氏は述べています。

そんな状況の中、長州再征が現実味を帯びてきました。長州再征の実現は、第一次長州征伐の周旋活動を推進した「正義」派にとって、自身の成果を否定されかねないという意味で、何とか福岡藩の再征への出兵を阻止したかったようです。

そんな中、藩主は、中央政局の主導権が一会桑権力に握られ、雄藩連合を推進する勢力が退潮したと認識するようになります。その認識のもとに、藩主は「因循」派と連携して、「正義」派と「過激」派の粛清に乗り出したのだそうです。この選択について梶原氏は、「明治維新における福岡藩の動向を規定することになった」と述べています。

明治維新の変革に、福岡藩がどのように関わったのかを知る上で、非常に興味深く読めた論文でした。幕末の福岡藩を調べる上では、読まないわけにはいかない論文だと思います。

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2008年4月13日 (日)

明治維新と坂本龍馬

今回は、平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』(新人物往来社、1985年)という書籍を紹介します。

「坂本龍馬研究の第一人者」と言われていた平尾道雄氏の死後、雑誌や新聞などにすでに発表されていた平尾氏の文章や講演録を収めたものになります。あとがきを書いているのは広谷喜十郎氏です。

平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』に収録されている論稿を、いくつか紹介してみましょう。

まずは、大正15年に発行された雑誌『中央史壇』第79号に掲載されていた「坂本龍馬」と題された文章が、『明治維新と坂本龍馬』に再録されていることを紹介しておきましょう。この論稿は『中央史壇』第79号の特集「幕末明治人物史論」の一編として書かれたもので、坂本龍馬の小伝です。「井上道雄」の名義で執筆された、平尾氏の処女論文でもあります。

同じく、平尾氏の初期の業績の1つである、「幕末浪人運動雑観」という論文も、『明治維新と坂本龍馬』に収録されています。昭和3年に発行された『中央史壇』第97号に掲載されていたものです。幕末の浪人集団に興味を持って幕末維新史の研究を始められた平尾氏のスタンスを知る上で、面白い論文だと思います。

「岡田以蔵随考」という文章も収録されています。雑誌『日本歴史』第326号(1975年)に発表された文章で、幕末の人斬りとして有名な岡田以蔵の略伝です。非常に短い文章ではありますが、岡田以蔵の生涯を簡潔に記してくれていますので、岡田以蔵の実像を知りたい方には有益だと思います。

「龍馬と勝海舟書翰」と題された文章も、『明治維新と坂本龍馬』には収録されています。1958年発行の雑誌『土佐史談』第93号に発表された文章の再録ですが、勝海舟の庇護下にいた頃の坂本龍馬を考える上で重要な勝海舟書簡を紹介している文章です。

文久3年8月18日政変の後、土佐藩は勝海舟の庇護下にいた坂本龍馬ら土佐脱藩者に対して帰国命令を出しますが、それに対して勝海舟が、龍馬の帰国命令を猶予してほしい旨を土佐藩の江戸藩邸にいる徒目付に宛てて記した12月6日付書簡が紹介されているのです。また、それを受けて土佐藩の江戸藩邸留守居役が海舟の要求を断った拒絶書の写しと、事の顛末を江戸藩邸から土佐藩の重役に報告した書簡も紹介されています。

これらの書簡は、講談社版『勝海舟全集』の編集に携わり、勝海舟研究者として名高い松浦玲氏も原文書を読んだことがない旨を、著書『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)に記しています。その意味でも、平尾道雄氏の「龍馬と勝海舟書翰」は貴重と言えるかもしれません。ちなみに、これらの書簡は宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』(光風社、1978年)にも掲載されています。

そのほかにも『明治維新と坂本龍馬』には、『土佐史談』、『高知新聞』、『歴史読本』、『歴史と人物』、『司馬遼太郎全集』月報、『毎日新聞』、『高知県人』、『日本古書通信』、『日本公論』など、各種媒体に発表された平尾道雄氏の論稿が再録されています。どれも非常に面白いです。私は平尾道雄氏の文章が好きなので、平尾氏の執筆生活の初期から晩年に至るまでの論稿が収録されている『明治維新と坂本龍馬』という本を、重宝しています。

ちなみに、私だけかもしれませんが、平尾道雄氏が訳者として名前を連ねているマリウス・B・ジャンセン氏の『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社、1965年)と混同しそうになることがあるので、注意が必要です。

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2008年4月 9日 (水)

幕末維新史 3月刊行の個人的注目書籍

3月に刊行された幕末維新史関連書籍の中で、私がすぐに購入したのは2冊。青山忠正『明治維新史という冒険』(思文閣出版)と、原口泉『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社)

まず青山氏の新著『明治維新史という冒険』ですが、佛教大学鷹陵文化叢書というシリーズの第18冊目。同シリーズには他に、青山氏も執筆者の1人として参加されている、原田敬一編『幕末・維新を考える』などがあります。

『明治維新史という冒険』は青山氏が過去に雑誌・新聞・図録など、様々な媒体に発表してきた文章を1冊の書物としてまとめ直したものです。それらは幕末維新史の多様なテーマに及んでいます。比較的、一般向けの媒体(例えば『歴史読本』や『歴史群像』など)に掲載された文章の再録が多いように見受けられます。NHK学園の機関紙『れきし』第92号に掲載されていた「龍馬は『暗殺』されたのか」など、入手しにくい媒体からの再録が嬉しいです。

ともあれ、その目次は以下の通りです(青文字部分)。

明治維新史という冒険

Ⅰ 維新の足跡―フィールドノートより―
維新史を歩こう
京都の町並みのなかに
  桂小五郎と木屋町
  近藤勇と壬生の屯所
  徳川慶喜-京都の将軍-
  岩倉具視と幽棲旧宅
大阪のビルの陰に息づく
  橋本左内と適塾
  大久保利通と中之島
  五代友厚と商都大阪
  堺事件と妙国寺
関西近郊に足を伸ばして
  井伊直弼と埋木舎-彦根-
  勝海舟と海軍操練所-神戸-
  吉村寅太郎と天誅組-大和-
江華島の砲台―韓国―

