2009年2月 7日 (土)

紹介しておきたかった幕末維新史関連書籍5冊

非常に久々の更新となってしまいましたが、そんなことはまるでお構いなく、記事を書きます。

今回は、昨年から今年にかけて刊行された書籍で、なおかつ自分でもすでに購入済みの書籍のうち、幕末維新史に関係するものを5冊紹介しておこうと思います。長らく更新していなかったために、そのうち紹介しようと思っていながら、紹介できなかった書籍たちのうちの5冊です。

まずは、小高旭之『幕末維新埼玉人物列伝』(さきたま出版会、2008年)。

この書籍は、8ページの凡例を引用すると、「幕末から明治にかけての時代に足跡を残した埼玉県出身の人物を、関連する事象などを交えながら人物ごとに解説した」書籍と言えます。今では埼玉県と呼ばれている地域に生まれた幕末維新期の人物たち47人について、紹介しています。

紹介されている人物は例えば、明治の実業家として知られる渋沢栄一、彰義隊を援助した覚王院義観、浪士組に参加して上洛した根岸友山、江戸の薩摩藩邸に匿われていた浪士たちの一員である権田直助や桜国輔など、多岐にわたっています。有名な人物だけではなく、あまり有名とは言えない人物も数多く紹介していますので、いわゆる草莽の志士に興味がある方なら楽しめると思います。

著者の小高旭之氏には他に、『漂白の志士 北有馬太郎の生涯』(文芸社、2001年)や『埼玉の浪士たち 「浪士組」始末記』(埼玉新聞社、2004年)といった著書があります。

続いて紹介するのは、中村武生『京都の江戸時代をあるく‐秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで‐』(文理閣、2008年)。

「京都の歴史と文化財保護問題」というHPがある歴史地理研究者である著者の、3冊目の著書。2006年から2007年にかけて、『京都民報』で連載していた記事を修正・加筆したものです。

全部で50話構成となっていて、副題にもるように、幕末期だけではなく江戸時代全般について扱った内容ですが、全50話のうち半分ほどは、幕末期の話題となっています。

なかでも注目なのは、46話~59話まで費やして語られる「寺田屋伝説の虚実」。坂本龍馬の定宿として有名な寺田屋について論じたもの。現在の寺田屋の建物は、幕末当時の建物ではなく、再建されたものであるという説を提唱し、なおかつ深く論じたもの。現在の寺田屋が幕末当時の建物ではないということは、幕末史に興味のある人には元々それなりに知られていた話ではありますが、中村氏の文章はその話をさらに深く語り、説得力ある内容になっています。

3冊目は、松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)。

坂本龍馬という人物は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の影響もあって、幕末維新期に活躍した人物たちの中でも特に人気が高く、知名度もある人物だということに異論はないでしょう。そんな坂本龍馬をメインに扱った書籍も数え切れないぐらい刊行されています。

ところが、数え切れないぐらいぐらい刊行されている龍馬関連書籍は玉石混交。薄っぺらい内容のものも少なくありません。しかしながら、松浦玲氏は横井小楠や勝海舟の研究者として名高い幕末研究者ですので、この本は龍馬の生涯を手堅くコンパクトに、しかも最新の研究成果を取り入れつつ、非常に安心できる内容に仕上げています。

龍馬の実像を知りたい人や、2010年の大河ドラマ『龍馬伝』に向けて龍馬本を読んでおこうという方に、まずオススメしたい1冊です。著者の松浦氏には『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)という著書もありますので、そちらもオススメです。

続いては、町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ、2009年)。

この書籍のタイトルにある、島津久光を「幕末政治の焦点」とする視点に、私は非常に共感します。著者の町田氏は本書の冒頭で、「本書で論じたいのは、久光の梃子的活躍なくして、幕末は決して回天しなかったということである。まさに隠れて忘れさられている綺羅星なのだ。久光あっての幕末史であり、また久光なくして幕末は語ることができないはずである。特に文久期以降、元治期前半までの中央政局は、久光の存在を抜きにして、その多くを描き出すことは叶わないのだ」と述べていますが、全く同感です。

この本は、文久期の幕末政治史を主な研究対象にしている著者の初めての著書である点でも注目です。

最後は、宮地正人・伊藤克司・小林丈広・多田敏捷・宮川禎一『新選組の論じ方‐新選組史料フォーラムから‐』(新選組史料フォーラム実行委員会、2009年)。

この書籍は、2004年に東京都日野市で開催された「新選組史料フォーラム」の各報告者が、そのときの口述記録を手を加え、あるいは全面的に書き下ろした論考で構成されています。

個人的に一番面白かったのは、宮地正人氏の「新選組の論じ方」という論考。その構成は、「はじめに」、「一、新選組の影の担い手山崎丞」、「二、新選組の研究課題」、「三、剣術遣いの群をどうおさえるか」、「四、東国勤王派論」、「おわりに」となっています。宮地氏が著書『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)で取り上げられなかった問題点を含め、新選組を歴史学の研究対象として扱う上での様々な論点が提示された論考です。

そのほか、伊藤克司「水野弥太郎親分と新選組・赤報隊」も読み応えがあり、本書の中でもっとも多くのページ数が割かれている論考です。

この書籍は一般書店では販売しておらず、山口県のマツノ書店でのみ取り扱っています。もちろん、ネット上での購入も可能です。

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2008年6月 5日 (木)

新選組と坂本龍馬をもとに考える史実とフィクション

昭和初期、幕末の浪士集団への関心から、平尾道雄氏は新選組と海援隊を研究対象にしました。平尾氏は昭和3年に『新撰組史』を自費出版し、翌年には『坂本龍馬海援隊始末』を万里閣書房から刊行しています。両著はそれぞれ、新選組と坂本龍馬の研究史において重要です。

さて、その平尾道雄氏は、坂本龍馬が率いた海援隊と近藤勇が率いた新選組について、色々と対照的な面があったことを指摘しています。それは、2つの組織の構成や構成員の違い、あるいはリーダーの個性の差などから出てきたものでしょう。

私は、現在の世間での海援隊と新選組の扱われ方・関心の持たれ方において、共通点と相違点を感じています。まず、両者とも人気はあります。その人気は、残念ながら平尾道雄氏の精力的な研究が直接の影響を与えたわけではなく、平尾氏の研究成果を参照しつつ書かれたと思われる、司馬遼太郎氏の小説によるものでしょう。それは共通性として指摘できると思います。

ただ、海援隊はリーダーの龍馬の人気が突出していて、ほかの隊士たちの人気や知名度はそれほどではないにもかかわらず、新選組の場合はリーダーの近藤勇に人気が集中しているわけではなく、むしろ各隊士に人気が分散していて、近藤よりも他の隊士たちの方が人気がありそうな点は、大きな相違点です。それも、司馬氏が龍馬を主人公にした小説を書いたのに対し、新選組の場合は近藤以外の隊士たちが大きくクローズアップされたことが原因でしょう。

司馬遼太郎氏の小説の影響は、別の面からも指摘できます。

海援隊にも新選組にも、あるいは坂本龍馬にも近藤勇にも共通していることは、それらを論じる人々が、必ずしもフィクションと史実の区別をせず、曖昧なままに議論していること場合が多いことだと思います。

「好きな歴史上の人物は?」という質問に対して、例えば坂本龍馬を答えた人が、果たして司馬遼太郎氏の小説に出てきた龍馬と史実の龍馬をはっきり区別した上で答えているのか、疑問に思うことがあります。

巷で研究本として流布している龍馬や新選組についての本も、司馬遼太郎氏の小説に影響を受けているものが少なくありません。司馬氏の小説は面白いですし、それで龍馬や新選組に興味を持つのも全然構わないと思います。ですが、司馬氏が小説の中で創作した龍馬像や新選組像というフィルターを通して史実を見ている人が、「研究家」を名乗っている人の中にも少なくないのです。

そのような、司馬氏の龍馬像・新選組像というフィルターを通してしか史実の龍馬や新選組を見ることができない人々が書いた文章が、司馬氏の小説をまだ読んでいない人にまで影響を与え、必ずしも史実とは思えない龍馬像や新選組像を、史実だと信じ込んでしまっている人が少なくありません。

しかし、私はフィクションと史実は厳密に区別して論じるべきだと思うのです。司馬氏だって、自分の文章を小説として書いている以上、自分の作品の中に登場する龍馬や新選組隊士たちについて、史実を忠実に再現している意識はなかったはずです。史実をベースに書いてはいるでしょうが、作品を面白くするために適宜フィクションを織り交ぜ、自分の好きな人物については史実以上にカッコいい活躍をさせたり、逆に嫌いな人物の活躍についてはあえて書かなかったりしている事例が見受けられます。

作家が書く小説には創作が許されるという点で、歴史研究者の研究とは大きく異なるのですが、それをよくわかっておらず、「歴史小説を書いている作家=歴史研究者」と誤解している人までいます。司馬氏の小説には、そのような錯覚をさせる力があるのかもしれません。

新選組や海援隊は、史実とフィクションが曖昧なままに議論がされる傾向が強いのも、そのせいでしょう。小説の中で、あたかも事実のように書かれていても、必ずしも事実ではないかもしれない、小説だからフィクションかもしれないという点を認識すべきだと思います。

史実は史実として楽しみ、フィクションはフィクションで楽しむべきです。一口に「龍馬ファン」とか「新選組ファン」とか言いますが、例えば「史実の龍馬ファン」と「司馬さんの『竜馬がゆく』に出てくる竜馬のファン」という風に分けるべきだと思います。本来、史実と歴史小説・時代劇は別ジャンルのものなのですから。

『燃えよ剣』や『新選組血風録』は嫌いだけれど、史実の新選組は大好きだという人がいても良いではないですか。『竜馬がゆく』は読んだことがないけれど、龍馬が書いた書簡を読んで龍馬に興味を持った人間がいても良いではないですか。もちろん、フィクションの世界における新選組や龍馬のみが好きなのであって、史実には興味がないという人がいても構わないですし、史実もフィクションも好きだという人がいても構わないでしょう。

私が気になるのは、新選組や龍馬の話を楽しそうにしている人がいたとして、その人が史実の彼らについて話しているのか、それとも小説や映画での彼らについて話しているのか、よくわからないことがあること。恐らく、話している本人たちに、その区別をしようという意識が希薄なのだと思いますが、できれば明確に区別した方がいいと思うんです。

なお、一方では面白い小説を書きつつ、他方では質の高い歴史研究をされている方もいます。例えば、歴史家の奈良本辰也氏は、歴史家として重要な研究を発表しつつ、小説も書いていました。最近では桐野作人氏も、創作・研究の両面において稀有な才能を発揮されています。そういう方々もいるということを、念のため述べておきます。

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2008年4月 9日 (水)

幕末維新史 3月刊行の個人的注目書籍

3月に刊行された幕末維新史関連書籍の中で、私がすぐに購入したのは2冊。青山忠正『明治維新史という冒険』(思文閣出版)と、原口泉『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社)

まず青山氏の新著『明治維新史という冒険』ですが、佛教大学鷹陵文化叢書というシリーズの第18冊目。同シリーズには他に、青山氏も執筆者の1人として参加されている、原田敬一編『幕末・維新を考える』などがあります。

『明治維新史という冒険』は青山氏が過去に雑誌・新聞・図録など、様々な媒体に発表してきた文章を1冊の書物としてまとめ直したものです。それらは幕末維新史の多様なテーマに及んでいます。比較的、一般向けの媒体(例えば『歴史読本』や『歴史群像』など)に掲載された文章の再録が多いように見受けられます。NHK学園の機関紙『れきし』第92号に掲載されていた「龍馬は『暗殺』されたのか」など、入手しにくい媒体からの再録が嬉しいです。

ともあれ、その目次は以下の通りです(青文字部分)。

明治維新史という冒険

Ⅰ 維新の足跡―フィールドノートより―
維新史を歩こう
京都の町並みのなかに
  桂小五郎と木屋町
  近藤勇と壬生の屯所
  徳川慶喜-京都の将軍-
  岩倉具視と幽棲旧宅
大阪のビルの陰に息づく
  橋本左内と適塾
  大久保利通と中之島
  五代友厚と商都大阪
  堺事件と妙国寺
関西近郊に足を伸ばして
  井伊直弼と埋木舎-彦根-
  勝海舟と海軍操練所-神戸-
  吉村寅太郎と天誅組-大和-
江華島の砲台―韓国―

Ⅱ 兵士と戦い
戊辰戦争と諸隊
馬関攘夷戦争
奇兵隊と四境戦争
ある奇兵隊士の処刑

Ⅲ 人と生きざま
吉田松陰―やさしい教え魔―
岩瀬忠震―辣腕外交官の憤死―
伴林光平と「南山踏雲録」
坂本龍馬と文久・元治年間の政局
龍馬は「暗殺」されたのか

Ⅳ 変動する政局
岩国と薩摩―水面下の薩長交渉―
薩長武力挙兵の勇断
長州の密使
政権奉還と王政復古
御一新と明治太政官制
草莽のゆくえ

あとがき

続いて、原口泉氏の『龍馬を超えた男 小松帯刀』。今年、同じグラフ社から『篤姫 わたくしこと一命にかけ』を刊行され、大河ドラマ『篤姫』の時代考証を担当されている原口氏による新著です。小松帯刀は一般的な知名度は低いですが、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ、あるいはそれ以上かもしれない幕末薩摩藩の逸材です。大河ドラマ『篤姫』でも重要な役割を演じるであろう小松の生涯を、原口泉氏が1冊にまとめました。

原口氏が新著の冒頭において、「小松帯刀は、坂本龍馬をはじめ西郷隆盛や大久保利通といった、巷間広く知られている幕末の英雄たち以上に、幕末史に影響を与えた人物、『龍馬を超えた男』だったのではないか」と述べています。原口氏がそれほどまでに高く評価する小松帯刀の事績を、多くの人に知ってもらいたいという願いが込められた書物です。

そのほか、まだ購入はしておりませんが、3月刊行で気になった書籍をいくつか。順不同です。

●村上泰賢編『小栗忠順のすべて』(新人物往来社)
●猪飼隆明『西南戦争‐戦争の大義と動員される民衆‐』(吉川弘文館)
●一坂太郎『幕末・英傑たちのヒーロー‐靖国神社前史‐』(朝日新書)
●安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書)


新人物往来社の『○○のすべて』シリーズは、『伊庭八郎のすべて』などのマイナーどころも出されているので、むしろ小栗忠順(上野介)は出ていなかったのかと意外な感じがしたぐらいです。

そのほか、朝日文庫版の萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の、第11巻と第12巻が出ました。11巻は『北京交渉』、12巻は『賜暇』です。

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2008年3月31日 (月)

京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場

以前、タイトルと著者名だけご紹介したことがありますが、雑誌『ヒストリア』第206号(2007年9月)に、馬部隆弘氏の「京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場」という論文が掲載されています。幕末期の京都防衛の重要拠点と言うべき楠葉台場について考察したものです。以下、馬部氏の論文の内容を、あくまで部分的になってしまいますが、紹介していきましょう。

馬部氏の論文は、軍事史的観点からの事例紹介にとどまっていた台場研究と、あるいはそれと切り結ぶことのなかった考古学的成果をも踏まえた上で、台場遺構を幕末政治史の素材として検討しています。その観点で分析の対象となったのが楠葉台場。

楠葉台場は、淀川沿いで山城国との国境にあたる河内国交野郡楠葉村(現在の大阪府枚方市)に設置されていたものです。完成は慶応元年で、設計者は勝海舟。

その楠葉台場について、会津藩との密接な関わりを指摘しているのが、馬部氏の論文でもあります。もともと、淀川に台場を築く計画は朝廷内の、国事御用掛の設置を推進した人物あたり(特に馬部氏が指摘しているのは正親町三条実愛)から出たものだと、馬部氏は分析しています。文久2年末のことです。もちろん攘夷の目的で、淀川に外国船が入ってくることを危惧したことによります。

ただ、その構想について意見を尋ねられた諸藩の間では、台場の築造不要との意見が大勢を占めていました。そのとき京都にいた会津藩重臣も、調査の結果として台場の築造については積極的に必要性を主張しなかったようです。結局、文久3年2月、淀川台場構想は沙汰やみとなりました。

ところが、それから約1ヶ月後の文久3年3月、会津藩主にして京都守護職の松平容保が、八幡・山崎に関門を築くべきとの建白を、幕府要路に宛てて提出したというのです。八幡・山崎というのは淀川沿いですから、2月に沙汰やみとなって、しかも会津藩自身も消極的だった淀川防衛の構想を、会津藩自らが再燃させたらしいのです。ただ、朝廷が提案した台場の構想ではなく、陸上の関門だという点が、会津藩の独自性のようです。

いずれにしても、最初は淀川沿いの防衛に消極的だった会津藩が方針を転換させた理由は、馬部氏によれば尊攘派への対応方針の転換が理由だったようです。つまり、最初は尊攘派に対して温和な態度で臨もうとしていた会津藩が、全面対決も辞さない構えになったことが要因と馬部氏は見るのです。

つまり、会津藩が設置を望む関門というのは、攘夷の目的ではなく、西国から来る尊王攘夷派浪士の入京を制限する目的だったようなのです。やがて、8月18日の政変が起きたことで、その関門には浪士だけでなく、長州藩士の入京をも制限する目的が付加されるようになります。

ともあれ、その関門は実際に作られることになり、それが楠葉台場ということになります。「関門」なのに「台場」の形態を採用しているのは、攘夷対策のための台場を作りたかった朝廷の意を汲み取ってのことだと、馬部氏は推測されています。また、現実に攘夷に役立つかどうかはともかく、ともかく攘夷対策の台場を作ったという政治的アピールを、朝廷に対してする目的もあったと馬部氏は推測しています。

さらに馬部氏によれば、アピールは朝廷に対してだけではなく、広く一般にもされていただろうとのこと。つまり、京都・朝廷を守るのは京都守護職・会津藩および幕府なのだということを、世間に知らしめる目的があった、そのため最新の築城技術を取り込んで作られたのだと、馬部氏は述べています。

そのような目的のため、楠葉台場は台場を関門として利用するという形態になったのだそうです。それが仇となって、現在では「楠葉台場」と「楠葉関門」が別の施設であるかのように誤解される場合もあって、研究史上の混乱を招いていたとか。

ともあれ、楠葉台場の設置に京都守護職・会津藩が密接に関わっていて、尊攘派・長州藩対策の目的があったとなると、その重要性は言うまでもないことでしょう。それゆえに、楠葉台場跡は現在、大阪歴史学会(『ヒストリア』を発行している学会です)などが保存を求めています。

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2008年3月30日 (日)

HP「幕末維新史を読む」 更新情報

私が作成している別HP「幕末維新史を読む」を、少しだけ更新して、以下の文献を追加しました。

「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」に以下の文献を追加

★青山忠正『明治維新史という冒険』思文閣出版、2008年
★田中洋史「長岡出身の新選組隊士―再興長岡藩東京藩邸の風景」
『長岡郷土史』第44号、2007年
★松尾正人編『日本の時代史21 明治維新と文明開化』吉川弘文館、2004年

「中岡慎太郎についての主な研究文献」に以下の文献を追加

★高知県立歴史民俗資料館・高知県立坂本龍馬記念館・北川村立中岡慎太郎館編
『特別展三館合同企画 坂本龍馬・中岡慎太郎展‐暗殺一四〇年!-時代が求めた"命"か?‐』高知県立歴史民俗資料館、2007年

今年は戊辰戦争が勃発した年から140年、日米修好通商条約の年から150年です。それだけではなく、平成20年という節目の年ということもありまして、今年も幕末維新史について、色々と興味深い研究が出てくるのではないかと楽しみにしています。

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2008年3月19日 (水)

下野の幕末維新

國學院大學栃木短期大学史学会が発行している『栃木史学』第20号(2006年3月)に、宮地正人氏の「下野の幕末維新」という論文が掲載されています。

その論文の概要としては、宮地氏自身が論文冒頭で述べている言葉を引用すれば、「私がこれまで当該時期の下野に関し、折にふれ史料を見、そこで興味を引かれてきたいくつかの事件・人物に筋をつけ論理を組みたててみると、どのような歴史像を構成できるのか、という一つの試論」ということになります。

宮地氏が「下野の幕末維新」というテーマに関心を持った最初のきっかけは、栃木県都賀郡の『壬生町史』編纂に協力したことだったそうです。その際に、幕末維新期の政治的変動が壬生藩という三万石の譜代小藩にもしっかり刻印されていることを感じ取り、また壬生藩尊攘派のリーダーが百姓身分出身の松本誠庵という独眼流の医者だったことが、強く印象に残ったのだそうです。

その後、島崎藤村の『夜明け前』の歴史的背景を探るため、中津川での史料調査をしていたところ、予想外に松本誠庵の書簡を発見することができ、幕末維新期の下野を一地方史にとどまるものとしてではなく、全国的政治動向の中に組み入れて論じることが可能なのではないかとの手応えを感じられたとのこと。

さらには、『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)の執筆過程において、下野から浪士組に参加した人物が案外多いことに改めて驚き、佐野市で行われた田中正造に関する講演会の準備過程で、下野(特に西南地域)の歴史的動きの特質・面白さに確信を抱かれたようです。

宮地氏の論文は、以上のような興味・関心に沿って叙述されています。最初の章が「ペリー来航と下野の諸藩、旗本領」と題され、続いて、「在村漢学塾の族生」、「平田国学の浸透」、「坂下門外の変と下野政情の変化」、「浪士組徴募と下野」、「筑波挙兵と下野」、「亀山・横田と中津川宿」、「水戸学から平田国学へ」、「出流山事件と下野」、「御一新と下野の志士達」といった章が設けられています。まさに下野の事情や、下野出身者の政治活動が、全国的政治動向の中に位置付けて考察されています。

ちなみに、宮地氏が最初に注目した松本誠庵は新政府の中でしっかりとした政治的地歩を築いていたようです。松本は脱藩して上京後、尾張藩を頼って活動し、さらには刑部省・司法省で働くこととなり、佐々木高行の厚い信頼を勝ち取ったらしいです。色々と知らなかったことが記されていて、興味深く読むことができました。

宮地氏は論文の最後において、次のように述べています。

明治維新というと、すぐに薩摩の西郷、長州の高杉、土佐の坂本といった話となる。しかし、なにも西をむく必要はさらさら無い。この下野の地にもまた、幕末維新期の変革を考えさせる上での大切な材料がごろごろころがっているのである。地元の史料に関心をよせず、はるか離れた遠方の史料を見たところで、それほどの発見があるとは思われない。下野をふくめ、各地域からの視座と各地域からの史料によってこそ、地域にねざした幕末維新の物語りがつむぎ出されるのだ、と私は考えているのである。

上に引用した宮地氏の言葉は、従来の幕末維新史研究が西南雄藩の研究に偏りすぎていたことの批判ともなっていて、重く受け止める必要があるだろうと私は感じています。幕末維新の変動・変革・激動は、何も薩長をはじめとする西南雄藩だけで起きていたものではなく、全国各地で起きていたことだということです。

今回ご紹介した論文で、宮地氏は、下野の政治状況や下野出身者の政治活動が、全国的な政治動向や中央政局の動向と密接に関係していたことを論述しています。薩摩には薩摩の、長州には長州の幕末維新史があるように、下野には下野の幕末維新史があるということです。もちろん、その他の地域も同様でしょう。それら様々な地域に根ざした研究が促進されることで、幕末維新史全体の認識を変化させるような発見が出てくるかもしれません。個人的には、そんな発見が意外なところから出てくるのに期待したいものです。

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2008年3月12日 (水)

HP「幕末維新史を読む」 最近の更新情報

HP「幕末維新史を読む」の、今年に入ってからの更新情報。以下に記載した通りの文献を、HPに追加掲載しました。

2008年3月4日更新内容
「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」に以下の文献を追加

★遠藤潤『平田国学と近世社会』ぺりかん社、2008年
★小河扶希子『平野國臣』西日本新聞社、2004年
★久住真也「幕末政治史研究発展のために‐奈良勝司氏による拙著書評について‐」『日本史研究』第545号、2008年
★奈良勝司「書評 久住真也著『長州戦争と徳川将軍‐幕末期畿内の政治空間‐』」『日本史研究』第536号、2007年
★八王子市郷土資料館編『八王子の天然理心流‐受け継がれた剣術・槍術・棒術‐』八王子市教育委員会、2008年
★宮地正人「下野の幕末維新」『栃木史学』第20号、2006年
★山口宗之『真木保臣』西日本新聞社、1995年

「中岡慎太郎についての主な研究文献」に以下の文献を追加

★豊田満広「中岡慎太郎から岩倉具視への書状が見つかった!」『歴史読本』第825号、2008年

2008年1月16日更新内容
「川村恵十郎研究文献」に以下の文献を追加

★川村文吾「旧幕臣川村正平(惠十郎)の生涯 補遺」『大日光』第74号、2004年

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2008年3月 1日 (土)

池田屋事件の基礎的考察

講談社現代新書で『池田屋事件』を刊行されるご予定の中村武生氏には、「池田屋事件の基礎的考察―『御所向放火』をめぐって」という論文があります。奈良歴史研究会が発行している『奈良歴史研究』第65号(2006年3月)に掲載されている論文です。

文久3年の8月18日の政変から、翌元治元年の禁門の変に至る政治過程の解明を期したもので、原口清氏の先行研究と密接な関連を持つテーマで、原口説を批判しながら論述が展開されています。

原口清氏の先行研究とは、私も過去に「池田屋事件についての原口清氏の問題提起」という記事で部分的に紹介したことがある、「禁門の変の一考察」という論文。名城大学が発行している『名城商学』第46巻第2号と第46巻第3号(どちらも1996年)に、2回にわたって掲載された論文で、昨年刊行された『原口清著作集2 王政復古への道』(岩田書院)に再録されています。

池田屋事件の発端は、よく知られているように古高俊太郎が新選組に捕縛されたことによります。従来、古高は「御所辺放火」の計画を供述したとされていましたが、原口清氏はその計画の存在を否定的に捉えていたのです。中村武生氏はその点を再検討されています。

中村氏は、原口氏の論文が発表された数年前に、著名な新選組研究家の菊地明氏が紹介した史料を、古高俊太郎の供述書(の、良質な写本)だと判断しました。その供述書には、中川宮朝彦親王の屋敷を放火する計画について記されていました。中村氏は供述書という性格上、古高がすべての事実を正直に供述していない可能性も想定して注意しつつ、どうも中川宮の屋敷を放火するという計画に関しては事実を供述しているらしいと判定されました。

中川宮の屋敷は御所のすぐ近くにあったため、中川宮の屋敷に火をつけるということは、すなわち「御所辺放火」と同じ意味を持つ…と中村氏は判断されました。つまり、原口清氏が存在を否定した「御所辺放火」計画を、中村氏は確かに存在した計画だと論じたのです。

しかし中村氏は、「御所辺放火」計画が事実だったとしても、それが新選組の池田屋襲撃に結び付いたとは見なしません。何故なら、池田屋事件直後に書かれた会津松平家家臣の公的な書簡には、古高の供述内容を知っているとは思えないようなことしか記されていないからです。

つまり、古高の供述は池田屋事件の前になされたものではなく、事件の後になっての供述であって、池田屋事件の前には新選組も会津藩も、「御所辺放火」計画のことを知らなかったのではないかということです。新選組が池田屋に踏み込んだのは古高の供述によるものではなく、古高とその周辺の連中がどうも怪しいという、そういう曖昧な理由によるものだったのかもしれないということです。

中村氏の考察・論点はほかにも色々ありますし、今回取り扱った話題についても、かなり要約してしまっている部分も多いので、興味のある方はぜひご自分でお読みになってください。個人的な印象として、中村氏の述べていることには説得力があって、納得できるものでした。『池田屋事件』の刊行も心待ちにしたいところです。

ついでながら、最後に余談を述べておきます。新人物往来社から最近発売された『図説 新選組クロニクル』(『別冊歴史読本』98)には、藤堂利寿氏の「『池田屋事件』論争」という文章が掲載されていて、池田屋事件に関する研究史を紹介していますが、今回紹介した中村武生氏の論文や、同じく中村氏の別の論考(例えば、「古高俊太郎考」『明治維新史研究』創刊号)については言及されていませんでした。非常に残念です。

また、町田明広氏の「池田屋事変における吉田稔麿について」(『霊山歴史館紀要』第16号)も、池田屋事件の研究史を語る上では重要だと思うのですが、言及されていませんでした。こちらも残念でした。

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2008年1月31日 (木)

幕末維新史 2007年の主要記事40

昨年書いた幕末維新史関連の記事のうち、特に力を入れたものや個人的にオススメしたい記事などを以下に40個ピックアップしてみました。興味のある方はぜひお読みください。

新選組にも関連のある、多摩地域・多摩出身者の近代史(1/13)

中間層論からみる浪士組と新選組(1/17)

幕末の武士は、みんな佐幕的で勤王精神あり?(1/30)

維新の変革と幕臣の系譜(2/3)

幕末英雄史観(2/9)

文久期の相楽総三(2/25)

情報戦としての将軍進発問題(3/1)

歴史家・高橋秀直氏の論文をネットで(3/8)

服部之総「新撰組」(3/25)

イギリス軍艦「イカルス」号水夫暗殺一件(4/11)

幕末の老中・阿部正外と中根雪江の会話(4/14)

長州再征と福沢諭吉(4/18)

暗殺-明治維新の思想と行動-(4/23)

龍馬暗殺事件をめぐって(5/3)

志士たちの詩<うた>(5/12)

「兵農未分離」の八王子千人同心(5/28)

公家討幕派の独自性(6/7)

幕長戦争までの伊予諸藩の動向(6/10)

『史学雑誌』回顧と展望 2006年の歴史学界(6/20)

新選組隊士 武田観柳斎について(6/30)

「龍馬暗殺」議論において軽視されていること(7/7)

孝明天皇の死因について(7/12)

王臣と陪臣と(7/21)

新選組に対する申し訳ない気持ち(7/30)

文久3年8月18日政変についての最新の研究(8/4)

草莽の志士・城多董(8/10)

山内容堂の「風流」(8/14)

天領における草莽の志士の行動と思想(8/25)

幕末維新期の山科郷士と「勤王思想」(9/7)

長州藩・小倉藩の確執と、朝陽丸事件(9/12)

幕末維新期の農民日記と新選組(9/21)

幕末中央政局における朔平門外の変(10/9)

『長州戦争と徳川将軍』の書評いろいろ(10/15)

定本 坂本龍馬伝―青い航跡(11/1)

元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募(11/8)

孝明天皇と岩倉具視(11/10)

幕末政治史研究の現状と課題(11/16)

津山藩と幕末政局(12/2)

中津川国学者と薩長同盟(12/15)

湯浅五郎兵衛と幕末維新(12/21)

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2008年1月 6日 (日)

京都守護職に対する幕府の財政援助

『お茶の水史学』第45号(2001年)に、新田美香氏の「京都守護職に対する幕府の財政援助」という論文が掲載されています。幕末の、「京都守護職中の会津藩の財政収入、就中幕府の財政援助の実態を明らかにしよう」と試みた論文です。…と言っても、私はまだ、パラパラ拾い読みしただけで全部に目を通していない段階なので、その内容を断片的に紹介します。

大口勇次郎氏や飯島千秋氏の幕府財政に関する研究、あるいは庄司吉之助氏の会津藩財政に関する研究を踏まえた上での論文です。具体的には例えば、以下のような文献が挙げられるでしょう。

・大口勇次郎「文久期の幕府財政」(家近良樹編『幕政改革』吉川弘文館、2001年)
・飯島千秋『江戸幕府財政の研究』(吉川弘文館、2004年)
・庄司吉之助『京都守護職と会津藩財政』(歴史春秋社、1981年)

ただし、上記の飯島氏の著書などは新田氏の論文が公にされた後での出版となるため、新田氏の論文には出てきません。しかし、新田氏が紹介している飯島氏の論文を収録しています。新田氏はほかにも、色々な研究成果をご自身の研究に取り入れているようです。

冒頭で述べたとおり、私はまだ新田氏の論文をすべて読んだわけではなく、パラパラ拾い読みしただけの状態です。ただ、その中でいくつか目に付いた記述もありまして、例えば京都守護職が「譜代・旗本を中心とした従来の幕府政治機構の改変を意図して、一橋慶喜・松平慶永の指導下において設置されたという性格上、財政の決定権をもつ在江戸の老中・勘定所とは対立することもしばしばであった」ことを指摘しています。

また、「元治元年に稲葉正邦の『御英断』により、会津藩に一万両の拝借が認められていることを考えれば、在京の老中にも財政に関するある程度の裁量権があったと考えられるが、手当支給など重要事項についての最終判断は江戸においてなされていたようである」といった事実も指摘しています。

新田美香氏の論文「京都守護職に対する幕府の財政援助」は、例によって国立情報学研究所のCiNii(論文検索サービス)から、PDFで閲覧できます。コチラのページが、閲覧直前のページです。興味のある方は、ぜひご自身でお読みください。

ちなみに、「お茶の水女子大学 教育・研究成果コレクション Tea Pot」からも、閲覧することができます。

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2008年1月 4日 (金)

京都守護職に関する昨年の論文ほか

昨年、タイトルに「京都守護職」を含む論文がいくつか公にされました。私が知っているものだけでも、以下の3つがあります。…と言っても、杉谷昭氏のものは京都守護職を分析したものではなく、山川浩『京都守護職始末』において幕末政局がどのように描かれているのかを考察したものですが。

・杉谷昭「『京都守護職始末』にみる文久年間」(『諫早史談』第39号)
・杉谷昭「『京都守護職始末』にみる元治・慶応」(『純心人文研究』第13号、長崎純心大学)
・馬部隆弘「京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場」(『ヒストリア』第206号)

上記のうち、杉谷昭氏の「『京都守護職始末』にみる元治・慶応」は、国立情報学研究所の「CiNii 論文情報ナビゲータ」からPDFで閲覧することができます。下記のリンクをクリックしていただければ、杉谷氏の論文がすぐに開きます。

『京都守護職始末』にみる元治・慶応

上記の論文は、HP「幕末維新史を読む」を最近更新した際にも、追加で掲載しました。また、HP「幕末維新史を読む」には下記の文献も追加掲載しています。

・辻ミチ子『女たちの幕末京都』(中公新書、2003年)
・芳賀登・右島亜希子「和歌を通路にしてみた戊辰戦争‐会津藩を中心にして‐」(『東京家政学院大学紀要』第36号、1996年)

それから以前、HPの更新作業中に何らかのトラブルで、一部のデータが消えてしまっていたようなので、できる範囲で修正しました。

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2007年12月29日 (土)

