2008年4月13日 (日)

明治維新と坂本龍馬

今回は、平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』(新人物往来社、1985年)という書籍を紹介します。

「坂本龍馬研究の第一人者」と言われていた平尾道雄氏の死後、雑誌や新聞などにすでに発表されていた平尾氏の文章や講演録を収めたものになります。あとがきを書いているのは広谷喜十郎氏です。

平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』に収録されている論稿を、いくつか紹介してみましょう。

まずは、大正15年に発行された雑誌『中央史壇』第79号に掲載されていた「坂本龍馬」と題された文章が、『明治維新と坂本龍馬』に再録されていることを紹介しておきましょう。この論稿は『中央史壇』第79号の特集「幕末明治人物史論」の一編として書かれたもので、坂本龍馬の小伝です。「井上道雄」の名義で執筆された、平尾氏の処女論文でもあります。

同じく、平尾氏の初期の業績の1つである、「幕末浪人運動雑観」という論文も、『明治維新と坂本龍馬』に収録されています。昭和3年に発行された『中央史壇』第97号に掲載されていたものです。幕末の浪人集団に興味を持って幕末維新史の研究を始められた平尾氏のスタンスを知る上で、面白い論文だと思います。

「岡田以蔵随考」という文章も収録されています。雑誌『日本歴史』第326号(1975年)に発表された文章で、幕末の人斬りとして有名な岡田以蔵の略伝です。非常に短い文章ではありますが、岡田以蔵の生涯を簡潔に記してくれていますので、岡田以蔵の実像を知りたい方には有益だと思います。

「龍馬と勝海舟書翰」と題された文章も、『明治維新と坂本龍馬』には収録されています。1958年発行の雑誌『土佐史談』第93号に発表された文章の再録ですが、勝海舟の庇護下にいた頃の坂本龍馬を考える上で重要な勝海舟書簡を紹介している文章です。

文久3年8月18日政変の後、土佐藩は勝海舟の庇護下にいた坂本龍馬ら土佐脱藩者に対して帰国命令を出しますが、それに対して勝海舟が、龍馬の帰国命令を猶予してほしい旨を土佐藩の江戸藩邸にいる徒目付に宛てて記した12月6日付書簡が紹介されているのです。また、それを受けて土佐藩の江戸藩邸留守居役が海舟の要求を断った拒絶書の写しと、事の顛末を江戸藩邸から土佐藩の重役に報告した書簡も紹介されています。

これらの書簡は、講談社版『勝海舟全集』の編集に携わり、勝海舟研究者として名高い松浦玲氏も原文書を読んだことがない旨を、著書『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)に記しています。その意味でも、平尾道雄氏の「龍馬と勝海舟書翰」は貴重と言えるかもしれません。ちなみに、これらの書簡は宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』(光風社、1978年)にも掲載されています。

そのほかにも『明治維新と坂本龍馬』には、『土佐史談』、『高知新聞』、『歴史読本』、『歴史と人物』、『司馬遼太郎全集』月報、『毎日新聞』、『高知県人』、『日本古書通信』、『日本公論』など、各種媒体に発表された平尾道雄氏の論稿が再録されています。どれも非常に面白いです。私は平尾道雄氏の文章が好きなので、平尾氏の執筆生活の初期から晩年に至るまでの論稿が収録されている『明治維新と坂本龍馬』という本を、重宝しています。

ちなみに、私だけかもしれませんが、平尾道雄氏が訳者として名前を連ねているマリウス・B・ジャンセン氏の『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社、1965年)と混同しそうになることがあるので、注意が必要です。

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2008年4月 9日 (水)

幕末維新史 3月刊行の個人的注目書籍

3月に刊行された幕末維新史関連書籍の中で、私がすぐに購入したのは2冊。青山忠正『明治維新史という冒険』(思文閣出版)と、原口泉『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社)

まず青山氏の新著『明治維新史という冒険』ですが、佛教大学鷹陵文化叢書というシリーズの第18冊目。同シリーズには他に、青山氏も執筆者の1人として参加されている、原田敬一編『幕末・維新を考える』などがあります。

『明治維新史という冒険』は青山氏が過去に雑誌・新聞・図録など、様々な媒体に発表してきた文章を1冊の書物としてまとめ直したものです。それらは幕末維新史の多様なテーマに及んでいます。比較的、一般向けの媒体(例えば『歴史読本』や『歴史群像』など)に掲載された文章の再録が多いように見受けられます。NHK学園の機関紙『れきし』第92号に掲載されていた「龍馬は『暗殺』されたのか」など、入手しにくい媒体からの再録が嬉しいです。

ともあれ、その目次は以下の通りです(青文字部分)。

明治維新史という冒険

Ⅰ 維新の足跡―フィールドノートより―
維新史を歩こう
京都の町並みのなかに
  桂小五郎と木屋町
  近藤勇と壬生の屯所
  徳川慶喜-京都の将軍-
  岩倉具視と幽棲旧宅
大阪のビルの陰に息づく
  橋本左内と適塾
  大久保利通と中之島
  五代友厚と商都大阪
  堺事件と妙国寺
関西近郊に足を伸ばして
  井伊直弼と埋木舎-彦根-
  勝海舟と海軍操練所-神戸-
  吉村寅太郎と天誅組-大和-
江華島の砲台―韓国―

Ⅱ 兵士と戦い
戊辰戦争と諸隊
馬関攘夷戦争
奇兵隊と四境戦争
ある奇兵隊士の処刑

Ⅲ 人と生きざま
吉田松陰―やさしい教え魔―
岩瀬忠震―辣腕外交官の憤死―
伴林光平と「南山踏雲録」
坂本龍馬と文久・元治年間の政局
龍馬は「暗殺」されたのか

Ⅳ 変動する政局
岩国と薩摩―水面下の薩長交渉―
薩長武力挙兵の勇断
長州の密使
政権奉還と王政復古
御一新と明治太政官制
草莽のゆくえ

あとがき

続いて、原口泉氏の『龍馬を超えた男 小松帯刀』。今年、同じグラフ社から『篤姫 わたくしこと一命にかけ』を刊行され、大河ドラマ『篤姫』の時代考証を担当されている原口氏による新著です。小松帯刀は一般的な知名度は低いですが、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ、あるいはそれ以上かもしれない幕末薩摩藩の逸材です。大河ドラマ『篤姫』でも重要な役割を演じるであろう小松の生涯を、原口泉氏が1冊にまとめました。

原口氏が新著の冒頭において、「小松帯刀は、坂本龍馬をはじめ西郷隆盛や大久保利通といった、巷間広く知られている幕末の英雄たち以上に、幕末史に影響を与えた人物、『龍馬を超えた男』だったのではないか」と述べています。原口氏がそれほどまでに高く評価する小松帯刀の事績を、多くの人に知ってもらいたいという願いが込められた書物です。