Ⅱ 兵士と戦い
戊辰戦争と諸隊
馬関攘夷戦争
奇兵隊と四境戦争
ある奇兵隊士の処刑

Ⅲ 人と生きざま
吉田松陰―やさしい教え魔―
岩瀬忠震―辣腕外交官の憤死―
伴林光平と「南山踏雲録」
坂本龍馬と文久・元治年間の政局
龍馬は「暗殺」されたのか

Ⅳ 変動する政局
岩国と薩摩―水面下の薩長交渉―
薩長武力挙兵の勇断
長州の密使
政権奉還と王政復古
御一新と明治太政官制
草莽のゆくえ

あとがき

続いて、原口泉氏の『龍馬を超えた男 小松帯刀』。今年、同じグラフ社から『篤姫 わたくしこと一命にかけ』を刊行され、大河ドラマ『篤姫』の時代考証を担当されている原口氏による新著です。小松帯刀は一般的な知名度は低いですが、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ、あるいはそれ以上かもしれない幕末薩摩藩の逸材です。大河ドラマ『篤姫』でも重要な役割を演じるであろう小松の生涯を、原口泉氏が1冊にまとめました。

原口氏が新著の冒頭において、「小松帯刀は、坂本龍馬をはじめ西郷隆盛や大久保利通といった、巷間広く知られている幕末の英雄たち以上に、幕末史に影響を与えた人物、『龍馬を超えた男』だったのではないか」と述べています。原口氏がそれほどまでに高く評価する小松帯刀の事績を、多くの人に知ってもらいたいという願いが込められた書物です。

そのほか、まだ購入はしておりませんが、3月刊行で気になった書籍をいくつか。順不同です。

●村上泰賢編『小栗忠順のすべて』(新人物往来社)
●猪飼隆明『西南戦争‐戦争の大義と動員される民衆‐』(吉川弘文館)
●一坂太郎『幕末・英傑たちのヒーロー‐靖国神社前史‐』(朝日新書)
●安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書)


新人物往来社の『○○のすべて』シリーズは、『伊庭八郎のすべて』などのマイナーどころも出されているので、むしろ小栗忠順(上野介)は出ていなかったのかと意外な感じがしたぐらいです。

そのほか、朝日文庫版の萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の、第11巻と第12巻が出ました。11巻は『北京交渉』、12巻は『賜暇』です。

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2008年4月 4日 (金)

「人斬り」と幕末政治

笹部昌利氏に、「『人斬り』と幕末政治‐土佐山内家の政治運動と個性‐」(『鷹陵史学』第31号、2005年9月)という論文があります。その冒頭、武市瑞山をはじめとする土佐勤王党とその支持者たちの顕彰を目的に編纂された『維新土佐勤王史』を引き合いに、笹部氏は次のような指摘をしています。

日本近代に編まれた歴史書においては、幕末維新期における人間の言動はすなわち、それがいかに「皇国的」であるかに重きが置かれた。ゆえに土佐有志こそ、正義だと述べる『維新土佐勤王史』の叙述方法は決してイレギュラーなものではない。しかし、このような幕末維新に根ざした固定観念は、人物や組織それぞれの姿、形、動きのありようにベールをかけ、見えにくくさせてしまったばかりか、それぞれのオリジナリティーが捨象され、「尊王」「攘夷」というようなイデオロギーのみがひとり歩きをはじめ、そのような枠組みが政治の場に身をおいた存在を包括してしまう形となった。

笹部氏は以上のように指摘した上で、いわゆる「天誅」についても、従来はイメージで理解されていたとの認識を述べています。つまり笹部氏は、「天誅」という事象が安政大獄で同志を失った復讐心とか怨念といった遺恨的側面で起こってきたと従来から言われているけれど、そのような側面は強調し過ぎない方が良いと言うのです。笹部氏は「天誅」について、政治手段として「人斬り」という行為が使われたのだと述べます。

つまり、「天誅」事件の実行犯が岡田以蔵であったり、あるいは田中新兵衛であったりしても、それはあくまで「天」が斬った、「天」が裁いたものだという論理を、武市半平太ら土佐有志は政治手段として、自己の正当化を企図したとのことです。「天」とは万物を支配する観念です。笹部氏は次のように「天誅」を簡潔に定義しています。

「天誅」とは、人々の心理や思考のなかに芽生え始めた公共的「正義」としての「天」。これに作用するように働きかける「人斬り」を手段とした政治運動の一形態なのである。

特に安政大獄の推進者が「天誅」の対象として狙われたのは、京都の公家や町衆の中にも安政大獄が「トラウマ」としてイメージされていたためで、笹部氏によれば、「大獄関係者への攻撃はすなわち、京都で暗に形成された世論に、その政治勢力が正しいと判断させるのに十分、事足りた」からだそうです。つまり、「天」が裁くという意味合いを持つ「天誅」という名の「人斬り」を安政大獄関係者に向けることによって、「天誅」実行者たちの政治的正当性を世情に認めさせることを武市ら在京の土佐藩勢力は意識していたというのが、笹部氏の見解です。

その武市らの狙いに狂いが生じてきたのは、どうやら姉小路公知が暗殺された朔平門外の変だそうです。その事件の責任が薩摩出身の田中新兵衛に転化されたことで、薩摩藩の京都政局における影響力が後退します。それゆえ、「天誅」という名の「人斬り」は政治的駆け引きにおいて相手を追い落とすための手段になってしまい、「天」が斬ったのだという論理付けをしにくくなってしまったとのことです。