年末なので

2007年も残すところ、あとわずか。小休止ということで、過去記事をご覧ください。

ディズニー関係オススメ過去記事30

思い入れがある歴史記事10個

2005年に書いた歴史系記事、厳選20

2005年に書いたディズニー系記事、厳選20

2006年 オススメ記事50

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2007年12月21日 (金)

湯浅五郎兵衛と幕末維新

青山忠正監修『湯浅五郎兵と幕末維新』(日吉町郷土資料館、2005年)という図録があります。京都府にある日吉町郷土資料館が、2004年に開催した企画展「湯浅五郎兵衛と幕末維新」の、展示解説図録です。池田屋事件で死んだ北添佶麿や、天誅組を結成した吉村寅太郎、あるいは佐久間象山を暗殺したことで知られる河上彦斎、神風連の乱の中心的人物だった加屋栄太らが湯浅五郎兵衛に宛てて書いた書簡などが掲載されています。

もっとも、湯浅五郎兵衛という人を、よく知らない人は少なくないはず。私も、この図録を読むまで、湯浅五郎兵衛の事績について、ほとんど知りませんでした。五郎兵衛は丹波国船井郡に生まれた郷士で、五郎兵衛が政治活動を始める事になるきっかけは、湯浅家が肥後細川家と血縁関係があったことにあるようです。肥後出身の志士・松田重助(後、池田屋事件で新選組に斬殺される)の訪問を受けたことによって、五郎兵衛は肥後藩の勤王党のメンバーと交流を持ちながら政治活動を始めたらしいです。

新選組による池田屋事件襲撃の前、古高俊太郎という志士が新選組に捕縛され、それが池田屋事件につながっていったことはよく知られていますが、古高が養子として継いだ枡屋という商家は、湯浅五郎兵衛家の分家でした。新選組に捕縛された頃の古高俊太郎は湯浅喜衛門と名乗っていて、もちろん五郎兵衛とも交流があります。枡屋には池田屋事件の災難に遭う志士たちが多数出入していて、五郎兵衛もそれによって交友関係を広げて政治活動の幅を広げていたようです。

五郎兵衛は当初、天誅組にも参加する予定だったらしく、また、公家の鷲尾隆聚邸に潜伏して政治活動を行っていたこともあるようです。もちろん、新選組に狙われたこともあります。最初は肥後藩勤王党の意に沿うような形で政治活動を始めた湯浅も、段々と活動の幅を広げて、特に長州藩との関係も深めたようです。一説によると、薩長同盟の周旋に向けて尽力し、木戸孝允が西郷隆盛ら薩摩藩代表との会談のため上京した際には同行したとか。

明治元年には河上彦斎と共に、肥後藩の「外向御用懸京地詰」に就任し、明治2年には岩倉具視の附属として、京坂地域での情報収集を行っていたとか。死後、従五位を贈られています。

ともかく、湯浅五郎兵衛はあまり知られていない志士の1人ですが、よく知られている志士たちと交わりつつ、なかなか興味深い政治活動を行っていたようです。史料不足のため、五郎兵衛がどのような考えで幕末政局に臨んでいたのか、はっきりわからない部分が多いようですが、その解明に少なからず寄与しそうな資料が、図録『湯浅五郎兵と幕末維新』に掲載されているのです。掲載されている資料の解説は笹部昌利氏と平良聡弘氏が担当されています。

ちなみに、『湯浅五郎兵と幕末維新』には面白いコラムと、「特集史論」と題された論稿が掲載されています。まず、掲載されているコラムは以下の通り。

Ⅰ 辻ミチ子「おんな勤王家-若江薫子の生涯-」
Ⅱ 笹部昌利「「志」の背景-一領具足から土佐勤王党へ-」
Ⅲ 平良聡弘「明治の義挙と敬神党」
Ⅳ 笹部昌利「贈位のゆくえ-ある志士の顕彰運動と近代日本-」

辻ミチ子氏は『女たちの幕末京都』(中公新書、2003年)の著者。Ⅰは湯浅五兵衛とも交流があり、明治天皇の皇后となる寿栄姫の侍読を務めていた若江薫子についてのコラム。Ⅱは武市半平太や吉村寅太郎ら土佐勤王党出身者について。Ⅲは神風連の乱で知られる敬神党について。Ⅳは天誅組に参加していた松本奎堂について。

一方、「特集史論」は3つ掲載されていて、どれも読み応えのある論稿になっています。「特集史論」として掲載されている論稿は以下の通り。

1 青山忠正「草莽の明治維新―志士と攘夷論」
2 笹部昌利「志士と由緒―丹波郷士湯浅五郎兵衛と幕末政治をつなぐもの」
3 平良聡弘「明治初年における志士の政治活動―丹波郷士湯浅五郎兵衛の「御一新」」

青山忠正氏はここで紹介している図録の監修者で、『明治維新と国家形成』(吉川弘文館)などの著書がある幕末政治史研究者です。どの論稿も面白い内容が含まれていて、読んで損はありません。

図録『湯浅五郎兵と幕末維新』は掲載されている史料も、論稿も、どれも面白いので、幕末政治史や、いわゆる「勤王の志士」に興味のある方にオススメしたい図録です。日吉町郷土資料館では通信販売も行っているようなので、購入しやすい図録と言えそうです。

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2007年12月 4日 (火)

HP更新情報と、最近の個人的注目書籍

11月に発売された幕末維新史関連書籍のうち、個人的に気になったものをいくつか紹介。

まず、保谷徹『戦争の日本史18 戊辰戦争』(吉川弘文館)。これは、原口清・石井孝・佐々木克・工藤威といった、戊辰戦争についての代表的な研究者の研究を踏まえながら、軍事史の視点から戊辰戦争を考察したものです。

それと、同じく吉川弘文館から刊行された、伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』第3巻も気になっています。

新人物往来社から発売された、鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』と、徳永和喜『天璋院篤姫-徳川家を護った将軍御台所-』も気になるところ。

鈴木氏は日本中世史を主に専門とされているそうですが、横須賀市(晩年のお龍が住んだ土地)からお龍に関する史料の調査を頼まれて、お龍の調査研究に入っていかれたとのこと。徳永氏は『薩摩藩対外交渉史の研究』(九州大学出版会、2005年)という著書をお持ちの研究者です。

そして、『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄-』の著者として知られる研究者・萩原延壽氏の過去の著書をまとめた、『萩原延壽集』(朝日新聞社)の刊行が始まりました。その第1冊目は『馬場辰猪』です。萩原氏の最初の著書『馬場辰猪』(中央公論社、1967年)をベースに、付録に初公表のものを含む数篇の論稿を収録しています。

『萩原延壽集』は全7冊で、毎月1冊ずつ刊行されるそうで、次回は『陸奥宗光』上巻、そしてその次が『陸奥宗光』下巻です。萩原氏の『陸奥宗光』上下巻(朝日新聞社、1997年)をベースにしたものになるようですが、萩原氏の陸奥宗光研究は定評があるので、楽しみです。

以下、HP「幕末維新史を読む」の最近の更新情報。
「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」のページに、以下の3つの文献を追加。

・青山忠正監修『湯浅五郎兵衛と幕末維新』日吉町郷土資料館、2005年
・友田昌宏「幕末政治研究の現状と課題」『歴史評論』第691号、2007年
・保谷徹『戦争を読む18 戊辰戦争』吉川弘文館、2007年

「薩長同盟についての主な研究文献」のページに、以下の文献を追加。

・葦津珍彦「薩長連合の政治史」
『「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ2 永遠の維新者』葦津事務所、2005年

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2007年11月 8日 (木)

元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募

今年刊行された『國學院雑誌』第108巻第5号(通巻1201号)に、加藤弘之氏の「元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募」という論文が掲載されています。

幕末の中央政局(幕藩権力)に包摂されていく草莽層集団の実態と、中央政局における草莽層集団のダイナミズムの持続に関する問題を、「一橋徳川家における草莽層集団的性格を持つグループ」を対象として考察した論文です。以下、その内容をごく簡単に紹介していきます。

幕末の一橋家は軍事力が不足していたため、外部から積極的に人材登用を進めました。加藤弘之氏は上記論文で、その一環である関東の有志徴募を大きく取り上げ、「出自・思想・行動等で新撰組のような草莽層集団と近似する性格がみられる」と指摘しています。

一橋家に登用された渋沢栄一と渋沢成一郎は、一橋慶喜をして幕府に攘夷実行させることを目指し、活動します。渋沢両名は、そのために関東での有志徴募を画策しますが、その狙いは単なる農民兵の徴募ではなく、攘夷を目指す同志集団の形成にあったと加藤氏は述べています。政治的な志を持たない農民ではダメだったのです。そして撃剣に優れていることも、渋沢両名が重視したポイントです。

ところが、渋沢両名を支持していた平岡円四郎が暗殺されると、一橋家上層部は有志徴募に消極的な姿勢を示したようです。むしろ、一橋家上層部は一橋家の軍事力を整える上で、渋沢両名が重視していた剣術の腕前や志を持つ者の登用を、制限する方針に出ていたようです。

加藤氏によれば、「上層部が求めたのは、命令が浸透し均質な行動をとれる組織的軍隊であり、そのために農民―銃撃戦に不要な撃剣を身につけておらず、思想的個性もない者たちを徴発しようとした」そうです。そのため、撃剣に優れた関東の有志たちも、結局は銃隊に編成され、農民兵たちと同様の扱いになったそうです。「有志たちの身に付けた武士文化は武芸・思想両面とも顧みられなかったのであり、一橋家という組織のなかで存在意義を失いつつあった」ということが言えそうです。

しかし鳥羽・伏見の戦い後、一橋家の当主であった徳川慶喜が朝敵となったとき、これに敏感に反応して彰義隊を結成したのは、それこそ一橋家の中で存在意義を失っていた関東の有志たちだったと指摘されます。慶喜の冤罪を雪ごうとする自発的な行動です。

関東から徴募された有志たちはそれ以外の人々(例えば一橋家譜代の家臣)に比べて、「有志のダイナミズムは、一度否定されても根強く残っていた」と加藤氏は述べ、そのようなダイナミズムは維新政権側と旧幕府側とを問わず、当時の草莽層にとって普遍的な心性だったのではないかと結論付けられています。

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2007年10月27日 (土)

近藤勇の書簡(慶応3年11月11日付)

「新選組検証!」さんのブログ(10/8の記事)に、近藤勇書簡集の出版を切に願う旨の記述があるのを最近読みました。近藤勇書簡集の出版は、もとより私も望んでいることです。何故なら、新選組の研究(新選組をメインテーマに据えたものだけでなく、間接的に言及するものも含む)の質を向上させるためには、近藤勇の書簡はかなり重要だと感じられるからです。

何せ、近藤勇は新選組隊士たちの中でも最も多くの手紙を書き、その手紙も長文のものが多く、政治的に重要な内容も多く含んでいる場合が多いからこそ、重要だと思うのです。おまけに、近藤が郷里・多摩に宛てた手紙の多くは、多摩の有力者たちにも回覧されていたようで、多摩地域の指導者たちの政治意識に、近藤の手紙は大きな影響を及ぼしていた節もあるからです。

「新選組検証!」さんのブログ(10/8の記事)を読んで触発された部分もあるので、インターネット上で読める一通の近藤書簡を紹介しましょう。すでに、宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)に部分的に引用されていた書簡です。慶応3年11月11日付、松本良順宛ての書簡で、東京大学史料編纂所で所蔵している『大日本維新史料稿本』に収録されています。

慶応3年11月と言えば、すでに大政奉還の後です。その頃の近藤は大政奉還以前の幕政に何とか戻そうとして、色々と画策していたと言われることがありますが、松本良順宛ての書簡には、近藤勇の考え方がよく出ていると思います。

書簡を読む方法ですが、まず東京大学史料編纂所のHPに飛んでください。そこから、「データベース検索」のページに行き、さらに「データベース検索」ページの一番下に書かれた「データベース選択画面」をクリックします。

「データベース選択画面」にたどり着いたら、「維新史料綱要DB」をクリックします。するとキーワード検索の画面に移りますので、「近藤勇」をキーワードにして検索し、「慶応3年11月11日」と記された「No.12」の「詳細」をクリックします。そして、移動先の画面で「イメージ」をクリック。

そして、小さい画面が開きますので、左側の「0884.tif」、「0885.tif」、「0886.tif」あたりをクリックしてみてください。近藤勇の書簡が表示されます。クリックすると、「ファイルのダウンロード」表示が出ますが、「開く」をクリックすれば近藤の書簡が表示されます。

興味がある上に、上記の書簡をまだ読んだことがない方は、ぜひお試しください。

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2007年10月24日 (水)

HP「幕末維新史を読む」 最近の更新情報

最近、HP「幕末維新史を読む」を更新しました。「幕末維新史の中で新選組を考えるための文献」のページに、以下の文献を追加したのです。

・家近良樹『幕末の朝廷‐若き孝明帝と鷹司関白‐』中公叢書、2007年
・石井良助『天皇‐天皇の生成および不親政の伝統‐』山川出版社、1982年
・大江志乃夫『徳川慶喜評伝立風書房、1998年
・正親町季董『明治維新の先駆者天忠組中山忠光』第一書房、1941年

・大口勇次郎「文久期の幕府財政」家近良樹編『幕政改革』吉川弘文館、2001年

・勝田政治『〈政事家〉大久保利通‐近代日本の設計者‐』講談社選書メチエ、2003年
・くにたち郷土文化館編『幕末から自由の権へ‐本田家の人々が見た時代‐』くにたち文化・スポーツ振興財団、2006年
・久保田辰彦『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』大阪毎日新聞社、1931年(改訂版、大阪毎日新聞社、1941年)
・白石良夫『幕末のインテリジェンス‐江戸留守居役日記を読む‐』新潮文庫、2007年
・杉谷昭「『京都守護職始末』にみる元治・慶応」『純心人文研究』第13号、長崎純心大学、2007年
・瀬尾謙一編『元見廻組肝煎渡辺篤略年表』私家版、1977年
・瀬尾謙一『撓のひびき』神修館、1982年

・中田早智子「京都守護の基礎的考察」『聖心女子大学大学院論集』第26巻第1号(通号26号)、2004年
・中村春作『江戸儒教と近代の「知」』ぺりかん社、2002年
・中村武生「幕末の動乱をみた道-上街道と天誅組の乱・冷泉為恭暗殺-」天理大学文学部編『山辺の歴史と文化-天理大学創立八十周年記念-』奈良新聞社、2006年
・新田美香「幕末期の農兵組織‐会津藩預所を例として‐」『人間文化論叢』第1号、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科、1998年
・新田美香「京都守護職に対する幕府の財政援助」『お茶の水史学』第45号、2001年

・平尾道雄『吉村虎太郎-天誅組烈士-』大道書房、1941年(土佐史談会、1988年)
・町田明広「幕末中央政局における朔平門外の変-その背景と影響について-」『日本歴史』第713号、2007年
・毛利敏彦『明治維新の再発見』吉川弘文館、1993年
・望月始『告白の告発‐祖父の戊辰戦争体験記に託して‐』三和書房、1974年
・由井正臣編著『幕末維新期の情報活動と政治構想‐宮島誠一郎研究‐』梓出版社、2004年
・吉見良三『天誅組紀行』人文書院、1993年

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2007年9月21日 (金)

幕末維新期の農民日記と新選組

赤報隊をはじめとして、草莽諸隊や草莽の志士の研究で著名な維新史研究者・高木俊輔氏は、近年は農民が書き記した日記を研究素材にして、幕末維新期の農民生活史を描くことに取り組んでおられます。

例えば昨年に限って言えば、高木氏は、「幕末維新期農民日記にみる地域情報‐『大黒屋日記』の諸家関係記事について ‐」(『立正大学文学部論叢』123号)という、農民日記を研究素材にした論文を発表しています。

近年の高木氏はそのほかにも、色々な農民日記を研究素材にしています。その1つに、「富沢家日記」の分析があります。富沢家は武蔵野国多摩郡連光寺村において、名主を務めていた家です。

「富沢家日記」は天保14(1843)年から明治41(1908)年までの分が現存していて、国文学研究資料館に所蔵されています(閲覧可能です)。そのうち、安政7(1860)年~明治2(1869)年の分は翻刻されて、国文学研究資料館史料館編『史料叢書5 農民の日記』(名著出版、2001年)として刊行されています。その解説を書いているのが、高木俊輔氏です。

また、高木氏にはほかに、「幕末維新期の日記史料研究‐武蔵野国多摩郡連光寺村『富沢家日記』の場合‐」(『立正大学文学部研究紀要』20号、2004年)という論文もあります。タイトルどおり、「富沢家日記」を研究素材にした論文で、「在地に生きた、ごく普通の、どこの村でも見かけたような農民の手になる日記から、民衆生活史を組み立てること」を目的に書かれたものです(色文字部分は高木氏の論文からの引用)。

高木氏は同論文で、多摩地方の農民の手になる日記はたくさん現存していることを指摘し、2004年時点ですでに活字化されている多摩地方の農民日記22点を、表にまとめてくれています(例えば『小島日記』や比留間七十郎の日記など)。多摩地方の農民日記に興味のある人には、とても便利です。

これは私の興味関心によるところが大きいのですが、高木氏が取り上げた「富沢家日記」ほか多摩地方の日記は、新選組を知る上でも役立つものが多いはずです。高木氏も、「幕末期多摩地方の動向としては、新選組関係の情報を欠落させる訳にはいかない」と指摘しています。

もちろん「富沢家日記」にも、新選組情報は登場します。例えば、慶応4年3月6日条には、「新選組近藤勢、甲州警固に差向候処、間に合兼、途中に罷在候由」と記されています。

「富沢家日記」には新選組以外にも、戊辰戦争時の彰義隊の動向などが記されています。新選組や戊辰戦争に興味がある方には、「富沢家日記」をはじめとした多摩地方の農民日記が、有意義な情報を提供してくれそうです。

そのような「富沢家日記」や、そのほか幕末維新期の農民日記を研究している研究者として、高木俊輔氏がいるということを改めて紹介しておきます。著書として刊行されている研究成果には、『「夜明け前の世界」‐「大黒屋日記」を読む‐』(平凡社、1998年)があります。

ちなみに、国立情報学研究所(CiNii)のコチラのページから、高木氏の論文「幕末維新期の日記史料研究‐武蔵野国多摩郡連光寺村『富沢家日記』の場合‐」がPDFで閲覧可能です。興味のある方はご参照ください。

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2007年8月25日 (土)

天領における草莽の志士の行動と思想

雑誌『日本歴史』622号(2000年3月号)には、小佐野淳氏による論文、「天領における草莽の志士の行動と思想‐甲州上暮地村暮地義信を事例として‐」が掲載されています。同論文は、幕末維新期の草莽の志士・暮地義信を研究対象に据えたものです。後述しますが、暮地義信の幕末期の経歴はなかなか興味深いです。

小佐野氏は、草莽の志士たちを7種類の身分に類型化しています。具体的には、①浪人、②郷士、③村役人、④豪農・豪商、⑤中農層、⑥知識層(医者・神官・僧侶など)、⑦博徒の7つです。小佐野氏によれば、暮地義信は③と⑤の折衷型に見ることができるそうです。どういうことでしょうか。

暮地義信の家は甲州の百姓代、つまり村役人を務めてきた家柄です。その意味では上記類型の③と言えるわけですが、甲州の自然環境では余剰農産物の蓄積が困難で、村役人と一般農民の経済格差は特筆するほどのものではないそうです。そのため、⑤の面をも持つと言えるわけです。

その暮地義信が自発的対外活動、つまり志士としての活動を始めた理由を、小佐野氏は2つ指摘します。1つは彼が生まれ育った甲州上暮地村の財政的蓄積基盤(石高185石)。もう1つは、士籍獲得への意志だそうです。

後者については、武士身分獲得を目指して志士活動を行ったというより、むしろ志士として活動するには武士身分の方が都合が良いという側面もあったのではないかとも感じます。ただし、私は義信について詳しく調べたことはないので、あまり強く主張する気はありません。

その義信は江戸の玄武館(北辰一刀流)の道場で、清河八郎と剣の修業をともにしています。また義信は、同じく伊東甲子太郎とも親交を持ちました。慶応3年に義信の門人・高山兵蔵が新選組に入隊する際、義信は高山を伊東甲子太郎に随行させたそうです。清河や伊東の影響を受けたことが、後の義信の行動を規定していきます。

玄武館での剣術修行を経た義信は、清河が指導する浪士組に参加します。そしてその後、江戸で新徴組に所属することになります。小佐野氏は新徴組について、「外圧に対する名分論的対応として成立した尊王攘夷派が、幕藩体制を否定する論理を内在化させた結果、既存の体制の外部にある草莽によって組織されたもの」と定義しています。

そして、新徴組は表向き庄内藩に属したものの、清河八郎の意志を継ごうとする生粋の勤王家も多く、暮地義信はその代表格だと小佐野氏は言います。そのような志を持つ義信は、鳥羽伏見の戦い後、新徴組を脱退して官軍に従い、徳川慶勝のもとで帰順正気隊を組織して戊辰戦争を戦います。帰順正気隊の隊士は出身地も身分もバラバラで、いわば浪士組の小型版だそうです。

小佐野氏の論文では、維新後の義信が郷里の殖産興業に尽くした様子が詳述されていますが、ここでは割愛します。その代わり、私が共感した小佐野氏の考え方を最後に紹介しておきましょう。小佐野氏は、暮地義信のような存在を、幕末維新史全体から見れば一分子に過ぎない存在だと言います。しかし、小佐野氏は次のようにも言うのです。

浪士組も新徴組もその実態は分子の集合体である。分子の正確な把握ができてこそ、幕末諸隊の真の性格を認識できるものと考える。

上記の言葉は気に留めておいて良いと思います。ただ、「分子の正確な把握を通じて、幕末諸隊の真の性格の認識、あるいは幕末維新史全体の重層的な理解に結び付けよう」という意図を忘れると、瑣末な事実の探索に終始する危険性があります。その兼ね合いには気をつけるべきでしょう。

ちなみに、暮地義信には『天性剣術日本武基』、『明倫義信歌集』、『新徴組略記』などの著作があり、それら3つは小佐野淳『富士北麓幕末偉人伝』(山梨日日新聞社出版局、1995年)に収録されています。

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2007年8月20日 (月)

児玉幸多監修『ふるさとが語る土方歳三』

『ふるさとが語る土方歳三』(日野郷土史研究会、2003年)という書籍をご存知でしょうか。日野の郷土史家で新選組研究者でもある谷春雄氏と、日野郷土史研究会主宰の大空智明氏の対談集です。大空氏の質問に谷氏が答えるという形で対談が進んでいきます。タイトルからもわかるとおり、日野出身の土方歳三を中心に新選組全般について、谷春雄氏が語った本です。

私は特に興味のある部分を拾い読みしているだけの段階で、通読していないのですが、谷春雄氏の史料重視の姿勢が印象的です。史料が残っていない(見つかっていない)部分について、谷氏はいい加減な推測や適当な憶測を語ることをできるだけ排除する姿勢が明確です。

例えば、土方歳三を剣の達人であるかのように語ることに対しては、土方が人を斬ったことを証する記録が見当たらないことなどから、慎重な態度をとっています。

日野にある新選組関係史料をたくさん発掘・発表されている谷春雄氏が、読みやすい対談集という形で日野出身の土方歳三について語っていますので、新選組や土方歳三に興味のある方は、『ふるさとが語る土方歳三』を読んでみても損はないと思います(もちろん、谷氏が述べていることすべてに首肯できるわけではありませんが)。ただし、『ふるさとが語る土方歳三』は一般書店では販売していないようです。

ちなみに、谷春雄氏は『ふるさとが語る土方歳三』刊行の翌年、大河ドラマ『新選組!』が始まった2004年に、残念ながら亡くなられています。谷氏は1926(大正15)年の生まれでした。

それから、『ふるさとが語る土方歳三』について、もう1つ特筆しておくべきこととして、監修者が児玉幸多氏(学習院大学名誉教授)だということを挙げておきます。児玉幸多氏は日本近世史研究の大家で、残念ながら先月亡くなられました。

児玉氏は監修者として『ふるさとが語る土方歳三』の原稿にすべて目を通されたそうなのですが、そのときのお歳が何と93歳。児玉氏は1909(明治42)年の生まれです。日露戦争勃発の5年後、韓国併合の1年前ですね。驚きました。

『ふるさとが語る土方歳三』には、児玉幸多氏の執筆による「序」が付いています。その意味でも貴重な書物だと思います。

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2007年8月18日 (土)

HP「幕末維新史を読む」 開設

以前、「新選組関連の研究文献をリスト化する構想」という記事で予告していた、このブログとは別のHPを開設してみました。タイトルは「幕末維新史を読む」で、トップページのURLは下記となります。HPのデザインなどはあまりこだわっていません。作りかけでもありますし。

http://tosatoad.web.fc2.com/index.html

上記の過去記事でお約束していた通り、まずは新選組の関連文献のリストを公開してみました。新選組の関連文献とは言うものの、新選組に直接言及したものばかりでなく、例えば石井孝『戊辰戦争論』(吉川弘文館、1984年)ですとか、梅溪昇『高杉晋作』(吉川弘文館、2002年)ですとか、新選組を直接メインに扱っているわけではない文献も多数掲載しています。

何故そのようにしたかと言えば、「野口武彦『新選組の遠景』読了。新選組中心史観への批判」という過去記事で述べた、野口武彦氏の指摘による「新選組中心史観」を強く意識したからです。新選組ファンの多くは天動説で、新選組の内部ばかりに目を注いでいるが、新選組の真の姿は新選組ばかり見ていたのではわからないという指摘です。

要するに、新選組を取り巻く時代状況や政治状況、あるいは新選組が関わった人物・組織のことや、直接関わりがなくても敵対していた政治集団のリーダーのことなど、色んなことに目配せできた方が、新選組そのものの理解も深まろうというものです。例えば池田屋事件を考えるにしても、新選組のことばかりではなく、当時の長州藩が置かれていた政治状況や池田屋に集まった志士たちについて、詳しく知るべきだと思いますしね。

それは何も新選組に限ったことではないのですが、野口武彦氏が言うように、新選組の場合は特に注意が必要なようですので、あえて新選組に言及していない文献もたくさん紹介しました。そのため煩雑になっているかもしれませんが、ご理解いただければ幸いです。

また、リストは暫定的なものですので、今後も更新し続けることになると思います。新しいものでも古いものでも、私が新たに知った文献を追加していくことになろうと思います。

それから、新選組以外の各組織や各人物、あるいは各事件や各テーマに関する文献も、随時リスト化して掲載していこうと考えていて、ただ今準備中の状況です。特に幕末政治史について興味ある方のお役に立てるような文献リストを掲載していこうと思います。興味のある方は、ご覧になってみてください。

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2007年8月10日 (金)

草莽の志士・城多董

幕末維新期に活躍した草莽の志士・城多董(きだ ただす)をご存知でしょうか。研究もあまりされていない人物なので、一般的には知らない人が多いでしょう。しかし、この城多董は、志士としてなかなか面白い経歴を持っている人物でもあります。

城多董は天保3年、近江国甲賀郡牛飼村(現在の滋賀県甲賀市)に、農業の傍ら搾油肥料商を営む家に生まれました。なかなかの豪家だったようです。しかし、城多は若い頃から家業よりも学問に興味を持ち、家業で上京した折に柳川星巌の門下に参加するなどしていたそうです。

そして城多はペリー来航以来、国事に奔走するようになります。最初は水口藩を拠りどころにして、収集した京都情報を水口藩の儒者・中村栗園や水口藩内の同志に伝えるような活動をしていました。城多が伝える京都情報は、水口藩が尊王攘夷の藩論でまとまるために役立つことになります。

その後、段々と城多も独自の行動を開始し、尊王攘夷派として多くの志士と交流するようになります。文久・元治期に城多が交流していた志士たちは、宮部鼎蔵・松田重助・轟武兵衛・久坂玄瑞・北添佶摩・藤本鉄石・松本奎堂などなど、錚々たる顔ぶれです。池田屋事件や禁門の変で死ぬ尊攘激派の志士たちが含まれています。

しかし、城多はそれらの志士たちと交わりながらも、突出には参加しなかったため、池田屋事件や禁門の変で散ることなく、慶応期まで生き延びます。そして慶応期に入ると、城多は嫌疑をかけられて新選組に追われたり、見廻組に狙われたりします。

見廻組が城多を狙った原因は、水口藩の城多に反対する勢力(城多の立場で言えば俗論党)の密告があったようです。それを城多に教えてくれたのは新選組の伊東甲子太郎。これは慶応2年の夏ごろのことで、伊東がまだ新選組から分離する前のことなので、伊東のスタンスも気になるところです。

また、この伊東と城多の面談を取り次いだのが、のちの赤報隊結成の中心人物・山科元行でした。伊東と城多の面談の場所も山科の家でした。城多は山科元行とも頻繁に交流していたようです。

そして、城多の生涯にとって特筆すべきことは、岩倉具視と出会ったことでしょう。慶応元年末、かねてより交流のあった松尾但馬に岩倉との面談を勧められた城多は当初、それを躊躇します。いわゆる尊王攘夷派の城多は、和宮降嫁を推進した岩倉のことを快く思わないのです。

しかし、いざ岩倉と会ってみた城多は、岩倉の識見の高さに心酔し、以後は王政復古に向けた岩倉の行動に協力することになります。「柳之図子党」と呼ばれるグループに属して活動するようになったのです。佐々木克氏によれば、城多は「岩倉の私的空間を知り得る一人」となったのです(参考文献の①より引用)。

また、岩倉の伝記・史料として活用される『岩倉公実記』には、時折見てきたかのような臨場感たっぷりの記述が出てきますが、それらは城多の談話や筆記を典拠としているとの佐々木克氏の指摘があります。城多の立場がよくわかります。

維新後、多くの草莽の志士たちが明治政府に失望したり、あるいは政府によって切り捨てられたりする中で、城多は栄達の道を歩みました。王政復古政府の総裁・有栖川宮熾仁親王に近侍したり、由利公正と共に金穀出納取締に任じられたりして、最終的には元老院少書記官となって、正六位に叙されています。それには、岩倉との出会いが大きく寄与していたことは間違いないでしょう。

城多董をもっと詳しく知りたい方は、例えば以下の文献をお読みください。この記事を書く上でも下記の文献を参考にしました。

① 佐々木克「草莽の志士城多董と岩倉具視」『日本歴史』第500号、1990年
② 佐々木克『岩倉具視』吉川弘文館、2006年
③ 竹山靖玄「忘れられた草莽の志士『城多董』―その伝記的研究への序章」
宮地正人編『幕末維新論集12 明治維新の人物像』吉川弘文館、2000年
④ 竹山靖玄「幕末水口藩と新撰組の城多董探索‐新撰組による慶応元年、近江出動事件の顛末‐」 『歴史読本』第757号、2002年

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2007年7月30日 (月)

新選組に対する申し訳ない気持ち

数年前の私は、幕末史を研究する大学生でした。大学を卒業するまでの間に松浦玲氏の著書『新選組』(岩波新書、2003年)が刊行され、同じ年に平尾道雄氏の『定本新撰組史録』が新人物往来社から復刻されましたが、そのときまで私は、新選組を歴史学の研究対象として見てはいませんでした。そのことについて、今では新選組に対して申し訳ない気持ちです。

そもそも、大学での歴史研究においては、「何故、それを研究する必要があるのか」とか、「それを研究して、どんな意味があるのか」という意識で研究に臨むことを求められます。少なくとも私は、先生や先輩から、そのように教わりました。要するに、研究するからには問題意識を持つことが求められたのです。

例えば、「新選組のことが好きだから、新選組を研究する」という理由では、批判されるかもしれません。「新選組を研究することで、何が明らかにできるのか。また、新選組を研究することが、幕末史の研究の進展にどのように寄与するのか」といったところまで踏み込んで考えておかないと、大学で新選組を研究することは諦めざるを得ません。大学での研究は、何よりも「学問」であることを求められるからです。

巷に新選組の研究本は溢れていますが、それらの本には、上記のような問題意識が希薄のように感じられました。幕末史の中に新選組を正しく位置づけようとか、そのような問題意識・課題意識が見られないものが多かったのです。そこにあったのは、「新選組のことが好きだから、新選組について多くのことを知りたい。だから研究する」という意識が大半だと感じられました。しかしそこには恐らく、「学問」の発展に貢献しようという意識は希薄でしょう。

これは何も新選組に限ったことではありません。一般的に歴史小説や時代劇に頻繁に取り上げられるような人物や集団、あるいは事件は、研究者の研究対象としては敬遠される傾向があります。世間に人気のある人物や集団は、小説などでのフィクションと史実を峻別することなく勝手なイメージが形成されていることがよくありますが、研究者はそのような対象に首を突っ込みたがらない傾向があるようです。それらの世間のイメージは、「学問」を意識して語られているものではないからでしょう。

幕末史で言えば、新選組はその最たるものでしょう。新選組は、本格的に研究した歴史学者が少ない状況が長く続き、新選組研究を牽引しているのは、「学問」への貢献を意図していないと思われる在野の研究家たちでした。それが進めば進むほど、歴史学は新選組を相手にしなくなっているように見える状況がありました。

私も大学時代、そのような歴史学の風土で幕末史を学んでいました。はっきり言ってしまえば、私が所属していた大学の史学科には、「『新選組に興味があるから研究したい』なんてことを言ったら恥ずかしい」と思えるような空気すら漂っていました。それで何となく、私は新選組を避けていました。

ところが、冒頭で述べた平尾道雄氏の『定本新撰組史録』を読んでみたところ、これが大変面白いではないですか。平尾道雄氏はすでに亡くなっている方ですが、生前は土佐藩や坂本龍馬の研究において、歴史学界でも定評ある研究者でした。私も好きな歴史家でした。だから、それなりに期待して『定本新撰組史録』を読んだのですが、これが当たりだったのです。私は平尾氏の著書を読んでから、徐々に新選組に対する認識を改め始めました。

平尾氏の『定本新撰組歴録』が復刻されたのと同じ年に、松浦玲氏の『新選組』が岩波新書から刊行されました。松浦氏は思想史を専門とする歴史学者で、勝海舟や横井小楠の研究で定評があります。平尾氏と並んで、私が好きな歴史家の1人でした。その松浦氏が新選組の本を出したと知ったときは、衝撃を受けました。さっそく読んでみたところ、平尾氏の著書を読んで抱いた気持ちが、確信に変わり、新選組は面白い存在なのだと、ようやく認識したのです。