そのほか、まだ購入はしておりませんが、3月刊行で気になった書籍をいくつか。順不同です。

●村上泰賢編『小栗忠順のすべて』(新人物往来社)
●猪飼隆明『西南戦争‐戦争の大義と動員される民衆‐』(吉川弘文館)
●一坂太郎『幕末・英傑たちのヒーロー‐靖国神社前史‐』(朝日新書)
●安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書)


新人物往来社の『○○のすべて』シリーズは、『伊庭八郎のすべて』などのマイナーどころも出されているので、むしろ小栗忠順(上野介)は出ていなかったのかと意外な感じがしたぐらいです。

そのほか、朝日文庫版の萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の、第11巻と第12巻が出ました。11巻は『北京交渉』、12巻は『賜暇』です。

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2008年4月 4日 (金)

「人斬り」と幕末政治

笹部昌利氏に、「『人斬り』と幕末政治‐土佐山内家の政治運動と個性‐」(『鷹陵史学』第31号、2005年9月)という論文があります。その冒頭、武市瑞山をはじめとする土佐勤王党とその支持者たちの顕彰を目的に編纂された『維新土佐勤王史』を引き合いに、笹部氏は次のような指摘をしています。

日本近代に編まれた歴史書においては、幕末維新期における人間の言動はすなわち、それがいかに「皇国的」であるかに重きが置かれた。ゆえに土佐有志こそ、正義だと述べる『維新土佐勤王史』の叙述方法は決してイレギュラーなものではない。しかし、このような幕末維新に根ざした固定観念は、人物や組織それぞれの姿、形、動きのありようにベールをかけ、見えにくくさせてしまったばかりか、それぞれのオリジナリティーが捨象され、「尊王」「攘夷」というようなイデオロギーのみがひとり歩きをはじめ、そのような枠組みが政治の場に身をおいた存在を包括してしまう形となった。

笹部氏は以上のように指摘した上で、いわゆる「天誅」についても、従来はイメージで理解されていたとの認識を述べています。つまり笹部氏は、「天誅」という事象が安政大獄で同志を失った復讐心とか怨念といった遺恨的側面で起こってきたと従来から言われているけれど、そのような側面は強調し過ぎない方が良いと言うのです。笹部氏は「天誅」について、政治手段として「人斬り」という行為が使われたのだと述べます。

つまり、「天誅」事件の実行犯が岡田以蔵であったり、あるいは田中新兵衛であったりしても、それはあくまで「天」が斬った、「天」が裁いたものだという論理を、武市半平太ら土佐有志は政治手段として、自己の正当化を企図したとのことです。「天」とは万物を支配する観念です。笹部氏は次のように「天誅」を簡潔に定義しています。

「天誅」とは、人々の心理や思考のなかに芽生え始めた公共的「正義」としての「天」。これに作用するように働きかける「人斬り」を手段とした政治運動の一形態なのである。

特に安政大獄の推進者が「天誅」の対象として狙われたのは、京都の公家や町衆の中にも安政大獄が「トラウマ」としてイメージされていたためで、笹部氏によれば、「大獄関係者への攻撃はすなわち、京都で暗に形成された世論に、その政治勢力が正しいと判断させるのに十分、事足りた」からだそうです。つまり、「天」が裁くという意味合いを持つ「天誅」という名の「人斬り」を安政大獄関係者に向けることによって、「天誅」実行者たちの政治的正当性を世情に認めさせることを武市ら在京の土佐藩勢力は意識していたというのが、笹部氏の見解です。

その武市らの狙いに狂いが生じてきたのは、どうやら姉小路公知が暗殺された朔平門外の変だそうです。その事件の責任が薩摩出身の田中新兵衛に転化されたことで、薩摩藩の京都政局における影響力が後退します。それゆえ、「天誅」という名の「人斬り」は政治的駆け引きにおいて相手を追い落とすための手段になってしまい、「天」が斬ったのだという論理付けをしにくくなってしまったとのことです。

ほかにも面白いことが書かれているので、興味のある方は、笹部昌利氏の論文「『人斬り』と幕末政治‐土佐山内家の政治運動と個性‐」(『鷹陵史学』第31号)をお読みください。「天誅」と、慶応3年の坂本龍馬・中岡慎太郎の殺害事件が根本的に異なることの指摘もあります。

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2008年3月30日 (日)

HP「幕末維新史を読む」 更新情報

私が作成している別HP「幕末維新史を読む」を、少しだけ更新して、以下の文献を追加しました。

「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」に以下の文献を追加

★青山忠正『明治維新史という冒険』思文閣出版、2008年
★田中洋史「長岡出身の新選組隊士―再興長岡藩東京藩邸の風景」
『長岡郷土史』第44号、2007年
★松尾正人編『日本の時代史21 明治維新と文明開化』吉川弘文館、2004年

「中岡慎太郎についての主な研究文献」に以下の文献を追加

★高知県立歴史民俗資料館・高知県立坂本龍馬記念館・北川村立中岡慎太郎館編
『特別展三館合同企画 坂本龍馬・中岡慎太郎展‐暗殺一四〇年!-時代が求めた"命"か?‐』高知県立歴史民俗資料館、2007年

今年は戊辰戦争が勃発した年から140年、日米修好通商条約の年から150年です。それだけではなく、平成20年という節目の年ということもありまして、今年も幕末維新史について、色々と興味深い研究が出てくるのではないかと楽しみにしています。

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2008年3月 6日 (木)

「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」ほか

坂本龍馬に詳しい方ならば、龍馬と親しかった女性として、お龍だけではなく、千葉佐那を挙げる人が多いのではないでしょうか。「千葉さな子」と書いた方が、馴染み深く感じる方もいらっしゃるかもしれません。

千葉佐那はご存じの通り、坂本龍馬が剣術を学んだと伝えられる、北辰一刀流・千葉貞吉の娘です。その佐那には、明治になってから龍馬との関係などを語った談話が残されています。それは「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」という題名で、明治26年(1893年)発行の『女学雑誌』第352号に、山本節という人物が発表したものです。

この談話、存在自体はよく知られていて、明治26年の『女学雑誌』に掲載されていることは色々な書籍や、はたまた様々なHPなどに記されております。しかし、掲載されている『女学雑誌』の巻号数までは記されていない場合が多く(記してある本もあります)、発表したのが山本節という人物であることも、あまり知られていないような気がします。もう1度書いておくと、千葉佐那の談話が掲載されているのは『女学雑誌』の352号です。

ちなみに、「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」というタイトルについても、微妙に間違ったタイトルを紹介している書籍なども少なくありません。まぁ、『女学雑誌』の巻号数さえわかれば、興味のある人が千葉佐那の談話を探す分には影響ないとは思いますが、念のため。ちなみに、『女学雑誌』は1966~1967年に臨川書店から複製版が刊行されています。