ほかにも面白いことが書かれているので、興味のある方は、笹部昌利氏の論文「『人斬り』と幕末政治‐土佐山内家の政治運動と個性‐」(『鷹陵史学』第31号)をお読みください。「天誅」と、慶応3年の坂本龍馬・中岡慎太郎の殺害事件が根本的に異なることの指摘もあります。

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2008年3月31日 (月)

京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場

以前、タイトルと著者名だけご紹介したことがありますが、雑誌『ヒストリア』第206号(2007年9月)に、馬部隆弘氏の「京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場」という論文が掲載されています。幕末期の京都防衛の重要拠点と言うべき楠葉台場について考察したものです。以下、馬部氏の論文の内容を、あくまで部分的になってしまいますが、紹介していきましょう。

馬部氏の論文は、軍事史的観点からの事例紹介にとどまっていた台場研究と、あるいはそれと切り結ぶことのなかった考古学的成果をも踏まえた上で、台場遺構を幕末政治史の素材として検討しています。その観点で分析の対象となったのが楠葉台場。

楠葉台場は、淀川沿いで山城国との国境にあたる河内国交野郡楠葉村(現在の大阪府枚方市)に設置されていたものです。完成は慶応元年で、設計者は勝海舟。

その楠葉台場について、会津藩との密接な関わりを指摘しているのが、馬部氏の論文でもあります。もともと、淀川に台場を築く計画は朝廷内の、国事御用掛の設置を推進した人物あたり(特に馬部氏が指摘しているのは正親町三条実愛)から出たものだと、馬部氏は分析しています。文久2年末のことです。もちろん攘夷の目的で、淀川に外国船が入ってくることを危惧したことによります。

ただ、その構想について意見を尋ねられた諸藩の間では、台場の築造不要との意見が大勢を占めていました。そのとき京都にいた会津藩重臣も、調査の結果として台場の築造については積極的に必要性を主張しなかったようです。結局、文久3年2月、淀川台場構想は沙汰やみとなりました。

ところが、それから約1ヶ月後の文久3年3月、会津藩主にして京都守護職の松平容保が、八幡・山崎に関門を築くべきとの建白を、幕府要路に宛てて提出したというのです。八幡・山崎というのは淀川沿いですから、2月に沙汰やみとなって、しかも会津藩自身も消極的だった淀川防衛の構想を、会津藩自らが再燃させたらしいのです。ただ、朝廷が提案した台場の構想ではなく、陸上の関門だという点が、会津藩の独自性のようです。

いずれにしても、最初は淀川沿いの防衛に消極的だった会津藩が方針を転換させた理由は、馬部氏によれば尊攘派への対応方針の転換が理由だったようです。つまり、最初は尊攘派に対して温和な態度で臨もうとしていた会津藩が、全面対決も辞さない構えになったことが要因と馬部氏は見るのです。

つまり、会津藩が設置を望む関門というのは、攘夷の目的ではなく、西国から来る尊王攘夷派浪士の入京を制限する目的だったようなのです。やがて、8月18日の政変が起きたことで、その関門には浪士だけでなく、長州藩士の入京をも制限する目的が付加されるようになります。

ともあれ、その関門は実際に作られることになり、それが楠葉台場ということになります。「関門」なのに「台場」の形態を採用しているのは、攘夷対策のための台場を作りたかった朝廷の意を汲み取ってのことだと、馬部氏は推測されています。また、現実に攘夷に役立つかどうかはともかく、ともかく攘夷対策の台場を作ったという政治的アピールを、朝廷に対してする目的もあったと馬部氏は推測しています。

さらに馬部氏によれば、アピールは朝廷に対してだけではなく、広く一般にもされていただろうとのこと。つまり、京都・朝廷を守るのは京都守護職・会津藩および幕府なのだということを、世間に知らしめる目的があった、そのため最新の築城技術を取り込んで作られたのだと、馬部氏は述べています。

そのような目的のため、楠葉台場は台場を関門として利用するという形態になったのだそうです。それが仇となって、現在では「楠葉台場」と「楠葉関門」が別の施設であるかのように誤解される場合もあって、研究史上の混乱を招いていたとか。

ともあれ、楠葉台場の設置に京都守護職・会津藩が密接に関わっていて、尊攘派・長州藩対策の目的があったとなると、その重要性は言うまでもないことでしょう。それゆえに、楠葉台場跡は現在、大阪歴史学会(『ヒストリア』を発行している学会です)などが保存を求めています。

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2008年3月30日 (日)

HP「幕末維新史を読む」 更新情報

私が作成している別HP「幕末維新史を読む」を、少しだけ更新して、以下の文献を追加しました。

「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」に以下の文献を追加

★青山忠正『明治維新史という冒険』思文閣出版、2008年
★田中洋史「長岡出身の新選組隊士―再興長岡藩東京藩邸の風景」
『長岡郷土史』第44号、2007年
★松尾正人編『日本の時代史21 明治維新と文明開化』吉川弘文館、2004年

「中岡慎太郎についての主な研究文献」に以下の文献を追加

★高知県立歴史民俗資料館・高知県立坂本龍馬記念館・北川村立中岡慎太郎館編
『特別展三館合同企画 坂本龍馬・中岡慎太郎展‐暗殺一四〇年!-時代が求めた"命"か?‐』高知県立歴史民俗資料館、2007年

今年は戊辰戦争が勃発した年から140年、日米修好通商条約の年から150年です。それだけではなく、平成20年という節目の年ということもありまして、今年も幕末維新史について、色々と興味深い研究が出てくるのではないかと楽しみにしています。

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2008年3月26日 (水)

天璋院篤姫展 ほか

先日、江戸東京博物館の1F企画展示室で開催中の、特別展「天璋院篤姫展」を観てきました。だいぶ混雑していて、あまりゆっくり観ることはできなかったのですが、貴重な品々が展示されていて、とても面白かったです。4/6まで開催中ですので、幕末維新史に興味のある方や、NHKの大河ドラマ『篤姫』をご覧の方は、行ってみてはいかがでしょうか。