その後、宮地正人氏や大石学氏、鶴巻孝雄氏や平川新氏など、アカデミズムに属する歴史学者が次々と新選組論を展開していく中で、私は自分を恥じるようになりました。「新選組を研究する価値はない」なんて思い込みをしていた以前の自分が恥ずかしく、また新選組にも申し訳ないです。

今では、私は新選組を興味深い集団だと感じています。彼らを史実の中にしっかり位置づける必要性があると思っています。そのためには近藤勇が正しく分析されることが必要であるとも思います。このブログでも、それは何度も主張してきました。

ただ、今でも史実とフィクションを峻別しない新選組研究本、新選組を幕末史の中に性格に位置づけようという意識が希薄な研究本が多く見受けられます。アカデミズムに属する研究者には、ぜひそのような状況を是正できるよう、頑張ってもらいたいものです。本来、史実を扱う歴史学と、フィクションが許容される小説や時代劇の世界は別物ですから。

在野の研究家や新選組ファンにありがちなことですが、新選組を単体で考え過ぎている面があります。新選組の内部ばかりに目を注ぐのではなく、新選組は幕府内の一組織という視点を持って、もう少し広い視野で幕末史全体を見てみる必要があると思います。アカデミズムが新選組を敬遠してきた理由には、それもあるでしょう。新選組を通じて幕末史を見る視点を変える必要があると思います。

しかし、史実と乖離した新選組イメージが流布しているのは、アカデミズムが新選組をまともに取りあげようとしなかったことも原因の1つだと、歴史学者には意識してもらいたいです。松浦玲氏にしろ宮地正人氏にしろ、優れた新選組研究を出していますが、それが可能だったのは、彼らの批判の矛先にいる在野研究家たちの研究成果があったからだということを、私自身への自戒と反省の意味も込めて、指摘しておいても良いでしょう。

<関連記事>
歴史家と「ファン系研究者」-主に新選組研究を素材にして-

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2007年7月16日 (月)

新選組関連の研究文献をリスト化する構想

今年のはじめに、「2006年にこのブログで言及・紹介した新選組関連文献リスト-新年の挨拶を兼ねて-」という記事を書きました。その記事では、2006年にこのブログに投稿した記事の中で紹介した新選組関連文献をリスト化してみました。

それだけでもそれなりに有意義なリストにはなっていると思うのですが、最大の弱点は、2006年の記事で取り上げた文献だけをリストに掲載している点です。つまり、「新選組の研究には有益で重要な研究書・論文だが、2006年の記事の中で紹介していないもの」をリストに載せていないことが最大の欠点だと自省しているのです。

そのため、私がブログで取り上げたか否かに関わらない新選組研究文献のリストを作ってみたいと思っています。その際、リストに載せる文献は以下のような基準である程度取捨選択した上で載せるつもりです。

① アカデミズムの研究者による新選組研究の書籍や論文を優先的に載せる。

② 在野の研究者による研究でも、新選組の研究において重要だと思われるものは当然載せる。「重要」の判断基準としては、まず私自身が実際に読んで「良い」と判断したもの。私が読んでいなくてもアカデミズムの研究者の書籍や論文の中で、参考文献として紹介・引用されていたもの。そのほか、著名な新選組研究家の代表的と思われる書籍・論文(すべてではありません)を載せる。

③ 新選組を直接論じたものでなくても、幕末の政治・思想・文化・制度、近世の天皇や朝廷についてなど、新選組を取り巻く時代状況を学ぶ上で有益だと思われる研究文献も、必要な範囲で掲載する。

④ 史料集については、『新選組史料集』など、新選組をメインに扱ったものと、一部の例外だけをリストに載せる。そのほかの史料については、①~③の文献で紹介されている史料を各自で調べてくださいというスタンスです。

特に、③について説明が必要かもしれません。私は新選組を「尊王攘夷を目的に結成された政治集団」と認識しておりますが、「そもそも『尊王攘夷』って何?」という疑問のために、尊王攘夷論を研究した文献を最低限の範囲で掲載します。また、尊王の対象だった天皇や朝廷についても知るべきだろうという判断で、それらについて論じた文献も基本的な範囲で載せます。一会桑権力や孝明天皇に関する文献も載せますし、長州の志士たちについての文献も載せます、最低限の範囲で。

③は、野口武彦氏が『新選組の遠景』(集英社)の中で述べていた、「新選組中心史観」を危惧してのものです。この言葉は、新選組の内部には詳しいものの、外の政治状況などには詳しくない新選組ファンを批判した言葉です。「新選組中心史観」を脱却するためにも、③の部分をそれなりに充実させるべきだと考えたのです。

そんな感じで、構想はあります。実は、リストもそれなりにできています(随時調査中なので、新たに見つけた文献を適宜追加していく方針です)。今まで調べた文献をリスト化する作業は、以前からやっていたので。ただ、たくさんの文献名をズラ~ッと羅列しているので、非常に膨大なリストになっていて、ブログに載せるには不適切かと思っています。

そのため、そのリストを掲載するためのホームページを新たに作るべきかもしれないと考えているのですが、その作業に手間がかかるかなぁと思っている状態です。それについてはまだ何もしていません。いずれ作業をしたいと思っておりますので、興味のある方にはお待ちいただければ幸いです。

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2007年7月 1日 (日)

思い入れがある歴史記事10個

ブログというものは新しい記事をどんどん書いていくと、昔書いた記事が段々探しにくくなる傾向があります。もちろん、訪問してくださった方には一生懸命書いた新しい記事を読んでいただけたら嬉しいのですが、古い記事にも力を入れて書いたものや思い入れが深い文章があります。それらを風化させないためにも、昔書いた歴史関連の記事の中から、10個を選んで紹介してみたいと思います。

特に、最近になって初めて私のブログを訪問してくださった方で、昔の記事を読まれていない方などに、せっかくですので読んでいただけたら幸いです。

近藤勇と後藤象二郎、および大久保利通

「歴史好き」と「歴史小説好き」は必ずしもイコールではない

孝明天皇は毒殺されたのか

「討幕」と「倒幕」

「世界の海援隊」のエピソードへの疑問

新選組を考える上で前提とすべき視点

孝明政権と孝明新政府-幕末維新史の新しい概念-

歴史家と「ファン系研究者」-主に新選組研究を素材にして-

暗殺-明治維新の思想と行動-

龍馬暗殺事件をめぐって

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2007年6月30日 (土)

新選組隊士 武田観柳斎について

東京都町田市の小島資料館に事務局を置く「三十一人会」は、会誌『幕末史研究』を年に1回発行しています。「三十一人会」というのは、新選組研究者が31人集まって会を発足させたことに由来するそうで、当時の会誌は『新選組研究』でした。現在は活動の幅を広げて、幕末史研究サークルという位置付けで活躍しているそうです。現在の会誌『幕末史研究』は、一般書店でも購入できます。

その『幕末史研究』の最新号(第42号)が今年のはじめに刊行されていたのですが、私は最近まで未チェックでした。つい最近ようやく確認して、その内容に興味深いものを感じたので、ここで取り上げてみます。ちなみに、『幕末史研究』第42号は「慶応四年特集」と銘打たれています。

『幕末史研究』第42号の目次を見ると、まず最初に掲載されていたのが、藤田英昭「新選組隊士 武田観柳斎について‐川村恵十郎宛書翰の紹介をかねて‐」という論文です。私は、藤田英昭氏の武田観柳斎に関する論文が掲載されていたことにびっくりしました。

新選組ファンの間では藤田英昭氏の名前は有名ではないかもしれませんが、中央大学大学院博士課程・徳川林政史研究所研究生という肩書きを持つ、幕末維新史研究者です。特に、「慶応元年前後における徳川玄同の政治的位置」(『日本歴史』658、2003年)という論文で有名な若手研究者です。

その藤田氏は、昨年刊行された松尾正人編『近代日本の形成と地域社会』(岩田書院)という本に、「八王子出身の幕末志士川村恵十郎についての一考察」という論文を発表していました。その論文で藤田氏は、国立国会図書館憲政資料室に所蔵されている「川村正平文書」(川村恵十郎に関連する史料)を発見したと述べていました(詳しくは、過去記事「新選組にも関連のある、多摩地域・多摩出身者の近代史」をご覧ください)。

その「川村正平文書」の中に、川村に宛てた武田観柳斎の書簡が含まれていて、それがきっかけで今回の『幕末史研究』への論文発表に至ったらしいです。もちろん、藤田氏が見つけた武田観柳斎の書簡は、初めて紹介されるものです。

藤田氏は論文「新選組隊士 武田観柳斎について」の中で、新発見の武田観柳斎書簡を紹介しつつ、一次史料に見える観柳斎の軌跡をたどっていきます。それと同時に、西村兼文の著作や永倉新八の回想録に描かれた観柳斎のイメージを無批判に受け入れることを慎み、一次史料を重視する必要性を強調しています。

藤田氏の論文に興味のある方は、『幕末史研究』第42号をお読みください。今回の武田観柳斎についての藤田氏の論文は、あくまで川村恵十郎の史料を検討する中での副産物と言うべきものかもしれません。しかし、アカデミズムの立場で今後も新選組を論じてくれる可能性のある若手研究者として、私は藤田氏の今後の研究に大いに期待しています。

『幕末史研究』42号にはほかにも、あさくらゆう「『ふところ手帳』と『公文書』―林家家臣・伊能矢柄を例として」、小島政孝「佐藤彦五郎の書簡 元治元年六月十九日」など、興味深い論考が掲載されています。

<関連記事>
「新選組にも関連のある、多摩地域・多摩出身者の近代史」
「『史学雑誌』回顧と展望 2006年の歴史学界」

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2007年6月20日 (水)

『史学雑誌』回顧と展望 2006年の歴史学界

『史学雑誌』2007年5月号(第116編第5号)が刊行されました。待ちに待った「回顧と展望」号です。『史学雑誌』という歴史学の学術雑誌は、毎年5月号において「回顧と展望」という特集を組み、そこで各地域・各時代・各分野の前年(場合によって一昨年)の主要な研究成果を紹介・論評しているのです。

私はこの「回顧と展望」を毎年楽しみにしていて、自分の興味ある分野においてどのような文献が発表されたのか調べるために利用しています。今年も例によって幕末維新史の項目を中心に読んでみた(今日は書店で立ち読みしただけですが)ところ、大いに収穫がありました。

まず何より驚き、そして私の目を引いたのは、あさくらゆう氏の「新選組~最後の隊長、相馬主殿考」というタイトルの論文(『茨城史林』30号に収録)が紹介されていたことでした(この記事を書いたときにうろ覚えで記したあさくら氏の論文タイトルが間違っていましたので、6/22に修正しました)。あさくら氏と言えば、『慶応四年新撰組近藤勇始末』(崙書房)という著書を刊行されたばかりの、在野の研究者。そのあさくら氏の論文が、歴史学界でも最も権威ある『史学雑誌』の「回顧と展望」で紹介されたことは、私にとって衝撃かつ嬉しいことでした。

新選組は長らく歴史学の研究対象とは見なされない時代が続いていたわけですが、在野研究者が書いた新選組の論文が「回顧と展望」に取り上げられたことで、時代の変化を感じております。否応なしに、新選組が学問の研究対象になっていることを感じます。在野研究者の新選組論文が「回顧と展望」で紹介されるなんて、初めてのことではないでしょうか。ちなみに、「回顧と展望」の該当箇所の執筆者は鵜飼政志氏。鵜飼氏も、『歴史読本』などに新選組の論考を載せたことがある研究者です(鵜飼氏の専門は外交史)。ちょっと嬉しい気分になりました。

6/29追記
上記の鵜飼政志氏と書いた部分は、本当は中央大学の松尾正人氏でした。幕末維新期の外交部分を執筆している鵜飼氏が、幕末維新期全体を執筆しているものと勘違いしておりました。訂正のため追記しておきます。

さて、そのほか気になった文献は、覚えている限りで以下の通りです(順不同)。それ以外について興味のある方は、ご自身で『史学雑誌』の最新号をお読みください。ちなみに、幕末維新史の文献は日本近世史と日本近代史の両方の項目で紹介されています。

・青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂)
・家近良樹編『もうひとつの明治維新』(有志舎)
・佐々木克『岩倉具視』(吉川弘文館)
・母利美和『井伊直弼』(吉川弘文館)
・笠原英彦『明治天皇』(中公新書)
・大塚桂「大政奉還論・再考(1)(2)」(『駒澤法学』18・19)
・高橋裕文『幕末水戸藩と民衆運動』(青史出版)
・三谷博『明治維新を考える』(有志舎)
・井上勝生『幕末・維新』(岩波新書)
・ジョン・ブリーン「『孝明政権』の確立と展開」(『中央史学』29)
・家近良樹「幕末の摂関家支配」(『中央史学』29)
・久住真也「幕末の徳川将軍と畿内」(『中央史学』29)
・清水善仁「幕末維新と公家社会」(『中央史学』29)
・藤田英昭「八王子出身の幕末志士川村恵十郎についての一考察」(松尾正人編『近代日本の形成と地域社会』岩田書院)
・松尾正人「多摩の戊辰戦争」(松尾正人編『近代日本の形成と地域社会』岩田書院)
・保谷徹「免許銃・所持銃・拝借銃ノート」(松尾正人編『近代日本の形成と地域社会』岩田書院)
・宮下和幸「幕末期における加賀藩京都詰の実態とその意義」(『日本歴史』696)
・奥田晴樹「教導職の政体論」(『金沢大学教育学部紀要. 人文科学・社会科学編』55)
・奈良勝司「小笠原率兵上京再考」(『立命館史学』27)
・竹本知行「大村益次郎の建軍構想」(『軍事史学』165)
・前原康貴「丹波山国隊の兵式と編制」(『軍事史学』165)
・高橋秀直「幕末長州における藩官僚と有志」(『日本史研究』524)
・高木俊輔「幕末維新期農民日記にみる地域情報」(『立正大学文学部論叢』123)
・布施賢治『下級武士と幕末明治』(岩田書院)


覚えているのは大体これぐらいです。タイトルを見て興味のある文献が見つかった方は、ぜひ実際に読んでみてください。また、ここで挙げた以外にも、『史学雑誌』最新号では貴重な文献が紹介されています。気になる方はご自分で確認してみてください。今日から書店で発売しています。

個人的にはとにかく、あさくらゆう氏の相馬主殿についての論文が紹介されていたのが驚きでもあり、嬉しくもありました。

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2007年5月28日 (月)

「兵農未分離」の八王子千人同心

江戸時代には「士農工商」という固定的な身分制度が成立していて、明治になってから「四民平等」が実現されたという単純な図式は、多くの日本人に強固に根付いている江戸時代認識だと思います。その図式は大まかに言えば正しいのですが、しかし単純にその図式に当てはめることのできない様々な身分が、江戸時代には存在していました。また、身分間の移動も少なくありませんでした。

「農」から「士」へ、あるいは「士」から「農」へなど、身分間の移動が行われているとなると、「武士とは何か」という疑問が生じてくるかもしれません。それを考える上で、多摩地域に居住していた特異な武士集団・八王子千人同心の存在は、手がかりになるようです。ここでは、久留島浩編『シリーズ近世の身分的周縁5 支配をささえる人々』(吉川弘文館、2000年)に収録された、神立孝一氏の「八王子千人同心」という論文を紹介してみたいと思います。

神立孝一氏は論文「八王子千人同心」の中で、武士と農民の違いについて、以下の三点を指摘しています。

① 年貢を受け取るのか支払うのか、という点。村の年貢を取り立てるのが武士で、納めるのが農民。

② 農民は五人組制度に組み込まれて「五人組帳」に名前が記載され、さらに檀家制度を基盤とする戸籍制度とも言える「宗門(宗旨)人別帳」に名前が登録される。しかし、武士はそれらに登録されない。

③ 「苗字帯刀」が武士の特権で、さらに武士は城下町などの「都市」に集住するのに対し、農民は「村」に居住するという生活領域の違いがある。

以上の三点は、豊臣秀吉が推進した政策によって、「兵農分離」が進んだ結果によって現われたものだと指摘されます。そのことから、「武士」という身分は近世になってから出現したものだとも指摘されます。中世までは、普段は農業に従事している人間が、戦時には武器を持って戦場に赴くといったことが普通で、武士を専業としている人間はごく一部だったからです。

豊臣秀吉の政策以降、「兵農分離」が進み、上記に挙げたような「武士と農民の違い」が現われてきます。ところが八王子千人同心は、上記の「武士と農民の違い」で挙げた武士の特徴と農民の特徴を両方持っていたのです。神立孝一氏は、次のように指摘しています。

「八王子千人同心」は、武蔵野国多摩郡八王子を中心に居住し、近世初頭から幕末にいたるまで、日常的には農業を営み、年貢を納入しているのであるが、同時に、扶持米・切米を給付され、時には武士としての「役」を担う存在でもあった。

普段は「農民」と同様に農業を営み、「人別帳」にも登録されていた八王子千人同心は、しかし時には「武士」として動員され、将軍が日光東照宮へ参詣する際のお供をしたり、江戸城修築の際の警備を行っていたのです。幕末期には第二次長州征伐にも参加しています。八王子千人同心は、武士と農民の両義性を有した、いわば「兵農未分離」の存在です。

太宰春台は『経済録』において、千人同心を武士の理想の姿として論述しているそうです。春台は、兵農分離が進んでいなかった頃の中世を想起して、そのように述べたのでしょう。「千人同心は、一人の人間が二重の身分を有しているようにみえる。だがそれは、武士が専業化し兵農分離の過程が進むことによって、そのように映るのではなかろうか」とは、神立孝一氏の指摘です。

やがて、八王子千人同心のなかには、自分たちを「武士」身分として「農民」と区別しようとする動きが強まってきます。「寛政御改正」がそれを決定付け、八王子千人同心は近世後期になってからようやく、武士としての身分を完全に獲得することになります。

江戸時代には「士農工商」という身分制度が存在していたというイメージはありますが、それはすべての地域に当てはまっていたわけではなく、少なくとも多摩地域においては「兵農分離」が近世後期まで進まなかったのです。神立孝一氏は論文の最後で、次のように述べています。

近世的な身分社会の基盤たる兵農分離は、かくして旧慣と相克しつつ少なからぬ時を経ながら整えられていったのである。「兵農分離」の過程は、決して画一的なものではなかった。幕府や大名の有力家臣団はまだしも、千人同心のような下級武士層においては、近世最後のおよそ五十年余こそが、「農」から離れた「士」の時代だったのである。しかしながら、兵農分離が完成し、あらゆる人々の共通認識になっていった段階では、それを支える基盤がすでに古い制度となり、うち崩されるべき対象となっていたというのは、歴史の妙というほかにない。

八王子千人同心は、多摩地域の歴史を考える上で、無視できない存在です。また近年、この八王子千人同心の存在に着目しつつ、新選組を論じている研究者も存在します。どちらも多摩を基盤にしていたというのが、まず重要ですし、両者の関係性もあります。新選組隊士・井上源三郎の兄・松五郎は、八王子千人同心でした。新選組隊士の中島登も、千人同心に所属していたそうです。

また、新選組については、「士道」とか「武士になりたかった」とか、まるでスローガンのように叫ばれ、新選組と「士道」を安易に結び付け過ぎる傾向もあると思います。そもそも私は、「新選組の隊士たちが武士になりたかった」と言われていること自体に、「本当か?」と疑いを抱いております。論証よりもイメージ先行な気がします。

それでも仮に、新選組隊士たちの多くが「武士」になりたかったとして、「武士」とは何なのか、彼らは「武士」をどんな存在だと認識していたのか、それを考える上でも八王子千人同心の存在は、何らかの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

また、八王子千人同心研究者としての立場から、新選組を丁寧に分析した研究書として、吉岡孝『八王子千人同心』(同成社、2002年)があります。この吉岡氏の著書について、ここで紹介した神立孝一氏が、『国史学』187号(2006年)に書評を書いています。

<関連記事>
新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-
吉岡孝氏による新選組論
江戸時代の身分願望

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2007年5月23日 (水)

幕末維新史の新書 個人的オススメ20冊 その1

日本史研究者の藤本正行氏は、鈴木眞哉氏との共著『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社・新書y、2006年)の「あとがき」で、「大衆が歴史を知る手段は、もっぱら小説かテレビである」と述べています。この指摘は、おおむね当たっていると思います。

実際、大学に入って歴史の勉強・研究をしようと思っている学生の中にも、歴史家の著作ではなく、小説やテレビに多大な影響を受けて自己の歴史観を形成している人、小説やテレビで歴史に興味を持った人が、決して少なくないと思います。実際、昔の私もそうでした。

しかし、歴史の勉強・研究に本気で取り組む気であるならば、小説だけではなく、歴史家をはじめとする研究者たちの書いた著書や論文を読む必要があるでしょう(史料を読む必要があるのは当然ですが)。しかし、歴史の知識の多くを小説やテレビで得てきた人の場合、いざ歴史家の著作を読めと言われても、何から読めば良いのかわからない人もいると思います。周りに、そういうことを教えてくれる親切な先輩でもいれば良いのですが、そうでもない限り、苦労することでしょう。

基本的には、興味のある時代の通史を読むのが、最初の勉強方法としては一番良いと思います。大学の先生も、きっとそのような勉強方法を勧めるでしょう。いきなり学術論文を読めと言われても、大変ですよね(読まされる場合もあるでしょうが)。あとは、研究者が一般向けを意識して書いた「新書」には、読みやすいものが多いので便利だと思います。値段もそんなに高くないものがほとんどですし。

そんな事情を踏まえまして、この記事では、例えばこれから幕末維新史の勉強を始めようと思っている人などに個人的にオススメしたい「新書」を20冊、ご紹介してみたいと思います(最初は15冊の予定でしたが、絞りきれなかったので増やしました)。

なるべく、色んな時期・分野のものを選んでみたつもりです。選んだものはあくまで「新書」と銘打たれているものだけで、「○○文庫」や「○○選書」などは対象外です。

また、絶版・品切れになっているものも対象外としました。この記事を書いている現在、一般の書店で購入できる新書だけを選んでみました。絶版・品切れの新書については、続編の記事で紹介するつもりです。以下の20冊は著者の50音順に紹介しています。内容の優劣で順番を決めているわけではありません。

また、1人の著者からは1冊だけしか選んでいません。

家近良樹『孝明天皇と「一会桑」‐幕末・維新の新視点‐』(文春新書、2002年)

猪飼隆明『西郷隆盛‐西南戦争への道‐』(岩波新書、1992年)

池田敬正『坂本龍馬‐維新前夜の群像2‐』(中公新書、1965年)

一坂太郎『高杉晋作』(文春新書、2002年)

井上勲『王政復古‐慶応三年十二月九日の政変‐』(中公新書、1991年)

井上勝生『シリーズ日本近現代史① 幕末・維新』(岩波新書、2006年)

岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』(洋泉社・新書y、2006年)

岡義武『山県有朋‐明治日本の象徴‐』(岩波新書、1958年)

落合弘樹『秩禄処分‐明治維新と武士のリストラ‐』(中公新書、1999年)

加藤祐三『幕末外交と開国』(ちくま新書、2004年)

佐々木克『戊辰戦争‐敗者の明治維新‐』(中公新書、1977年)

高橋敏『博徒の幕末維新』(ちくま新書、2004年)

田中彰『吉田松陰‐変転する人物像‐』(中公新書、2001年)

田中弘之『幕末の小笠原‐欧米の捕鯨船で栄えた緑の島‐』(中公新書、1997年)

辻ミチ子『女たちの幕末京都』(中公新書、2003年)

野口武彦『幕府歩兵隊‐幕末を駆けぬけた兵士集団‐』(中公新書、2002年)

坂野潤治『未完の明治維新』(ちくま新書、2007年)

松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)

安丸良夫『神々の明治維新‐神仏分離と廃仏毀釈‐』(岩波新書、1979年)

渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社・MC新書、2006年)

後日、続編として、絶版・品切れになっている新書の中から、オススメ書籍を20冊ピックアップして紹介してみたいと思います。

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2007年3月25日 (日)

服部之総「新撰組」

昭和初期の新選組研究としては、子母沢寛『新選組始末記』と、平尾道雄『新撰組史』が有名です。どちらも、昭和3(1928)年に刊行された書物で、新選組研究の基礎を築いた古典的著作として有名です。しかし、その2つの研究を受けて、服部之総(はっとりしそう)という歴史家が、雑誌『歴史科学』昭和9年9月号に「新撰組」という論文を発表していることは、あまり知られていないかもしれません。

平尾道雄氏以来、後述する松浦玲氏の著書が発表されるまで、歴史学界では、新選組をまともに研究対象として扱う研究者は稀でした(決して皆無というわけではありませんが)。服部之総氏は、その稀な例の1人です。服部氏の論文は、とても貴重な研究と言えます。

しかしながら歴史学界では、新選組を研究対象に据える研究者が長らく少ない状況だったため、服部氏が論文「新撰組」の中でせっかく提示した論点は、歴史学界で特に議論されることもなかったようです。それを惜しむ声が、中村武生氏や野口武彦氏から上がっています(この記事の参考文献を参照)。

この記事では、そんな服部之総氏の「新撰組」の内容を、少しだけ紹介してみます。なお、服部氏の論文の引用は、すべて奈良本辰也編『服部之總全集7 開国』(福村出版、1973年)から行いました。

服部氏は、近藤勇ら新選組の中核メンバーを輩出した試衛館について、練兵館や士学館などの有名道場と比べて、異なる1つの特徴があると指摘しています。それは、「試衛館が、江戸にありながら、実質上は武州の多摩郡一帯の、身分からいって『農』を代表する、農村支配層の上に築かれていた点」(59~60頁)です。そしてさらに、近藤勇や土方歳三らは、「『封建制度』の根底的地位に座して微動もせず存続してきた特定社会層」(60頁)であると言うのです。

そして、服部氏は試衛館出身者たちを上記のように理解した上で、「近代的資格をほとんどまるで具えていないところの農村富農の一範疇が、文久非常時を契機として政治の舞台にせり出してきたとき、どんな役割をすべきか、したか。これを見るうえで、試衛館一派の歴史は珍重なものといえる」(60頁)という風に、近藤勇ら試衛館出身者たちを研究する意義を述べています。

このような問題設定をした上で、服部氏は、試衛館が多摩の「農」と密接に結び付いていることを指摘します。新選組を動かしていた近藤勇・土方歳三両名の、「農」と結び付く社会的地盤に照らすことが、新選組を理解する上で不可欠だというのが、服部氏の意見です。

最近の研究でも、試衛館出身者たちと多摩の結び付きの強さは指摘されています。大石学氏の言葉を借りれば、「近藤ら新選組の中心メンバーは、多摩地域の有力家との関わりを背景に、京都で活動した」ということになります(大石学『新選組』45ページ。ただし、服部氏が多摩を後進地域と捉えるのに対し、大石氏が多摩を「首都圏」と捉えている点は非常に異なります)。

そして服部氏は、近藤勇の背後にある社会的地盤に照らすと、「近藤勇が、輝ける新撰組隊長として切り結んだ敵手と同じく―否それ以上にいつまでも―腹からの『尊攘』論者だった」(61頁)という理解が当然に得られるという趣旨のことを述べています。

この、近藤勇と尊王攘夷派志士たちが尊王攘夷論で共通しているという意見は、中村武生氏が「新選組研究の回顧と展望」で指摘しているように、松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)の新選組理解と似ています。松浦氏も、新選組は尊王攘夷を目的とする思想集団としてスタートし、池田屋事件は攘夷派の同士討ち的な面があることを指摘しているからです。

昭和初期の服部之総氏と、2003年に新選組研究に新たな画期を作り出した松浦玲氏の新選組理解に共通性があることは、注目されて然るべきでしょう。服部氏が1934年にすでに指摘していた論点が、歴史学界あるいは新選組研究者たちの間であまり議論されることなく、2003年の松浦玲氏まで注目されてこなかったのは、何とも勿体ないことだと思います。服部氏や松浦氏の新選組理解が正しいかどうかはともかく、もっと早くから議論すべき論点だったと感じるのです。

そして服部氏は、池田屋事件以後の新選組は、攘夷をなかなか実行しない幕府を責めるよりも、「尊攘」実践のための前提条件と認識された公武合体を守ることを使命とするようになったのだと、結論として指摘します。それは、「さしづめ『長州』の、やがては『薩長』のくらやみの使徒にたいして現制度を死守する、特別警備隊の仕事」(63頁)であり、「ブルジョア的要素に一筋の連結も持たぬ、多摩農村の封建的根底部分を百パーセント武装化した、試衛館独裁下の新撰組ほど、この任務のために不敵、真剣、精励たりうるものがおよそ他に考えられようか」(63頁)というのが、服部氏の結論です。興味深い意見ではないでしょうか。

ちなみに、服部氏は同論文で、近藤勇ら試衛館出身者たちの他に、清河八郎・芹沢鴨・松平容保についても考察しています。このうち、京都守護職・松平容保については、「公武合体=尊王攘夷のたてまえに―この、本来過渡的な、折衷的な政治綱領を過渡的折衷的なそれとせず、純一むくにこれに終始せんとした珍しく生一本な政治家」(55頁)で、「官許『浪士組』に馳せ参じた諸浪士たちはこの松平容保のなかに、そのいみで自己の同一物を見出すことができたであろう」(55頁)と指摘しています。

今回、服部之総氏の「新撰組」は、『服部之總全集7 開国』から引用しましたが、服部之総『黒船前後・志士と経済』(岩波文庫、1981年)にも収録されています。

<参考文献>
・大石学『新選組』中公新書、2004年
・中村武生「新選組研究の回顧と展望」『歴史読本』2004年3月号
・野口武彦『新選組の遠景』集英社、2004年
・服部之総「新撰組」奈良本辰也編『服部之總全集7 開国』福村出版、1973年
・松浦玲『新選組』岩波新書、2003年
・宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店、2004年

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2007年2月 3日 (土)

維新の変革と幕臣の系譜

学校の授業で歴史を学んだ程度の知識しかない人々が、幕末維新史について語ると、どうしても西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、岩倉具視、吉田松陰、坂本龍馬、中岡慎太郎など、西南雄藩出身者や討幕派に与した人々の話が中心になりがちです。それは、歴史の教科書に、彼らの活躍についての記述が多かったからでしょう。

もちろん、彼らは卓越した個性の持ち主であり、明治維新の変革において重要な働きをしたのは事実です。ですから、大いに語られるべきだと思いますし、研究もされるべきでしょう。しかしながら、幕末の幕府内には多くの有能な人材がいて、それら幕臣出身者たちが明治政府を根幹から支えていたことも、もっと注目されても良いかと思います。

中央公論社の『日本の近世』シリーズの第18巻『近代国家への志向』(1994年)には、付録として「月報」が付いていて、そこでは歴史家の田中彰氏と作家の吉村昭氏が、「敗者から見た明治維新」というテーマで対談しています。田中・吉村両氏は対談の中で幕府・幕臣を高く評価する発言を繰り返しており、共感できる意見も多いです。特に、月報9ページに掲載された田中氏の発言が興味深かったので、それを引用してみたいと思います(赤文字部分)。

勝者の側からの歴史叙述だから、「当時の幕府には人材がいなかった」なんて平気で書いている。そんなばかなことはないわけですよ。二世紀半続いた体制側ですから、人材もいます。むしろ幕臣がいたから、維新政権・明治政府は成り立ったわけです。

幕府の人々びとについて、きちんと研究を積みかさねていないから、人がいないというふうに教科書などはなってしまう。僕なんかも長州を中心にして研究を始めましたので、その責任の一半はあります(中略)勝った側も負けた側も―第一、歴史は勝った側だけの歴史ではないし、負けた側にも歴史がある―両方の歴史のバランスがとれたところで初めて歴史が成り立つのです。しかも、勝った側が最後まで勝っているかというと、必ずしもそうでない。勝って、最後は負けるという形にもなる。勝者と敗者は表裏になっているから、その両方の側面を見ないと、全体を見たことにならない。

上記の田中彰氏の発言は、1994年3月に行われた吉村昭氏との対談においてのものですが、田中氏はそれ以前から、幕末維新史における幕府・幕臣研究の必要性を盛んに主張していた研究者です(例えば、『岩波講座日本歴史14 近代1』<岩波書店、1962年>に収録された、田中氏の論稿「幕末の政治情勢」を参照)。

田中氏の主張の効果もあってか、最近の歴史学界では、幕府側の研究も以前に比べてだいぶ盛んになったような印象を受けます。少なくとも、「無能な幕府」といった認識は改まり、その成果が一般の歴史ファン・読書人にも徐々に浸透してきている段階かと思います。

ところで、幕府・幕臣の研究がようやく盛んになってきた1970~80年代にかけて、幕末における幕臣・明治における旧幕臣についての長大な論文を書いた研究者がいます。菊地久氏です。菊地氏は、「維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に」というタイトルの長大かつ重要な論文を、『北大法学論集』に、七回にわたって飛び石連載しました。

その菊地氏の論文は非常に長いものなので、たとえば図書館でコピーしようと考えたりすると、結構な労力が必要なものでした。しかし、そのような作業をしなくても、ネット上で全文を読めるようになったのです。

北海道大学付属図書館は、「北海道大学学術成果コレクション(HUSCAP)」というシステムを導入し、北海道大学所属の研究者や大学院生が発表した学術論文を、ネット上で閲覧できるようにしました。もちろん、北海道大学の研究者が発表した論文のすべてがHUSCAPに収録されているわけではありませんが、現段階で1万以上の論文・学術資料をネット上で閲覧できるようになっています。菊地久氏の論文も、そのうちの1つです。

以下の7つのリンクをクリックしていただくと、北海道大学付属図書館のHUSCAPのページに飛びます。そこで、「見る/開く」と書かれた部分をクリックすれば、PDFで菊地氏の論文が開きます。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。HUSCAPのようなシステムは、とてもありがたいですね。

「維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に(1)‐国家形成と忠誠の転移相克‐」(『北大法学論集』第29巻第3・4合併号、1979年)
「維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に(2)‐国家形成と忠誠の転移相克‐」(『北大法学論集』第30巻第4号、1980年)
「維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に(3)‐国家形成と忠誠の転移相克‐」(『北大法学論集』第31巻第1号、1980年)
「維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に(4)‐国家形成と忠誠の転移相克‐」(『北大法学論集』第31巻第2号、1980年)
「維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に(5)‐国家形成と忠誠の転移相克‐」(『北大法学論集』第32巻第1号、1981年)
「維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に(6)‐国家形成と忠誠の転移相克‐」(『北大法学論集』第32巻第3号、1982年)
「維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に(7・完)‐国家形成と忠誠の転移相克‐」(『北大法学論集』第33巻第5号、1983年)

なお、HUSCAPで閲覧することはできませんが、菊地久氏には、以下のような論文もあります。
・「維新期幕臣研究再論‐1‐」(北海道教育大学釧路校『釧路論集』第25号、1993年)
・「維新期幕臣研究再論‐2‐」(北海道教育大学釧路校『釧路論集』第26号、1994年)
・「幕末幕府『革新の却歩』の勢力状況」(北海学園大学法学会『法学研究』第98号、2002年)

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2007年1月30日 (火)

幕末の武士は、みんな佐幕的で勤王精神あり?