その、「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」によれば、龍馬の方から佐那を嫁に貰いたい旨、佐那の父親に申し出たようです。佐那も龍馬との結婚を承諾し、「天下静定の後」に結婚式を挙げようという話になったらしいです。そして、千葉家から龍馬に短刀を贈ったものの、龍馬は千葉家に贈るに足るものがなかったため、松平春嶽から貰い受けて着古していた袷衣(桔梗の紋が付いているもの)を千葉家に贈ったとか。どこまで事実を伝えているのかはわかりませんが、ともかくそのような話が記されています。

一方で、高本薫明氏が『土佐史談』第170号(1985年)に発表した「千葉灸治院」には、佐那が語った話として、「私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし、父も坂本ならばと高知の坂本家へ手紙を出した様でした」という談話が紹介されております。

また、その「千葉灸治院」では、佐那が桔梗の紋を染めぬいた着物の小袖を持っていて、その小袖について佐那が、「之は父が坂本さんに贈る為に染めましたが国事に奔走し道場へも余り来なくなり私が切り取り形見として持っております」と語った話が紹介されています。「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」で語られている話と、「千葉灸治院」で語られている話のどちらが正しいのか、詳細は不明です。

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2008年2月15日 (金)

幕末人の肖像

発売開始からだいぶ時が経ってしまいましたが、各地の書店では現在、雑誌『歴史読本』2008年3月号(第53巻第3号・通巻825号)が発売されております。個人的に興味深い文章が色々と掲載されていました。特集は、「古写真集成 幕末人の肖像」です。

その特集に沿って、「特別セミナー/古写真研究最前線」と題して、以下の3氏の文章が掲載されています。

・斎藤多喜夫「わたしの古写真研究史」
・松本健「港区立郷土資料館所蔵古写真の現況と課題」
・林司「肖像古写真が語る世界~資料から復元される歴史」

斎藤氏は横浜都市発展記念館調査研究員。斎藤氏はご自身がどのように幕末維新期の古写真研究に取り組まれてきたかを語られ、横浜開港資料館が出している写真集も紹介しています。

松本氏は港区立郷土資料館学芸員。港区立郷土資料館で所蔵している写真コレクションのうち、特に代表的な井関盛艮(第5代神奈川県知事)のコレクションなどを紹介しています。井関は幕末期に宇和島藩士として京都で周旋活動を行っていて、井関が記した幕末期に面識を得た人物を記した史料には、高杉晋作・伊藤博文・後藤象二郎・坂本龍馬・大隈重信など、錚々たる人物たちがいたようです。

林氏は、川崎市市民ミュージアムの学芸員。博物館や美術館ではどのように資料を収集しているのかなど、一般の人ではなかなか知ることのできない情報を教えてくれています。また、一番最初に写真撮影された日本人の話も面白いです。

「特別論考」と題して、以下の論文が掲載されています。

・倉持基「明治天皇『御真影』と『フルベッキ写真』の関係性を探る」
・山下大輔「《史料発掘》龍馬から慎蔵への手紙-幕府崩壊を予見した龍馬の書翰を読み解く-」

「フルベッキ写真」については、私も今年に入ってから、「フルベッキと海援隊と『フルベッキ写真』」という記事で少し書きましたが、倉持氏の文章は、その「フルベッキ写真」と明治天皇の「御真影」の、岩倉具定・岩倉具経(2人とも岩倉具視の息子)を介しての意外な関係性・繋がりを論じておられまして、大変面白かったです。

また倉持氏は私と同様、「フルベッキ写真」に幕末維新期の有名な志士たちが多数写っているという説には否定的な見解を書かれておられます。

山下氏の論考は、昨年のTV番組で紹介されたらしい(私は見ていないので詳しくは存じておりません)三吉慎蔵宛の坂本龍馬書簡を2通、改めて紹介・分析しています。1つは慶応2年8月16日付の三吉宛書簡で、もう1つは慶応3年2月22日付の書簡です。

それらの書簡は大正期に刊行された『坂本龍馬関係文書』に活字で掲載され、宮地佐一郎氏の『坂本龍馬全集』や『龍馬の手紙』には写真版も掲載されているため、全くの新史料の紹介というわけではありません。そのため、そんなに目新しさは感じませんでしたが、改めてそれらの龍馬書簡を読むと、色々と興味深い内容が書かれているなぁと改めて感じた次第です。

そして、中岡慎太郎館の学芸員である豊田満広氏によって、中岡慎太郎が岩倉具視に宛てて出した新出書簡が紹介されています。『中岡慎太郎全集』にも収録されていないもので、日付は慶応3年9月10日。「慶応3年」とは明記されていないものの、後藤象二郎が兵力を率いずに来たことなどが記されておりますので、慶応3年のものに間違いないでしょう。短い書簡ですが、非常に興味深いです。

今回の特集とは直接関係ありませんが、桐野作人氏による連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ」第3回にも注目です。

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2008年2月10日 (日)

維新の記憶と「勤王志士」の創出

最近、高田祐介氏の「維新の記憶と『勤王志士』の創出-田中光顕の顕彰活動を中心に-」という論文を読みました。大阪歴史学会が発行している、雑誌『ヒストリア』第204号(2007年3月)に掲載されている論文です。以下、その内容紹介と感想を簡単に。

田中光顕とは、幕末期には土佐出身の志士として活動し、中岡慎太郎の陸援隊にも参加していた人物です。田中顕助という名前でご存知の方もいらっしゃるかもしれません。明治期には宮内大臣を11年間も務め、昭和14年まで生きました。

高田氏の論文は、田中が宮内大臣を務めていた時期から昭和初期までにおいて、明治維新期の志士顕彰が田中の政治活動の重要な側面だったと見て、その志士顕彰の意義を探ったものです。

高田氏の研究によれば、田中は宮中関係の仕事に就く以前から、維新志士らに対する贈位斡旋活動を行っていた可能性があるようです。そして、明治期に贈位された人物は全部で1091名いるものの、その約60%が田中の宮内大臣の任期に贈位されているとの指摘がなされています。これはもちろん、田中の宮内大臣就任期間が長かったことにもよりますが、それだけではなく、田中が宮内大臣という地位を活用して、積極的に維新の志士たちを顕彰しようと努めていたことも大きいのでしょう。

高田氏は、「贈位を通した『勤王家』像の形成あるいはその一般化」に、田中の果たした役割は大きかったと指摘しています。また、田中が特に積極的に顕彰しようとしたのが、同郷の土佐出身者と水戸出身者だったそうですが、田中は独自の判断と権限で、土佐・水戸出身者に位階の追贈を行っていた可能性もありうるそうです。

高田氏も指摘していることですが、大胆な言い方をしてしまえば、今現在、「勤王の志士」として名前を知られている人物たちは、田中光顕が顕彰すべき対象として選んだからこそ、「勤王の志士」として名前が知られるようになったのかもしれません。