展示構成は「プロローグ 篤姫のふるさと薩摩」、「第1章 御台所への道のり」、「第2章 婚礼~将軍家定と敬子~」、「第3章 江戸城大奥」、「第4章 幕府瓦解~徳川家存続への思い~」、「エピローグ 明治の天璋院」という順番になっています。篤姫に直接関連のある資料だけではなく、ペリー横浜上陸の図、孝明天皇宸翰、薩長同盟覚書写、討幕の密勅などなど、展示品は多岐に及んでいます。

図録も販売されていて、1冊2,300円。展示品のほとんどが掲載されていて、眺めているだけでも十分に楽しめる図録になっています。ゆっくり観られなかった部分については、図録を参照することで補うことが可能です(もちろん、直接見ることに大きな意義と楽しみがあるのですが)。

また、図録には展示品以外にも、下記の論考が掲載されています。

・芳即正「天璋院と幕末の薩摩」
・松尾正人「幕末の徳川将軍家と天璋院」
・寺尾美保「篤姫の結婚-幕末維新史の伏流水-」
・崎山健文「御台所敬子の実像-将軍継嗣問題を中心に-」
・藤田英昭「知られざる戊辰戦争期の天璋院」
・柳田直美「江戸から東京へ 転換期を生きた天璋院」

それぞれ興味深い内容が記されていて、篤姫や幕末の徳川家・薩摩藩などのことをより深く知るためには非常に有意義です。ただ、個々の執筆者は統一された見解のもとに文章を書いているわけではなく、それぞれの文章で異なる解釈が主張されている場合もありますので、幕末史に詳しくない方だと、混乱する場合ももしかしたらあるかもしれません。

上記の論考の中で、個人的に一番面白かったのは、藤田英昭氏の文章。天璋院篤姫の関連書籍に記されている「通説」を疑う姿勢で貫かれていて、例えば篤姫の奔走が西郷隆盛の江戸攻撃を思いとどまらせる上で効果があったという説が広く知られている一方で、藤田氏は別の可能性を指摘しています。

つまり、徳川家の家名存続を願う篤姫の嘆願書のうち、西郷は家名存続への願いに対する記述よりもむしろ、徳川慶喜への批判が記された部分に着目し、西郷の気持ちは慶喜排除の方向へさらに動かされた可能性が指摘しているのです。それがもしも事実だとすれば、篤姫の行動は江戸を戦火から救ったのではなく、場合によってはむしろ戦火に巻き込みかねない場合に立ち至った可能性もあるということになります。

また、江戸開城の後で徳川家の駿河への70万石移封が決まった際、篤姫はその処置に大きな不満を抱き、江戸での徳川家再興を念願します。篤姫は特に薩摩藩を批判し、会津藩・仙台藩に対して、新政府軍の征伐を依頼しました。

そのような篤姫の行動について藤田氏は、「天璋院が徳川家の再興を志向し、先祖供養にこだわっていたのは、彼女が徳川一門ではなく、外様大名から嫁いできた人間だからこそといえよう。天璋院は一層婚家の人間になろうと、徳川の血筋の人以上に、強く徳川家とその先祖を意識したのである」と述べていますが、そういった意識も恐らくあったのでしょう。

藤田英昭氏のように、他家出身の人間が、その家の人間以上にその家の人間になりきろうと努めることがありうる点については、かつて井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)も指摘しています。井上氏の場合は岩倉具視や松平慶永などの有志大名についての指摘ですが、例えば他家から岩倉家に入った岩倉具視について井上氏は、「そうした人には、しばしば、継いだ家の伝統に過剰なまでに同化する傾向があらわれる。他から入っただけに、その家の人になりきろうと努力するからである」と述べています。藤田氏の天璋院に対する指摘も、恐らく同様の視点によるものでしょう。

ともあれ、図録も含めて、「天璋院篤姫展」は非常に面白かったです。

また、3/23(日)で終わってしまいましたが、私が江戸東京博物館を訪れた日には、まだギリギリ、特集展「家康・吉宗・家達~転換期の徳川家~」も開催中でしたので、それも併せて観てきました。徳川家達が含まれているのが新鮮ですね。こちらも興味深い展示がされていて、1,000円の図録もしっかり購入してきました。

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2008年3月23日 (日)

大木喬任伝記史料「談話筆記」について

最近、重松優氏の、「大木喬任伝記史料『談話筆記』について」と題された研究ノートを読みました。早稲田大学大学院社会科学研究科が発行している『ソシオサイエンス』第12号(2006年3月)に掲載されているものです。

「談話筆記」とは、国立国会図書館・憲政資料室に所蔵されている大木文書の中にある史料で、大木喬任の息子・遠吉が大木喬任伝の編纂を計画し、関係者が語った逸話を収集したものだそうです。実際に関係者を訪問して談話を筆記したのは、大木家で働いていたこともあるらしい内田鉄三郎という人物とのこと。談話が筆記されたのは、明治33年から明治35年だったそうです。ちなみに、大木喬任が亡くなったのは明治32年。

その「談話筆記」で大木喬任のことを語っている関係者には、例えば土方久元、副島種臣、香川敬三、福岡孝悌、由利公正、大隈重信、谷干城などの有名どころも含まれています。重松優氏は「談話筆記」について、「藩政期の佐賀の様子や明治前期の政治行政事情にも話は及んだので、その価値は大木喬任研究に限定されるものではない」と述べています。