幕末の頃は土佐藩士として坂本龍馬などと交流して活動した佐々木高行は、当時の土佐藩内の状況について、次のような記述を日記に残しています(赤文字で引用)。

士格に佐幕論十中九歩
(東京大学史料編纂所編『保古飛呂比 佐佐木高行日記』第二巻、東京大学出版会、1972年、290ページ)

また、佐々木は晩年の回想において、次のようなことも述べています(さきほどとは若干異なる赤色で引用)。

当時の佐幕勤王の色分をしたならば、士格では佐幕家が九分、勤王家は一分位の割である。
(続日本史籍協会叢書『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』第二巻、東京大学出版会、1980年、346ページ)

上記の引用文は、あくまで佐々木高行が語った幕末の土佐藩内の状況です。佐々木の認識を信じるならば、土佐藩内の武士身分に属する者は、ほとんどが佐幕的な考えを強く持っていたということになります。佐々木が述べているような、武士身分のほとんどが佐幕的思考を有している(=既存体制に同調している)状況を、土佐藩のみの特殊な事情ではないとして、独自の「佐幕派」論を展開した歴史家に、井上勲氏がいます。井上氏の考え方を、以下に引用してみましょう(井上氏の論文からの引用は青文字で行います)。

幕藩体制の受益者たる武士層の圧倒的多数が、その心情において佐幕的であり、その政治行動において、あらゆる革新というより変化を拒絶する政治反動であったことは、きわめて当然だといえる。
 幕藩的政治体制のなかで、いいかえれば、幕府と藩―正確には将軍と藩主とが、君臣の「義」によって関係づけられ、藩士からする藩主への忠誠が、そのまま将軍への忠誠を意味するという秩序原理を持つ社会にあっては、日常行為はそれ自体、佐幕的役割を果している。従ってここでは、決意された行為としての佐幕行為は、原則としてありえない。佐幕行為がありうるとすれば、それは、伝統的制度からの逸脱者への抑圧か、あるいは、制度それ自体の変化に対する反動として生れる。もっとも、制度変化への反動の総てが、佐幕行為たりうるわけではない。反動が佐幕行為たりうるためには、制度変化のなかに幕府と藩との関係変化の契機を含むことを必要とする。たとえば水戸藩や長州藩のように中央政局に介入した時期が早ければ早いほど、つまり、中央政局の動向と藩政局とが有機的に関係する時期が早ければそれだけ、またその関係が強ければそれだけ、佐幕派の形成も早く、かつ、その集団凝集力も強くなるというメカニズムが生れる所以である。

(井上勲「大政奉還運動の形成過程(二)」『史学雑誌』81-12、1972年、56ページ)

要するに井上氏は、幕藩体制の受益者たる武士身分は、心情的に佐幕的にならざるをえないため、佐々木高行が述べていたような「士格に佐幕論十中九歩」という状況が、土佐藩以外でも当然のように発生すると述べています。それに、佐幕的心情を持っているだけでは、「佐幕派」という呼称を用いるのにふさわしくないということです。「討幕派」と呼ばれるような集団が誕生するには何らかの契機が必要なのと同じく、「佐幕派」と呼ばれる集団が誕生するのにも、何らかの契機が必要だということです。

井上氏の主張に従えば、慶応3年後半の土佐藩内には、「佐幕派」が誕生していたことになります。慶応3年11月、土佐藩士30人以上が、連署した建白書を藩主に提出します。内容は、大政奉還論や討幕論への反対論です。いわば、大政奉還論や討幕論が湧き上がる状況下で、自覚的に「佐幕論」を主張した集団、その集団を、井上氏は「佐幕派」として認めています。井上氏の言葉を借りれば、「幕府の優位性を否定する内容を持つ大政奉還論の藩論化は、佐幕的心情をもつ藩士層を強く刺激」し、「佐幕派は佐幕派としての自己規定を行い、佐幕的心情を佐幕論に昇華」させたということになります(前掲論文、57ページ)。

当時、大政奉還論や討幕論に近い側にいた谷干城は、土佐藩内「佐幕派」について、回想の中で以下のように述べています(緑文字で引用、緑文字でない部分は管理人の注)。

彼等(連署建白した佐幕派)の志は大に佐幕党を糾合し会、桑(会津藩・桑名藩)初徳川親藩と合議し大に復古党に反対し現在の封建制度を維持せんとするものの如し。故に大政奉還にも亦反対なり。
(「慶応三年隈山詒謀録」続日本史籍協会叢書『谷干城遺稿』第一巻、1975年、55ページ)

谷の認識によれば、土佐藩内「佐幕派」の目的は、封建制度の維持でした。確かに、彼らの建白には、次のような言葉が見えます(紫色で引用)。

右様(王政復古や将軍辞職などの事態)に相成候ては、皇国安静之思召、程に寄り却て乱階を生じ候儀も難斗、乍恐明神様(藩祖一豊を指す)御以来、今日に至るまで、幕府御尊崇之御趣意にも相拗候哉と奉存候
(瑞山会編『維新土佐勤王史』富山房、1912年、1221ページ)

井上氏の主張に戻れば、このような「佐幕論」を積極的に唱えている人々は「佐幕派」と呼称しても差し支えないということになりますが、佐幕的心情を抱いているだけでは「佐幕派」と呼称すべきでないということになります。何故なら、当時の武士の大半は多かれ少なかれ、佐幕的心情を有していたと思われるからです。井上氏は、そのように考えているのでしょう。

ただし、ここで注意しておきたいことは、そのような「佐幕派」連中も、「皇国安静」を意識しているということ。「佐幕派」と称される人々はいわゆる勤王など、朝廷や天皇を敬う考え方を否定しているわけではありません。「皇国安静」を目指す上で、幕府を重視する態度が大政奉還論者や討幕論者と違っただけのことです。

要するに、幕末の武士たちは佐幕的心情も勤王精神も、元々はみんな同じように共有していたという共通点があります。佐幕的心情が薄くなった者は討幕論を唱え、逆に佐幕的心情を募らせた者は佐幕論を主張したりする違いが発生しますが、その根底には、「皇国安静」を求める精神が共通しています。その共通点は、見逃すべきではありません。このあたりは少なくとも、「勤王VS佐幕」というような単純な二項対立的認識では、捉えきれない問題だと思います。

なお、幕末の志士たちがみんな勤王精神を有していたという点については、「新選組検証!」さんのブログ「温故知新」の1/27の記事が参考になります。

<参考文献>
井上勲「大政奉還運動の形成過程(二)」『史学雑誌』81-12、1972年

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2007年1月17日 (水)

中間層論からみる浪士組と新選組

先日、「新選組にも関連のある、多摩地域・多摩出身者の近代史」という記事において、松尾正人編『近代日本の形成と地域社会‐多摩の政治と文化‐』(岩田書院、2006年)という論文集を紹介しました。そして、その記事で、多摩の地域史研究と新選組研究の関連について述べたばかりです。

そんな矢先、同じく地域史研究の成果として昨年12月に刊行された書籍の中に、歴史家が書いた新選組の論文が収録されていることに気付きました。以下の書籍(赤文字)です。

平川新・谷山正道編『近世地域史フォーラム3 地域社会とリーダーたち』(吉川弘文館、2006年)

上記の赤文字で記した書籍に、編者の1人である平川新氏が執筆した論文、「中間層論からみる浪士組と新選組」が収録されているのを見つけたのです。論文のタイトルからして興味深いですね。書店で偶然にも見つけたものの、時間も所持金もあまりなかったため、まだちゃんと読んでいません。そのため、内容を詳しく紹介することが現時点では不可能です。申し訳ありません。

しかし、論文の末尾に参考文献が付されていたので、そこだけ少し見てきました。それによると、以下のような文献が参考文献に挙げられていました。ただし、下記に挙げた文献は私が覚えている限りのもので、もっと多くの文献が参考文献として掲げられていました。確か他にも、朝尾直弘氏の論文や、平川新氏自身の論文などが参考文献として紹介されていたように記憶しています。

・宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)
・大石学編『新選組情報館』(教育出版、2004年)
・大石学『新選組』(中公新書、2004年)
・鶴巻孝雄「<国家>の語りと<情報>」(新井勝紘編『民衆運動史4 近代移行期の民衆像』青木書店、2000年)
・小高旭之『埼玉の浪士たち』(埼玉新聞社、2004年)
・神立孝一「八王子千人同心」(久留島浩編『シリーズ近世の身分的周縁5 支配をささえる人々』吉川弘文館、2000年)
・木村幸比古『新選組日記』(PHP新書、2003年)
・根岸友憲監修『根岸友山・武香の軌跡』(さきたま出版会、2006年)

ちなみに、私は「中間層論からみる浪士組と新選組」という論文を書いた平川新氏のことをよく知らなかったのですが、調べてみたところ、東北大学東北アジア研究センター教授で、『近世日本の交通と地域経済』(清文堂出版、1997年)、『紛争と世論‐近世民衆の政治参加‐』(東京大学出版会、1996年)などの著書をお持ちの日本近世史研究者だそうです。

ともあれ、何と言っても、吉川弘文館から刊行された書籍の中に、新選組をテーマにした論文が収録されているのは感慨深いですね。新選組も、ようやく学問として本格的に認められてきたのだなという気がします。と同時に、地域史研究と新選組研究が絡んできた状況が、素直に興味深いです。

史実の新選組を知りたいと思う新選組ファンは、これからは書店の新選組コーナーだけではなくて、地域史のコーナーなどもチェックしてみるべきかもしれませんね。少なくとも、今回紹介した『近世地域史フォーラム3 地域社会とリーダーたち』という書籍は、新選組コーナーには置かれていません。

以前紹介した、深谷克己『江戸時代の身分願望』(吉川弘文館、2006年)も、新選組について重要な問題提起をしている書籍ですが、新選組コーナーには置いてありません。それらの事実は新選組が、「新選組研究」の枠内に留まらず、歴史学の様々な分野(例えば、今回の地域史や幕末政治史の分野)で分析対象として認められてきたことを象徴しているのかもしれません。

ちなみに、『近世地域史フォーラム3 地域社会とリーダーたち』は第二部を「維新変革期の地域社会とリーダー」と題して、平川氏のものを含む以下の論文を収録しています。興味のある方は、書店で探してみてください。

平川新「中間層論からみる浪士組と新選組」
三澤純「幕末維新期熊本藩の地方役人と郷士」
常松隆嗣「幕末維新期における豪農の活動と情報‐丹波の豪農園田家を中心に‐」
谷山正道「「御一新」と地域リーダー‐大和の老農中村直三の活動を中心に‐」
田崎公司「会津の地域リーダーと自由民権‐幕末維新から民権へ‐」

<関連記事>
新選組にも関連のある、多摩地域・多摩出身者の近代史
2006年にこのブログで言及・紹介した新選組関連文献リスト-新年の挨拶を兼ねて-
江戸時代の身分願望

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2007年1月13日 (土)

新選組にも関連のある、多摩地域・多摩出身者の近代史

新選組に多少なりとも興味を持つ人(好きかどうかは問いません)は、日本にどれぐらい存在するでしょうか。小説やドラマで描かれた新選組だけしか知らないというタイプの人まで含めると、かなりの数(それこそ星の数ぐらい)の人間が新選組に興味を持っていると言えそうです。一応、私もその端くれだと自認しております。私は特に、幕末政治史の中の新選組に興味を持っている人間です。ですから、新選組を歴史学的に分析した研究文献などが大好きです。

今、新選組に興味を持っている人々に向かって、新選組の中核メンバー(例えば近藤勇・土方歳三・沖田総司など)にとって多摩は重要な意味を持つ地域だったと述べたら、どうなるでしょうか。そんなに異論は出ないと思います。近藤勇や土方歳三は多摩の出身ですし、彼らが所属していた試衛館は、多摩に多くの門人を抱えていましたから。新選組の中核メンバーと多摩の関連性が強いことは、概ね認めていただけるでしょう。

さて、幕末維新史・新選組の研究文献に興味があって、新選組と多摩の結び付きの強さを重視する私は、少しだけですが新選組に触れつつ、幕末史に新たな論点を提示しながら多摩地域の近代史を論じている論文集に、強い興味を抱いています。そんな文献が、下記(赤文字)の通り、あるのです。

松尾正人編『近代日本の形成と地域社会‐多摩の政治と文化‐』(岩田書院、2006年)

上記の論文集は、昨年5月に刊行されたもの。編者の松尾正人氏は中央大学の教授で、『廃藩置県の研究』(吉川弘文館、2001年)などの著書がある、著名な日本近代史研究者です。上記の『近代日本の形成と地域社会』という論文集は、松尾氏が『武蔵村山市史』の編纂に携わった際、そのときには論じ切れなかった問題(例えば、武蔵村山市だけではなく多摩地域全体を見通して考える必要がある問題など)があったため、それを他の研究者と協力して、一気に1冊の論文集にまとめたものだそうです。興味深い論文が多数収録されています。その内容を、以下で少しだけ紹介します。

私が最も興味を持っている部分で言えば、やはり幕末維新史。『近代日本の形成と地域社会』は、第一部を「幕末維新の動乱と多摩」と題して、私の欲求を満たしてくれます。その第一部には、以下の三本の論文が収録されています。

・藤田英昭「八王子出身の幕末志士川村恵十郎についての一考察」
・松尾正人「多摩の戊辰戦争-仁義隊を中心に-」
・保谷徹「免許銃・所持銃・拝借銃ノート-明治初年の鉄砲改めと国産「ライフル」-」


新選組との関連で言えば、特に藤田英昭氏と松尾正人氏の論文が興味深いところです。まず、藤田氏の論文から紹介してみましょう。

藤田氏が主題としている「川村恵十郎」とは、幕末には一橋家の家臣および幕臣として徳川慶喜の下に仕え、明治以後は新政府の一員として活動した人物。川村正平あるいは川村光豁などと呼ばれたりもします。

藤田氏によれば、国立国会図書館の憲政資料室に、その川村による「川村正平文書」という史料が所蔵されているそうです。その文書中には、意見書や書簡などが795点も残されていて、それにもかかわらず、従来の幕末維新史研究では全く活用されてこなかったとのこと。何とも勿体ないことです。藤田氏は、その「川村正平文書」を活用して、川村恵十郎と幕末史について分析しています。

「川村正平文書」が従来の幕末史研究で活用されてこなかったとは言え、川村が幕末政局で興味深い動きをしていることは指摘されていました。例えば大久保利謙氏は、川村が慶応2年に岩倉具視を訪問して、かなり密接に接触していることを指摘しています(大久保利謙『岩倉具視』増補版、中公新書、1990年、155~156ページ)。また、宮地正人氏は、川村と肥後藩京都留守居役・上田久兵衛の密接な交流を指摘しています(宮地正人編『幕末京都の政局と朝廷』名著刊行会、2002年を参照)。

そこに、「川村正平文書」の分析を加えることによって、藤田氏は幕末史に新たな論点を提示しようとしています。川村は一橋家の家臣だったので、新選組と同様に、いわゆる一会桑権力の構成員でした。従来は会津藩の史料を活用して分析されてきた一会桑権力の動向を、「川村正平文書」を活用することによって、一橋家の側から考察することができるのではないかというのが、藤田氏の意見です。興味深い意見だと思います。

新選組との関連で言えば、藤田氏は近藤勇の「志大略相認書」を引用して、川村と新選組の攘夷論を比較するという試みをしています。そのほか、藤田氏は論文中で、宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)や、白石烈「諸藩周旋方と新選組」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)などの新選組研究の成果にも言及しています。新選組についての研究が、幕末政治史の研究にも役立っているようで、何だか嬉しかったです。

ともあれ、新選組の中核メンバーと同じ多摩地域の出身で、新選組と同様に一会桑権力の構成員だった川村恵十郎についての藤田氏の論文は、興味深い論点を色々と含んでいるようでした。

次に、松尾正人氏の論文。「仁義隊」とは、旧幕府脱走兵などで構成され、多摩方面で活動した部隊だそうです。松尾氏によれば、仁義隊を本格的に取り上げたのは松尾氏の論文が最初だとのことで、それだけでも貴重ですね。なおかつ、時期・場所の関係から、近藤勇(大久保剛)が率いていた甲陽鎮撫隊や、上野彰義隊への言及もあります。

また、松尾氏も論文の中で谷春雄・林栄太郎『新選組隊士遺聞』(新人物往来社、1973年)という文献から引用するなど、新選組史料・研究を活用している感じです。その意味で、松尾氏の論文も、新選組(特に甲陽鎮撫隊などの時期)に興味のある人には、興味深い内容を備えているのではないでしょうか。

『近代日本の形成と地域社会』という論文集には、そのほかにも興味深い論文が多数収録されていますが、あとは岩田書院オフィシャルHPのコチラのページを見ていただければ幸いです。詳しい目次と収録論文のタイトルを確認できます。『近代日本の形成と地域社会』は、多摩の近現代史を考察する上で、重要な文献になることでしょう。

また、そのほかの新選組関連文献に興味のある方は、私が書いた下記の過去記事をご覧いただければ幸いです。

2006年にこのブログで言及・紹介した新選組関連文献リスト-新年の挨拶を兼ねて-

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2007年1月 3日 (水)

2006年にこのブログで言及・紹介した新選組関連文献リスト-新年の挨拶を兼ねて-

新年の挨拶がかなり遅れてしまいましたが、明けましておめでとうございます。このブログを恒常的に閲覧してくださっている方がどれぐらいいるのか存じておりませんが、今年もご愛顧いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

新年のご挨拶はこのぐらいにして…。私は、大学時代に歴史学の分野で卒業論文を書きました。歴史学の卒業論文を書く上で、まず重要になってくることが2つあります。それは、「史料集め、および集めた史料を読むこと」と「先行研究探し・研究史の整理」です。歴史研究における史料の重要性は言うまでもないことなので、ここでは「先行研究探し・研究史の整理」について述べます。

「先行研究探し・研究史の整理」が重要なのは、何も歴史学に限ったことではなく、どの学問でも同様に重要です。自分の研究対象が、今までどのように研究されてきたのか、その状況を把握する作業です。つまり、自分がこれから行う研究(卒業論文執筆は研究の一環です)が、従来の研究史においてどのような位置にあるのか、それを明確にする作業が必要になってくるのです。その作業を怠ると、卒業論文も減点されてしまうことでしょう。

例えば、本能寺の変について研究する場合、立花京子氏・藤田達生氏・桐野作人氏などの研究をしっかり抑えておかなければ、それだけで卒業論文の評価は下がるでしょう。慶応三年政治史を研究するのであれば、井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)は必読文献ですし、幕末の会津藩を研究する場合、家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)は必読文献です。要するに、まだ誰も研究していない分野はともかく、すでに誰かの研究がある分野については、必ず最低限の必読文献と見なされているものが存在します。それを把握せずに卒業論文を書くと、「先行研究探し・研究史の整理」を怠ったものと認識されて、卒業論文の評価が下がると思うのです。

そのように、自分の経験を踏まえて先行研究探しを重要だと思っている私は、たまには文献リストのような記事でも書いてみようかと思いました。昨年書いた記事の中で言及した、新選組関連の文献をピックアップしてみたいと思います。新選組をテーマにして卒業論文を書きたい学生のお役ぐらいには立つかもしれません。ただし、ここで挙げる文献は、あくまで私がこのブログの昨年の記事で触れた文献だけです。新選組を研究する上で重要な文献は、ほかにもたくさんあります。そこだけ注意していただければ幸いです。

・秋葉一男「近世末期における地方豪農の動向について-武蔵国大里郡甲山村根岸友山の場合-」(『地方史研究』第21巻第2号、1971年)
・家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)
・家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)
・家近良樹「書評 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『日本史研究』513号、2005年)
・石川潔「新撰組出身の伝道者・結城無二三への検証」(『明治学院大学キリスト教研究所紀要』37号、2005年)
・岩上進『幕末武州の青年群像』(さきたま出版会、1991年)
・鵜飼政志「尊王攘夷思想と新撰組」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・大石学編『新選組情報館』(教育出版、2004年)
・大石学『新選組』(中公新書、2004年)
・小川和也「書評 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『人民の歴史学』161号、2004年)
・小佐野淳「新徴組 その知られざる実像」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・小高旭之『埼玉の浪士たち-「浪士組」始末記-』(埼玉新聞社、2004年)
・小高旭之「浪士組の実像―清河らの通説を検証」(『歴史読本』第49巻第12号、2004年)
・小高旭之「池田徳太郎の素顔―浪士組もう一人のリーダー」(『歴史読本』第49巻第12号、2004年)
・菊地明編『土方歳三、沖田総司全書簡集』(新人物往来社、1995年)
・桐野作人「『大久保大和守』名乗りの真相」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』第51巻第10号・第51巻第11号・第51巻第12号、2006年)
・小泉雅弘「伊東甲子太郎-深川の道場主から新選組幹部へ-」(『下町文化』第227号、2004年)
・後藤致人「『孝明新政府』における新選組の位置」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・小西四郎「坂本龍馬とその時代」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
・小山松勝一郎『清河八郎』(新人物往来社、1974年)
・小山松勝一郎『新徴組』(国書刊行会、1976年)
・笹部昌利「書評 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『歴史評論』665号、2005年)
・子母沢寛『新選組始末記』(万里閣書房、1928年)
・子母沢寛『新選組遺聞』(万里閣書房、1929年)
・子母沢寛『新選組物語』(鱒書房、1955年)
・白石烈「諸藩周旋方と新選組」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・白石烈「文献紹介 大石学編著『新撰組情報館』・同著『新撰組‐「最後の武士」の実像』」(『人民の歴史学』164号、2005年)
・新人物往来社編『続新選組史料集』(新人物往来社、2006年)
・高木不二「新刊の情報と紹介 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『歴史と地理』580号、2004年)
・田口英爾『最後の箱館奉行』(新潮選書、1995年)
・田崎公司「新選組と河内国御厨村の断想‐京都守護職会津藩知行地を中心として‐」(『大阪商業大学商業史博物館紀要』第5号、2004年)
・綱淵謙錠編『松平容保のすべて』(新人物往来社、1984年)
・鶴巻孝雄「多摩にもたらされた新選組情報」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・鶴巻孝雄「新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-」(町田市立自由民権資料館編『民権ブックス18 豪農たちの見た新選組』町田市教育委員会、2005年)
・中村武生「新選組研究の回顧と展望」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・中村武生「古高俊太郎考―八・一八政変から池田屋事件に至る政局の一齣―」(『明治維新史研究』第1号、2004年)
・奈良本辰也「維新史の中の新選組」(『奈良本辰也選集2 維新に生きる』思文閣出版、1982年)
・沼田哲「武蔵の豪農と尊攘思想-大里郡甲山村根岸友山の場合-」(『季刊日本思想史』第13号、1980年)
・根岸友憲「根岸友山と根岸武香」(『立正大学地域研究センター年報』第22号、1998年)
・根岸友憲監修『根岸友山・武香の軌跡』(さきたま出版会、2006年)
・野口武彦『幕府歩兵隊』(中公新書、2002年)
・野口武彦『新選組の遠景』(集英社、2004年)
・野本禎司「書評 大石学著『新選組‐「最後の武士」の実像』」(『史海』52号、2005年)
・原口清「禁門の変の一考察(一)(二)」(『名城商学』第46巻第2号・第46巻第3号、1996年)
・平尾道雄『新撰組史』(1928年)
・平尾道雄『新撰組史録』(育英書院、1942年。新人物往来社、2003年)
・深谷克己『江戸時代の身分願望』(吉川弘文館、2006年)
・福永弘之「新選組と兵庫」(『神戸文化短期大学研究紀要』29号、2005年)
・前田愛「草奔の悲劇・根岸友山」(『前田愛著作集』第4巻、筑摩書房、1989年)
・町田明広「池田屋事変における吉田稔麿について」(『霊山歴史館紀要』16号、2003年)
・松浦玲『暗殺‐明治維新の思想と行動‐』(徳間書店、1966年)
・松浦玲「民間『浪士』と維新期の『改革』」(『環』13号、2003年)
・松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)
・松浦玲「書評と紹介 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『日本歴史』688号、2005年)
・三野行徳「浪士組時代」(大石学編『新選組情報館』教育出版、2004年)
・三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」(『歴史読本』第49巻第7号、2004年)
・宮川禎一「史料が語る新選組」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・三宅紹宣「吉田稔麿の政治思想」(『史学研究』第247号、2005年)
・宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)
・薮田貫「内山彦次郎暗殺事件の真相」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・吉岡孝『八王子千人同心』(同成社、2002年)
・吉岡孝『江戸のバガボンドたち』(ぶんか社、2003年)
・吉岡孝「幕末の浪人集団と新選組」(『歴史読本』第49巻第3号、2004年)
・吉岡孝「新選組井上源三郎と八王子千人同心」(『歴史書通信』No.152、2004年)
・吉岡孝「新選組隊規の背景―条目に秘められた浪人集団からの脱却」(『歴史読本』第49巻第12号、2004年)
・吉岡孝「大石学編『新選組情報館』」(『関東近世史研究』第58号、2005年)
・林原純生「昭和初期の<幕末>物語‐子母沢寛『新選組始末記』の周辺‐」(『神戸大学文学部紀要』第27号、2000年)
・林原純生「『新選組始末記』の位相--昭和初年の大衆と歴史の言説」(『歴史読本』第47巻第2号、2002年)

ちなみに、私が挙げていない文献で重要な文献は、「新選組検証!」さんが紹介している場合も多いので、興味のある方は是非ご覧ください。

<1月13日、追記>
上記リスト中の、野口武彦『新選組の遠景』、吉岡孝『八王子千人同心』、深谷克己『江戸時代の身分願望』の三著について、「新選組検証!」さんブログ「温故知新」のコチラの記事において詳しい内容を紹介しています。これからの新選組研究は如何にあるべきか、新選組研究とアカデミズムの関係などについても鋭い指摘がなされています。興味のある方は、ぜひご覧ください。特に、学術的な観点から新選組を語る意味について考えたことのない人にも、ぜひ読んでいただきたいと思います。

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2006年12月31日 (日)

2006年 オススメ記事50

2006年も残りわずかとなりました。そこで、このブログに今年書いたたくさんの記事の中から、個人的に力を入れて書いた記事や多くの人に読んでもらえたら嬉しい記事を、歴史関係25・ディズニー関係25、合計50個ピックアップしてみたいと思います。タイトルをクリックしていただければ、各記事に飛べますので、タイトルに興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、是非お読みいただければ幸いです。

<歴史関係の記事>
歴史家と歴史小説作家の違い‐松浦玲氏の見解‐
池田屋事件についての原口清氏の提起
三条実美イメージについての笹部昌利氏の問題提起
薩長同盟の新しい研究‐薩長同盟成立を慶応元年九月とする説‐
坂本龍馬と「竹島」
孝明天皇は毒殺されたのか
「討幕」と「倒幕」
「世界の海援隊」のエピソードへの疑問
高橋秀直「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」
高橋秀直「王政復古への政治過程」
桐野作人「龍馬遭難事件の新視角」
桐野作人氏による最新の坂本龍馬論2つ
新選組を考える上で前提とすべき視点
吉岡孝氏による新選組論
孝明政権と孝明新政府-幕末維新史の新しい概念-
桐野作人「龍馬遭難事件の新視角」最終回-薩摩藩黒幕説の誤解を正す-
浪士組と坂本龍馬-三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画」-
「船中八策」作成に坂本龍馬が関与していない可能性
坂本龍馬・土方歳三・沖田総司と歴史学
幕末の有志大名
歴史家と「ファン系研究者」-主に新選組研究を素材にして-
公武合体体制
龍馬暗殺論議における「薩摩藩黒幕説」への疑問
龍馬暗殺論議における「薩摩藩黒幕説」への疑問 その2
新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-

<ディズニー関係の記事>
グーフィーの基礎知識‐グーフィーは犬型人間‐
ディズニー、ピクサーを買収
グーフィーに愛の手を…
ミッキーマウスとオズワルドについて思う
『ティガー・ムービー』に感動
ディズニー長編アニメ映画オススメ10本
ディズニー映画『ボンゴ(こぐま物語)』
パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト
ピクサー展
ディズニー・アート展
東京ディズニーシー テーマポートフィギュア
2回目のディズニー・アート展
プルート(ディズニーキャラ)と冥王星の話
ハウス・オブ・マウスの醍醐味
プルートとグーフィーへの疑問についての答え
山寺宏一氏の話とロジャー・ラビットの話
ヴィランズ大集合のペッパーライスクラッカー
『わんわん物語』を久々に観ました
昭和初期、日本でのミッキーマウス人気-『ミッキー忠助』・『ミッキーの活躍』など-
ミニーマウスの強烈なインパクト
『おしゃれキャット』に出てくる猫たち
ウォルト・ディズニーの話と『ファンタジア』の話
TDL「フリフリ・オハナ・バッシュ」を懐かしむ
『ミッキーのクリスマス・キャロル』のマニアックな楽しみ方
ディズニー映画『王様の剣』

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2006年12月 7日 (木)

子母沢寛『新選組始末記』の周辺

大正末期から昭和初期の時代には、幕末を題材にした時代小説が流行していました。その理由としては、昭和3年(1928)が明治維新の60周年にあたる年だったからということが言われています。

そういったことも関係してか、昭和3年は、一方で新選組の物語を形作り、他方で新選組研究の古典的バイブルとなった、2冊の書物が出版された年でもあります。子母沢寛『新選組始末記』(万里閣書房)と、平尾道雄『新撰組史』です。特に子母沢寛『新選組始末記』は、後続の大衆文学を生み出す源泉としての文学作品としての面と、また新選組研究のバイブルとしての2つの面を併せ持つ書物としての扱いを、未だに受けています。

その子母沢寛『新選組始末記』が、昭和初年のどのような雰囲気の中で生み出され、また、その出版が昭和初年の「幕末もの」の流行の中でどのような意味を持っていたのか、そのような『新選組始末記』の位相を検討した学者に、神戸大学文学部教授の林原純生氏(国文学研究者)がいます。

林原氏には、「昭和初期の<幕末>物語‐子母沢寛『新選組始末記』の周辺‐」という論文があります(『神戸大学文学部紀要』第27号、2000年に所収)。その論文の中で、林原氏は、子母沢寛の『新選組始末記』『新選組遺聞』『新選組物語』の、いわゆる「新選組三部作」に見られる特徴を、以下のように指摘しています(青文字で引用)。

『新選組始末記』の方法的特徴は、それが全体的には大きな構想と物語的な完結性において、大衆文学に通じる性格を持ちながらも、その「聞き書き」的な方法が大衆文学の波瀾万丈的な展開とは異なる日常的な場を基本としているところであろう。『新選組始末記』が、幕末の<剣戟>物と異なるところであり、それは例えば、『新選組遺聞』の中心をなし、最も興味を引きつける「八木為三郎老人壬生ばなし」に典型的に見られよう。(『神戸大学文学部紀要』27号、462ページ)

また、次のような指摘もなされています。

八木老人も稗田利八翁も、彼らは決して価値を決定する権利を持っているものとしては記述されない。彼らは過去を個人的な経験としてしか語らない。そして、そのような言葉がそのまま証言者の言葉となる。そこでは、曖昧さをも含めた日常の記憶形態がそのまま、証言者としての資格ともなる。そのことは、逆に、平凡な庶民の日常が、その日常性とそれを取り巻く日常的な時間とが、思想に満ちた<歴史>という価値体系に飛躍する場と対立構造を持ち、それゆえ、彼らの言葉は証言たりうるということであり、この語り手の日常性の設定こそが、子母沢寛の『新選組始末記』を成立させている言説であろう。子母沢寛の新選組三部作とは、物語の方法的な自覚において、無名の庶民の語りを証言者として設定し、そして最終的には彼らは今証言者たりうるとして歴史という価値体系の実践的な参画者であるということを示唆するために、その方法的な自覚が細部の修辞的な配慮において構築され叙述されたものなのである。(464~465ページ)

そして林原氏は結論部分において、以下のようにまとめています。

『新選組始末記』の位相は、昭和初年代の複雑な歴史意識の反映なのであり、大衆や庶民がどう歴史の言説に参画しえるかの問題を内包しているのであり、さきに述べた『新選組始末記』の方法は、その問題への子母沢寛なりの解答なのであろう。(467ページ)

以上、林原純生氏の、「昭和初期の<幕末>物語‐子母沢寛『新選組始末記』の周辺‐」(『神戸大学文学部紀要』第27号、2000年)という論文から、気になった部分を引用してみました。私は、国文学研究者が『新選組始末記』を検討した論文を読んだことがなかったので、結構興味深く読めた次第です。

林原純生氏は、ほかに、「『新選組始末記』の位相--昭和初年の大衆と歴史の言説」という文章を、『歴史読本』第47巻第2号(2002年2月号)に載せています。こちらの文章は未読なので、内容の詳細について私は知らないのですが、恐らく、この記事で紹介した『神戸大学文学部紀要』の論文を、一般向けに再構成した内容なのではないかと思います。

また、林原純生氏は、『新日本古典文学大系 明治編16 政治小説集1』(岩波書店、2003年)という書物の中で、『汗血千里の駒』の校注と解説を担当しています。『汗血千里の駒』とは、坂本龍馬を主役にした最初の小説で、司馬遼太郎氏も『竜馬がゆく』を執筆するに際してかなり参考にしたと思われるものです。幕末を扱った古い小説と、林原純粋生氏にも興味がある方は、『新日本古典文学大系 明治編16 政治小説集1』を読んでみるといいでしょう。『汗血千里の駒』を読むことができますし、林原氏の解説も堪能することができます。

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2006年11月27日 (月)

新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-

1週間前から、歴史学者の鶴巻孝雄氏のHP「鶴巻孝雄研究室」で、鶴巻氏の執筆による「新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-」という文章が、PDFで公開されています。