ところで、高田氏の論文の中で、私が特に興味を持って読んだのは、「昭憲皇后瑞夢事件」絡みの記述。昭憲皇后瑞夢事件とは、明治37年、昭憲皇太后の夢に坂本龍馬が現われ、日本海軍を守護する旨を述べて消え、それを聞いた香川敬三が龍馬の写真を奉献したというもの。

これを香川や田中らの捏造話と見る意見もありますが、捏造とまで言えることではなく、皇后が龍馬の夢を見たこと自体は確かだろうと私は考えております。ただ、高田氏も述べているように、「何れにしても、この事件は日露戦争時の戦意高揚と宣伝に利用され、そのような意味においては政治的意味を持つ事件であった」と言えそうです。

ただ、この事件に関する注(17)の記述が気になりました。『坂本龍馬関係文書』第1巻には、上記事件が明治37年3月の『時事新報』で報道されたと記されています。高田氏もその記述を見て、『時事新報』明治37年3月の記事を探したらしいのですが、上記事件についての記事は確認できていない旨、記されています。それもそのはずで、松岡司『定本坂本龍馬伝―青い航跡』(新人物往来社、2003年)によれば、上記事件の記事が『時事新報』に掲載されたのは明治37年4月13日だったそうです。

つまり、『坂本龍馬関係文書』第1巻は何らかの理由により、明治37年4月13日付『時事新報』の記事について、間違って明治37年3月と記してしまい、高田氏も『坂本龍馬関係文書』の間違いを鵜呑みにしてしまったということなのでしょう。ちなみに、『時事新報』明治37年4月13日のことについて、私は松岡司氏『定本坂本龍馬伝』を読んで知りましたが、松岡氏よりも前に、近藤功氏(このブログにコメントしてくださったこともある鏡川伊一郎さん)が、『龍馬研究』No.119(1999年)に「『皇后の夢』の真実」と題して発表されているそうです。

ともあれ、この事件の後、「坂本・中岡没後40年祭」が皇室から祭祀料が下賜される形で開催され、坂本や中岡の遺墨が展示されたそうです。もちろん、高田氏も指摘しているように、皇室からの祭祀料下賜などには田中の周旋があったものと推察されます。そして、坂本龍馬について海軍の守護者としてのイメージが広まっていったそうですが、そこには高田氏が述べているように、「国家に引きつけた形での歴史像の創出と展開が企図」があったと見ることもできそうです。その歴史像創出の上で、志士たちの遺墨は活用されていくことになります。

田中の顕彰活動は政治の表面に出てくるものではないものの、裏面でかなり重要な働きをしていて、「勤王の志士」の確定と国民の歴史像形成の面で、影響力があったようです。高田氏の論文を拝読して、そのような感想を抱きました。

雑誌『ヒストリア』第204号(2007年3月)に掲載されている、高田祐介氏の論文「維新の記憶と『勤王志士』の創出-田中光顕の顕彰活動を中心に-」には、もっと多くの論点について詳細な分析がなされています。興味のある方は読んでみてください。

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2008年1月31日 (木)

幕末維新史 2007年の主要記事40

昨年書いた幕末維新史関連の記事のうち、特に力を入れたものや個人的にオススメしたい記事などを以下に40個ピックアップしてみました。興味のある方はぜひお読みください。

新選組にも関連のある、多摩地域・多摩出身者の近代史(1/13)

中間層論からみる浪士組と新選組(1/17)

幕末の武士は、みんな佐幕的で勤王精神あり?(1/30)

維新の変革と幕臣の系譜(2/3)

幕末英雄史観(2/9)

文久期の相楽総三(2/25)

情報戦としての将軍進発問題(3/1)

歴史家・高橋秀直氏の論文をネットで(3/8)

服部之総「新撰組」(3/25)

イギリス軍艦「イカルス」号水夫暗殺一件(4/11)

幕末の老中・阿部正外と中根雪江の会話(4/14)

長州再征と福沢諭吉(4/18)

暗殺-明治維新の思想と行動-(4/23)

龍馬暗殺事件をめぐって(5/3)

志士たちの詩<うた>(5/12)

「兵農未分離」の八王子千人同心(5/28)

公家討幕派の独自性(6/7)

幕長戦争までの伊予諸藩の動向(6/10)

『史学雑誌』回顧と展望 2006年の歴史学界(6/20)

新選組隊士 武田観柳斎について(6/30)

「龍馬暗殺」議論において軽視されていること(7/7)

孝明天皇の死因について(7/12)

王臣と陪臣と(7/21)

新選組に対する申し訳ない気持ち(7/30)

文久3年8月18日政変についての最新の研究(8/4)

草莽の志士・城多董(8/10)

山内容堂の「風流」(8/14)

天領における草莽の志士の行動と思想(8/25)

幕末維新期の山科郷士と「勤王思想」(9/7)

長州藩・小倉藩の確執と、朝陽丸事件(9/12)

幕末維新期の農民日記と新選組(9/21)

幕末中央政局における朔平門外の変(10/9)

『長州戦争と徳川将軍』の書評いろいろ(10/15)

定本 坂本龍馬伝―青い航跡(11/1)

元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募(11/8)

孝明天皇と岩倉具視(11/10)

幕末政治史研究の現状と課題(11/16)

津山藩と幕末政局(12/2)

中津川国学者と薩長同盟(12/15)

湯浅五郎兵衛と幕末維新(12/21)

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2008年1月20日 (日)

谷干城の慶応三年

『駒沢史学』第64号(2005年2月)には、小林和幸氏による「谷干城の慶応三年」という論文が掲載されています。小林氏は『谷干城関係文書』の編者の1人で、谷干城に関する論文を複数執筆されている研究者。「谷干城の慶応三年」という論文は、小林氏の、「谷干城の生涯を明らかにしようとする筆者の研究課題の一環」として書かれたものだそうです。

慶応3年の谷干城と言えば、『谷干城遺稿』上巻に収録された「慶応三年隈山詒謀録」という谷干城の回顧録を思い浮かべるところです。その回顧録について小林氏は、「史料に基づいて書かれた部分と、記憶に頼り書かれた部分とがある」と指摘して、事実関係の確定に「慶応三年隈山詒謀録」を用いる場合の注意を促しています。

その上で、「一方、谷自身が限られた情報を解釈した結果が表れたものであるので、ここには谷の認識が表出していると考えられ、谷の思想を検討するのには格好の材料とすることもできるであろう」と、「慶応三年隈山詒謀録」の谷干城研究における有効性を説かれています。小林氏の論文は「慶応三年隈山詒謀録」ほか、『谷干城遺稿』に収録された史料はもとより、新出の谷家史料も活用した上で、谷干城の慶応三年における思想・活動を分析しているのです。