重松氏は「談話筆記」の目的の第一には、大木喬任が東京奠都の発議者・功労者であることを証することがあったと分析しています。重松氏によれば、その当時、東京奠都の第一の功労者として知られていたのは、大坂遷都を主張した大久保利通だったので、大木家としては不満があったらしいのです。そこで、維新の変革において重要な働きをした関係者から、大木喬任が東京奠都の功労者であることを証明する談話を得たかったようなのですが、結果は芳しくなく、土方久元に至っては全く知らなかったとのこと。

重松氏の研究ノートは、「談話筆記」の編纂過程を検討し、大木遠吉が父親の大木喬任をどのように顕彰しようとしたのか、それを明らかにしようとしたもの。早稲田大学リポリトジの、コチラのページを開いて、「View/Open」と書かれた部分をクリックすれば、重松氏の研究ノートをPDFで閲覧することが可能です。興味のある方は、是非お読みください。

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2008年3月19日 (水)

下野の幕末維新

國學院大學栃木短期大学史学会が発行している『栃木史学』第20号(2006年3月)に、宮地正人氏の「下野の幕末維新」という論文が掲載されています。

その論文の概要としては、宮地氏自身が論文冒頭で述べている言葉を引用すれば、「私がこれまで当該時期の下野に関し、折にふれ史料を見、そこで興味を引かれてきたいくつかの事件・人物に筋をつけ論理を組みたててみると、どのような歴史像を構成できるのか、という一つの試論」ということになります。

宮地氏が「下野の幕末維新」というテーマに関心を持った最初のきっかけは、栃木県都賀郡の『壬生町史』編纂に協力したことだったそうです。その際に、幕末維新期の政治的変動が壬生藩という三万石の譜代小藩にもしっかり刻印されていることを感じ取り、また壬生藩尊攘派のリーダーが百姓身分出身の松本誠庵という独眼流の医者だったことが、強く印象に残ったのだそうです。

その後、島崎藤村の『夜明け前』の歴史的背景を探るため、中津川での史料調査をしていたところ、予想外に松本誠庵の書簡を発見することができ、幕末維新期の下野を一地方史にとどまるものとしてではなく、全国的政治動向の中に組み入れて論じることが可能なのではないかとの手応えを感じられたとのこと。

さらには、『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)の執筆過程において、下野から浪士組に参加した人物が案外多いことに改めて驚き、佐野市で行われた田中正造に関する講演会の準備過程で、下野(特に西南地域)の歴史的動きの特質・面白さに確信を抱かれたようです。

宮地氏の論文は、以上のような興味・関心に沿って叙述されています。最初の章が「ペリー来航と下野の諸藩、旗本領」と題され、続いて、「在村漢学塾の族生」、「平田国学の浸透」、「坂下門外の変と下野政情の変化」、「浪士組徴募と下野」、「筑波挙兵と下野」、「亀山・横田と中津川宿」、「水戸学から平田国学へ」、「出流山事件と下野」、「御一新と下野の志士達」といった章が設けられています。まさに下野の事情や、下野出身者の政治活動が、全国的政治動向の中に位置付けて考察されています。

ちなみに、宮地氏が最初に注目した松本誠庵は新政府の中でしっかりとした政治的地歩を築いていたようです。松本は脱藩して上京後、尾張藩を頼って活動し、さらには刑部省・司法省で働くこととなり、佐々木高行の厚い信頼を勝ち取ったらしいです。色々と知らなかったことが記されていて、興味深く読むことができました。

宮地氏は論文の最後において、次のように述べています。

明治維新というと、すぐに薩摩の西郷、長州の高杉、土佐の坂本といった話となる。しかし、なにも西をむく必要はさらさら無い。この下野の地にもまた、幕末維新期の変革を考えさせる上での大切な材料がごろごろころがっているのである。地元の史料に関心をよせず、はるか離れた遠方の史料を見たところで、それほどの発見があるとは思われない。下野をふくめ、各地域からの視座と各地域からの史料によってこそ、地域にねざした幕末維新の物語りがつむぎ出されるのだ、と私は考えているのである。

上に引用した宮地氏の言葉は、従来の幕末維新史研究が西南雄藩の研究に偏りすぎていたことの批判ともなっていて、重く受け止める必要があるだろうと私は感じています。幕末維新の変動・変革・激動は、何も薩長をはじめとする西南雄藩だけで起きていたものではなく、全国各地で起きていたことだということです。

今回ご紹介した論文で、宮地氏は、下野の政治状況や下野出身者の政治活動が、全国的な政治動向や中央政局の動向と密接に関係していたことを論述しています。薩摩には薩摩の、長州には長州の幕末維新史があるように、下野には下野の幕末維新史があるということです。もちろん、その他の地域も同様でしょう。それら様々な地域に根ざした研究が促進されることで、幕末維新史全体の認識を変化させるような発見が出てくるかもしれません。個人的には、そんな発見が意外なところから出てくるのに期待したいものです。

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2008年3月17日 (月)

箱石大氏による母利美和『井伊直弼』の書評

同じ本を複数の人が読むとしても、きっと各々の着眼点は異なるはずです。自分がある本の記述の一部分に特に注目したとしても、他の人が同じポイントに注目しているとは限りません。逆もまた真です。

そういう意味で、自分以外の人が書いた書評というのは、非常に参考になります。自分がまだ読んだことのない本であれば、その本のどこに着目して読むべきなのか、どのようなことが書かれている本なのか、それを簡潔に知ることができます。また、自分もすでに読んでいる本でも、他人が書いた書評を読むと、「なるほど、その点については気付かなかった。確かにそういう見方もあるな」と、勉強になることが多いです。

とりあえず前置きはその程度にして、私が最近読んだ書評の中でも比較的読み応えがあって、インターネット上で閲覧することが可能な書評を1点紹介します。東京大学史料編纂所の箱石大氏による、母利美和『幕末維新の個性6 井伊直弼』(吉川弘文館、2006年)の書評です。京都女子大学史学会が発行している『史窓』第64号(2007年)に掲載されたものです。