これは、町田市立自由民権資料館の企画展「豪農たちの見た新選組―多摩に芽生えた政治意識」の際の記念講演を文章化したもので、町田市立自由民権資料館編『民権ブックス18 豪農たちの見た新選組』(町田市教育委員会、2005年)に収録されています。

私は『民権ブックス18 豪農たちの見た新選組』を所持してはいないのですが、いつか入手して読もうと思っていました。そう思いながらも入手に至らないうちに、その本に収録されている鶴巻氏の文章だけは、ネット上で読めるようになりました。何とも、ありがたいことです。

さっそく、鶴巻氏の上記文章「新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-」を読んでみました。そこで鶴巻氏は、新選組と「士道」を安易に結び付けることは、新選組を正しく理解しているわけではないことを史料を引用しつつ説明し、むしろ新選組や近藤勇は政治運動に従事していたのだということを強調しています。また、京都市中の見廻りや浪士捕縛や、内部抗争や隊規違反者の粛清、あるいは魅力的な隊士個々人のエピソードは、新選組を論じる上での本質ではないのだとも述べています。私はこれらの鶴巻氏の意見に、基本的に同感です。

上記文章の冒頭で、鶴巻氏は、新選組が人々にどのような集団だと思われているのか、そのアンケート結果を紹介しています。それによると、「テロ集団」、「幕府の番犬」、「幕末のあだ花」、「誠」、「武士道」などのイメージで新選組を見ている人が多かったようです。政治集団とか思想集団としてイメージしている人は、あまりいなかったようです。

鶴巻氏も文章中で述べているように、最近は松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)、宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)、大石学編『新選組情報館』(教育出版、2004年)など、歴史学者による新選組研究が相次いで公にされているため、上記アンケート結果のような新選組イメージは、徐々に改まりつつあると思います。しかしそれでも、新選組が政治集団あるいは思想集団として広く認知されるには、まだまだ時間がかかるのではないかというのが、私の正直な実感です。

新選組に興味がない人はいざ知らず、興味のある人には、せっかくネット上で全文を読むことができるようになった鶴巻氏の「新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-」を読んでいただきたいと思います。ですが、新選組に興味がある人の多くは、鶴巻氏が新選組を論じる上で重要だと考える政治集団としての新選組に興味を示さず、結局は鶴巻氏が本質ではないと考える隊士個々人のエピソードや「士道」と結び付けた新選組像に興味を抱く人が多いのかなぁという懸念もします。

もしも、そうだとしたら、書店の新選組コーナーにはいつまでも「士道」・「誠」などを強調する新選組本が並び、新選組の政治集団としての面を強調した本はなかなか増えないのかと心配にもなります。出版社としては、同じ新選組の本でも、売れそうな本を積極的に作るでしょうからね。そうだとしたら残念なので、少しでも多くの人に、鶴巻氏の「新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-」を読んでいただけたら幸いです。せっかく、ネット上で読めるようになったのですから。「鶴巻孝雄研究室」でPDFを閲覧できます。

余談ながら、鶴巻氏の上記文章には、近藤勇の書簡が多く引用されています。それを読むと、従来の幕末維新史研究および新選組研究に近藤の書簡が有効活用されてこなかったことが、勿体ないという気持ちになります。

また、「鶴巻孝雄研究室」では、元・新選組隊士の松本捨助の捕縛を伝える新聞記事を、新たに紹介しています。こちらも興味深いですね。

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2006年11月16日 (木)

江戸時代の身分願望

書店で、面白そうな本を見つけました。先月刊行されたばかりの、深谷克己氏の著書『江戸時代の身分願望‐身上りと上下無し‐』。吉川弘文館の歴史文化ライブラリーの1冊です。

タイトルからして、もしや幕末についても結構詳しく記述されてはいないだろうかと期待してページをめくってみたら、期待通りでした。購入はせず、短い時間立ち読みしただけですが、個人的に興味深いと思った部分の内容を、少し紹介します。

私が特に注目したのは幕末史に関連する記述ですが、その前に全体の内容をざっと紹介しましょう。士農工商の江戸時代には、人々は少しでも上の身分に上昇すること(「身上がり」)を望んでいて、逆に他人に出し抜かれたくない気持ちから平等化(「上下無し」)を願う人もいた…そのような人々の葛藤する身分願望から、江戸社会を分析した書物です。近世の身分意識の問題、郷士、兵農分離、士分化、武士身分の放棄、幕末の身分制度の崩壊など、身分に関わる様々な問題を論じています。

次に、私が注目したところの紹介です。深谷氏は、「幕末江戸多摩の身分願望」という章を設けて、その章で、幕末の剣術や八王子千人同心・新選組・新徴組・甲陽鎮撫隊などに触れています。

例えば江戸の三大道場からは、坂本龍馬を始めとする大勢の志士たちが誕生したことを述べ、それら志士・浪士たちは、剣術で磨いた技と志を持つことによって、政治文化的に「士」となったことが指摘されています。それら幕末の浪士たちは「浪士」ではあっても、決して「浪人」あるいは「牢人」ではないことが指摘されています。このあたりの主張は、松浦玲氏が「民間『浪士』と維新期の改革」(『環』13号、2003年)の中で述べていたことと、似ているような印象を受けました。

新選組についても、面白い記述がありました。慶応3年に近藤勇は「御見以上」、土方歳三は「見廻組肝煎」となり、幕府の中で正式な格式を得たわけですが、日野の佐藤彦五郎は手紙の中で彼らに敬称を付けることをせず、あくまで昔と同じように呼び捨てだったことを指摘し、近藤と大久保が甲陽鎮撫隊の大久保剛と内藤隼人に改名してからも、それは変わらなかったとのこと。

そのことから深谷氏は、近藤が「御見以上」になれたりしたのは、幕末になってから身分制度の急激な崩壊があったからだということを、近藤も土方も佐藤彦五郎もちゃんと認識していたからではないかと指摘しております。

以上、立ち読みしたときに気になった部分を少しだけ紹介してみました。今度、もっとじっくり読んでみようと思います。ちなみに、主な目次は以下の通りです(赤文字)。

身分制社会に生きた人々の願望―プロローグ
近世の身分意識と身分変動
身上りの欲求と平均への欲求
士分化と身上りの欲求
幕藩体制を再活性化する身上り
身分制を崩す売禄と献金
幕末江戸多摩の身分願望
近世から近代へ―エピローグ

また、著者の深谷克己氏には、そのほかに『藩政改革と百姓一揆』(比較文化研究所、2004年)、『近世人の研究』(名著刊行会、2003年)、『津藩』(吉川弘文館、2002年)、『百姓成立』(塙書房、1993年)、『近世の国家・社会と天皇』(校倉書房、1991年)、『八右衛門・兵助・伴助』(朝日新聞社、1978年)など、多数の著書があります。

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2006年11月 9日 (木)

龍馬暗殺論議における「薩摩藩黒幕説」への疑問

先日、「坂本龍馬の系譜」という記事を書いたときに、コメント欄で歴史作家の桐野作人氏に教えていただいたのですが、先週のNHK「その時歴史が動いた」で、坂本龍馬暗殺の話題が取り上げられたようです。そして、その番組内で、龍馬暗殺の黒幕に薩摩藩の存在があったという、いわゆる「薩摩藩黒幕説」を支持している人が多いという状況が放送されたようです。

私はその番組を見なかったので、一体どんな感じだったのか、ネット上を検索して少し調べてみたのですが、驚きました。思ったよりも、薩摩藩黒幕説を信じている方が多いこと多いこと。

学生時代にちょっと幕末政治史をテーマにして卒業論文を書いた程度の私でさえ、薩摩藩黒幕説には無理がありすぎると考えています。その点は、歴史研究者としても活躍されている桐野作人氏も、述べられているところです。

私なりにもっとはっきり言ってしまえば、いわゆる薩摩藩黒幕説は、1つの「説」として喧伝されていること自体がおかしいと思えるぐらい、薩摩藩黒幕説を裏付ける根拠は乏しいのです。それなのに、その根拠が薄い説を信じる方が多いらしいという現状に、改めて驚いた次第です。

私が思うに、薩摩藩黒幕説を信じる方には、次の①と②のような幕末史認識が、ほぼ共通の了解として存在しているように思います。

① 慶応3年後半の政局は、大政奉還という平和路線を推進する坂本龍馬、ないしは後藤象二郎ら土佐藩首脳と、武力討幕を推進する西郷隆盛・大久保利通ら薩摩藩の対立が激しくなっていたとする、二項対立的な認識

② 慶応3年政局において、坂本龍馬の影響力・活躍というものは他の誰よりも大きくて、武力討幕をする上で、薩摩藩の邪魔者になっていた

まず①についてですが、このような「大政奉還VS武力討幕」という図式には、古くから批判があります。例えば、歴史学者の井上勲氏は、両者を相容れない路線と捉える見方について、30年以上前から疑問を呈しています(注1)

大体、薩摩藩は大政奉還の理念そのものには賛成でした。薩摩藩にとっても、土佐藩にとっても、幕府あるいは徳川慶喜に大政奉還という選択をさせることは共通の前提事項であって、さてその後で慶喜をどうするかという部分に、意見の対立があっただけです。王政復古と新政府の樹立を急務とする点では、薩摩藩も土佐藩(龍馬を含む)も一致していました(注2)

つまり、土佐藩と薩摩藩は決定的に対立していたわけではなく、大局的に見れば、むしろ協調する姿勢を示していたのです。そういう面があったからこそ、薩摩藩と土佐藩は、共同で王政復古の政変に参加したのです。薩摩藩の西郷や大久保は、龍馬を邪魔に思うどころか、味方として認識していたはずです。

大体、「武力討幕路線の薩摩藩」と言いますが、薩摩藩の中も決して武力討幕路線で一枚岩になっていたわけではありません。中には西郷や大久保の方針に同調せず、むしろ土佐藩の動向を気にかけていた勢力も存在するのです(注3)

ありえないことではありますが、もしも西郷や大久保が、土佐藩や薩摩藩の中の武力討幕方針に同調していない者を邪魔に思うなら、薩摩藩内の反対者をどうにかするのが先決だったでしょう。西郷や大久保に反対する勢力が大きくなれば、西郷や大久保と言えども藩内での指導力を失ってしまう可能性があるのですから。薩摩藩内で指導力を失った西郷や大久保に、武力討幕ができるはずはありません。

ともあれ、西郷や大久保も、大政奉還の理念そのものには賛成です。そもそも大政奉還とはそれ自体、幕府制度を廃止させるものなのですから。むしろ、大政奉還に反対していたのは、会津藩や紀州藩、新選組など、親藩・譜代藩・幕府内の旗本などでした。それらの勢力は、大政奉還による変化を認めようとせず、あくまで従来の幕府権力の維持を画策していました(注4)

つまり、大政奉還後の政局は、薩摩藩黒幕説を支持する方が思うような、「土佐藩の大政奉還路線VS薩摩藩の武力討幕路線」という図式ではなく、「土佐藩や薩摩藩などの大政奉還支持勢力VS幕府権力の維持を主張する勢力」という図式が正しいのです。繰り返しになりますが、そのような状況で、龍馬が薩摩藩の邪魔になるはずがありません。

ここで、さきほど私が紹介した②の認識について述べます。薩摩藩黒幕説を支持される方は、坂本龍馬が大政奉還論の発案者だと誤解していないでしょうか?坂本龍馬は大政奉還論の発案者ではありません。むしろ、大政奉還論は慶応3年の時点で常識的な考え方になっていました。龍馬は、その常識となっていた考え方を、実行に移しただけなのです(注5)

そもそも、土佐藩の大政奉還運動の端緒となったとされる「船中八策」にしても、龍馬の発案ではない可能性も、最近では指摘されています(注6)。その当否については、今後の議論・研究次第ですが、慶応3年に龍馬が果たした役割については、過大評価されている面があるような気がしています。

司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』では、龍馬1人の活躍で大政奉還が実現したかのような書き方がなされていますが、史実でもそうだったのでしょうか。龍馬の活躍を否定するわけではありませんが、私は龍馬よりもむしろ、後藤象二郎の活躍が大きかったと主張したいです。龍馬は、後藤象二郎を側面から援助していたに過ぎません。

だとすれば、もしも西郷や大久保が、武力討幕の邪魔者を暗殺しようと企むのであれば、龍馬ではなく後藤を狙うのが妥当ではないでしょうか。私には、どうしても、そのように思えてならないのです。龍馬を殺して、薩摩藩にメリットがあるとは到底思えないのです。

まず、龍馬を殺したことがバレたら、薩摩藩は土佐藩に見放されるのは確実でしょう。協調も何もあったものではありません。それは、武力討幕をやりにくい状況にするだけです。そんなリスクを冒してまで龍馬を殺すメリットがあるようには思えません。

とりあえず、「薩摩藩黒幕説」を支持されている方には、一度ちゃんと幕末史の勉強をしていただきたいと思います。幕末政治史(特に慶応三年政治史)のことをある程度理解できれば、薩摩藩が龍馬を暗殺する可能性は限りなくゼロに近いということを、わかっていただけると思います。別に史料を読まなくてもいいのです。比較的新しく、まともな概説書を読むだけでいいのです。

単純に、龍馬暗殺の問題だけでも、桐野作人氏が今年、説得力のある議論で薩摩藩黒幕説を否定した論考を、発表されています。新人物往来社から発行された、今年の『歴史読本』7~9月号に掲載されています(注7)。ぜひ、それをお読みください。

この記事で書いたことは、私が龍馬暗殺論議について常々考えていることの一部です。NHKの番組で龍馬暗殺が扱われたということに触発されて、少し披露してみました。薩摩藩黒幕説には根拠がないということを、少しでも多くの方にわかっていただきたいので、今後も、龍馬暗殺に関する記事を書くことはあると思います。もしよろしければ、「注」の下に掲載した過去記事もお読みください。


1…井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)」(『史学雑誌』81-11、1972年)を参照。
2…家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)、高橋秀直「「『公議政体派』と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41号、2002年)を参照。
3…私はまだちゃんと読んでいませんが、最近、高橋裕文氏が薩摩藩内の武力討幕反対勢力の分析をしているようです。高橋裕文「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」(家近良樹編『もうひとつの明治維新』有志舎、2006年)を参照。
4…例えば、新選組の近藤勇は、大政奉還という事態を歓迎せず、状況を大政奉還前に戻そうと画策していたようです。宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)150ページ参照。
5…松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)を参照。
6…松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。詳しくは、
「「船中八策」作成に坂本龍馬が関与していない可能性」という記事をお読みください。
7…桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』2006年7・8・9月号)

関連記事
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桐野作人氏による最新の坂本龍馬論2つ
桐野作人「龍馬遭難事件の新視角」最終回-薩摩藩黒幕説の誤解を正す-
龍馬暗殺について~歴史学者(幕末政治史研究者)の意見を参照することのすすめ~
坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺前後の政局‐史料の中に見える薩摩藩士たちの言葉‐

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2006年10月15日 (日)

歴史学と国民の歴史意識と司馬遼太郎

歴史家の鹿野政直氏は、著書『「鳥島」は入っているか』(岩波書店、1988年)の第二章「『戦後』意識の現在」において、1960年代~70年代の歴史(特に日本史)ブームについて分析し、『歴史読本』・『歴史と人物』・『歴史と旅』など、歴史学を専業としない一般の人々を対象にした歴史雑誌がそれなりに成功したことや、中央公論社『日本の歴史』にならった通史の企画が次々と打ち出されたことを述べ、同時に、それらの歴史ブームが次のような状況を生じさせたことを指摘しています(引用は赤文字で行います)。

人びとの歴史への関心は、せまく歴史学へ集中するのではなく、ひろく歴史文学へと向う。いつの時代にも歴史文学は、人びとがその時代観を託する恰好の文化的創造物としてある。作者は、創造者のつねとして、ほとんど意識することなく、人びとの歴史意識を代弁し、それを方向づけるという役割を担う。そこに人びとは、みずからの生活実感と願望が、歴史上の人物に具現されているとの発見に打たれ、鎖につながれたみずからの想念が解き放たれるのを味わって、充足感にひたされる。事実の重みから逃れるすべのない歴史学と異なり、歴史文学に向きあうとき、人びとは、歴史という範疇のもつ事実性によって、まったくの絵空事でないとの安心感をもちつつ、文学のもつ虚構性とたわむれることさえ可能となる。そうした意味で歴史文学は、歴史学にとっては、人びとの歴史への関心を充足させるという点で同根性をもちながらも、彼らをもう一つの歴史像へと誘う内発性を、本質的に蔵している。(47~48ページ)

人々が歴史に興味を抱けば抱くほど、「歴史学」と「歴史文学」の問題というものが生じてきます。歴史ブームの中で歴史学の世界に生きる歴史家たちから見て、「歴史学と、人びとの歴史意識のあいだに、時代の変化を窺うような、微妙な乖離が看取」される状況が生まれてきたのです(48頁)。私は 1960~70年代の歴史ブームの頃には生まれていないので実感がないのですが、上記の「歴史学」と「歴史文学」の問題は現在も変わらないと思います。

そして、歴史文学の人気の中で、今も人気を誇る英雄が登場します。司馬遼太郎氏です。鹿野政直氏は司馬遼太郎氏について、次のように述べます。

歴史文学にあらわれた国民の歴史意識を論じる場合、だれも彼を無視しえなくなった。なにが彼を、そのような位置へ押しあげたのだろうか。彼に投影された国民の歴史意識、ことに「戦後」意識はどんなものであったろうか。そこにわたくしたちはたぶん、国民の歴史意識における歴史学ばなれの秘密の、少なくとも一端をみることができよう。(50ページ)

鹿野氏はそのような問題意識で、司馬氏の小説や評論などの作品を様々に分析し、それら作品群の中から窺える「司馬遼太郎の世界」を、以下のようにまとめました。

一言にいってそれ(司馬遼太郎の世界―管理人注)は、高度経済成長下で自立してきた、あるいは野放図にまで成長してきた「戦後」的日本史像を打ちだした。おなじく「戦後」の擁護を機軸にするとはいえ、批判としての「戦後」的日本史像を定立してきた歴史学とは、同一基盤に立つというよりはむしろ、亀裂をはらみつつ向きあう立場の歴史意識であった。それだけにこの立場は、「戦後」の成果である経済国家体制、それを支える意識としての「合理」主義、「覇気」の理論化、正当化へと向わざるをえない。(58ページ)

司馬遼太郎氏の小説を愛読する人は多く、歴史家の文章を愛読する人は恐らく司馬氏の小説の愛読者よりも少ない…少なくとも、そのように感じる歴史家は多いと思われます。大げさに言ってしまえば、日本国民の中には、歴史家の研究成果よりも、司馬遼太郎氏の小説によって歴史意識を形成している人が多いということになります。それだけではなく、歴史学と「司馬遼太郎の世界」に上記のような違いが見られるのであれば、歴史学としては司馬遼太郎氏を決して無視できないということになります。鹿野氏の言葉を借りれば、「司馬遼太郎的歴史世界にどう向いあうかは、歴史学にとっての一つの試練を意味した」のです(61 頁)。

だから、司馬遼太郎氏について何かしら論じる歴史家は少なくありません。最近のものでは、成田龍一氏の『司馬遼太郎の幕末・明治‐『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』を読む‐』(朝日選書、2003年)などが挙げられるでしょうか。今もって司馬遼太郎氏の影響は大きいので、鹿野政直氏が『「鳥島」は入っているか』の中で提起した問題は、今後も色々な方面で論じられることでしょう。

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2006年10月 5日 (木)

歴史家と「ファン系研究者」-主に新選組研究を素材にして-

歴史家の松浦玲氏は、著書『新選組』(岩波新書、2003年)の中で、主に新人物往来社を拠点にして新選組の研究に精力的に取り組んでいる在野の研究者たちを、「ファン系研究者」と呼称しています。これは、松浦氏に「ファン系研究者」と呼ばれた研究者たちが、新選組の研究家であると同時に、新選組のファンであることをも意味しているのです。

『新選組』という著書を出した松浦氏はどうかと言えば、恐らく新選組のファンではないと思います。しかし、松浦氏が新選組に「興味がある」のは確かなはずです。そうでなければ、新選組についての著書を出したりはしないですし、あそこまで読み応えのある内容に仕上げることはできないでしょうから。しかしながら、「興味がある」ことが即座に「ファンである」ことには結び付かないのです。

そのような態度は、何も松浦氏だけに限ったことではありません。歴史家全般に共通して言えることだと思います。吉田松陰についての著書を出した歴史家が、吉田松陰のことを好きだとは限りませんし、天皇や皇室を研究している歴史家が、天皇や皇室をを好きだとは限りません。むしろ、逆の場合もありえます。

では、なぜ歴史家は、好きでもない人物や事件をわざわざ研究することがあるのでしょうか。それは、「研究対象としては面白そうだ」と感じたり、「これを研究することには学問的意義がある」と感じたりしているからでしょう。歴史家は、たとえ好きな歴史上の人物がいたりしても、その人物を研究することに積極的な意義を見出せない場合(=学問的に研究する意味がないと感じた場合)は、あえて研究対象にしようとはしない人が多いと思われます。

「ファン系研究者」は、そのような歴史家の研究姿勢とは違います。好きなものをとことん研究します。例えば新選組なら、新選組を好きだからこそ、新選組のあらゆることを知りたい、どんな些細なことでも知りたい…そのような思いが、研究意欲になります。「好き」という気持ちが、強力なエネルギーになっているのです。新人物往来社から出版されている新選組研究の成果は、そのような「ファン系研究者」の思いの結晶だと言えるかもしれません。

「Freeway walker」さんというブログが指摘していますが、「ファン系研究者」の方々は、「研究者ではないファン」の方々と、同じ目線の持ち主なのではないかと思えます。例えば新選組の「ファン系研究者」は、「研究者ではない新選組のファン」の方々と同様に、新選組のファンですので、新選組ファンが知りたい情報を適切に紹介してくれる部分があるような気がします。要するに、新選組ファンにとって、新選組の「ファン系研究者」が書いた本は取っ付き易いということです。自分と同じ目線・スタンスで書かれているので、親しみを持ちやすいのでしょう。

一方で、歴史家が書いた新選組本を敬遠している新選組ファンは、少なからずいるように思えます。歴史家は、別に新選組ファンが求めているものを文章にしようとは考えず、自らの問題関心にしたがって論を組み立て、史料を吟味し、その結果として得られた仮説を提示しようとしている方が多いことでしょう。そのような形で出された歴史家の新選組本が、すべての新選組ファンに受けいれられるとは思えません。

歴史家は、あくまで「歴史学」という名前の「学問」の一環として、新選組を研究素材にします。ところが、新選組ファンの多くは、別に「学問」を求めているわけではありません。「歴史家が、学問的に意味があると考えること」と、「ファンが知りたいと思っていること」は、必ずしも一致しないのです。学問的に意味があろうとなかろうと、自分たちの大好きな新選組の色々なことを知ることさえできれば満足だという方が、結構多いのではないでしょうか。そのような方々は、史料の小難しい解釈や、新選組が直接関わらない複雑な幕末史の動向、新選組を生み出した時代状況の考察などに、興味を抱かない傾向があります。

よく、「歴史家の文章は硬い」とか、「歴史家の書いた本は面白みに欠ける」とか、「歴史家はファンの夢やロマンを潰す」と言われることがあります。これには、もちろん、文章の下手な歴史家がいるとか、そもそも面白いものを書こうとしていないなどの問題もあると思います。しかし、「歴史家が、学問的に意味があると考えること」と「ファンが知りたいと思っていること」が乖離しているという面もあるのではないでしょうか。「歴史家が重要だと感じて、著書の中で熱心に説明していること」と、「ファンが猛烈に知りたいと思っていること」が、全く一致しない場合があるということです。これは、歴史家と「ファン系研究者」の違いにもつながります。

私は、そのような乖離が生じるのには、歴史家と「ファン系研究者」の双方に、いくつかの問題があるように感じます。まず歴史家ですが、歴史家は「学問的に意義がある」と感じたこと以外を軽視する傾向があります。新選組のファンがいかに新選組について熱心に議論していても、歴史家は関知しないということが長年続いていました。その結果、世間一般にはかなり史実とかけ離れた新選組像が蔓延してしまったような気がします。それは大げさに言ってしまえば、国民の歴史認識に関わる問題です。私は、歴史家が国民の歴史認識の問題に関知しないという姿勢を好ましいものとは思いません。

また、歴史の話に限ったことではありませんが、ファンの力というのは侮れません。最近は、新選組を研究する歴史家も増えてきましたが、それというのも結局は、歴史家が長年軽視してきた「ファン系研究者」の膨大なエネルギー(新選組への愛情)が生み出した研究蓄積があればこそ。新選組を歴史学的に研究する基盤を整えたのは歴史家ではなく、むしろ「ファン系研究者」なのです。野口武彦氏も『新選組の遠景』(集英社、2004年)の中で述べていましたが、歴史家はそれらの研究者に敬意を払うべき部分があるのは間違いないでしょう。

一方で、「ファン系研究者」にも問題はあります。新選組のことなら何でも知りたいと思う気持ちが先行しすぎて、歴史家から見れば「学問的には意味のない、些細なこと」と思われることばかり追求し、歴史家が「学問的に重要」と感じる部分について、あまり深く議論されてこなかった状況を、「ファン系研究者」は作り出してしまいました。また、「ファン系研究者」は歴史家と違って、出典を明記するという習慣がない、あるいはそのような学問的方法を知らないため、ほかの研究者の研究活動を促進させる・手助けする効果を生み出してきませんでした。

また、「ファン系研究者」の中には、「新選組には興味があるけれども、幕末史全体についての興味は薄い」という人も、少なからずいるのではないでしょうか。そのような意識でいると、これも野口武彦氏が指摘するように、新選組の本当の姿を捉えきれない事態が危惧されます。「ファン」の視点から少し離れた冷静な視点で新選組を見てみることも、時には必要なのではないかと感じる研究者もいます。歴史家でも、愛着のある人物について甘い評価を下しがちな人がいますからね。

「ファン系研究者」は、「新選組を取り巻く時代状況はどのようなもので、新選組はその中でどのような役割を果たしたのか」という問題意識を持たないと、新選組のことなら何でも知りたいという欲求を満たすことはできないと思います。新選組のリーダーたる近藤勇の思想や行動を探ることなく、土方歳三や沖田総司ばかり論じていても、新選組のあらゆることを知るという欲求を、なかなか満たせないと思います。

私が望むのは、歴史家と、「ファン系研究者」およびファンの乖離が少しでも縮まること。歴史家は、「ファンの存在」というものを無視すべきではないと思いますし、ファンの動向・規模によっては国民の歴史意識・歴史認識にも大きな影響を与えるかもしれないという意識を持つべきだと思います。また、「ファン系研究者」は、「好き」という気持ちだけで突っ走るのではなく、もう少し学問的な意識を強く持って、学問的にも重要と判断されるような研究を多く発表していただきたいものです。そうすれば、「学問は求めていない」ファンも、少しは「学問的に論じられた新選組」に興味を示してくれるようになるのではないかと思うのですが。

歴史家と「ファン系研究者」およびファンの意識の乖離が少しでも縮まれば、より面白く読み応えもある新選組研究が多くなるのではないかと思っていますし、そうなることを願っています。これは、新選組以外のことにも当てはまることでしょうね。

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2006年9月18日 (月)

根岸友山と新選組

根岸友山は、文久3年の浪士組上洛に参加し、浪士組分裂の際には、近藤勇や芹沢鴨らと一緒に残留を希望し、会津藩預かりとなった人物です。新選組に興味のある方なら、ご存じの方が多いでしょう。文化6年(1809)生まれで、没年は明治23年(1890)。

しかし、友山は、一緒に京都に残留していた殿内義雄が殺害された直後、京都を脱して江戸に帰還してしまいます。江戸に帰った後は、新徴組に参加したものの、すぐに離脱して故郷の武蔵野国大里郡甲山村に戻ってしまったようです。

『新編埼玉県史 資料編12』(埼玉県、1982年)には、根岸友山が著した「吐血論」という文章が収録されています。この中で根岸友山は、かなり熱く尊王論を展開しています。根岸友山が述べていることを丸ごと信用するならば、浪士組に参加した時点で、友山には幕府組織の一翼を担うつもりなど毛頭なかったようです。

友山が京都に残留したのは「王臣」として朝廷のために働くのが目的で、幕府のために働く気は全くなかったという趣旨のことを、友山は述べています。友山が近藤勇や芹沢鴨と一緒にやっていけなかったのには、このあたりにも原因があるもかもしれませんが、はっきりとはわかりません。

ただし友山は、「吐血論」の中で、近藤勇について手厳しいことを書いています。まず、近藤が処刑される前に作ったとされる辞世の詩について、「近藤は文盲だから、詩なんか作れるはずはない。近藤の辞世の詩と言われるものはニセモノだ」と言い、さらには、「近藤は俗用の書翰すら書けない愚人」とまで述べています。少なくとも、近藤は多数の書翰を残しているので、友山が言っていることは当たっていません。また、友山は、近藤が名を成したのは、芹沢鴨の力があったからだとも言っています。とにかく根岸友山という人は、近藤勇および新選組が嫌いなようです。吐き捨てるような言い方からして、それは明確に伝わってきます。

私は最近まで知らなかったのですが、根岸友山について記した文献・研究は、案外多いようです。まず、岩上進氏の『幕末武州の青年群像』(さきたま出版会、1991年)という著書には、「新選組と根岸友山」という章が設けられていて、根岸友山について詳しく知ることができます。この岩上氏の著書は、ほかに「天狗党と小田熊太郎」、「パリ万国博覧会と渋沢栄一」、「江戸開城と誠忠の幕臣たち」、「彰義隊と橋府随従の臣たち」、「振武隊と武州の青年たち」など、全部で12の章を設けて、埼玉出身の志士たちについて、詳しく知ることができます。

岩上氏の著書と同じように、埼玉出身の志士という点に着目したものとして、小高旭之『埼玉の浪士たち-「浪士組」始末記-』(埼玉新聞社、2004年)を挙げることができるでしょう。根岸友山ら、埼玉から浪士組に参加した約50名の浪士たちについて述べられた著書です。

前田愛氏は日本文学の研究者として有名で、幕末維新史研究においても、『成島柳北』(朝日選書、1990年)や『幕末・維新期の文学』(法政大学出版局、1972年)などの著書を出されています。その前田愛氏の、『前田愛著作集』第4巻(筑摩書房、1989年)には、「草奔の悲劇・根岸友山」という論考が収録されているそうです。前田愛氏の著作集は未読なので、内容については存じておりませんが。

また、これも未読なのですが、根岸友憲監修『根岸友山・武香の軌跡』(さきたま出版会、2006年)という本があります。今年、発売されたばかりですね。

その他、根岸友山の名前がタイトルに入っている論文として、以下のものがあります。

・秋葉一男「近世末期における地方豪農の動向について-武蔵国大里郡甲山村根岸友山の場合-」『地方史研究』第21巻第2号、1971年
・沼田哲「武蔵の豪農と尊攘思想-大里郡甲山村根岸友山の場合-」『季刊日本思想史』第13号、1980年
・根岸友憲「根岸友山と根岸武香」『立正大学地域研究センター年報』第22号、1998年

根岸友憲氏の論文が先ほど紹介した『根岸友山・武香の軌跡』という著書に再録されているのか否かまでは調べておりません。すみません。

ちなみに、先述のとおり、「吐血論」は活字化されて『新編埼玉県史 資料編12』に収録されていますが、原本は国立国会図書館に所蔵されているようです。

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2006年9月 6日 (水)

坂本龍馬・土方歳三・沖田総司と歴史学

1985年に新人物往来社から発売された『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』に、歴史学者・小西四郎氏(元東京大学教授)の、「坂本龍馬とその時代」という論考が収録されています。その文章の中で小西氏は、幕末を舞台に活躍した志士たちのうち、最も人気がある人物として、坂本龍馬と新選組の土方歳三・沖田総司の3人を挙げています。

小西氏が幕末の人気者として坂本・土方・沖田の3人を挙げたのは1985年で、今から約20年前のことです。しかし、坂本・土方・沖田の3人が幕末の人気者であるという状況は、恐らく現在でもそれほど変わりはしないだろうと、私は思っています。

この3人が幕末の人気者になった背景としては、まず間違いなく司馬遼太郎氏の小説の存在が大きいと言えるでしょう。坂本龍馬は『竜馬がゆく』、土方歳三と沖田総司は『燃えよ剣』や『新選組血風録』で、一躍ヒーローとなった感があります。その後も、この3人は、様々な小説やドラマなどの創作物の中で、ヒーローとして描かれて現在に至ります。いわば、エンターテインメントの世界で、坂本・土方・沖田はヒーローとして扱われていることが多いのです。

ただ、同じ人気者でも、坂本龍馬と、新選組の土方歳三・沖田総司の間には、大きな違いがあります。仮に、歴史学という学問の世界において、歴史学者たちの研究対象として取り上げられる機会が多い人物をヒーローだとした場合、坂本龍馬はヒーローと言えるかもしれませんが、土方歳三や沖田総司は決してヒーローとは呼べないでしょう。エンターテインメントの世界ではヒーローである土方や沖田も、学問の世界では必ずしもヒーローではないということです。

それを証明するかのように、冒頭で紹介した小西四郎氏は、坂本龍馬の人気があることは理解できるけれど、土方歳三や沖田総司が人気者なのは理解できないという趣旨のことを述べています。多分、小西氏に限らず、他の歴史学者たちの中にも同様なことを述べる人が少なくないのではないかと思います。何故なら、坂本龍馬を研究した歴史学者は多いのですが、土方や沖田を本格的に研究した歴史学者は多くないからです。

例えば、坂本龍馬についての著作や論文を持つ主な歴史学者としては、平尾道雄、池田敬正、飛鳥井雅道、山本大、井上清、芳即正、松浦玲、マリウス・B・ジャンセンなどがいます。なかでも、平尾氏やジャンセン氏、あるいは井上清氏などは、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』が出る前に龍馬論を発表しているので、坂本龍馬の研究は『竜馬がゆく』以前から盛んだったと言えます。

一方で、土方や沖田の研究が歴史学者の間で盛んだったとは言えません。平尾道雄『新撰組史』が出たのが1928年、その改訂版の『新撰組史録』(育英書院)が出たのは1942年。その後、歴史学者による本格的な新選組論が出されたのは、2003年になってからで、それが松浦玲『新選組』(岩波新書)です。歴史学者による新選組研究はただでさえ少ないのに、その中でさえ、メインの研究対象は土方や沖田ではなく、近藤勇です。