個人的に興味深かったのが、慶応3年5月21日の、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と、板垣退助・谷干城らの「密約」についての小林氏の見解。この「密約」は薩摩藩側と土佐藩側が武力討幕の密約を結んだものとして、昔は「薩土討幕同盟」などと呼ばれることもあったもの。しかし、井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)や佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)はそのような見方に否定的です。

つまり、西郷や板垣が討幕について語り合ったという慶応3年5月21日の段階では、まだ西郷や大久保は武力討幕の決意を固めている状態ではなく、しかも板垣や谷も土佐藩の代表として会談に臨んでいるわけではないので、西郷や大久保は「薩摩藩と土佐藩の間で討幕の『密約』が結ばれた」とは認識していなかっただろうというのが、井上勲氏や佐々木克氏の意見。要するに、慶応3年5月21日に板垣退助・谷干城らと西郷の間で討幕について話したことがあったとしても、それを「薩土討幕同盟」とか「薩摩藩と土佐藩の武力討幕密約」とは到底呼べないということ。

しかし、西郷隆盛にとっては「密約」と呼べるほどのものではなかったとしても、谷干城にとってはそのときの「密約」が重要なものとして認識され、「以後の行動の規範となった」と小林氏は指摘しています。そのため、慶応3年6月に後藤象二郎と坂本龍馬が長崎から上京してきたことを契機にして、西郷隆盛や大久保利通との協議を経て結ばれた有名な「薩土盟約」も、谷にとっては5月の「密約」の延長線上に位置付けられるものだったとのことです。つまり、谷干城は薩土盟約を、あくまで討幕のためのものと認識していたということです。

谷干城がそのような討幕論を構想するようになったきっかけは、小林氏も先行研究と同様に、慶応3年初頭の長崎・上海行きと、後藤象二郎・坂本龍馬との長崎での接触によると述べています。また、西郷隆盛について谷干城は、5月の「密約」以来、「一貫して討幕を目指しているという強い結びつきを有する同志である」という「信念」を持っていたことも指摘されています。

小林和幸氏の「谷干城の慶応三年」は16ページの論文ですので、論点は限られたものになっていますが、谷干城や慶応3年の政治史に興味のある方ならば、興味深く読めると思います。

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2008年1月13日 (日)

フルベッキと海援隊と「フルベッキ写真」

フルベッキとは、幕末維新期の長崎で約10年を過ごし、その後も約30年間日本に住んでいたオランダ人宣教師です。フルベッキは、幕府が長崎に設立した済美館と、大隈重信や副島種臣などが中心となって佐賀藩が長崎に設立した致遠館で、日本の人々に英語などを教授していました。

そんなフルベッキの、長崎時代の交友関係を詳細に分析したのが、村瀬寿代氏の論文「長崎におけるフルベッキの人脈」(『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、2000年)です。村瀬氏は、勝海舟や横井小楠の研究で知られる思想史家・松浦玲氏の教え子にあたる研究者です。

学術論文を検索することができ、その一部をPDFで公開している「CiNii 論文情報ナビゲータ」(国立情報学研究所の提供)のことは、このブログでも何度かご紹介しました。今回の村瀬氏の論文も例によって、PDFで閲覧することが可能です。下記のリンクをクリックすれば、PDFで村瀬氏の論文が開きます。

長崎におけるフルベッキの人脈

興味のある方には上記リンクから村瀬氏の論文を直接お読みいただくのが一番なのですが、私が特に興味のあった部分だけ手短にご紹介しましょう。

済美館の学頭を務めていた時期のある何礼之(が・のりゆき)という人物は、長崎奉行の援助も受けつつ長崎に私塾を開いていました(文久4年開設)。そして何礼之はそれ以前からフルベッキとかなり緊密な交流があり、その縁でフルベッキに私塾の授業も頼んでいたようです。つまり、何礼之の私塾に入っていた人物は、フルベッキの教えをも受けていた可能性があります。

そして、何礼之の私塾の慶応元年における塾生名簿によると、郵便制度を創設した前島密や、明治4年の岩倉使節団の副使となる山口尚芳に混じって、林謙三(安保清康)や陸奥宗光・白峰駿馬・野村維章などの人名も見えます。坂本龍馬に興味ある人間としては、見過ごせない人名です。

林謙三(安保清康)は幕末期には薩摩藩海軍の一員として活躍していた人物で、坂本龍馬と親しかった人でもあります。龍馬が林謙三(安保清康)に送った書簡が何通か残っていますし、林の自伝である『男爵安保清康自叙伝』にも龍馬の話が出てきます。

陸奥宗光・白峰駿馬・野村維章の3人は、亀山社中と海援隊で龍馬と一緒に活動した人物たちです。野村は「野村辰太郎」の名前でご存知の方が多いかもしれません。彼らが何礼之の私塾に入っていたということは、フルベッキとの関わりも可能性として想定できるわけです。

特に白峰は、明治になってから同じく海援隊の隊士だった菅野覚兵衛と共に米国ラトガース大学に留学していますが、当時ラトガース大学に日本からの留学生の大部分を紹介していたのがフルベッキだったそうです。したがって、菅野にも何らかの形でフルベッキとの関わりがあるのかもしれません。それらのことから村瀬氏は、坂本龍馬や中岡慎太郎が、フルベッキとも関わりを持っていた可能性を指摘しています。

ところで、フルベッキと言えば、「フルベッキ写真」と呼ばれる群像写真の話題で名前をご存じだという方もいらっしゃるのではないでしょうか。西郷隆盛・大久保利通・伊藤博文・横井小楠・江藤新平・中岡慎太郎などなど、錚々たる人物が写っていると噂されている写真です。

私も過去の記事「ニセモノにご注意~幕末の志士の集合写真~」で、その写真について話題にしたことがありますが、村瀬氏はその写真について最も詳しく検討されている研究者です。村瀬氏の論文「長崎におけるフルベッキの人脈」は、この写真の問題も詳しく分析しています。

村瀬氏の結論を述べれば、写真には西郷隆盛や中岡慎太郎は写っていません。そもそも村瀬氏によれば、問題の写真は明治になってから撮影されたものなので、慶応3年に死んでいる中岡慎太郎が写れるはずはないのです。ただ、大隈重信・岩倉具定・岩倉具経は写っているようです。詳細について興味ある方は、村瀬氏の論文をお読みください。下記のリンクから読むことができます。

長崎におけるフルベッキの人脈

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2007年12月29日 (土)

年末なので

2007年も残すところ、あとわずか。小休止ということで、過去記事をご覧ください。

ディズニー関係オススメ過去記事30

思い入れがある歴史記事10個

2005年に書いた歴史系記事、厳選20

2005年に書いたディズニー系記事、厳選20

2006年 オススメ記事50

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2007年12月15日 (土)