上記書評を、以下のリンクから閲覧することができます。国立情報学研究所の「CiNii 論文情報ナビゲータ」を利用したものです(3/18追記:リンクが間違っていたので修正しました)。

《書評》 母利美和著『幕末維新の個性6 井伊直弼』

母利美和氏の『井伊直弼』の大きな特徴は、上記書評で箱石大氏も指摘しておりますが、井伊直弼の大老就任以前の記述が多いということです。近年、次々と新たな研究成果が公にされている彦根藩政史研究の成果をも十分に取り入れて、井伊家の史料などを読み込んだ上で書かれたものです。

母利氏の『井伊直弼』はだいぶ前(多分、刊行された直後ぐらい)に1度だけ読んだのですが、せっかくだからもう1度読んでみようかと、箱石氏の書評を読んで感じた次第です。内容を忘れてしまっている部分も少なくないですし。

誤解と偏見に基づく井伊直弼の虚像イメージ克服を目指した母利氏の『井伊直弼』は面白い本ですので、井伊直弼に興味のある方は箱石氏の書評と併せて読まれてはいかがでしょうか。

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2008年3月12日 (水)

HP「幕末維新史を読む」 最近の更新情報

HP「幕末維新史を読む」の、今年に入ってからの更新情報。以下に記載した通りの文献を、HPに追加掲載しました。

2008年3月4日更新内容
「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」に以下の文献を追加

★遠藤潤『平田国学と近世社会』ぺりかん社、2008年
★小河扶希子『平野國臣』西日本新聞社、2004年
★久住真也「幕末政治史研究発展のために‐奈良勝司氏による拙著書評について‐」『日本史研究』第545号、2008年
★奈良勝司「書評 久住真也著『長州戦争と徳川将軍‐幕末期畿内の政治空間‐』」『日本史研究』第536号、2007年
★八王子市郷土資料館編『八王子の天然理心流‐受け継がれた剣術・槍術・棒術‐』八王子市教育委員会、2008年
★宮地正人「下野の幕末維新」『栃木史学』第20号、2006年
★山口宗之『真木保臣』西日本新聞社、1995年

「中岡慎太郎についての主な研究文献」に以下の文献を追加

★豊田満広「中岡慎太郎から岩倉具視への書状が見つかった!」『歴史読本』第825号、2008年

2008年1月16日更新内容
「川村恵十郎研究文献」に以下の文献を追加

★川村文吾「旧幕臣川村正平(惠十郎)の生涯 補遺」『大日光』第74号、2004年

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2008年3月10日 (月)

幕末維新史 2008年1月・2月に発売された主な書籍

先月刊行された幕末維新史関連の書籍のうち、個人的にいくつか気になったものをピックアップして紹介します。

まず、辻ミチ子『和宮‐後世まで清き名を残したく候‐』。ミネルヴァ書房の「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの1冊として刊行されました。孝明天皇の妹で、江戸幕府の14代将軍・徳川家茂に嫁いだ和宮の評伝です。

著者の辻ミチ子氏は『女たちの幕末京都』(中公新書、2003年)という著書もある研究者です。『女たちの幕末京都』の中でも和宮についての記述はありましたが、今回はさらに分析が深化していると思われますので、読むのが楽しみです(私はまだ読んでいません)。

それから、萩原延壽氏の『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の朝日文庫版が、7巻『江戸開城』、8巻『帰国』、9巻『岩倉使節団』、10巻『大分裂』と出ています。

『萩原延壽集』の3作目として、『陸奥宗光』下巻も発売されました。陸奥宗光の評伝として定評ある著作の復刊です。宇野俊一氏との対談も収録されています。

他の記事でも書きましたが、石井孝『戊辰戦争論』(吉川弘文館)には注目しておいて良いと思います。「歴史文化セレクション」の1冊として復刊されたものですが、戊辰戦争に興味のある人にとっては必読書籍と言ってよいと思います。巻末の解説を家近良樹氏が担当しています。

遠藤潤『平田国学と近世社会』(ぺりかん社)は、19世紀における平田篤胤と気吹舎の思想と実践について考察したものになっているようです。「平田篤胤研究文献目録」も付いているようなので、きっと重宝することでしょう。

梅溪昇『続 洪庵・適塾の研究』(思文閣出版)は、中身を確認していないので詳細は不明ですが、タイトルからして、1993年に刊行された『洪庵・適塾の研究』(思文閣出版)の続編にあたるようです。

そのほか、谷川穣『明治前期の教育・教化・仏教』(思文閣出版)、松田宏一郎『江戸の知識から明治の政治へ』(ぺりかん社)など。

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2008年3月 6日 (木)

「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」ほか

坂本龍馬に詳しい方ならば、龍馬と親しかった女性として、お龍だけではなく、千葉佐那を挙げる人が多いのではないでしょうか。「千葉さな子」と書いた方が、馴染み深く感じる方もいらっしゃるかもしれません。

千葉佐那はご存じの通り、坂本龍馬が剣術を学んだと伝えられる、北辰一刀流・千葉貞吉の娘です。その佐那には、明治になってから龍馬との関係などを語った談話が残されています。それは「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」という題名で、明治26年(1893年)発行の『女学雑誌』第352号に、山本節という人物が発表したものです。

この談話、存在自体はよく知られていて、明治26年の『女学雑誌』に掲載されていることは色々な書籍や、はたまた様々なHPなどに記されております。しかし、掲載されている『女学雑誌』の巻号数までは記されていない場合が多く(記してある本もあります)、発表したのが山本節という人物であることも、あまり知られていないような気がします。もう1度書いておくと、千葉佐那の談話が掲載されているのは『女学雑誌』の352号です。

ちなみに、「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」というタイトルについても、微妙に間違ったタイトルを紹介している書籍なども少なくありません。まぁ、『女学雑誌』の巻号数さえわかれば、興味のある人が千葉佐那の談話を探す分には影響ないとは思いますが、念のため。ちなみに、『女学雑誌』は1966~1967年に臨川書店から複製版が刊行されています。