歴史学の世界における坂本龍馬と、土方歳三・沖田総司の扱いの違いは、どこから来るのでしょうか。それは、幕末政治史の中での重要度や残された史料によるところが大きいような気がします。

坂本龍馬の特徴として、幕末の主要な政治家・思想家との交流が挙げられます。坂本龍馬が関わった主な相手としては、幕臣では勝海舟・大久保一翁、公家では岩倉具視や三条実美、薩摩藩では西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀、長州藩では高杉晋作・木戸孝允・広沢真臣・久坂玄瑞、土佐藩では後藤象二郎・武市瑞山・中岡慎太郎、越前藩の松平春嶽、肥後藩の横井小楠などが挙げられます。坂本はこれらの人脈を利用して、薩長同盟の仲介に成功しました。

また、坂本龍馬は書簡を140通近く残していて、それらは幕末史を研究する上での貴重な史料になっています。それらに政局の興味深い動向が記されていることも少なくありません。海援隊という組織について考えるときも、リーダーの坂本龍馬を中心に考察されることが少なくありません。

その一方で、土方・沖田は、2人合わせても40通ほどの書簡しか残していないばかりか、その手紙の中でも、新選組全体の思想や動向を知るのに充分な内容を記してくれていません。最近は、新選組は一会桑政権の有力な構成要員という認識が出てきているので、新選組という組織の分析は幕末史研究の進展に有意義だと考えられます。しかしながら、新選組という組織を知るには、新選組のリーダーで、土方・沖田とは違って長い手紙を何通も書いている近藤勇が、主たる分析の対象となるのです。海援隊という組織を知るためには坂本龍馬を分析しなければならないのと同様、新選組を知るためには、土方歳三や沖田総司よりも、近藤勇を分析しなければならないのです。

要するに、土方や沖田よりも坂本の方が、学者の研究意欲をそそる可能性が高いということですね。その点で、歴史学という学問の世界においては、坂本龍馬はヒーロー(研究対象に選ばれることが多いという点で)になりえても、土方歳三や沖田総司をヒーローとは呼び難いことの理由です。

この点、エンターテインメントと学問の区別が付いていない方、あるいはエンターテインメントで得た知識だけで学問まで語ろうとする方に、わかっていただきたいですね。エンターテインメント(小説やドラマなど創作物)の世界でヒーローであっても、学問の世界では必ずしもヒーローにはなりえません。逆もまた然りで、学問の世界では頻繁に登場する人物が、エンターテインメントの世界ではヒーローになれない場合も多いということが言えます。

新選組を知るために分析必須と歴史学者に思われている近藤勇が、一般的には土方歳三や沖田総司より人気がないことなど、その例と言えるかもしれません。

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2006年8月 9日 (水)

浪士組と坂本龍馬-三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画」-

『歴史読本』第49巻第7号(2004年7月号)に、三野行徳氏(NHK大河ドラマ『新選組!』に、資料提供していた研究者)の興味深い論考が掲載されています。タイトルは、「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」。その論考は、以下のような文章で始まります(引用は青文字で行います)。

文久二年(一八六二)に清河八郎が提案し、翌三年に、のちの新選組の母体となる二百有余名を引き連れて京都へ向かったとして知られる浪士組だが、この浪士組に坂本竜馬が参加する可能性があったことはあまり知られていない。竜馬のみならず、平野国臣や真木和泉、宮部鼎蔵や久坂玄瑞など当時の錚々たる浪士たちが、幕府が取り立てるべき浪士としてリストアップされていた。
(『歴史読本』2004年7月号、204ページ)

さて、上の引用文を読んで、どう思われたでしょうか。「浪士組」というものの存在を知っている人の中で、その浪士組に参加すべきメンバーとして坂本龍馬がリストアップされていた事実を、どれだけの人が知っているでしょうか。もちろん、その事実は三野行徳氏の論考を読まなくても、田口英爾『最後の箱館奉行の日記』(新潮選書、1995年)などの中で紹介されていますので、すでに知っていた方もいることでしょう。しかし、知らない人も多いことでしょう。

浪士組に参加すべきメンバーとして坂本龍馬や久坂玄瑞をリストアップしているのは、杉浦梅潭(正一郎・誠)が書いた、「浪士一件」という史料(国文学研究資料館所蔵)です。杉浦梅潭は当時の幕府の目付で、最後の箱館奉行を務めた人物でもあります。1991年に刊行された『杉浦梅潭目付日記』(みずうみ書房)は、今や幕末史研究の主要史料となっています。その杉浦梅潭が、目付として浪士取立計画管轄を命じられてから書き始めたのが、「浪士一件」だそうです。冒頭で引用した三野行徳氏の論考は、この「浪士一件」の紹介を兼ねて、浪士組について考察したもの。

杉浦が記した「浪士一件」の最初(文久二年の記事)に記されているのが、清河八郎や池田徳太郎など、後に浪士組の中心となる志士たちの名前。ここに、坂本龍馬や蝦夷地探検で知られる志士・松浦武四郎の名前が記されています。これら清河や龍馬ら志士の名前は、浪士取立計画を推進した幕臣の松平忠敏(主税助)が杉浦に提出した名簿だとのこと。ちなみに、ここでリストアップされているのは、清河八郎・池田徳太郎・石坂宗順・坂本龍馬・松浦武四郎・村上俊五郎ら、全部で12人。

その後、「浪士一件」には浪士組関係の記述(人事面や資金面など様々)が続き、文久二年十二月二十日の記事では、幕府が取り立てるべき浪士の筆頭として、清河八郎の名前が挙げられているそうです。そして、年が明けた文久三年の最初の記事には、幕府が取り立てるべき浪士たちの名前が再びリストアップされていて、結構凄い名前が並んでいます。例えば、坂本龍馬・平野国臣・真木和泉・間崎哲馬・宮部鼎蔵・西郷隆盛・久坂玄瑞・藤本鉄石などなど。これも、リストアップしたのは松平忠敏だそうですが、清河八郎の影響を受けているものと思われます。

坂本龍馬は、浪士取立計画の開始以来、ずっと名前が挙がっているわけですが、龍馬自身がその計画についてどのように考えていたのか、はっきりわかりません。ただ、龍馬が交流していた土佐藩士の間崎哲馬は、清河八郎の同志でもありました。その筋から、龍馬は浪士組の計画について聞いていたかもしれません。実際、坂本龍馬の周辺にいた人物が書いたと思われる「雄魂姓名録」という史料に、浪士組に関する記述があります。

また、「雄魂姓名録」の中には、幕府の政事総裁職だった松平春嶽が浪士組の計画を認めていたことについて、勝海舟が「春嶽公大失策也」という話をしたことが記述されています(平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社、1978年、465ページ参照)。坂本龍馬が勝海舟と同じ考えだったと即座に断定するのは危険ですが、恐らくは同様な考えを持っていたのだろうと推測はできます。

文久三年正月二十二日には、浪士取立計画を採用した政事総裁職の松平春嶽、「浪士一件」を書いた杉浦梅潭、春嶽を批判していた勝海舟、「浪士一件」に名前が載っていた坂本龍馬の四人が同じ船に乗っていて、その船中で少なくとも春嶽・梅潭・海舟の3人は浪士取立計画について議論をしたようなのですが、そこでどのような議論がなされたのか詳しいことはわかりません。きっと興味深い内容が話されたと思いますので、わからないのが残念です。

杉浦梅潭が記した「経年記略」(『杉浦梅潭目付日記』に所収)にも、このとき坂本龍馬と会話したことは記されているのですが、詳しい会話の内容は不明です。「浪士一件」を書いた梅潭と、「浪士一件」に名前を書かれた龍馬は、きっと浪士組について何か興味深い会話をしたのだろうと思うと、史料がないのが残念ですね。

ところで、三野行徳氏は「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」の中で、浪士組について他にも興味深い考察をしています。それらのすべてを紹介しているとあまりに長くなってしまうので、興味のある方には実際に三野氏の論考を読んでもらいたいと思いますが、中でも私が興味深かった考察を2つほど紹介します。

まず、三野氏は、清河八郎が幕府を尊王攘夷のために幕府を欺くつもりだったという通説に否定的です。むしろ清河は、当時の一橋慶喜の将軍後見職就任・松平春嶽の政事総裁職就任・松平容保の京都守護職就任の流れを高く評価しており、幕府の改革姿勢に期待する面があったと、三野氏は指摘します。松平春嶽に期待した清河の浪士組絡みの動きと、松平春嶽の紹介を受けたらしい坂本龍馬の勝海舟への弟子入りを、ともに春嶽を通じての幕府への接近として対比する三野氏の視点は、なかなか新鮮でした。

もう1つ。浪士組と言えば新選組の母体となったということで、三野氏は新選組についても少し触れています。三野氏は、近藤勇が文久三年五月ごろに書いた書簡の中の、「拙者関東発足之時々より忠天朝ニ奉シ、躬ハ幕府致し候者、素より僕志願候」という文言に注目しています(私は、平尾道雄『定本新撰組史録』新装版、新人物往来社、2003年、250ページより引用)。この文言から、三野氏は次のように指摘します。

近藤は浪士組に参加する時点で既に「躬ハ幕府」となっており、この時点で浪士的立場を放棄していることになる。(『歴史読本』2004年7月号、220~221ページ)

ここまで紹介して、とりあえずこの記事は終了とさせていただきます。興味のある方は、ぜひ三野行徳氏の論考「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」をお読みください。以下の参考文献も、よろしければご参照ください。

参考文献
・小高旭之「浪士組の実像―清河らの通説を検証」『歴史読本』第49巻第12号(2004年12月号)
・小高旭之「池田徳太郎の素顔―浪士組もう一人のリーダー」『歴史読本』第49巻第12号(2004年12月号)
・田口英爾『最後の箱館奉行』新潮選書、1995年
・松浦玲「民間『浪士』と維新期の『改革』」『環』第13号、2003年
・三野行徳「浪士組時代」大石学編『新選組情報館』教育出版、2004年
・三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」『歴史読本』第49巻第7号(2004年7月号)

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2006年7月24日 (月)

孝明政権と孝明新政府-幕末維新史の新しい概念-

明治維新史学会編『明治維新と文化』(吉川弘文館、2005年)に、ロンドン大学助教授のジョン・ブリーン氏の「十四代将軍家茂の上洛と孝明政権論」という論文が収録されています。この論文の最大の特徴は、文久三(1863)年の将軍・徳川家茂の、江戸幕府の将軍としては約230年ぶりとなる上洛を画期的なイベントだったと指摘し、その上洛によって新しい国家形態が創出されたという主張でしょう。ブリーン氏はその新しい国家形態を、「孝明政権」と呼称しています。

ブリーン氏はまず、江戸が近世日本の「センター」(社会学者エドワード=シルスの理論による)として機能し、近世国家のセンターたる江戸で儀礼を執行し、御威光を顕示する将軍こそ近世社会の秩序の原理ともなったと指摘します。そして、文久三年の家茂の上洛は、そのような近世的国家形態を崩壊に導き、同時に「孝明政権」と言うべき新しい国家形態の創出を意味したという点で、画期的だったと主張しています。

ブリーン氏は、文久二(1862)年の2回の勅使下向の際に、江戸の「センター」としての性格を致命的に損なったものと規定しています。そして、文久三年に上洛した家茂が御所に出向き、御学問所で孝明天皇と対面した三月七日は、家茂が将軍としての御威光を挫かれ、実際上の意味で家茂が朝臣となる「通過儀礼」の日だったと理解できると主張します。家茂はもともと内大臣でしたが、最初から朝臣という意識があったはずもなく、孝明天皇と対面することではじめて朝臣を「演出」したということになります。すると、家茂が天皇を原理とする朝廷の秩序に位置し、天皇・朝廷の統制下に入るという新たな権力関係が生まれたとのことです。

その後の孝明天皇の加茂社行幸は、新しい権力関係のダイナミックな演出であって、天皇の御威光を顕示し、天皇が天下を象徴的に掌握する社会全体のセンターを形成し、カリスマを生産する契機としての意味があったとの見方を、ブリーン氏は提示します。そして、その行幸の際、天皇に従っていた将軍・家茂に対して、長州系志士の指導者的存在だった高杉晋作が、「征夷大将軍」と怒鳴ったという有名な一幕についてブリーン氏は、高杉晋作が将軍の新秩序内における存在を肯定しているという意味で、重視すべき発言としています。

ブリーン氏はエドワード=シルスの「センター論」に則り、シンボルの次元だけではなくて国家意志の形成権もセンターを定義付ける上で肝心との見方を示します。そこで持ち出されるのが、「大政委任」の問題です。ブリーン氏が注目するのは幕府に委任された「中身」ではなく、天皇が委任する主体として台頭してくる事実。天皇が将軍に大政を「委任」すると言ったときに、権力者としての天皇・秩序の原理としての天皇の姿が見えてくるとのことです。ブリーン氏は、歴史家・原口清氏の「朝廷が国家最高意志を決定する中心機関であり、幕府は従的な地位にある」(遠山茂樹編『近代天皇制の成立』100頁)という言葉を引用し、京都に新しいセンターが形成されてきたのだと強調します。

家茂上洛をきっかけにして、シンボルの点でも国家意志形成の場という点でも京都に新たなセンターが形成され、その中に芽生える政治形態を、ブリーン氏は「孝明政権」と呼びます。その理由は、朝廷のトップが孝明天皇だったこと、重大な国事に関する国家意志形成がとりわけ八月十八日の政変以後は簾前の朝議で行われたこと、天皇は朝議で決まった国家意志を勅書などの形で世に出すことの三点です。

ブリーン氏はさらに、「孝明政権」の特徴の1つとして、幕府をその「不可欠の構成要素」としたことを挙げています。また、それと併せて、「不可欠の構成要素」たる幕府は江戸の幕閣と天皇が信頼する一会桑に分裂していたこと、天皇の命令を将軍は奉ずるべきこと、天皇は朝議で決まったことを勅書などで世に出すが諸藩に直に沙汰しないことなどを孝明政権の基本的構造と見ています。特に、幕府を不可欠なものとしたことで、かえって孝明政権にとって不都合な事態も生じたものの、孝明政権は孝明天皇の死まで続いたとされています。

まとめとしてブリーン氏は、天皇は御威光を有する存在・秩序の原理として台頭し、それはシンボルの次元において謁見儀礼・行幸・数多くの祭祀などによって実現し、政治的な次元において天皇は委任する主体となり、天皇が出す勅命こそ国家意志を実現可能にしたということを、孝明政権の性格として主張しています。そのきっかけが、家茂の上洛ということです。ブリーン氏は他にも様々な論点を提示していますが、気になる方は『明治維新と文化』を詠んでみてください。

ジョン・ブリーン氏とは捉え方が異なりますが、後藤致人氏は「孝明新政府」という概念を提唱しています。後藤氏は、幕末期に天皇権威が庶民層にまで広がり、攘夷を決意する孝明天皇の存在を幕府は無視することができなくなり、文久二年の勅使下向によって幕府は政治構造の変革をすることになった、そして、将軍や諸大名は攘夷のために上洛し、朝廷で政治を行い、雄藩主導の幕政改革に着手することになったということを、「孝明新政府」の契機と捉えています。今度は、後藤氏の言葉をそのまま引用してみます(赤文字部分)。

一八六三年(文久三)、将軍・諸大名は実際に相ついで上洛し、孝明天皇に忠誠を誓う。当時朝廷は長州藩の影響が強く、攘夷を実現しようとし、勅令が直接各藩に出されるようにもなったが、一方幕府は攘夷に消極的で、その結果勅令と幕令の齟齬が問題となった。しかし、八・一八政変で薩摩藩と京都守護職の会津藩が孝明天皇の身柄を押さえた上で、長州藩を京都より追放すると、孝明天皇を頂点とする大政の決定・執行システムが整備される。すなわち、朝廷における雄藩の意向を交えての朝議が大政を決定し、幕府はそれを執行する機関として位置づけ直された。一八六二から六七年の間、孝明天皇を頂点に将軍・諸大名が上洛し、攘夷実行のための新体制が京都に成立し、整備された時期を、日本近代国家成立史のなかに積極的に位置づけるために、旧体制の意味合いのないものとして、「孝明新政府」という名称を提案したい。
(後藤致人『昭和天皇と近現代日本』吉川弘文館、2003年、11~12ページ)

「孝明政権」にせよ「孝明新政府」にせよ、そのような概念を導入することで、孝明天皇に信頼されていた一会桑というものを改めて考えることができそうです(後藤氏も述べていることですが)。何故、薩長は一会桑に連なる人々を敵視したのかなどなど。実際、薩長の策謀によって作り出された討幕の密勅というものは徳川慶喜(もともとは一橋慶喜)の抹殺を命じているわけですし、同時に会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬の抹殺を命じる勅も出ているわけです。

そういう意味で、ジョン・ブリーン氏と後藤致人氏の主張は興味深いと感じた次第です。興味のある方は、以下の参考文献の中の、ジョン・ブリーン氏と後藤致人氏の論考を読んでみてください。もちろん、他の文献も参考になります。

参考文献
・家近良樹『幕末政治と倒幕運動』吉川弘文館、1995年
・家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』文春新書、2002年
・後藤致人『昭和天皇と近現代日本』吉川弘文館、2003年
・後藤致人「『孝明新政府』における新選組の位置」『歴史読本』第49巻第3号、2004年
・原口清「近代天皇制成立の政治的背景‐幕末中央政局の基本的動向に関する一考察‐」遠山茂樹編『近代天皇制の成立』岩波書店、1987年
・ジョン・ブリーン「十四代将軍家茂の上洛と孝明政権論」明治維新史学会編『明治維新と文化』吉川弘文館、2005年

関連記事
孝明天皇は毒殺されたのか
一会桑政権に最初に注目した研究の紹介‐井上勲「将軍空位時代の政治史」‐
白石烈「『公武合体』をめぐる会津藩の政治活動」
新選組を考える上で前提とすべき視点

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2006年7月17日 (月)

吉岡孝氏による新選組論

菊地明編『土方歳三、沖田総司全書簡集』(新人物往来社、1995年)という史料集が出版されていることからもわかるように、新選組研究家や新選組ファンの多くは、新選組隊士の中でも土方歳三や沖田総司を好んでいる方が多いようです。

その一方で、新選組に興味を持つプロの歴史家たちは、新選組研究に最も重要なのは近藤勇の書簡だと考え、近藤勇に興味を抱く傾向があります。松浦玲氏・宮地正人氏・鶴巻孝雄氏・中村武生氏あたりが代表的でしょう。

ところが、そのような傾向がある中で、歴史家の吉岡孝氏は異色と言えるかもしれません。吉岡氏も新選組を研究対象に据えている歴史家の1人ですが、新選組隊士の中で最も興味のある人物は他の歴史家たちとは異なり、近藤勇ではありません。ましてや土方歳三や沖田総司でもありません。吉岡氏が最も興味があるのは井上源三郎だそうです。吉岡氏のエッセイ「新選組井上源三郎と八王子千人同心」(『歴史書通信』No.152、2004年)を参照しました。このエッセイについては、歴史書懇話会のコチラのサイトで、全文をPDFで読むことができます。

吉岡氏が井上源三郎に興味を抱く理由は単純明快です。井上源三郎の家は八王子千人同心の家系なのですが、吉岡氏は『八王子千人同心』(同成社、2002年)という本を出している研究者だからです。つまり、吉岡氏は自分が八王子千人同心の研究をしている関係で、八王子千人同心の家系に生まれた井上源三郎に興味を持っているわけです。

ちなみに、吉岡氏の著書『八王子千人同心』は、第六章第三節のタイトルを「新撰組と武士意識」と題して、千人同心が持っていた「百姓の抵抗意識としての武士意識」が、千人同心周縁にいた新選組にどのように引き継がれていったのかを検討しています。

吉岡氏は八王子千人同心の研究者としての立場から、他の歴史家たちとは異なる観点から、新選組研究を行っています。浪士組に参加した後の新選組中核メンバーの中で、正式に「浪人」と呼べる人物は近藤勇のみで、他のメンバーは「偽浪人」であって、新選組は「偽浪人」の集団だという主張は、他の歴史家たちには見られない気がします。分析手法が独特なので、私は面白いと思っています。

最近、そんな吉岡氏の書評「大石学編『新選組情報館』」(『関東近世史研究』第58号、2005年)を読みました。タイトルどおり、大石学編『新選組情報館』(教育出版、2004年)の書評です。

この書評の中で吉岡氏は、新選組の史料情報など基礎的情報の共有化、および新選組を歴史的に位置付けることの必要性を訴えるという大石学編『新選組情報館』の目的について、一定の成果を収めているという高い評価を与えています。

吉岡氏は、論文執筆の際などには史料の出典を注記することが当たり前の歴史家たちに比べて、新選組研究をリードしているアマチュア研究者たちには出典を明記するという職業的習慣がないため、新選組の史料についての情報が、新選組に興味を抱く研究者すべてに共有されておらず、新選組研究の進展を阻害している状況を指摘します。くわえて吉岡氏は、プロの歴史家たちが新選組を無視しつづけてきたため、新選組の基礎的情報の共有化がなされていないという状況が継続する要因になってしまったとも主張しています。そして、大石学編『新選組情報館』は、そのような状況を打破する上で大きな役割を果たすものだと高く評価しているわけです。

特に吉岡氏は、新選組研究の発展(新選組を歴史的に位置付ける作業)のためには、アマチュア研究者だけではなく、プロの歴史家が新選組に関心を持つことが必須だとの考えを強調するため、高橋敏氏の次のような文章を引用しています(引用は赤文字部分)。

かつて稗史と呼ばれる歴史があった。お上の「正史」の向こうを張って博徒・侠客、浪人、漂白の宗教者・芸能者などアウトローが活躍する歴史である。(中略)正史と稗史の乖離こそが歴史を不幸なものにしている。アカデミズムや公教育の場で正史の正当性を啓蒙、強制すればするほど、人々の歴史離れは加速し、虚構を今に映す時代小説やテレビ、映画に人々はやすらぎを求めることになった。
(高橋敏「何故、今アウトローの幕末維新史か」『民衆文化とつくられたヒーローたち』国立歴史民俗博物館、2004年、6ページ)

高橋氏の上記の文章を引用した吉岡氏の言いたいことは、新選組の歴史が「稗史」の一種だったということです。そして、アカデミズムに属する歴史家たちも、「稗史」の世界に閉じ込められていた新選組を、歴史学の立場から語り直すことが必要だと言いたいわけです。「人々の歴史離れ」などの問題を本気で解決しようと思うのであれば、歴史家は新選組の研究をアマチュア研究者だけに任せるのではなく、自分たちで率先して行うべきだと主張しているわけです。この吉岡氏による大石学編『新選組情報館』の書評は、『関東近世史研究』第58号(2005年)に掲載されています。

上記のような吉岡孝氏の言葉が多くの歴史家に届き、新選組の研究を始める歴史家が増え、面白い新選組研究が増えてほしいと、私は願います。もちろん、分析視点が興味深い吉岡氏自身の新選組研究にも、期待しています。

参考文献
・大石学編『新選組情報館』教育出版、2004年
・高橋敏「何故、今アウトローの幕末維新史か」国立歴史民俗博物館編『民衆文化とつくられたヒーローたち』国立歴史民俗博物館、2004年
・吉岡孝『八王子千人同心』同成社、2002年
・吉岡孝『江戸のバガボンドたち』ぶんか社、2003年
・吉岡孝「幕末の浪人集団と新選組」『歴史読本』第49巻第3号、2004年
・吉岡孝「新選組井上源三郎と八王子千人同心」『歴史書通信』No.152、2004年
・吉岡孝「新選組隊規の背景―条目に秘められた浪人集団からの脱却」『歴史読本』第49巻第12号、2004年
・吉岡孝「大石学編『新選組情報館』」『関東近世史研究』第58号、2005年

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2006年7月 6日 (木)

新選組を考える上で前提とすべき視点

図書館で、『歴史読本』第49巻第3号(2004年3月号)を借りました。「近藤・土方・沖田の新選組」という特集が組まれています。私はこの『歴史読本』第49巻第3号(2004年3月号)を発売時に購入しなかったことを、今でも後悔しております。発売当初はチェックを怠っていたため、私が待望していた内容だったということを知ったのは、書店から姿を消してからだったのです。これから、読みたい部分をひたすらコピーしようと思っています。

私が買っておけば良かったと強く思う理由は、『歴史読本』第49巻第3号(2004年3月号)には、アカデミズムに属する歴史学者、あるいはそれに近い研究者が多数、文章を載せているからです。『歴史読本』はしばしば新選組を大きく扱うことがありますが、ここまでアカデミズムに属する(もしくはそれに近い)歴史家・日本史研究者が新選組について論じていることは、あまり多くないからです。

アカデミズムに属する研究者が新選組を論じると、そうではない研究者(いわゆる新選組研究家)が新選組を論じた場合と、どのような違いが出てくるのでしょうか。それは、新選組を歴史あるいは幕末史の中にしっかり位置づける意識があるか否かということでしょう。

歴史家は新選組を研究するとき、「新選組は幕末史・明治維新史全体の中で、どのように理解すべきか」とか、「自分が新選組を研究することは、今までの幕末史研究とどのように関わり、今後の幕末史研究を発展させる上で、どのような意味があるのか」というような意識を、常に持っています。歴史家あるいは歴史学者は、新選組を研究するときも、「学問」の発展・寄与を考えているのですから。

自分の研究の意味・意義をしっかり考えずに研究していても、それは好事家やマニアと同じようなものと看做されてしまうでしょう。それは、決して「学問」ではありません。そのことについては、『歴史読本』第49巻第3号(2004年3月号)の中で、中村武生氏が明確に述べていることです(中村武生氏の論文「新選組研究の回顧と展望」を参照)。

いわゆる新選組研究家と呼ばれる方々は、上記のような問題意識をどれだけ持ち合わせているのか、私は疑問です。新選組が好きだから、ただ新選組に関することのすべてを知りたいという欲求だけで研究している人が、多いのではないでしょうか。

しかし、それだけでは「学問」たりえません。そのような意識で新選組についてのあらゆることを検討しても、そこから得られた事実が幕末史研究あるいは明治維新史研究の中でどのような意味を持つのか、それについての意識がなければ、新選組研究は「新選組研究」の範囲で止まってしまい、「幕末史研究」あるいは「明治維新史研究」に大きな進展をもたらすことは難しいでしょう。いわゆる新選組研究家の方々の多くは、新選組を研究するにしても、それを「学問」として位置づけている様子が希薄であるように感じられるのです。

アカデミズムに属する歴史家あるいは歴史学者が多く執筆している『歴史読本』第49巻第3号(2004年3月号)を購入しなかったことを悔やんでいる理由は、上記のとおりです。私は、新選組を「歴史学」という名称の「学問」の中にしっかり位置づける必要があると考え、それは「歴史学」の発展に寄与するところが大きいと思いますし、「歴史学」という「学問」の中に位置づけられた新選組研究こそ、読み応えがあり、内容的にも面白いものになると思っているのです。だからこそ、新選組を「歴史学」の中に位置づけようという意識が強い研究者が多く執筆している『歴史読本』第49巻第3号(2004年3月号)は、私にとって購入すべき雑誌だったのです。

『歴史読本』第49巻第3号(2004年3月号)には、興味深い論考が多数収録されています。中村武生「新選組研究の回顧と展望」と、後藤致人「『孝明新政府』における新選組の位置」は、その代表格。

ほかにも、鵜飼政志「尊王攘夷思想と新撰組」、吉岡孝「幕末の浪人集団と新選組」、鶴巻孝雄「多摩にもたらされた新選組情報」、薮田貫「内山彦次郎暗殺事件の真相」、白石烈「諸藩周旋方と新選組」、小佐野淳「新徴組 その知られざる実像」、宮川禎一「史料が語る新選組」、桐野作人「『大久保大和守』名乗りの真相」など、読み応えのある論考ばかりです。

桐野作人氏の肩書きは「作家」ですが、歴史学の専門誌にも論文を掲載しているほどの研究者なので、歴史学者と遜色ない研究活動を行っている研究者と考えて差し支えないでしょう。

ところで、上記の鵜飼政志氏の論考の中に、次のような言葉があります(赤文字で引用)。

新撰組を攘夷の志士・時代のヒーローとして、薩長などの志士と同様に評価するようになったのは、後の時代の創り出した幻想である。同時代的に見た時、彼らをそのように評価することは難しい。
(鵜飼政志「尊王攘夷思想と新撰組」『歴史読本』第49巻第3号、109頁)

新選組ファンの中には、新選組は幕末のヒーローたちの集団だと考えている人がいるかもしれません。少なくとも、土方歳三なり沖田総司なりを、自分の中のヒーローと位置づけている人は結構いることでしょう。しかし、少なくとも「歴史学」という名前の「学問」において、学問的見地から考えた場合、新選組を幕末のヒーローとすることは誤りでしょう。それは、鵜飼氏の言葉にもあるとおりです。

しかし、ヒーローでなかったからと言って、新選組を研究する意味がないわけではありません。そもそも、歴史を動かしたのは決してヒーローだけではありませんし、新選組という集団を「学問」の中に位置づけたとき、明治維新という変革が持つ意味を考える上で、有益な面もあるはずです。少なくとも、幕末という激動の時代だからこそ、新選組という他の時代には見られないような集団が生まれたのです。その事実だけでも、新選組を通じて幕末史・明治維新史を考えることに大きな可能性がありそうに、私には思えるのです。また、本当はヒーローではないはずの新選組がヒーローだという「幻想」がどのように創り出され、どのように広まっていったのか、それを研究するのも面白いかもしれません。ともかく、新選組研究には色々な可能性があると思います。しかし、現状の新選組研究は、「学問」の意識が希薄なのです。

新選組が好きな人なら、新選組に関することはどんな些細なことでも知りたいと思うのも、自然かもしれません。そのような意識で新選組を研究している研究家もいるでしょうし、同じ意識で新選組関連本を読んでいる新選組ファンもいることでしょう。しかし、あまりに些細なことだと、歴史家たちに「学問的にはどうでもいいことだ」と言われかねません。

それでも構わないという新選組研究家やファンの方もいるでしょう。でも、私は「学問」としての新選組について論じられた文章を読みたいのです。新選組を「学問」として研究しようと思う人が増えることを、私は心から願っているのです。

もっとも、新選組研究家の方々がいなければ、歴史家たちが新選組研究に参加することはなかったかもしれません。今は歴史家も新選組について論じる機会が増えてきていますが、それは今までの新選組研究家の方々の活動があってこそ。その点は、敬意を表すべきでしょう。

今回と同じような意見を、かつて私は「野口武彦『新選組の遠景』読了。新選組中心史観への批判」という記事で述べたことがあります。もしよろしければ、併せてお読みください。

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2006年6月11日 (日)

続 歴史家による新選組研究の進展具合は…

先日お届けした記事、「歴史家による新選組研究の進展具合は…」の続編です。

前回は、最近の大学では新選組を大きく扱った授業が行われているということで、徳山大学と京都橘大学の例を紹介しました。今回は、国学院大学です。こちらのシラバスを見ていただければわかりますが、国学院大学では後期に、「新選組イメージの虚実を問う」というテーマの演習が行われます。担当者は、吉岡孝氏。

吉岡孝氏には、『八王子千人同心』(同成社、2002年)や『江戸のバガボンドたち』(ぶんか社、2003年)という著書があります。『江戸のバガボンドたち』の中では、松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)を踏まえた上で近藤勇および新選組について論じたページがあります。いわば、吉岡氏は実際に新選組研究を行っている研究者と言えるでしょう。だからこそ、授業の内容に期待を感じます。

また、演習のテーマ「新選組イメージの虚実を問う」ということにも、興味がありますね。吉岡氏によれば、新選組の「伝説」が如何にして形成されたかを検証することも歴史学にとって重要だということに留意しながら、授業を進める方針だそうです。私が国学院大学の学生であるならば、ぜひ受講してみたい演習ですね。

また、駒澤大学で講師をしている小泉雅弘氏には、「伊東甲子太郎-深川の道場主から新選組幹部へ-」(『下町文化』第227号、2004年)という文章があるようです。この文章については未読なので、詳しいことはわからないのですが、どうやら「論文」と呼べるほど長い文章ではない模様です。

しかしながら、小泉雅弘氏の研究業績には、『下町の学芸員奮闘記』(文芸社、2005年)という著書や、「明治期深川・城東地域における旧武家地利用―近代都市東京の中の地域史―」(『江東区文化財研究紀要』第10号、1999年)という論文がありますので、伊東甲子太郎についての「伊東甲子太郎-深川の道場主から新選組幹部へ-」という文章も、そのような研究の中から生まれてきたものなのでしょう。

以上、私がこの数日で新たに入手した情報でした。

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2006年6月 8日 (木)

歴史家による新選組研究の進展具合は…

松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)および、宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)が刊行されたとき、私はかなり興奮しました。何しろ、維新史研究において定評のある歴史家2名が相次いで新選組研究を発表したわけですから。それによって、今まで新選組についての興味が薄かった歴史家たち(アカデミズムに属する学者および、学者を目指す研究者たち)も、新選組に興味を持つ人が増えてきたように感じました。

事実、「学者による昨今の新選組研究」でも取り上げたように、松浦玲・宮地正人両名の著書が出てから、学者による新選組本の書評や、新選組を大きく扱った学術論文が目に見えて増えてきました。

しかし、残念ながら、今年はまだ、新選組を扱った学術論文は出ていないようです。私が知らないだけかもしれないですが。『歴史読本』など、商業誌には相変わらず新選組は大きく取り上げられていますが、それだけではやはり寂しいですね。

松浦玲氏や宮地正人氏と同様、アカデミズムに属する歴史家の立場で新選組についての著書を刊行した大石学氏も、北海道新聞のコチラのサイトで、ブームをブームだけで終わらせてはいけないという趣旨のことをおっしゃられています。まことにごもっともです。松浦玲氏の『新選組』が出たのが、もう3年前。そのときの盛り上がりが一時的なもので終わらないためにも、このあたりでアカデミズムから新しい新選組研究が出てくると嬉しいのですが…。

しかし、嬉しいこともあるわけです。「NACSIS Webcat 総合目録データベースWWW検索サービス」で調べたところ、宮地正人『歴史のなかの新選組』を所蔵している大学の図書館・研究機関は全部で113。遠山茂樹氏の名著『明治維新』(岩波全書、1951年)でさえ、所蔵している大学図書館・大学の研究機関は222ですから、宮地氏の『歴史のなかの新選組』は結構多くの大学図書館に所蔵されていると言えるのではないでしょうか。やはり、多くの図書館に所蔵されていた方が、学生や研究者の目にも留まりやすいでしょうから、研究の進展にも関わるような気がします。