中津川国学者と薩長同盟

なかなか入手しにくい冊子ですが、中山道歴史資料保存会が発行している『街道の歴史と文化』第5号(2003年)には、宮地正人氏の「中津川国学者と薩長同盟‐薩長盟約新史料の紹介を糸口として‐」という論文が収録されています。

近年、いわゆる薩長同盟をめぐる議論が盛んでした。その議論の発端ともなった論文「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』557号、1986年)を公にしたのは青山忠正氏でしたが、青山氏は薩長同盟を軍事同盟もしくは攻守同盟と呼ぶのは誤りであるとの意見を主張し、それは青山氏の著書『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)でも変わらず主張されています。

そのような研究状況を鑑みつつ、宮地氏は冒頭で紹介した論文において、薩長同盟に関連する新史料を紹介して、薩長同盟をめぐる議論に一石を投じたのです。宮地氏が紹介した史料とは、京都の染物商・池村久兵衛邦則が中津川の平田国学者たちに宛てた書簡(慶応元年12月26日付)。池村の書簡に記されていたのは、大宰府に赴いた後に帰京した水戸藩士が池村に語った内容です。水戸藩士たちは大宰府訪問の後、下関で薩摩藩士・黒田了介(清隆)に会っていて、水戸藩士たちが京都で池村に話した内容は、その黒田から聞いた話。

黒田が語った内容は、西郷隆盛の内意で、以下のような内容。京都で薩摩の兵士が挙兵して、いわゆる一会桑を踏み潰し、それを機に長州藩も挙兵して、幕府軍がその頃まで上方に滞在していれば、一会桑だけでなく幕府軍も攻撃対象となるというもの。黒田は以上の戦略を西郷から聞き、その戦略を相談するため、木戸孝允の上京を促しに下関に来たことを水戸藩士たちに語ったらしいのです。黒田は確かに、京都での薩長首脳会談実現のため、木戸孝允の上京を促しに下関に来ていて、実際に木戸は黒田と一緒に上京することになりますので、池村書簡に書かれた内容もそれなりに信用できそうです。

上記の新史料を紹介しつつ、宮地氏は薩長同盟に軍事同盟の要素が強かったことを主張されているのです。私も、薩長同盟には軍事同盟・攻守同盟の要素があったと思っています。ただし、宮地氏も述べているごとく、軍事同盟・攻守同盟だからと言って、即座にそれを「討幕を目指したもの」と理解することには反対です。

興味のある方は、『街道の歴史と文化』第5号に掲載された宮地氏の論文をお読みください。

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2007年12月 8日 (土)

明治維新と福岡孝弟

雑誌『土佐史談』第118号(1967年11月)に、平尾道雄氏の「明治維新と福岡孝弟‐小御所の会議と五箇条の誓文について‐」という短い文章が掲載されています。その文章の冒頭で、平尾氏は次のように述べています。

明治の政界で、代表的な土佐人を挙げるならば板垣退助と後藤象二郎、それに日本主義を唱えて政府の欧化政策にまっこうから反対した谷干城を見落とすことはあるまい。ところで、これに劣らぬ実力者福岡孝弟を見送っている人が案外多いのではあるまいか。

福岡孝弟は「福岡孝悌」とも表記される人物で、幕末期の史料には通称の福岡藤次の名前で出てくる人物です。確かに平尾氏が言うように、福岡の名前は世間一般にはあまり知られていないと私も思います。しかし、例えば幕末期においても福岡孝弟は後藤象二郎や坂本龍馬と一緒に大政奉還の実現に向けて活躍した人物なので、軽視することはできません。

また、平尾氏は福岡孝弟について、「明治維新と福岡孝弟‐小御所の会議と五箇条の誓文について‐」の中で以下のようにも言っています。

各種の建議書を見て、その思想や学問がはるかに後藤、板垣以上のものがあったらしいと感じていた

私は幕末の土佐藩、特に慶応3年の大政奉還運動に興味を持っておりますので、福岡孝弟の存在は気にしておきたいところです。ちなみに、平尾道雄氏の「明治維新と福岡孝弟‐小御所の会議と五箇条の誓文について‐」(『土佐史談』118号)は、平尾氏自身の考察よりも、福岡孝弟の回顧録を紹介する部分の比重が大きいです。

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2007年12月 4日 (火)

HP更新情報と、最近の個人的注目書籍

11月に発売された幕末維新史関連書籍のうち、個人的に気になったものをいくつか紹介。

まず、保谷徹『戦争の日本史18 戊辰戦争』(吉川弘文館)。これは、原口清・石井孝・佐々木克・工藤威といった、戊辰戦争についての代表的な研究者の研究を踏まえながら、軍事史の視点から戊辰戦争を考察したものです。

それと、同じく吉川弘文館から刊行された、伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』第3巻も気になっています。

新人物往来社から発売された、鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』と、徳永和喜『天璋院篤姫-徳川家を護った将軍御台所-』も気になるところ。

鈴木氏は日本中世史を主に専門とされているそうですが、横須賀市(晩年のお龍が住んだ土地)からお龍に関する史料の調査を頼まれて、お龍の調査研究に入っていかれたとのこと。徳永氏は『薩摩藩対外交渉史の研究』(九州大学出版会、2005年)という著書をお持ちの研究者です。

そして、『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄-』の著者として知られる研究者・萩原延壽氏の過去の著書をまとめた、『萩原延壽集』(朝日新聞社)の刊行が始まりました。その第1冊目は『馬場辰猪』です。萩原氏の最初の著書『馬場辰猪』(中央公論社、1967年)をベースに、付録に初公表のものを含む数篇の論稿を収録しています。

『萩原延壽集』は全7冊で、毎月1冊ずつ刊行されるそうで、次回は『陸奥宗光』上巻、そしてその次が『陸奥宗光』下巻です。萩原氏の『陸奥宗光』上下巻(朝日新聞社、1997年)をベースにしたものになるようですが、萩原氏の陸奥宗光研究は定評があるので、楽しみです。

以下、HP「幕末維新史を読む」の最近の更新情報。
「幕末維新史の中で新選組を考えるための研究文献」のページに、以下の3つの文献を追加。

・青山忠正監修『湯浅五郎兵衛と幕末維新』日吉町郷土資料館、2005年
・友田昌宏「幕末政治研究の現状と課題」『歴史評論』第691号、2007年
・保谷徹『戦争を読む18 戊辰戦争』吉川弘文館、2007年

「薩長同盟についての主な研究文献」のページに、以下の文献を追加。

・葦津珍彦「薩長連合の政治史」
『「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ2 永遠の維新者』葦津事務所、2005年

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2007年11月20日 (火)

龍馬の影を生きた男

坂本龍馬ファンならば、近藤長次郎という人物をご存じでしょう。「饅頭屋」という愛称で知られる人物で、上杉宋次郎という名前も使っていました。龍馬と同様に勝海舟に学び、次いで亀山社中に所属して薩摩藩と長州藩の提携に向けて尽力するも、切腹して死んでいった人物です。