その、「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」によれば、龍馬の方から佐那を嫁に貰いたい旨、佐那の父親に申し出たようです。佐那も龍馬との結婚を承諾し、「天下静定の後」に結婚式を挙げようという話になったらしいです。そして、千葉家から龍馬に短刀を贈ったものの、龍馬は千葉家に贈るに足るものがなかったため、松平春嶽から貰い受けて着古していた袷衣(桔梗の紋が付いているもの)を千葉家に贈ったとか。どこまで事実を伝えているのかはわかりませんが、ともかくそのような話が記されています。

一方で、高本薫明氏が『土佐史談』第170号(1985年)に発表した「千葉灸治院」には、佐那が語った話として、「私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし、父も坂本ならばと高知の坂本家へ手紙を出した様でした」という談話が紹介されております。

また、その「千葉灸治院」では、佐那が桔梗の紋を染めぬいた着物の小袖を持っていて、その小袖について佐那が、「之は父が坂本さんに贈る為に染めましたが国事に奔走し道場へも余り来なくなり私が切り取り形見として持っております」と語った話が紹介されています。「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」で語られている話と、「千葉灸治院」で語られている話のどちらが正しいのか、詳細は不明です。

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2008年3月 1日 (土)

池田屋事件の基礎的考察

講談社現代新書で『池田屋事件』を刊行されるご予定の中村武生氏には、「池田屋事件の基礎的考察―『御所向放火』をめぐって」という論文があります。奈良歴史研究会が発行している『奈良歴史研究』第65号(2006年3月)に掲載されている論文です。

文久3年の8月18日の政変から、翌元治元年の禁門の変に至る政治過程の解明を期したもので、原口清氏の先行研究と密接な関連を持つテーマで、原口説を批判しながら論述が展開されています。

原口清氏の先行研究とは、私も過去に「池田屋事件についての原口清氏の問題提起」という記事で部分的に紹介したことがある、「禁門の変の一考察」という論文。名城大学が発行している『名城商学』第46巻第2号と第46巻第3号(どちらも1996年)に、2回にわたって掲載された論文で、昨年刊行された『原口清著作集2 王政復古への道』(岩田書院)に再録されています。

池田屋事件の発端は、よく知られているように古高俊太郎が新選組に捕縛されたことによります。従来、古高は「御所辺放火」の計画を供述したとされていましたが、原口清氏はその計画の存在を否定的に捉えていたのです。中村武生氏はその点を再検討されています。

中村氏は、原口氏の論文が発表された数年前に、著名な新選組研究家の菊地明氏が紹介した史料を、古高俊太郎の供述書(の、良質な写本)だと判断しました。その供述書には、中川宮朝彦親王の屋敷を放火する計画について記されていました。中村氏は供述書という性格上、古高がすべての事実を正直に供述していない可能性も想定して注意しつつ、どうも中川宮の屋敷を放火するという計画に関しては事実を供述しているらしいと判定されました。

中川宮の屋敷は御所のすぐ近くにあったため、中川宮の屋敷に火をつけるということは、すなわち「御所辺放火」と同じ意味を持つ…と中村氏は判断されました。つまり、原口清氏が存在を否定した「御所辺放火」計画を、中村氏は確かに存在した計画だと論じたのです。

しかし中村氏は、「御所辺放火」計画が事実だったとしても、それが新選組の池田屋襲撃に結び付いたとは見なしません。何故なら、池田屋事件直後に書かれた会津松平家家臣の公的な書簡には、古高の供述内容を知っているとは思えないようなことしか記されていないからです。

つまり、古高の供述は池田屋事件の前になされたものではなく、事件の後になっての供述であって、池田屋事件の前には新選組も会津藩も、「御所辺放火」計画のことを知らなかったのではないかということです。新選組が池田屋に踏み込んだのは古高の供述によるものではなく、古高とその周辺の連中がどうも怪しいという、そういう曖昧な理由によるものだったのかもしれないということです。

中村氏の考察・論点はほかにも色々ありますし、今回取り扱った話題についても、かなり要約してしまっている部分も多いので、興味のある方はぜひご自分でお読みになってください。個人的な印象として、中村氏の述べていることには説得力があって、納得できるものでした。『池田屋事件』の刊行も心待ちにしたいところです。

ついでながら、最後に余談を述べておきます。新人物往来社から最近発売された『図説 新選組クロニクル』(『別冊歴史読本』98)には、藤堂利寿氏の「『池田屋事件』論争」という文章が掲載されていて、池田屋事件に関する研究史を紹介していますが、今回紹介した中村武生氏の論文や、同じく中村氏の別の論考(例えば、「古高俊太郎考」『明治維新史研究』創刊号)については言及されていませんでした。非常に残念です。

また、町田明広氏の「池田屋事変における吉田稔麿について」(『霊山歴史館紀要』第16号)も、池田屋事件の研究史を語る上では重要だと思うのですが、言及されていませんでした。こちらも残念でした。

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2008年2月26日 (火)

大隈重信 西日本人物誌

大隈重信は肥前佐賀藩出身にして、立憲改進党を率いたことや総理大臣を務めた経験があること、あるいは早稲田大学の創立者として有名な人物だと思います。最近、その大隈重信について叙述された、大園隆二郎『大隈重信』(西日本新聞社、2005年)という書籍を購入しました。まだほとんど読んでいないため、内容を詳しくご紹介することはできないのですが、できる範囲で簡単にご紹介します。