また、最近は、大学の授業でも、大学の先生方が新選組を扱うことがあるようで、私はすごく興味があります。例えば、徳山大学のコチラのサイトによれば、「新選組と幕末の激動」というテーマの授業があるようです。授業担当者の播磨定男氏は、特に新選組の研究をしている方ではないようですが、それでも興味ありますね。

また、京都橘大学では、同じく歴史家の細川涼一氏が、「『新選組始末記』から新選組の歴史を知る」というゼミを行っているようです。こちらも、興味がありますね。詳しくは、シラバスをご覧ください。

このように、正当な歴史学の手続きを踏んだ形で、学生たちに新選組の話をしていただけると、新選組研究にも良い面が出てくるのではないかと思っています。ともかく、新選組の研究が発展することを願います。

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2006年3月30日 (木)

読んでみたい幕末書籍(新刊1点・絶版4点)

今回は、読んでみたい幕末関連の書籍を、最近出たばかりのもの1冊、絶版になっている書籍4冊を紹介してみたいと思います。すべて未入手の本ですので、詳しい内容についてまでは紹介できません。あらかじめ、ご了承ください。

①野口武彦『長州戦争-幕府瓦解への岐路-』(中公新書、2006年)
近年、幕末関連の著書が増えている野口武彦氏の最新の著書。今月発売されたばかりの最新刊です。副題にもあるように、幕府はなぜ長州征伐(野口氏はあえて長州戦争という呼称を使用しています)を始め、どのように敗れたのか探った書物になっているようです。久住真也『長州戦争と徳川将軍』(岩田書院、2005年)といった最新の研究成果まで参照した上で執筆されているところが、個人的には高ポイント。「あとがき」によれば、野口氏のかつての著書、『幕府歩兵隊』(中公新書、2002年)の姉妹編として執筆したとのことです。

②小山松勝一郎『清河八郎』(新人物往来社、1974年)
幕末の志士・清河八郎の日記である『西遊草』(平凡社東洋文庫、1969年。岩波文庫、1993年)の編者である小山松勝一郎氏による、清河八郎の評伝。個人的には、清河八郎を研究する上での必須文献なのではないかと思っています。清河八郎について詳しく知りたいと思った場合、山路愛山『清河八郎遺著』(民友社、1913年。東京大学出版会、1976年)と併せて参照すると良いのではないかと思われます。残念ながら絶版。

③小山松勝一郎『新徴組』(国書刊行会、1976年)
さきほどの②に続いて、またしても小山松勝一郎氏の著書。大雑把な言い方をしてしまえば、清河八郎が作った浪士組の中で、京都に残ったものが新選組となり、江戸に帰った者が新徴組となったことは、幕末に詳しい方ならご存じでしょう。この著書は、その新徴組を描いたもの。歴史家の宮地正人氏が、『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)巻末の「浪士組・新徴組隊士出身地別一覧表」を作成する上で、小山松氏の『新徴組』を参照しているぐらいなので、内容的には確かだと言えそうです。残念ながら絶版。

④仲村研『山国隊』(学生社、1968年。中公文庫、1994年)
山国隊とは、慶応3年12月に、丹波の名主・百姓83名を構成員として編成され、戊辰戦争に参加した草莽隊。仲村研氏の著書は、その山国隊の誕生から終焉までを描いたものだそうです。山国隊について知りたいと思ったら、この本を参照すべきと言うべきでしょうか。著者の仲村研氏は、どちらかと言うと幕末よりも中世史をメインにしている歴史家です。残念ながら絶版。

⑤綱淵謙錠編『松平容保のすべて』(新人物往来社、1984年)
新人物往来社から刊行されている『○○のすべて』シリーズは、執筆者によって出来・不出来の差が激しく、中には読む気も起きないような論文が収録されていることもあります。しかし、アカデミズムに属する学者が書いた論文は、たいてい安心して読める場合が多いです。『松平容保のすべて』には、佐々木克氏の「松平容保と会津藩の戊辰戦争」や、松浦玲氏の「京都守護職時代の松平容保」という論文が収録されているので、ちょっと気になっているのです。残念ながら絶版。

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2006年3月10日 (金)

『続新選組史料集』が刊行されました

新人物往来社から、『続新選組史料集』が刊行されました。ということで、さっそく書店で立ち読みしてまいりました。私が大金を所持している人間だったら迷わず買いますが、今の私の懐具合では10,290円(『続新選組史料集』の価格)出せません。だから、立ち読みです。

で、時間がなかったので、その立ち読みも本当にわずかな時間だったので全部を把握することはできなかったのですが、ちょっと残念に感じた部分があります。それは、近藤勇の書簡がどうやら一通も収録されていない様子だったからです。私が見落としていない限り、近藤の書簡は収録されていませんでした。もっとも、立ち読みしたのはわずかな時間だったので、見落としの可能性はあります。明らかに私の見落としということでしたら、どなたか指摘してくださると嬉しいです。ともあれ、『続新選組史料集』には近藤の書簡が収録されていないらしいということを前提に、話を続けます。

松浦玲氏や宮地正人氏の言葉ではありませんが、私が一番興味のある新選組関係史料は近藤の書簡なので、近藤の書簡が収録されていない様子だったのには、ちょっと残念でした。もしも『海援隊史料集』というものがあって、そこに坂本龍馬の書簡が一通も収録されていなかったら、残念に思う人が多いのではないでしょうか?私は結構、それに近い気分になりました。まぁ、それ以前に出版されている『新選組史料集』や『新選組日誌』に近藤書簡はたくさん収録されているかもしれませんが。でも、その2冊に近藤書簡のすべてが収録されているというわけでもないんですよねぇ。

何となく思うのですが、近藤勇の書簡集を欲しているのは松浦玲氏・宮地正人氏ら、新選組に関心を抱いている歴史家と、新選組ファン・幕末好き人間の一部だけであって、やはり一般的には近藤の人気は高くないのでしょうかね。

近藤の書簡が収録されてなさそうだったので、ちょっと残念に思ったのですが、その代わりに収録されていたのが、山崎丞の日記や井上松五郎の日記、あるいは戊辰戦争関係の史料など。これはこれで貴重ですよね。また、松村巌が『土佐史談』に載せた論文や、『旧幕府』・『家庭雑誌』などの古い雑誌に収録された文章も、今回の『続新選組史料集』に再収録されました。ちなみに松村巌とは、明治~昭和初期にかけて活躍していた歴史家で、『土佐史談』によく論文を載せた人でした。

ともあれ、『続新選組史料集』の刊行を機に、新選組研究がさらに発展すれば良いですね。

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2006年2月15日 (水)

奈良本辰也「維新史の中の新選組」

『奈良本辰也選集2 維新に生きる』(思文閣出版、1982年)という本に、「維新史の中の新選組」という論文が収録されています。著者は書名にもある通り、歴史家の故・奈良本辰也氏。この論文の初出は『歴史と旅』1979年7月号で、改稿することなく、『奈良本辰也選集2 維新に生きる』に再録したようです。

奈良本辰也氏と言えば、幕末史に興味のある方なら、名前を聞いたことはあるでしょう。奈良本氏は主要著書に、『吉田松陰』(岩波新書、1951年)・『近世封建社会史論』改訂増補版(要書房、1952年)・『二宮尊徳』(岩波新書、1959年)・『高杉晋作』(中公新書、1965年)・『日本近世の思想と文化』(岩波書店、1978年)などがあり、戦後の明治維新史研究に大きな影響を与えた歴史家の1人です。

また、それだけでなく、近年、『新選組』(岩波新書、2003年)という著書で新選組研究に新たな地平を築いた歴史家・松浦玲氏の、大学院生時代の恩師が奈良本辰也氏だったということも、特筆しておいてよいかもしれません。松浦氏の著書『暗殺‐明治維新の思想と行動‐』(徳間書店、1966年)には、松浦氏が奈良本辰也氏と一緒に映画を観に行ったときの話が記されています。

ともあれ、奈良本氏の「維新史の中の新選組」という文章が最初に『歴史と旅』に掲載されたのが1979年、『奈良本辰也選集2 維新に生きる』に再録されたのが1982年。その意味で、奈良本辰也「維新史の中の新選組」は、野口武彦『新選組の遠景』(集英社、2004年)335ページの言葉を借りれば、新選組を「歴史学者が長らく一顧だに与えず、正史にまともに登場させなかった」時代に、維新史を研究している一流の歴史学者によって書かれた新選組論と言ってもよいかもしれません。

しかし、奈良本氏の新選組評価は、歴史学者が新選組に大した関心を抱かなかった時代のものだけあって、なかなか手厳しい感じがします。また、奈良本氏は恐らく近藤勇の書簡などは読んでいないような雰囲気ですので(確証はありませんが)、余計に手厳しい評価になっているのかもしれません。また、子母沢寛などが創り出した新選組イメージに引きずられている部分も強いような気がします。ともあれ、「維新史の中の新選組」から、私が気になった部分・印象に残った記述を、以下に引用してみます(「維新史の中の新選組」からの引用は青文字で行います)。

時代の転変が厳しいなかで、清河八郎の提唱した浪士組が京都にのぼり、その残留組が新選組を結成したのだ。(中略)その新選組であるが、それが結成された状態を考えると、どこにも然るべき必然性はない。清河八郎の腹黒い策略が生み出した鬼児のようなものである。八郎は、浪士たちの間にある現状不満の空気を巧みにつかんで、幕府からの支度金を使い、新徴組をつくった。
 将軍の上洛をうまく利用したのである。しかし、その本心は、自分の名を学習院を通じて天皇のところまで知らせたいのである。だから、京都にくると早速に攘夷の志のあることを奏上し、すぐに幕命を了承した姿で江戸に帰ってしまうのだ。
 八郎はそれでよいかも知れぬ。しかし、表向きの理由を信じて従ってきた近藤たちには、それでは腹の虫がおさまらぬ。彼らは、日頃道場できたえた剣と、自分たちの武士的な気持がここで発揮出来ると勇んできたのである。
 これまで田舎道場の百姓剣法と言われ、いささかのコンプレックスがないでもなかったが、それが将軍家のお役に立つのである。大きな夢があった。その夢が八郎らと行動を共にすることで破れたとあっては、あまりにも無残ではないか。
                 (『奈良本辰也選集2 維新に生きる』285ページ)

明確に、また端的に言うと、新選組は維新史における全くの偶然のなせるところだった。一つの理念とか、時代を方向づける大きな可能性から生れ出てきたものではない。
 彼らを引き受けた守護職松平容保にしても、決してそれを輝かしい存在と見てはいなかったであろう。剣が出来、一つの集団をなしている。国学の連中を統御してきたように、この田舎者たちも、自分の眼の届く範囲において、適当にコントロールする必要があると考えた筈だ。
 とにかく、浪人には手を焼いている京都の町なのである。さいわいに、近藤たちはその一党をあげて守護職のところへ転がり込んできた。見れば金に困っているようである。金で手許に引きつけられるならば、これ以上のことは要求することもない。
            (『奈良本辰也選集2 維新に生きる』286ページ)

 近藤勇という人物は、けっして暴力団の親方ではない。(中略)文武兼備と言われるほどの男である。この文の方はどれだけの力量があったか分らぬが、諸藩の士とも立派に交際出来る礼儀正しい人物であったことは保証出来る。
 しかし、その近藤の立派な武士らしい面をみても、新選組の活躍が池田屋事件で代表する以外にないとすると、これを大きく評価するわけには行かないであろう。
         (『奈良本辰也選集2 維新に生きる』290~291ページ)

近藤勇のような人物にとっての京都、そして尊・攘派の浪士たちは、まさに、憎みても余りあり、殺しても足りないやくざな人間の集団に見えたであろう。
 しかし、それを力で絶滅することで世のなかを匡正することは出来ないのである。
 近藤勇の率いる新選組は、まさにその力で絶滅しようとする一念しかなかった。一念しかなかったと言えば、いささか言い過ぎになるかも知れぬが、少なくとも史上ではそのように考える以上の評価は出来ないのである。
 亡びゆく者に哀悼の意を表し、花束を贈るのはよい。しかし、それと歴史的にみる評価は自ずから異なることも知らなければならぬ。
                          (『奈良本辰也選集2 維新に生きる』292ページ)

奈良本氏には、松浦玲『新選組』や宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)などの近年の研究で指摘されているような、新選組は尊王攘夷を目指して結成された思想集団という視点や、近藤勇を一会桑政権の中の政治的に重要な構成要員と考える視点はありません。その意味で、歴史家による新選組評価もだいぶ変わった気がしますが、いかがでしょうか。

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2006年2月 7日 (火)

新選組と河内国御厨村の断想

以前、「学者による昨今の新選組研究」という記事で紹介した田崎公司氏の論文、「新選組と河内国御厨村の断想‐京都守護職会津藩知行地を中心として‐」(『大阪商業大学商業史博物館紀要』第5号、2004年)を入手しました。入手しただけで、まだちゃんと読んではいないのですが、ページをパラパラめくっていて気になった部分を引用する形で、紹介してみたいと思います。

まず、田崎氏の「新選組と河内国御厨村の断想」という論文が具体的に何を分析・検討したものなのか、田崎氏の言葉を以下に引用してみます(田崎氏の論文からの引用は、すべて青文字で行います)。

本稿は、大阪府東大阪市・御厨地区に所在する大阪商業大学経済学部で筆者が担当している日本経済史のアプローチから、在野の新選組研究者の情熱的ともいえる成果をも参照しつつ、京都守護職・会津藩主松平肥後守容保役知(役地)として河内国若江郡御厨村の歴史、ひいては新選組の活動資金供給地としての御厨(台所)について言及するものである。(『大阪商業大学商業史博物館紀要』第5号、170ページ)

上記引用部分で、「河内国若江郡御厨村の歴史」に言及すると述べていることもあって、田崎氏の論文は新選組そのものについての記述ばかりというわけではありません。しかし、御厨村と新選組の因縁は浅からぬものがあるようで、それについて田崎氏は、以下のように述べています。

会津藩御預新選組の給与は、京都守護職役知御厨村他三〇カ村の年貢の流用と大豪商の献金によって賄われる。(中略)金策に窮した新選組隊士が鴻池家や平野屋のみならず、役知である御厨村を無心に訪れた可能性は充分にある。(『大阪商業大学商業史博物館紀要』第5号、177ページ)

その他、新選組と大坂の関係についても色々と紹介しています。

また、この論文の冒頭で田崎氏は、最近では鶴巻孝雄・松浦玲・宮地正人ら歴史家が新選組研究を行っていることを指摘しています。しかし、それだけではなく、司馬遼太郎氏の小説以降の新選組ブームについて、大河ドラマ『新選組!』、浅田次郎『壬生義士伝』、『るろうに剣心』、新選組の魅力にひかれた人々によるサークルや同好会のような組織がたくさん存在すること、手塚治虫氏も新選組ブームに便乗して『新選組』という漫画を描いて失敗していることなどまで、簡単ながらも一通り紹介しています。小説やメディアについて分析した論文でもないのに、いきなり新選組ブームの話から始まったので、印象的でした。

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2006年2月 2日 (木)

池田屋事件についての原口清氏の提起

原口清氏と言えば、『日本近代国家の形成』(岩波書店、1968年)・『戊辰戦争』(塙書房、1963年)などの著書がある、幕末維新期を主たる研究対象とする著名な歴史家です。

その原口氏は1980年代後半から1990年代にかけて、名城大学商学会が発行している紀要『名城商学』に、幕末史研究において必須とも言うべき重要な論文を次々に掲載しました。それらの中には、『名城商学』第46巻第2号(1996年)に掲載された「禁門の変の一考察(一)」、および『名城商学』第46巻第3号(1996年)に掲載された「禁門の変の一考察(二)」という論文があります。

原口清「禁門の変の一考察(一)」および「禁門の変の一考察(二)」は、文久3(1863)年8月18日の政変から元治元(1864)年7月19日の禁門の変に至る政治過程を考察の対象とした論文。禁門の変のおよそ一ヶ月前の6月5日に池田屋事件が発生したことは、幕末に詳しい方あるいは新選組に詳しい方にはあまりにも有名ですが、原口氏の論文「禁門の変の一考察(二)」では、その池田屋事件についても重要な問題提起を行っています(あらかじめ言っておきますが、私は必ずしも以下で述べる原口清氏の考え方を支持しているわけではありません。検討すべき、一つの重要な説だと思うので紹介するだけです)。

通説では、新選組が池田屋を襲撃した理由の一つとして、志士たちが「御所辺へ火を放ち、天皇を擁する」陰謀を持っていたからだと言われています。これに、原口氏は疑問を投げかけます。原口氏は、実際には御所辺へ火を放つ計画など存在しなかったのではないかと考えたのです。

原口氏は、古高俊太郎を尋問した新選組の報告を受けた会津藩の在京老臣が、6月7日(池田屋事件の2日後)付で江戸に送った書簡(会津藩在京老臣が一橋慶喜や京都所司代と協議した上で池田屋事件に至るまでの詳しい経過を記した書簡)の中に、御所辺へ火を放つという類の記述が一切ないことにまず着目しています。また、6月5日(池田屋事件当日)に中川宮朝彦親王(伊宮)が関白に提出した書簡や、同じ日付で所司代が武家伝奏に提出した書類にも、御所辺に火を放つという類の記述が全くないことを強調します。

その上で原口氏は、御所辺へ火を放つという記述が初めて登場するのは、6月9日付で一橋慶喜(徳川慶喜)が松平春嶽に送った書簡の中だと指摘します。この慶喜書簡では、御所辺放火計画を古高俊太郎が白状したことになっているとのこと。さらに、この6月9日以降から、幕府側の書類に、池田屋に集まっていた志士たちの御所辺放火計画についての記述が登場し始めることを指摘しています。要するに原口氏は、御所辺放火計画は実際には存在しなかったものの、慶喜ら幕府側あるいは一会桑政権の中の誰かが、池田屋事件を正当化するために、事件の後に志士たちの放火計画をでっち上げたのだと言いたいわけです(後日の追記:「でっち上げたのだと言いたいわけ」と書いたのはちょっと誤解を招く表現でした。原口氏は「でっち上げ」だと断定しているわけではなく、あくまでその可能性も視野に入れて考察しているに過ぎません。これは私の書き方が悪かったということで、訂正したいです)。何故、そんなでっち上げをする必要があったのか、以下に原口氏の見解を引用してみます(青文字部分が引用部分)。

池田屋事件はたとえ浮浪取締りや長州人の入京禁止・制限令に合致した適法的な措置であったとしても、それが長州人をはじめとする尊攘志士に対する弾圧であることに変わりはない。六月七日、八日の京都五条橋の張札には、一橋慶喜を池田屋事件画策の張本人であり尊王攘夷の長州人を捕縛した「大奸賊」とし、放火・天誅を加える旨が書かれているが、朝廷・幕府間の複雑な状況下に身をおき、横浜鎖港方針を表面に掲げ、水戸・因幡・備前等攘夷主張の諸藩にもある程度の理解を示している慶喜にとって、攘夷主義の弾圧者という非難は避けたかったにちがいない。そして御所辺への放火云々ということは、何人にも弁護を許さない取締りの理由となるであろう。(「禁門の変の一考察(二)」『名城商学』第46巻第3号、1996年、7ページ)

上記のような原口清氏の見解に賛意を表しているのが、『幕末・維新期長州藩の政治構造』(校倉書房、1993年)という著書を持つ歴史家・三宅紹宣氏。三宅氏は、昨年の論文「吉田稔麿の政治思想」(『史学研究』第247号、2005年)の中で、上で紹介した原口氏の見解について、以下のように述べています(赤文字で引用します)。

放火陰謀認識の作られていった過程を史料に即して厳密に分析したものとして説得力に富む。(「吉田稔麿の政治思想」『史学研究』第247号、2005年、62ページ)

しかし、「古高俊太郎考―八・一八政変から池田屋事件に至る政局の一齣―」(『明治維新史研究』第一号、2004年)などの論考(管理人は左の論文は未読)で古高俊太郎書簡を分析した中村武生氏は、新選組が志士たちの御所辺放火計画の存在を知らずに池田屋を襲撃したことについては原口氏に同感ながら、御所辺放火計画自体は存在していたという趣旨のことを述べておられるようです。

いずれにしても、原口清氏が問題提起したことによって、池田屋事件に関わる史実の議論が盛んになっているのは間違いないようです。

なお、池田屋事件については、町田明広「池田屋事変における吉田稔麿について」(『霊山歴史館紀要』16号、2003年)という論文があります。

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2006年1月29日 (日)

坂本龍馬の妻・お龍が語った新選組

坂本龍馬の妻だったお龍(おりょう)という人物は、晩年に色々と談話の類で幕末のことを色々と語っていて、どこまでが記憶違いや誇張などのない事実なのか判然としないものもあるのですが、その中には興味深い話もたくさん含まれています。この記事では、そのようなお龍の談話の中から、新選組に関わる話を紹介してみたいと思います。

明治32年にお龍への聞き書きという形で『土陽新聞』に連載された「千里の駒後日譚」の中で、お龍は新選組について語っています。私の手元にある平尾道雄監修/宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』(光風社、1978年)に「千里の駒後日譚」が収録されていますので、その中から該当部分を以下に引用してみます(引用は青文字部分)。一部、読みにくい漢字をひらがなに変えたりしています。

伏見で居た時分夏の事で暑いから、一晩龍馬と二人でぶらぶら涼みがてら散歩に出掛けまして、段々夜が更けたから話もつて帰つて来る途中五六人の新撰組と出逢ひました。夜だからまさか阪本とは知らぬのでせうが、浪人と見れば何でも彼でも叩き斬ると云ふ奴等ですから、わざと私等に突当つて喧嘩をしかけたのです。すると龍馬はプイと何処へ行つたか分らなくなつたので、私は困つたがここぞほぞの据え時と思つて、平気な風をして、あなた等大きな声で何ですねゑ、と懐ろ手で澄して居ると、浪人は何処へ逃げたかなどブツブツ怒りながら私には何もせず行過ぎて仕舞ひました。私はホツと安心し、三四丁行きますと町の角で龍馬が立留て待て居て呉れましたかね、あなた私を置き去りにして余んまり水臭いぢやありませんかと云ふと、いんにやさう云ふ訳ぢや無いが、彼奴等に引掛るとどうせ刀を抜かねば済まぬからそれが面倒で陰れたのだ、お前もこれ位の事は平生から心得て居るだらうと云ひました。(『坂本龍馬全集』548ページ)

お龍の、「浪人と見れば何でも彼でも叩き斬ると云ふ奴等」という新選組認識は、京都に生まれ育ち、坂本龍馬の妻になって薩摩や長州の人々と関わりのあったお龍の、率直な気持ちなのだろうと思います。「彼奴等に引掛るとどうせ刀を抜かねば済まぬ」という龍馬の言葉も面白いですね。

次に、同じく「千里の駒後日譚」から、お龍が新選組について語った別の箇所を以下に引用してみます(引用部分は赤文字)。

近藤勇は三十一二の年恰好で顔の四角い様な、眉毛の濃い、色の白い、口は人並より少し大きい奸物らしき男でした。寺田屋のお登勢を捕へて新撰組の定宿と云ふ看板を出せと剛情を云つたのですが、お登勢も中々しツかりした女ですから承知しなかつたのです。あの壬生浪人と云ふのは謂はゞ新撰組の親類の様なもので、清川八郎が頭で、京都の壬生村に本陣が有つたのです。それで当時は此浪人をみぶらふみぶらふと云つて居りました。(『坂本龍馬全集』549ページ)

上記引用部分で、お龍は近藤勇の外見的印象を語っていますが、「口は人並より少し大きい」という言葉にもあるように、近藤勇の口はやはり大きめだったのですね。しかし、近藤の見た目だけで「奸物らしき男」と決め付けている部分に、お龍の新選組観が表れているような気がします。

ともあれ、京都の人々に新選組がどのように思われていたのか、あるいは西南雄藩の志士たちに肩入れする立場の人々が新選組をどう思っていたのか知る上でも、お龍の話はなかなか面白いのではないかと思います。

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2006年1月23日 (月)

学者による昨今の新選組研究

近年、松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)・宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)・大石学編『新選組情報館』(教育出版、2004年)・大石学『新選組』(中公新書、2004年)といった、学者による新選組研究本が色々と出ています。

従来は、歴史学の世界では新選組はまともに研究対象として見なされたことはほとんどなく、書店に並んでいるたくさんの新選組本はほとんどすべて在野の研究家や作家によるものでした。ところが、松浦玲『新選組』を皮切りに、学者による新選組研究本が相次いで出版されて、歴史学の世界でも新選組に興味を抱く学者や大学院生が増えてきているようです。

その傾向を示すものとして、冒頭で挙げた新選組研究本の書評が、歴史学の学術雑誌にたくさん載りました。例えば、以下のような書評があります(リストアップした部分を青文字にします)。

・小川和也「書評 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『人民の歴史学』161号、2004年)

・高木不二「新刊の情報と紹介 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『歴史と地理』580号、2004年)

・白石烈「文献紹介 大石学編著『新撰組情報館』・同著『新撰組‐「最後の武士」の実像』」(『人民の歴史学』164号、2005年)

・野本禎司「書評 大石学著『新選組‐「最後の武士」の実像』」(『史海』52号、2005年)

・家近良樹「書評 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『日本史研究』513号、2005年)

・松浦玲「書評と紹介 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『日本歴史』688号、2005年)

・笹部昌利「書評 宮地正人著『歴史のなかの新選組』」(『歴史評論』665号、2005年)

上記のような書評・文献紹介という形のみならず、学者(必ずしも歴史学に限らない)の新選組への関心が高まっているのではないかと思われる事例があります。具体的には、紀要などの非商業雑誌に新選組を大きく扱った学術論文が掲載されることが増えていることです。松浦玲『新選組』出版以降の、「新選組」もしくは「新撰組」がタイトルに含まれた学術論文を、以下にリストアップしてみます(文字を緑色にします)。

・田崎公司「新選組と河内国御厨村の断想‐京都守護職会津藩役知を中心として」(『大阪商業大学商業史博物館紀要』5号、2004年)

・ 石川潔「新撰組出身の伝道者・結城無二三への検証」(『明治学院大学キリスト教研究所紀要』37号、2005年)

・福永弘之「新選組と兵庫」(『神戸文化短期大学研究紀要』29号、2005年)

私は上記の書評や論文のすべてを読んだわけではありませんので、それぞれの詳しい内容については尋ねられても答えられません。とりあえず、国立国会図書館NDL-OPACで調べた文献をリストアップしただけですので、悪しからず。また、もしかしたら国立国会図書館NDL-OPACで検索できない雑誌にも、新選組関連の論文が掲載されているかもしれません。

この記事では学術雑誌および紀要だけを取り上げましたが、『歴史読本』などの商業誌には、中村武生・後藤致人・鵜飼政志など、歴史学者たちも新選組の文章を近年載せています。それも特筆に価すると思います。

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2006年1月 6日 (金)

2005年に書いた歴史系記事、厳選20

このブログでは、今年も歴史に関する記事を色々と書くつもりです。昨年も、たくさんの歴史系記事を書きました(大半が幕末史関連ですが)。その中でも、私が特に力を入れて書いたと思っている20個の記事を下記のように選びました。

2005年を回顧しつつ、なおかつ2006年への展望を図る意味でも、私が特に読んでいただきたいと思っている20個の記事を紹介しますので、読んだことのない方はぜひ読んでください。選んだ20個の記事は以下の通りです(順不同)。

「歴史好き」と「歴史小説好き」は必ずしもイコールではない

歴史に「IF」の視点を持ち込んだら駄目なのか?

『日本史文献事典』

会沢安「迪彜篇」

龍馬暗殺について~歴史学者(幕末政治史研究者)の意見を参照することのすすめ~

坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺前後の政局‐史料の中に見える薩摩藩士たちの言葉‐

「薩長同盟」を「薩長盟約」と言い換える

芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』

坂本龍馬とジョセフ・ヒコ

坂本龍馬は薩長商社計画に関与していないという説の紹介‐松下祐三「薩長商社計画と坂本龍馬」‐

近藤勇と後藤象二郎、および大久保利通

野口武彦『新選組の遠景』読了。新選組中心史観への批判

平尾道雄氏と『新撰組史録』について

松浦玲『新選組』と宮地正人『歴史のなかの新選組』

中岡慎太郎研究の基礎的文献

一会桑政権に最初に注目した研究の紹介‐井上勲「将軍空位時代の政治史」‐

松浦玲「民間『浪士』と維新期の『改革』」

松岡英夫『大久保一翁』

幕末の「○○派」という言葉について

幕末維新-「復古」と「開化」-

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2005年12月22日 (木)

近藤勇と後藤象二郎、および大久保利通

慶応3(1867)年の大政奉還の直前に、新選組局長の近藤勇と、大政奉還運動の指導者である後藤象二郎が何度か接触していることは、しばしば指摘されています。特に、平尾道雄氏が詳しく指摘していて、興味ある方には平尾道雄『定本新撰組史録』新装版(新人物往来社、2003年)の179~185ページあたりを読んでいただきたいのですが、私のこの記事では、近藤勇と後藤象二郎の会談の様子を詳しく記した「寺村左膳手記」という史料の、該当部分を引用して紹介してみたいと思います。なおかつ、それを書きながらアレコレと考えたことを、長々と語っています。

なお、寺村左膳とは、後藤象二郎と共に大政奉還運動を推進した土佐藩重臣。慶応3年の政治史を語る上では欠かせない人物でもあります。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』にもしっかり登場している人物ですので、ご存じない方はこの機会に覚えましょう。ともかく、その寺村の手記に、近藤と後藤の会談の様子が記されているのです。

この寺村の手記は、近藤と後藤の長州処分についての意識の違いがはっきりとわかり、とても面白いです。

以下に引用する「寺村左膳手記」は、日本史籍協会叢書『維新日乗簒輯』第3巻(東京大学出版会、1969年復刻)に収録され、平尾氏の前掲書にも引用されています。以下に、近藤と後藤の会談の様子を、『維新日乗簒輯』第3巻から、句読点を適宜施しつつも、それ以外はなるべく原文を尊重する形で引用してみたいと思います。なお、わかりやすいように、近藤勇の発言を赤文字後藤象二郎の発言を青文字その他の寺村による文章を緑文字にして引用します。

一、幕之新撰組頭近藤勇ト云人、象次郎方ヘ來レリ。其時ニ、長州御所置ハ頗ル難澁也、反正トカ悔語トカ無之テハ、只此儘寛大之御所置、何共名目不相立、幕中議論人氣不折合、御高論モ可有之哉ト云。象次郎答云、反正之文字無之ニ付、寛大難被行時ハ、御存分之通、三討モ四討モ被成候テハ如何。一躰、長防御征討、御順序御拙策ニ出候ニ付、天下不服之事ニ至リ候テ、今更被成方モ無之候柄ハ、寛大之御所置より外、一策も無之。方今、外國之大患、眼前ニ差迫リ候儀ハ、神武天皇以來、未今日ノ如キ之甚敷事アラス。此時ニ當テハ、皇國一心協力、既往ノ是非ヲ不問、今日ヨリシテ万國ニ對シテ曲直ヲ論スルノ時也。然ヲ何ソヤ、兄弟牆ニセメギ、僅ニ反正ノ二字ヲ御貪リ被成、眼前ノ急務ヲ被差置候儀、實ニ難息(「嘆息」の誤りカ)之至也ト云。勇、默然一言發セスシテ去レリト也。(『維新日乗簒輯』第3巻、490~491ページ)

以上の引用文からは、近藤と後藤の長州処分についての意見の違いがはっきりとわかります。近藤が、長州の「反正」とか「悔語」がなければ「名目」が立たないと言っているのは、来栖ムツキさんがブログで指摘しているように、長州征伐は「天皇の意志」に発しているため正統性のある戦いなのだと近藤が思っているからでしょう。

一方で、後藤の、「長防御征討、御順序御拙策」という言葉は、幕府のみならず、長州征伐を認めた孝明天皇および朝廷の批判にもつながってくるものです。

このような朝廷批判は、慶応元年に「非義勅命ハ勅命ニ有らす候」と述べた大久保利通の有名な言葉に、もっと明確に見られます。大久保のこの言葉は、天皇・朝廷が長州追討を認める勅を出したことを批判した言葉ですが、そのことで天皇・朝廷を批判することは、同時に長州征伐の責任が天皇と朝廷にあることを明確にすることにもつながります。

近藤勇は、来栖ムツキさんが上記ブログで言うように、「天皇の意志」というものを非常に重視していますが、大久保や後藤は必ずしもそうではありません。大久保の言葉を借りれば、「非義勅命」はたとえ「天皇の意志」によって発せられていても「勅命」だと認められるものではなく、「非義」ではない勅命(天皇の意思が反映されているかどうかは関係ない)こそが認めることのできる「勅命」ということになります。基本的には、後藤も大久保と同じような認識だったのだろうと思います。だからこそ、大久保や後藤は、慶応3年12月9日の「王政復古の政変」において協力することができ、摂政や関白および五摂家などの従来の朝廷の政治体制を廃止することによって、「非義勅命」を出してしまう朝廷を改革したのでしょう。

近藤はと言えば、「王政復古の政変」につながる動きには「天皇の意志」が反映されているとは決して思わなかったはず。それは近藤のみならず、多くの幕臣がそうだったはずです。

大久保や後藤に連なる西南雄藩出身者は、「王政復古の政変」によって一転して天皇を担ぐ側になりますが、そうなってから薩長を主体とする新政府の文部省が編纂した『維新史』では、孝明天皇に関する叙述が精彩を欠くそうです(家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』<文春新書、2002年>30~31ページでの指摘を参照)。これはもちろん、長州征伐が孝明天皇の意志によって行われたということと大いに関係があります。薩長など西南雄藩は、いざ自分たちが天皇を担いで、天皇の権威によって権力を握る側になると、かつての孝明天皇や朝廷を批判することも躊躇われるような形になったからです。

そんなわけで全然まとまりがないのですが、「寺村左膳手記」の近藤勇と後藤象二郎の会話を読んで、色々と考えたのでした。

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2005年12月 1日 (木)

歴史に「IF」の視点を持ち込んだら駄目なのか?