彼の切腹について、坂本龍馬の妻だったお龍の回顧談によれば、「おれがおったら殺しはせぬのじゃった」と龍馬が残念がっていたということです。『坂本龍馬全集』所収の「千里駒後日譚」に載っている話で、明治32年にお龍が語った話です。

その近藤長次郎には、15年前に刊行された伝記があります。吉村淑甫『近藤長次郎』(毎日新聞社、1992年)です。「龍馬の影を生きた男」というサブタイトルが付けられています。このサブタイトルは毎日新聞社の編集者の発案だそうですが、長次郎の生涯を的確に評した言葉のように思います。

長次郎は、薩長の提携に向けて、かなりの努力をしていました。その長次郎の活躍について、松岡司『定本 坂本龍馬伝』(新人物往来社、2003年)は、「薩摩への密使は長州藩の浮沈にかかわるまことに重大な役割で、これを長州藩父子から、また社中からまかされた長次郎という人物がいかに大きな存在だったか、この一事でわかる」と評しているほどです(344ページ)。

近年、歴史家の高橋秀直氏が、薩長同盟について衝撃的な新説を発表しました。通説では慶応2年1月とされている薩長同盟の成立日は、それよりも数ヶ月早い、慶応元年9月8日だと主張されたのです。その根拠は、薩摩藩主父子に宛てた長州藩主父子の書簡が慶応元年9月8日で、藩主の名による意思表示だからというものです。

実は、その長州藩主父子の書簡を薩摩藩に届けたのが、「龍馬の影を生きた男」たる近藤長次郎なのです。高橋秀直氏の説が正しければ、近藤長次郎は坂本龍馬以上に、薩長同盟成立の決定的場面において重要な働きをしたということにもなりえます。

ただし、桐野作人氏の高橋説への反論にもあるように、長州藩主父子の書簡が薩長同盟という重要な案件を扱ったものであるのなら、それを浪士である長次郎が使者となって薩摩藩主父子に届けていること自体、問題視すべきだと私も思います。重要であるならば、浪士の長次郎ではなく、正規の長州藩士が使者になるべきだと思います。

いずれにしても、薩長の提携に向けて、近藤長次郎がそれなりに活躍したことは事実だと思います。龍馬の功績ばかりが喧伝されているがために、長次郎が「龍馬の影を生きた男」のように見えるという面もあるような気がします。高橋秀直氏の説を肯定するにせよ否定するにせよ、長次郎の活躍を正当に評価して判断する必要はありそうです。漠然とした今の気持ちですが。

<参考文献>
・桐野作人「薩長同盟研究最新動向‐同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?‐」
(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
・高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)
・松岡司『定本 坂本龍馬伝‐青い航跡‐』(新人物往来社、2003年)
・吉村淑甫『近藤長次郎‐龍馬の影を生きた男‐』(毎日新聞社、1992年)

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2007年11月 1日 (木)

定本 坂本龍馬伝―青い航跡

松岡司『定本 坂本龍馬伝―青い航跡』(新人物往来社、2003年)は、雑誌『歴史読本』に連載された文章を1冊にまとめたもので、950ページに及ぶ坂本龍馬の伝記。最新の龍馬研究の動向(もちろん、出版された段階でのもの)も踏まえて叙述された力作です。坂本龍馬に興味のある方なら、とりあえず読んでみて損はない著作だと思います。最近、読み返してみました。

読んでいて共感できたのは、薩長同盟仲介以後の龍馬に関する、以下の記述。おおむね、私の認識と同様で、納得できるものでした。赤文字で引用してみます。

龍馬への幕府の対応は、用兵建白を基本としていたはずである。龍馬は慎太郎とともに薩長同盟を成立させた。新しい日本をつくるための布石で、したがってこのあと生じた薩長路線とか土佐路線とかは問題の本質ではない。しいて言えば、薩長土三藩の協力による新しい日本づくりが最良だった。そしてその最良の策にいちばん近いものが、武力をうしろ盾とした大政奉還建白策だった。いわば薩長路線と土佐路線の中道といえ、これが実現してこそ三藩の協力がなる。
(754ページ)

また、龍馬殺害の近江屋事件の犯人についても、実行犯を見廻組とすることは当然として、見廻組の佐々木只三郎に指令を下した人物のラインを会津藩主・松平容保―手代木直右衛門と想定しているのも、もっとも妥当な判断だと私には思えます。そのほかの説について否定的に述べている次の記述も、納得できるものでした。

 龍馬暗殺についてはこのほか、土佐藩へ身柄をうつされた宮川助五郎の一味といった内紛がらみの見方や、あるいは薩摩のしわざだろうといった情報がないでもない。しかしいずれも第三者的藩の風聞報告にすぎず、とてもそのまま採用はできない。
 数年前に京の井口家が世にだした新海援隊士佐佐木多門の書状が、薩摩黒幕説の史料のように解釈されている。奇妙な見方で、ふつうに読めば犯人探索にたいする薩摩の好意的な処置を述べているとしかとれない。

(869ページ)

そのほか、松岡氏の著書の大きな特徴の1つとして、松岡氏が「あとがき」で述べているように、「執筆にあたっては、まず既存史料集の史料批判に留意してあらためて年次を特定している」(913ページ)ことが挙げられます。『坂本龍馬関係文書』や『坂本龍馬全集』などに収録されている龍馬書簡のうち、いくつかの年次を訂正しています。

ただその際、年次比定の考証を詳しく書かず、『坂本龍馬全集』などの年次が間違っていると述べるだけの部分が少なくないように感じました。もう少し、詳しい考証過程を記してほしかったと思います。また、もう1つ欠点を挙げるとすれば、幕末維新史の最新の研究成果が反映されていないように感じる部分があったことです。

しかし、950ページの力作なので、非常に読み応えがあります。龍馬に関する史実において、あまり知られていないことも掘り起こしているので、龍馬に興味ある方なら興味深く読める著作だと思います。

ちなみに松岡司氏は、高知県佐川町立青山文庫の館長をされている方。そのほかの著書として、『武市半平太伝―月と影と』(新人物往来社)や『中岡慎太郎伝―大輪の回天』(新人物往来社)などがあります。また青山文庫とは、土佐出身の志士で宮内大臣を務めた田中光顕の寄贈コレクションを中心に、多数の幕末維新史関係資料を所蔵・展示している施設です。

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2007年9月25日 (火)

「幕末維新史を読む」 更新

HP「幕末維新史を読む」を更新しました。

まず、「薩長同盟についての主な研究文献」を公開しました。青山忠正氏や芳即正氏、あるいは三宅紹宣氏や宮地正人氏など、薩長同盟(あるいは薩長盟約)に関する研究文献の中で主要と思われる研究者の著書・論文はしっかり掲載しております。主要とは言えそうにないものでも、薩長同盟を大きく取り上げているものは、なるべく掲載しています。