同書は、西日本新聞社の「西日本人物誌」というシリーズの第18冊目。「西日本人物誌」シリーズには他に、山口宗之『真木保臣』、小河扶希子『平野國臣』などもあります。

著者の大園隆二郎氏は、佐賀県を基盤に近世から近代の佐賀について研究をされている方で、佐賀県立図書館近世資料編さん室長です。

早稲田大学社会科学学会が発行している『早稲田社会科学総合研究』には、江藤新平関係文書研究会による「史料翻刻 江藤新平関係文書」が、私が把握しているだけでも2003年7月発行の第4巻第1号から2007年7月発行の第8巻第1号まで掲載されています。「書翰の部(一)」から始まり、昨年7月の第8巻第1号で、「書翰の部(九)」となりました。大園隆二郎氏は、その江藤新平関係文書研究会の構成メンバーの1人でもあります。

ともかく、その大園隆二郎氏による『大隈重信』を、最近購入しました。大隈重信と言えば明治以降のイメージが強いですが、大園氏の著書では大隈の幼年期から青少年期を重視しているそうです。つまり、明治期よりも幕末期の大隈を描くことに多くのページ数が割かれているというわけで、その点に強い興味を抱いて購入した次第です。

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2008年2月23日 (土)

尊王攘夷論と公議輿論思潮

丸山真男氏に、「明治国家の思想」という講演録があります。1946年10月の講演を文章にしたもので、歴史学研究会編『日本社会の史的究明』(岩波書店、1949年)、丸山真男『戦中と戦後の間』(みすず書房、1976年)、松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男集』第4巻(岩波書店、1995年)などに収録されています。

その「明治国家の思想」は、丸山真男氏自身が語っていることを引用すれば、「一つの精神的な雰囲気として捉えたところの明治時代というものを、主として国家思想という面から考察して見るとどういうことになるか」という趣旨で話がされたものです。そしてその冒頭、丸山氏が「明治維新の精神的立地点」あるいは「明治維新の精神的な背景」として挙げているのが、尊王攘夷論と公議輿論思潮の2つです。そしてさらに、その2つの思想の絡み合いの中に、明治の精神のその後の発展が見られるというのが、丸山氏の意見です。

丸山氏は尊王論を、「政治的集中の表現」と説明し、公議輿論を「政治的拡大の原理」と説明します。そして、「明治国家というものは二つの要素の対立の統一である」と見ているのです。つまり、尊王論が中央集権的統一国家建設に向かい、それが対外的には国権論として発展していく一方で、公議輿論思潮は自由民権運動へと発展していく、その2つが絡み合いながら発展していくのが、「思想的に見た明治国家の発展態様」だと述べています。

王政復古の大号令においても、尊王論に沿って神武創業に復古することを謳いつつ、言論洞開など「公議」の重視をも謳っている点から、「明治維新は政治的集中と政治的拡大の二要素の統一として一応スタートを切った」と、丸山氏は説明しています。丸山氏は、名明治国家について、「国権主義と民権主義というものが同時性を持ち、同時的に登場して来、且つ相互に規定し合っている」状態で始まったものだとも言っています。

さらに、2つの思想の絡み合いについて、丸山氏は征韓論を例に出して説明している箇所もあります。丸山氏は征韓論を「国権論的なものの第一の表現形態」としつつ、その国権論の表現形態たる征韓論者たちが、一方で民権論の実践的表現たる民選議院の建白を征韓論者たちが行っている事実を指摘しています。

このように、丸山真男氏の「明治国家の思想」は、尊王攘夷論を国権論につながるものと捉え、そして公議輿論思潮を民権論につながるものと捉えた上で、その両者の関係性や絡み合いを色々と論じながら、明治時代全体の国家思想の性格を考察しようと試みた講演録です。幕末から続く「天皇」と「公議」の問題について、何らかの示唆を与えてくれる文章だと思います。

ちなみに、植手通有氏は『丸山眞男集』第4巻の解題で、丸山氏の「明治国家の思想」を高く評価しています。しかし、丸山氏が尊王攘夷論を「政治権力の集中を推進した」と捉え、公議輿論思潮を「政治権力の基盤の拡大を推進した」と捉えている部分については、「それぞれが権力の集中と拡大の両契機をもっていた」はずだと批判しています。

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2008年2月17日 (日)

慶応三年の高野山出張に関する一考察

王政復古の政変が起きる直前の慶応3年12月8日、侍従の鷲尾隆聚と数十名の浪士が朝廷からの内勅を受け、武装した上で紀州の高野山を目指して京都を出発しました。「高野山義挙」とも呼ばれることがあります。最終的には十津川郷士を加えて千名を超える集団となり、京都から出張していた期間は約1ヶ月間に及んだ行動です。

この鷲尾隆聚と浪士たちの高野山行きについて、詳細に研究している先行研究は少なかったのですが、それを「高野山出張概略」(国立国会図書館憲政資料室蔵「岩倉具視関係文書」実記編纂資料156)などの史料を駆使して詳細に分析したのが、ここで紹介する亀尾美香氏の論文「慶応三年の高野山出張に関する一考察‐岩倉具視周辺の浪士を中心に‐」(『中央史学』第27号、2004年3月)です。

亀尾氏は論点を3つに絞って分析しています。その分析のため、鷲尾隆聚らの京都出発から帰還までの事実経過も詳細に記されています。

論点の1つ目は、当時の政局との関連です。鷲尾隆聚らが高野山に出張した時期には、王政復古政変や鳥羽・伏見の戦いが起こりました。亀尾氏は、その政局との関連で高野山出張を検討し、その意義を探ります。

2つ目は、岩倉具視と高野山出張の関係性です。岩倉具視が高野山出張に関してどのように携わったのか、それを検討しています。

3つ目は、鷲尾隆聚と浪士たちの高野山行きに関して、当時の史料には「出張」と記されている例が多い者の、参加者たちの後年の回顧や履歴などでは「義挙」や「挙兵」と表記されていることが多いそうです。果たして、鷲尾隆聚と浪士たちの行動は「義挙」や