歴史について考える、もしくは歴史を語る上で、そこに「IF」の視点あるいは「もしも」という仮定を持ち込むことは、いけないことなのでしょうか?一般的には、それは禁物だと言われています。

でも私は、歴史を考える上で「IF」の視点を考慮することは、必ずしも悪いことではないと考えています。私の考え方について、異論のある方も少なくないかもしれません。何故なら、一般的には禁物だと言われていることに、私は異議を唱えているわけですから。しかし、「IF」の視点を持ち込むことで有意義な考察ができる場合もあるのではないかと、私は思うのです。

そんな私が共感している田中彰氏 (北海道大学名誉教授)と井上勲氏(学習院大学教授)の考えを、ここでは紹介してみたいと思います。なお、田中氏の著書や論稿からの引用は青文字、井上氏の論稿からの引用は赤文字で行います。

田中彰氏は、『幕末学のみかた。』(アエラムック36、朝日新聞社、1998年)に載せた、「未発の可能性に満ちた時代」という短い文章の中で、「歴史学が「もし」をタブーとしていることは周知のことだ。それは学問としての歴史学には必要な禁欲である」と言いつつも、続けて次のように述べています。

変革期が可能性の時代であるならば、現実に展開した歴史のみが、可能性のなかの唯一のものだったとは必ずしもいえない。ほんのわずかな与件のちがいや状況の差によって、別の選択肢が現実の歴史過程となることはありうることである。とすれば、残された史料のなかから、現実には展開しなかったものの、展開する可能性のあった選択肢を見いだし、その選択肢をめぐって歴史的考察を加えることがあってもよい。それを私は”未発の可能性”とよぶ。
 ”未発の可能性”としての歴史は、フィクションとして描かれる歴史小説とは異なる。”未発の可能性”としての歴史は、「もし」という歴史学のタブーを侵すものではない、と私は思う。
(『幕末学のみかた。』7頁)

また、田中氏は『松陰と女囚と明治維新』(NHKブックス、1991年)という著書の中で、次のようにも述べています。

ときには既定の歴史的事実に極力沿いながら、「もし」という前提で未発の可能性を問うことは、ひとつの試みとしてあってもよいだろう。それは残された史料の偶然性にもかかわらず、その史料によってすべてをみようとする史料至上主義の動脈硬化症的な発想への対処療法にはなりうるからである。既定の歴史的事実とはいっても、そこには未発の可能性は十分はらんでいたはずである。(『松陰と女囚と明治維新』61頁)

つまり田中氏は、妄想と言ってもいいぐらいの荒唐無稽な仮定はともかくとして、ちょっと状況が変わっていれば実際にあってもおかしくなかったこと(田中氏が言うところの「未発の可能性」)について考えることは、決して無駄ではないと言っているわけです。

次に、井上勲氏が「坂本龍馬の可能性」(『歴史と人物』1978年4月号<80号>に収録)という論稿で、坂本龍馬が夭折、つまり若くして死んだことに触れた後で述べている言葉を、以下に引用してみます。

夭折した個人は、しばしば歴史的想像力を刺激する。まず、夭折の事実を操作的に捨象し、没後の生涯を仮構してそこに一定の想像を付加しうる。さらに、その作業を通じて、現実の歴史とは別の、ありえたかもしれないいわば歴史の可能性を構想しうるからである。もし何某が生きていれば、あるいは、あと何年の余命が与えられていれば、その後の歴史は如何に変わっただろうかとの設問が含む内容がそれである。もとより、あくまで仮定の問題であり、不確かな回答しかえられない。歴史学にそうした仮定は禁忌というが、決してそうではない。歴史の可能性を構想することは、現実の歴史を鳥瞰する視点を与えてくれる、少なくとも歴史的必然性なるものの解毒剤にはなる。(『歴史と人物』1978年4月号、46~47頁)

井上氏も、田中氏と同じように、ありえたかもしれない歴史の可能性に注目し、それについて考えることは決して禁忌(タブー)ではないと断言しています。この井上氏の見解は龍馬について書かれた文章のものなので、龍馬を例にすると、「もし龍馬が暗殺されていなかったら」という「IF」を考えることが、実際には暗殺されてしまった龍馬という人物の人物像を考える上で役立つわけです。

私も、田中彰氏や井上勲氏と同様に、「実際にはそうはならなかったけれども、もしかしたら実際にそうなっていたかもしれない可能性がある」ようなことについて考えることに、意義を感じています。

来栖ムツキさんのブログの過去の記事で、来栖ムツキさんは「もしも松平容保が京都守護職でなかったら、新選組の存続はなかったのかもしれない」という「IF」について考えていますが、このような仮定は非常に有意義だと思います。新選組を統括していた京都守護職は、一時的に松平容保から松平春嶽(松平慶永)に変わったことがありますが、そのとき新選組は春嶽の下で働くのは嫌だと主張したのです。それは何故なのか、色々と考えをめぐらすうちに、「もしも新選組が春嶽の下で働くことになったら(もしも容保が京都守護職でなかったら)、新選組はどうなるだろうか」というような「IF」に考えが及ぶこともあるでしょう。そのような「IF」を考えることによって、来栖ムツキさんは「新選組の存続はなかったのかもしれない」という自分なりの結論を出せたのだと思います(来栖ムツキさん本人に確認したわけではないので、多分、としか言えませんが)。つまり、井上勲氏が言っていたような、「歴史の可能性を構想することは、現実の歴史を鳥瞰する視点を与えてくれる」ということが効果を発揮したのだと思うのです。

結論。私は、歴史に「IF」の視点を持ち込むことが、現実の歴史についての考察を深めてくれる場合もある、その意味で「もしも」ということを考えることは悪くないと思います。

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2005年11月10日 (木)

松浦玲「民間『浪士』と維新期の『改革』」

藤原書店が発行している雑誌『環』の13号(2003年)は、「今、「明治維新」を問う」という特集を組みました。

その『環』13号には、藤田覚「近世天皇の政治的君主化とその限界―孝明天皇」や、菊池勇夫「北方史を縛る国家意識」、源了圓「熊本実学派と大久保利通―明治維新における中央と地方」、笠原英彦「明治官僚制の成立」、松尾正人「廃藩置県断行と府県政」、子安宣邦「だれが維新を語るのか」、吉田俊純「水戸学と明治維新」、鬼頭宏「歴史人口学からみた幕末維新期の日本」などなどの、興味深い論稿が多数収録されています。

そして、『環』13号には、松浦玲氏の、「民間『浪士』と維新期の『改革』」という論稿も収録されているのです。松浦氏の論稿は、以下の青文字の言葉から始まります。青文字部分が松浦氏の論稿からの引用です。

浪人と浪士は違うというところから始めたい。ただし違うと言っても、犬と猫、ヒトとゴリラのような厳然とした種別があるわけではない。浪人と浪士はしばしば全く同じ意味に使われる。同一人物が浪人と呼ばれたり浪士と書かれたりする。そういうところへ強いて区分を持込むのだから無理無体な話だけれども、幕末維新期の史料を見ていると、ここは浪人ではなくて浪士だなと特別に目印を付けておきたい気分が生じることがある。

松浦氏は、特別に「浪士」だなと目印をつけておきたい好例が、文久2(1862)年の幕府による「浪士」募集だと言います。清河八郎が絡み、近藤勇・土方歳三・沖田総司や芹沢鴨も応募した、新選組ファンにはお馴染みの「浪士」募集のことです(浪士組が上洛するのは文久3年)。そして松浦氏は、「『牢人』の系譜を引く『浪人』には不本意に禄を離れ再仕官を求めるというイメージが強烈だけれども、『浪士』の語にはその色が薄い。『浪士』には仕官とは別の目的を持って行動中という響きがあり、出身は武家も武家以外も含む」という意見を述べておられます。松浦氏によれば、近藤勇や土方歳三も、「禄を離れた『牢人(浪人)』ではないけれども『浪士』だった」とのことです。

松浦氏の意見は、かなり面白いと思います。実際、「浪人」と「浪士」という言葉は特に厳密な違いを考えることなく混用してしまう場合が多い(幕末当時の人も)ですが、松浦氏の言うように、「仕官」と絡めて考えるとだいぶイメージが変わってくるような気がします。松浦氏の意見に従えば、例えば仕官とは別の理由で脱藩して活動した坂本龍馬や中岡慎太郎は「浪士」であって「浪人」ではないということになりますよね。

松浦氏が「民間『浪士』と維新期の『改革』」という論稿で示した論点や見解は、松浦氏の著書『新選組』(岩波新書、2003年)にも十分に活かされています。松浦氏の『新選組』を愛読されている方は、この論稿も併せて読まれてはいかがでしょうか。

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2005年10月30日 (日)

一会桑政権に最初に注目した研究の紹介‐井上勲「将軍空位時代の政治史」‐

一会桑政権ないし一会桑権力とは、禁裏守衛総督兼摂海防禦指揮の一橋慶喜(徳川慶喜)、京都守護職の会津藩主・松平容保、京都所司代の桑名藩主・松平定敬の三人で構成されていて、京都において活躍したことは、今や幕末史を語る上では欠かせない存在です。

そして、この一会桑についての研究者としては大阪経済大学助教授の家近良樹氏が有名で、家近氏の一会桑研究としては、『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)などの著書があります。特に、後者の『孝明天皇と「一会桑」』は一般向けの新書という体裁で入手も容易なため広く読まれているようで、ネットで検索をかけると結構な数のサイトが出てきます。

しかし、家近氏は一会桑を本格的に研究し始めた研究者ではありますが、一会桑政権の重要性を最初に指摘したのは家近氏ではありません。一会桑政権について恐らく初めて言及したであろう研究のことは、一般にはあまり知られていないかと思います。

その研究とは、井上勲氏(学習院大学教授)の論文「将軍空位時代の政治史‐明治維新政治史研究‐」(『史学雑誌』第77編11号、1968年)です。

井上勲氏の「将軍空位時代の政治史」という論文は、慶応2(1866)年7月20日に将軍・徳川家茂が病死し、徳川慶喜が将軍に就任する同年12月5日までのいわゆる将軍空位期の政治史を分析したものです。井上氏自身の言葉を借りれば、「慶応二・三年の停滞的中央政局の原初的形態ともいえる、将軍空位時代の政治史、将軍空位時代を構成した政治的諸勢力体、及びそれぞれの政治的方向性を分析しようとするもの」(2頁)です。

したがって、井上氏の論文は元治元(1864)年に成立した一会桑政権そのものを分析した論文ではないのですが、少しだけ一会桑に関する記述があります(後で引用します)。しかしながら、井上氏の論文が一会桑について最初に言及した研究だというのはどうやら確かなようで、その事実については今月に発売されたばかりの久住真也『長州戦争と徳川将軍』(岩田書院、2005年)という研究書も序章で指摘しています(私は久住真也氏の本をパラパラと立ち読みしました)。

私自身も数年前、大学の先輩に、「一会桑政権ということを最初に言い始めたのは井上勲氏と宮地正人氏の二人だよ」という話を教えていただいたことがあります。宮地正人氏は、『天皇制の政治史的研究』(校倉書房、1981年)という研究書で一会桑政権について言及しています。

井上勲氏の論文が出たのは1968年、宮地正人氏の本が出たのは1981年…それ以前には、一会桑政権の存在は歴史家の間でも議論されていませんでした。その証拠に、歴史家・松浦玲氏が1975年に出した『徳川慶喜』(中公新書、1975年)という本では、一会桑政権に関する言及はありません。松浦氏が慶喜の評伝を出した1975年には、まだ一会桑という用語は市民権を得ていなかったと言えるでしょう。

一会桑政権の存在は、1968年に井上勲氏によって恐らく初めて指摘され、広く知られるようになったのは最近になってからのことです。家近良樹氏が、「一会桑権力に関しては、現在でもその存在を特に認めようとはせず、倒幕に至るまでの中央政局を朝廷―幕府―諸藩三者のあり方如何によって分析する傾向が相変わらず根強い」(『幕末政治と倒幕運動』56頁)と指摘するような状況が近年まで続いていたのです。繰り返しになりますが、家近氏のこの本が出たのが1995年です。

ともあれ、現在は一会桑政権は幕末史を語る上での常識的知識となりつつあります。「一会桑政権」・「一会桑権力」・「一会桑勢力」など、呼称の仕方について色々と議論がありますが、ともかく一会桑という幕府本体とは別個に動いていた勢力がいたこと自体は、幕末史の常識的知識となりつつあります。最近では、宮地正人氏が新選組の近藤勇と一会桑政権の関係を重視する研究を発表しています(宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店、2004年)ので、幕末史そのものについては詳しくないと思われる一部の新選組ファンの方々にも、徐々に一会桑の認識が広まっていくかもしれません。

また、幕末の志士たちが残した史料にも、「一会桑」あるいは「市会桑」や「橋会桑」などという表記が頻繁に出てきます。例えば坂本龍馬は、池内蔵太に宛てた慶応元年10月3日付の書簡に、「一、会、桑、暴に(にわかに)朝廷にせまり、追討の命をコフ」云々と記しています(平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社、1978年、71頁)。このような史料から、幕末当時の志士たちも一会桑を重視していたことがわかります。

では、遅くなりましたが、一会桑政権について最初に指摘したと思われる井上勲「将軍空位時代の政治史」という論文が、一会桑政権のことをどのように定義しているか、それを紹介しておきましょう。井上氏によれば、「元治元年から徳川慶喜政権成立にいたるまで、京都にあって中央政局における幕府勢力を代表する役割を果した、一橋慶喜・松平容保・松平定敬の三者からなる政権」(同論文13~14頁)とのことです。

井上氏の一会桑に関する基本的な見解は、その後の著書『王政復古』(中公新書、1991年)や論文「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年)においても変わっていません。

一会桑については、呼称や成立時期・終焉時期・中心人物など、様々な点において色々と議論されています。各研究者によって見解がかなり異なります。それらの諸相を理解する上で、久住真也『長州戦争と徳川将軍』は便利な本だと感じた(立ち読みした上で感じた)ことを、最後に述べておきます。

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2005年9月30日 (金)

野口武彦『新選組の遠景』読了。新選組中心史観への批判

最近購入した、野口武彦氏の著書『新選組の遠景』(集英社、2004年)を読み終わりました。購入する前から立ち読みでだいぶ読んではいたのですが、購入したのは最近になってからでした。野口武彦氏の著書を購入したのも初めてです。『安政江戸地震』(ちくま学芸文庫、2004年)などの著書を何度か立ち読みはしていたのですが。

とりあえず、野口氏の「新選組ファンのあらかたは天動説である。新選組を機軸にして歴史の天空が回転するのだ」(15頁)という意見には、同感です。私も新選組ファンの友人と話をしているときに、その新選組ファンの友人が新選組のことにはものすごく詳しいのに、幕末史のほかの人物・団体や新選組が関わっていない事件などには興味がないか、詳しく知らないということに驚いたことがあります。もちろん、新選組ファンならば新選組のことに詳しいのは当然かもしれませんが、新選組以外のことに興味を示さないのは解せません。野口氏の、「新選組のことは、新選組だけを見ていたのではわからない」(16頁)という意見に耳を傾けてみても良いのではないでしょうか。

野口氏は新選組ファンの歴史観を「新選組中心史観」(150頁など)と呼んでいますが、そのような歴史観では、幕末という時代について正しい理解・認識は不可能だと思います。何故なら、新選組および新選組の隊士たちは、幕末史全体の中での重要度においては、あくまで脇役に過ぎないと思うからです。

実際、幕末史を描いた通史などの歴史書では、新選組はそれほど大きい扱いを受けていません。例えば、歴史家の田中彰氏による一般向けの通史である『日本の歴史⑮ 開国と倒幕』(集英社、1992年)は、ペリー来航前夜から鳥羽・伏見の戦いに至るまでの時期を叙述していますが、新選組は本文には登場せず、登場するのは本文の外のコラム(186~187頁)だけで、巻末の索引にも新選組は全く出ていません。

石井寛治『大系日本の歴史⑫ 開国と維新』(小学館ライブラリー、1993年)は、ペリー来航から西南戦争までを描いた通史ですが、新選組が登場するページ数は全部で5ページで、ページ数で言えば五代友厚と同じです。ちなみに、大久保利通は全部で46ページ、西郷隆盛が31ページ、木戸孝允が32ページ、徳川慶喜が19ページほど登場していますので、新選組はあくまで脇役として描かれているというのがわかるかと思います。ただし、石井氏の著書は田中氏の著書に比べて、新選組の扱いはかなり大きいです。

比較的新しい通史である、井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社、2002年)は、天保年間から慶応3年の王政復古政変あたりまでの時期を描いていますが、新選組はたった一度、池田屋事件の記述で出てくるだけです。さすがに扱いが小さすぎるのではないかと思うぐらい、一言出てくるだけです。

昨年、歴史書専門の出版社・吉川弘文館から刊行された、『日本の時代史』全30巻の一冊である、井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』(吉川弘文館、2004年)の中で、編者の井上勲氏は、幕末政治史の概説として、「開国と幕末の動乱」という文章を載せていますが、新選組の登場は二回だけです。一回目が、京都守護職・松平容保の配下に新選組がいたことの説明で、二回目が池田屋事件の記述です。一方で、例えば島津久光は全部で15ページに登場しています。

以上、ご紹介しましたように、幕末史の通史では、どうしても新選組は脇役になってしまいます。その意味で、私は「新選組中心史観」は正しくないと思うのです。しかしながら、脇役としての新選組を、幕末史の中にどのように位置づけるべきかは非常に重要だと思っています。新選組は脇役だと言っても、宮地正人氏が「一会桑グループ内の有能な政治活動家の中にほかならぬ近藤勇が存在したこと、この点の確認が、今日の歴史学からする新選組論の第一の眼目でなければならない」(『歴史のなかの新選組』岩波書店、2004年、7頁)と主張するように、新選組が幕末史の主役に影響を与えうる位置で活動していたことは事実です。したがって、新選組の研究は有意義だとは思います。私が言いたいのは、「新選組中心史観」は新選組および幕末史を正しく理解する上で適切ではないということだけです。

ちなみに、宮地正人氏が言う「一会桑」とは、禁裏守衛総督兼摂海防禦指揮の一橋慶喜(徳川慶喜)、京都守護職の会津藩主・松平容保、京都所司代の桑名藩主・松平定敬のことです。この、いわゆる一会桑政権は、江戸の幕閣とは別個の権力として京都で活動し、慶応3年のいわゆる討幕の密勅などで打倒対象にされていた三人です。要するに、幕末史を語る上で、決して軽視はできません。その一人である松平容保の配下に新選組がいて、特に近藤勇が活発な政治活動をしていたからこそ、新選組はあくまで脇役ながらも重要な存在だと思うわけです。

ともあれ、現在の状況では、新選組は正しい理解がなされているとは言えないと思います。そのために重要なことは、司馬遼太郎その他が生み出したフィクション(虚像)としての新選組認識から脱却することでしょう。宮地正人氏が、『歴史のなかの新選組』という本を執筆した理由も、新選組認識について、「時代小説的虚構から歴史的真実の方にブレを戻したい」(『歴史のなかの新選組』197頁)ということだったのです。

しかし、野口武彦氏が『新選組の遠景』の「あとがき」で述べている、「歴史学者が長らく一顧だに与えず、正史にまともに登場させなかったからこそ、新選組は稗史小説の世界であれだけ活躍してきたという事実にもっと思いを馳せるべきではあるまいか」という意見はもっともなことです。新選組が「時代小説的虚構」のレベルで認識され、「新選組中心史観」で幕末を認識する人が少なくないことには、歴史学者もある程度の責任があるかと思います。良い意味で、新選組の研究が進むことを願っております。

最後に、野口武彦『新選組の遠景』は面白かったです。歴史家でもなく新選組研究家でもない野口氏による新選組論は、とても新鮮でした。また、内山彦次郎暗殺は新選組によるものではないとする野口氏の意見に、全面的に賛成です。

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2005年9月22日 (木)

平尾道雄氏と『新撰組史録』について

新選組や坂本龍馬に関する書籍を愛読している方ならば、平尾道雄氏の名前をどこかで目にしたことがあるのではないでしょうか。平尾氏は特に、土佐藩関係の研究で高い評価を受けている歴史家で、1979年に亡くなっています。生前は、高知大学・高知女子大学の講師やワシントン大学の客員講師を務めています。平尾氏の歴史家としての基礎は、1920年から1952年にまで及ぶ、山内家家史編修所勤務時代に築かれたものです。歴史家の故・山本大氏の言葉を借りれば、平尾氏は「如何なる賛辞を呈しても言葉が足りない地方史家、というより日本を代表する史家の一人」です(山本大「平尾道雄先生の偉業と『山内家史料』の出版」『日本歴史』391号、1980年、40頁)。その平尾氏は高知を足場にして研究を続けていただけに、高知に関係する著書が多いです。このあと詳しく述べる『新撰組史録』を除いて、主要と思われる著書を以下に列記してみます(出版社・刊行年は省略)。

『維新暗殺秘録』・『子爵谷干城伝』・『天誅組烈士 吉村虎太郎』・『武市瑞山と土佐勤王党』・『容堂公記伝』・『奇兵隊史録』・『立志社と民権運動』・『土佐藩漁業経済史』・『土佐藩林業経済史』・『土佐藩工業経済史』・『土佐藩農業経済史』・『吉田東洋』・『山内容堂』・『近世社会史考』・『土佐藩』・『長宗我部元親』・『龍馬のすべて』・『坂本龍馬 海援隊始末記』・『野中兼山と其の時代』・『無形板垣退助』・『中岡慎太郎 陸援隊始末記』・『戊辰戦争』…などなど。

上に列挙したものは、平尾氏の著書のほんの一部にしか過ぎません。また、論文にも高知関係のものが多く、例えば、「土佐藩の軍制改革」(『軍事史学』7‐3、1971年)・「土佐藩の浪人制度」(『日本歴史』293号、1972年)などがあります。

このように、高知ないしは土佐に関する研究が圧倒的に多い平尾氏ですが、最初に出版した著書は土佐に関するものではなく、新選組に関するものでした。それが、1928年に自費出版した、『新撰組史』です。この本が出版されたとき、平尾氏はまだ数え年で29歳でした。今とは時代が違うことは百も承知で述べると、今は30歳を過ぎても大学院に学生として居座っている研究者も多いのに、大したものだと思ってしまいます。平尾道雄『新撰組史』は、歴史家の宮地正人氏をして、「当時としては非常によく史料を蒐集し、実証的に歴史叙述をおこなっている。新選組の研究書としては、今日に至るまで、歴史学的には最高のものではないだろうか」(宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店、2004年、170頁)と言わしめるほどの内容を備えている書物だったのです。

『新撰組史』は、1942年に『新撰組史録』と改題され、改訂された上で育英書院から刊行されます。『新撰組史録』は、さらに1967年には、再度改訂された上で白竜社から刊行されます。またさらに、1977年には、『定本新撰組史録』として、新人物往来社から刊行され、しばらく絶版状態が続いた後、2003年に同じく新人物往来社から新装版が刊行されました。平尾氏の新選組研究は、昭和初期から21世紀の今日に至るまで、長く読み継がれ、2004年刊行の宮地正人氏の著書の中で「歴史学的には最高のもの」と言われるほどの地位を占めてきたのです。

2003年には岩波新書の一冊として、歴史家の松浦玲氏の『新選組』が刊行され、2004年には先に引用した宮地正人氏の『歴史のなかの新選組』が同じく岩波書店から刊行され、新選組はようやく歴史家の研究対象として認識されるようになってきました。松浦氏の著書が出るまでは、本格的に新選組の研究に取り組んだ歴史家は、平尾道雄氏ただ一人と言っても過言ではない状態が続いていたわけです。2004年5月に刊行された『史学雑誌』第113巻5号の、「回顧と展望」特集の幕末維新期の項の執筆者・鵜飼政志氏は、松浦玲『新選組』について、「研究者による新撰組研究としては、ほとんど平尾道雄氏以来のものといえ」ると述べています。ちなみに、『史学雑誌』とは歴史学の最も権威ある学術雑誌で、「回顧と展望」とは、『史学雑誌』が毎年一回行う特集で、日本史・東洋史・西洋史の各時代・各分野についての前年の研究成果の紹介・論評を行うものです。

つまり、平尾道雄氏の『新撰組史』ないしは『新撰組史録』は、新選組研究においては非常に価値のある書物であると言って差し支えないでしょう。新選組に興味のある方で平尾氏の新選組研究を読んだことがない方は、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか?

ちなみに、平尾道雄氏について、もっと詳しく知りたい方には、平尾氏の自伝である『歴史の森』(高知市民図書館、1976年)のほか、以下の文献をオススメします。 

松浦玲「解説」平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末記』中公文庫、1976年
平尾道雄『平尾道雄選集』全4巻、高知新聞社、1979‐1980年
高知県知事室公編『平尾道雄 その人と偉業』高知県、1980年
高知市民図書館編『平尾道雄追悼記念論文集』高知市民図書館、1980年
山本大「平尾道雄先生の偉業と『山内家史料』の出版」『日本歴史』391号、1980年 

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2005年9月 2日 (金)

白石烈「『公武合体』をめぐる会津藩の政治活動」

歴史学の研究に有用だと思われる文献を、ここでは紹介します。今回は、白石烈「『公武合体』をめぐる会津藩の政治活動」(『史学研究』235号、2002年)という論文です。

『史学研究』とは、広島大学大学院文学研究科に事務局を置く、広島史学会が発行している学術雑誌です。今回紹介する論文の執筆者・白石烈氏は、広島大学大学院文学研究科の大学院生です。白石氏は、学術雑誌ではない雑誌にも文章を書いていて、例えば、一般向け雑誌である『歴史読本』781号(2004年12月号)に、「幕末京都の会津藩と新選組-京都政局の断章」という論稿を載せています。

白石氏が2002年に『史学研究』に載せた「『公武合体』をめぐる会津藩の政治活動」という論文は、白石氏曰く、「会津藩独自の政治活動に焦点を当てて従来の『公武合体』研究では見過ごされてきた事実を明らかにし、『一会桑権力(政権)』論の再検討を試み」たものであり、「今まであまり取り上げられていない肥後藩・土佐藩・久留米藩の周旋方の存在に注目」したもの。分析対象の時期は、慶応元(1865)年です。

では、以下に、この論文の章立てを紹介しましょう。

はじめに 

第一章 会津藩の政治志向性
 第一節 将軍滞京・諸侯排除
 第二節 朝幕意思伝達過程の「ろ過装置」

第二章 会津藩と外様三藩周旋方
 第一節 肥後(熊本)藩・土佐藩・久留米藩周旋方の登場
 第二節 「公武合体」の護持
    一 大政委任の危機
    二 会津藩公用方と肥後藩京都留守居の周旋
    三 大政委任の確認
 第三節 周旋方の比重

おわりに

…以上が、白石烈「『公武合体』をめぐる会津藩の政治活動」の章立てです。幕末史において、会津藩の研究というのは、実は進んでいません。近年になって本格的に始まったと言うべきかもしれません。何故なら、今までの明治維新研究は、薩長を中心とする西南雄藩の分析が中心で、しかも会津藩は朝敵だったために史料状況が悪かったからです。

この論文は、会津藩の政治活動が重要だと指摘しながらも会津藩より一橋慶喜(徳川慶喜)の分析にばかり力を注いできた従来の研究を批判し、会津藩「独自」の政治活動の重要性を訴えています。その意味で、この論文は、これからの会津藩研究において、重要な意味を持つ論文となるかもしれません。もちろん、会津藩の分析は、幕末政治史研究や新選組研究にも、利益をもたらすことでしょう。白石氏の、今後のさらなる研究に期待しています。

とりあえず、この論文を面白そうだと感じた方は、ぜひ図書館などで、『史学研究』を探してみてください。どうしても近場で見つからない場合、国立国会図書館に頼めば、有料でコピーを郵送してくれます。

また、会津藩の研究をする上で、家近良樹氏(大阪経済大学助教授)の著書『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)も役に立つことでしょう。

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2005年8月30日 (火)

松浦玲氏による、宮地正人『歴史のなかの新選組』の書評

歴史家・松浦玲氏による新選組研究本『新選組』(岩波新書、2003年)と、同じく歴史家の宮地正人氏による『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)は、以前紹介しました(詳しくはコチラ)。

このたび、雑誌『日本歴史』第688号(2005年9月号)に、松浦玲氏による宮地正人『歴史のなかの新選組』の書評が掲載されました。『日本歴史』とは、日本歴史学会が編集し、歴史(主に日本史)関連書籍専門の吉川弘文館という出版社が毎月発行している、日本史の学術雑誌です。その『日本歴史』の最新号(688号)の122~124ページに、松浦玲氏執筆の宮地正人『歴史のなかの新選組』の書評が、掲載されたのです。

松浦氏と宮地氏、両氏の新選組に対する評価の違い、あるいは共通点がよくわかります。新選組好きの方にはオススメです。『日本歴史』は学術雑誌とは言っても、少し大きめの書店には置かれていることが多いので、気になる方はぜひ探してみてください。価格は税込660円です。

松浦氏の書評の内容を少しだけ紹介すると、「新選組が近藤勇を優れたリーダーとする有志集団だと強調する点で、宮地氏の御本と拙著とは共通する」と述べた上で、見解の相違点を色々と述べていらっしゃいます。しかし、基本的には、宮地氏の研究を高く評価しておられます。例えば、「宮地氏が多年手掛けてこられた情報伝達調査が活用されて叙述に厚みと重みがある」と述べています。いずれにせよ、松浦氏と宮地氏が新選組を歴史学研究の対象に押し上げたのは間違いないと思いますので、これからも、新選組の学問的な研究が進展すればよいと思います。

ちなみに、この『日本歴史』688号には、以下の論文が掲載されています。
山田彩起子「平安中・後期における院宮年始賀礼の変遷」
片岡耕平「中世の穢観念と神社」
高橋博「近世後期の仙洞・大宮等における女官制度」
長廣利祟「明治前期の石炭問屋」

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2005年8月20日 (土)

子母澤寛『新選組遺聞』から史料批判を考える

先日、作家・子母澤寛の『新選組遺聞』(中公文庫版、1977年)を購入しました。子母澤は1928年に『新選組始末記』、1929年に『新選組遺聞』、1931年に『新選組物語』という、三冊の新選組本(新選組三部作と呼ばれる)を出していますが、私が買ったのは、二つ目の復刻版。

新選組は一時期、京都壬生村の八木源之丞宅を本拠地としていましたが、『新選組遺聞』には、源之丞の次男・八木為三郎の長い談話が収録されています。新選組の母体である浪士組が壬生に来たとき、為三郎は数え年13歳。為三郎の証言は、新選組研究においてはとても貴重です。

ただし、「記憶を過信しては危ないことも厳然たる事実で、その兼ね合いが難しい」とは、歴史家・松浦玲氏の言葉(松浦玲『新選組』岩波新書、2003年、20頁)。つまり、為三郎の話は、新選組をそばで見ていた人間の証言なので、重要ですが、後年の回想なので、厳しく史料批判をしなければならないということです。

同じく歴史家の宮地正人氏は、「歴史学にとってなによりも必要となるのは、何が事実か、何が依然として推測にとどまり、事実と断定するまでには至っていないのか、そして何がフィクションなのかという三グループへの厳格な区分作業なのである。(中略)歴史学にとっては『史料批判』をいかに厳密に徹底的に遂行するかという課題である。この作業が曖昧のまま叙述が展開されてしまうならば、歴史を論じていると筆者が主観的に思っていても、客観的には、それは単なる不毛の思いつきか、陳腐な妄想に堕してしまうのである」と述べています。(宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店、2004年、2頁)

八木為三郎の談話は後年の回想。後年のものだけあって、記憶違いなども発生する。それだけ、史料批判を厳密に行う必要が強まるわけです。歴史を論じるときには、そのことに注意すべきでしょう。

ちなみに、歴史を論じようなどと思わなくても、八木為三郎の証言はなかなかリアルで面白い(特に芹沢鴨の暗殺に関してなど)ので『新選組遺聞』は読み物として楽しく読める本だと思います。ただし、八木為三郎や近藤勇五郎などの証言部分以外の記述については、基本的に子母澤の創作がかなり混じっているので、史実としては扱えないと考えるべきです

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2005年8月 6日 (土)

松浦玲『新選組』と宮地正人『歴史のなかの新選組』

歴史家の松浦玲氏は、新書の執筆や『歴史読本』を始めとする一般向け雑誌への執筆などが多く、歴史研究者以外にも比較的よく知られていると思われる。松浦氏は勝海舟や横井小楠の研究がメインの思想史家。主要著書には、『明治の海舟とアジア』(岩波書店、1987年)、『横井小楠 増補版』(朝日選書、2000年)などがある。また、論文には、「近世前期の思想と文化」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史4』東京大学出版会、1970年)などがある。

その松浦氏は、2003年には、岩波新書から『新選組』を出版。平尾道雄『新撰組史録』以来の歴史家による新選組研究として注目された。松浦氏の研究が出るまでは、歴史学の世界では新選組はまともに研究されてこなかったのである。歴史学の代表的な学術雑誌である『歴史学研究』や『日本史研究』や『史学雑誌』に、新選組をメインに扱った論文は掲載されたことがない。その意味で、松浦氏の研究は重要である。

その後、同じく歴史家の宮地正人氏は、『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)を出した。著者曰く、「新選組は明治維新にいかにかかわったかを課題とした、歴史学の立場からする新選組史論」。宮地氏は、幕末維新期を中心に、日本近代史を研究している。主要著書は、『日露戦後政治史の研究』(東京大学出版会、1973年)、『幕末維新期の社会的政治史研究』(岩波書店、1999年)などがあり、論文には、「幕末の情報収集と風説書」(保谷徹編『幕末維新論集10 幕末維新と情報』吉川弘文館、2001年)などがある。こちらの宮地氏は松浦氏と違って、一般向け書籍や一般向け雑誌への執筆はそれほど多くないので、一般には松浦氏よりも知られていないかもしれないが、日本近代史研究を志す研究者で、宮地氏の研究を読まぬ者はいないと断言してもいいほど、日本近代史においては重要な研究者なのです。

ともあれ、松浦氏と宮地氏の新選組本は、『史学雑誌』の「回顧と展望」でも取り上げられた。ちなみに「回顧と展望」とは、『史学雑誌』が年に一回、歴史学の各分野・各時代ごとの前年の研究成果を紹介・論評し、今後の研究への展望を述べる特集。特に大学院生などの若い歴史研究者は、自分の論文が「回顧と展望」で取り上げられるか否かで一喜一憂するほど、権威ある特集なのです。

ともあれ、新選組の実像を知りたい方は、松浦氏と宮地氏の書物を読んでみるといいと思う。どちらもオススメです。ちなみに、歴史家の大石学氏も、『新選組』(中公新書、2004年)という本を出しています。ただし、大石氏は松浦氏・宮地氏とは違い、専門分野は幕末維新史ではありません。

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