それから、「中岡慎太郎についての主な研究文献」のページにも、文献を2つほど追加しました。井上清氏の「戦闘的民族主義者中岡慎太郎」(『歴史と人物』1978年4月号)と、寺尾五郎『薩長連合の舞台裏』(復刻版『中岡慎太郎と坂本竜馬』)の2つです。

興味のある方は、ご覧になってみてください。

HP「幕末維新史を読む」

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2007年8月18日 (土)

HP「幕末維新史を読む」 開設

以前、「新選組関連の研究文献をリスト化する構想」という記事で予告していた、このブログとは別のHPを開設してみました。タイトルは「幕末維新史を読む」で、トップページのURLは下記となります。HPのデザインなどはあまりこだわっていません。作りかけでもありますし。

http://tosatoad.web.fc2.com/index.html

上記の過去記事でお約束していた通り、まずは新選組の関連文献のリストを公開してみました。新選組の関連文献とは言うものの、新選組に直接言及したものばかりでなく、例えば石井孝『戊辰戦争論』(吉川弘文館、1984年)ですとか、梅溪昇『高杉晋作』(吉川弘文館、2002年)ですとか、新選組を直接メインに扱っているわけではない文献も多数掲載しています。

何故そのようにしたかと言えば、「野口武彦『新選組の遠景』読了。新選組中心史観への批判」という過去記事で述べた、野口武彦氏の指摘による「新選組中心史観」を強く意識したからです。新選組ファンの多くは天動説で、新選組の内部ばかりに目を注いでいるが、新選組の真の姿は新選組ばかり見ていたのではわからないという指摘です。

要するに、新選組を取り巻く時代状況や政治状況、あるいは新選組が関わった人物・組織のことや、直接関わりがなくても敵対していた政治集団のリーダーのことなど、色んなことに目配せできた方が、新選組そのものの理解も深まろうというものです。例えば池田屋事件を考えるにしても、新選組のことばかりではなく、当時の長州藩が置かれていた政治状況や池田屋に集まった志士たちについて、詳しく知るべきだと思いますしね。

それは何も新選組に限ったことではないのですが、野口武彦氏が言うように、新選組の場合は特に注意が必要なようですので、あえて新選組に言及していない文献もたくさん紹介しました。そのため煩雑になっているかもしれませんが、ご理解いただければ幸いです。

また、リストは暫定的なものですので、今後も更新し続けることになると思います。新しいものでも古いものでも、私が新たに知った文献を追加していくことになろうと思います。

それから、新選組以外の各組織や各人物、あるいは各事件や各テーマに関する文献も、随時リスト化して掲載していこうと考えていて、ただ今準備中の状況です。特に幕末政治史について興味ある方のお役に立てるような文献リストを掲載していこうと思います。興味のある方は、ご覧になってみてください。

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2007年7月 7日 (土)

「龍馬暗殺」議論において軽視されていること

私が坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された近江屋事件の犯人について、どのような考えを持っているのかは「龍馬暗殺事件をめぐって」という過去記事を読んでいただくとして、この記事では、龍馬暗殺事件において、議論をする上で重要なはずなのに、何故か軽視されていることと思われることを述べてみたいと思います。

まず、近江屋事件の犯人・黒幕についての議論ですが、学界に所属する歴史研究者の間では、決して活発に議論されているとは言えない状況です。歴史学界では、近江屋事件の犯人は見廻組で、薩摩藩や土佐藩が関与した可能性はほとんどないということで、ほぼ意見の一致を見ていると思われるからです。近江屋事件を「幕末最大のミステリー」などと呼ぶ人がいますが、歴史学界ではそのような認識を持つ人は少数派だと思います。

近江屋事件の犯人・黒幕の議論を盛んにしているのは、在野の研究者や作家・評論家、あるいは一般の歴史ファンです。そこでは、専門の歴史研究者が重視するような歴史学の学問スタイル・作法から離れて、自由な発想での議論が展開されているように見受けられます。それゆえにこそ、歴史研究者が議論をする上で重視することが、軽視されている傾向があるようなのです。私は、そこに問題を感じるのです。

まず、私が問題だと感じることの1点目は、先行研究の軽視です。龍馬暗殺の議論において、たいていの場合は政治的な要因・動機から黒幕探しが行われているようです。それならば、幕末政治史の最新の研究成果を参照しつつ議論を進める必要があるのではないかと思うのですが、どうも龍馬暗殺の議論に熱心な方々の大半は、その意識が希薄なようです。

近江屋事件が起きたのは慶応3年ですが、この慶応3年の政治史については、近年かなり研究が進展し、議論も深化してきました。歴史学者の青山忠正氏は、著書『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2005年)の中でそれを指摘しつつ、慶応3年政治史についての近年の重要な成果として、以下の文献を紹介しています。

・青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)
・家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)
・家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館、2004年)
・井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)
・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)

・高橋秀直「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」(『日本史研究』457、2000年)
・高橋秀直「王政復古への政治過程」(『史林』426、2001年)
・高橋秀直「『公議政体派』と薩摩倒幕派」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年)
・高橋秀直「王政復古政府論」(『史林』437、2003年)
・原口清「王政復古小考」(『明治維新史学会報』37、2000年)

(※高橋秀直氏の4つの論文は、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』<吉川弘文館、2007年>に再録。また、原口清氏の論文は、今年秋に刊行される『原口清著作集2 王政復古への道』<岩田書院>に再録予定)

青山忠正氏が紹介した以上の文献は、確かに慶応3年政治史を語る上で重要なものばかりです。龍馬暗殺の議論に熱心な方々は、上記の文献をどれぐらい読んだ上で、自身の議論に反映させているのでしょうか。

学問研究は先人たちの研究の積み重ねを批判的に継承した上で行う以上、先行研究を無視して研究を進めることはできません。龍馬暗殺に政治的要因を求めるのであれば、慶応3年政治史の研究成果を参照して議論を進めるのが当然でしょう。しかし、龍馬暗殺の議論に熱心な方々から、その意識を感じ取れることが少ないです。

2つ目の問題点として、史料批判が軽視されていることが挙げられます。歴史学においては史料批判がもっとも重要だと言う人がいるぐらい、史料批判は重要な作業です。要するに、すべての史料が同じ価値を持つわけではなく、「この史料は比較的信頼できる」とか、「この史料はほとんど使い物にならない」とか、史料によって研究に使えるものと使えないものがある、いわば玉石混交なのだということを知っておく必要があります。それを意識して、史料は批判的に読むべきなのです。

信頼度という面で言えば、事件から何十年も経ってからの回想よりは、事件直後に記された日記や書簡(つまり同時代の史料)の方が、信頼度が高い場合が多いと言うことができます。また、同じく同時代の史料とは言っても、事件を又聞きした人間が書いた日記