2007年6月18日 (月)

『大日本編年史』と「客観的な歴史」

歴史が物語だという場合にも二通りの立場がある」。この言葉は、日本近代史研究者の小路田泰直氏が、著書『「邪馬台国」と日本人』(平凡社新書、2001年)の中で述べているものです。以後、色付きで表示された文字は小路田氏の著書からの引用です。

小路田氏が言う二通りの立場とは、以下の二つになります。

① 客観的な歴史は確かに存在するが、それを、どこまでも主観的な存在である我々人間が認識するためには、主観的な作業仮説を積み重ねていくしかないという意味で歴史は物語だという場合

② 歴史を、書く人の主観によって文字通り自由に描かれた文学作品同様の物語として捉えて物語という場合

小路田氏は、①を「客観的な歴史」と命名し、②を皇国史観が属する立場だと言います。近代の日本が公式に採用したのは、②の立場でした。①の立場は、『古事記』や『日本書紀』の神代の箇所の記述を安易に史実とは認めませんし、天皇家の「万世一系」にも否定的な立場です。②はその逆です。

ところが意外なことに、維新直後の明治政府が正史として編纂しようとした『大日本編年史』は、②の立場ではなくて、①の「客観的な歴史」の立場を採用していたそうです。その事業の編纂を担当した人たち(重野安繹、久米邦武、星野恒など)には、「『朝廷一家の歴史』や『政府官員の履歴』を書くのではなく、全国・全国民の歴史を書くこと、つまり『国民史』を書くという意図」と、「歴史を『名教』(道徳)や『物語の弊風』から解き放ち、どこまでも事実に基づいて書くという意図」、そして「日本の歴史を一つの文明史として描くという意図」があったのだと、小路田氏は述べています。

特に重視されたのが2つ目の、事実のみに基づく意図だったそうです。だからこそ例えば、『太平記』に書いてある記述でも古文書での裏づけがとれないものは、史実ではないとして排除したりしていたそうです。確かに、「客観的な歴史」を書こうという意欲が窺える事例です。その後の日本政府の歩みから考えると、意外な印象を受けます。

では何故、明治政府は「客観的な歴史」を書こうと試みたのでしょうか。その疑問に対して、小路田氏は次のような回答を示しています。

国民に歴史を自由に鳥瞰して、自力で自らの歴史観=道徳を構築してもらおうとしたからであった。そのためには歴史それ自体が「名教」を語る物語であってはいけなかった。なぜならば歴史を教訓にして物語をつくるのは、あくまで読み手の国民一人一人の方だったからであった。
 一言で言うと、早晩生まれ出ずるべき立憲国家を支えていけるだけの国民の創出に関わろうとして、あえて「客観的な歴史」を書こうとしたのである。

ところが、「客観的な歴史」を書こうと試みた『大日本編年史』の編纂事業は、途中で中止させられてしまいます。中止させたのは、第二次伊藤博文内閣の文部大臣・井上毅だそうです。どうして、明治政府の方針は変わってしまったのでしょうか。小路田氏は次のように述べます。

明治二〇年代に入ると、国家の歴史を書く目的が、人類史とか文明史とかいったレベルの歴史を日本史を素材に書く―言い換えると日本史の中に普遍史を見出す―ことから、日本の個性、日本の特殊性をむしろ積極的に描くことに大きく変わった。その結果、『大日本編年史』の編纂は中止させられてしまったのである。

最初の頃は、日本が独立国にふさわしい文明国だと証明することが、歴史を書くことの目的の1つとされ、そのために普遍化された文明国の指標を用いようとしていたにもかかわらず、次第に普遍化された文明国の指標を利用することではなく、日本文化の特殊性・固有性といった民族的個性が強調され、「万邦無比の国体」などの言葉が使われるようになってきた事情があるようです。

そのため、「客観的な歴史」を書こうとする勢力ではなく、物語的な歴史が重視されるようになってしまったそうです。日本文化の固有性を証明するために物語的歴史が採用されたのは、「客観的な歴史」の立場で事実と見なせるものの中に、中国などの外来文化の影響を受けていない日本固有のものが見出せなかったからだと、小路田氏は述べます。

要するに、中国文化が入ってくる前の神話の時代(「客観的な歴史」の立場では事実と認めない時代)を歴史に組み込む物語が、日本文化の固有性を主張するために必要になったわけです。それが皇国史観に結び付いていくわけですね。

この「客観的な歴史」から物語的歴史が主流になるまでの過程は、戦後の歴史学にも大きな影響を与えていると、小路田泰直氏は見ています。詳しくは、小路田泰直氏の著書『「邪馬台国」と日本人』(平凡社新書、2001年)をお読みください。この本は、明治以後の邪馬台国の論争を古代史上の論争ではなく、日本近代史上の論争と見て、日本の史学史を追及したものです。邪馬台国論争などを事例に、近代日本の歴史家たちが抱えた歴史叙述・歴史認識の問題を論じています。

なお、ここでは小路田泰直氏『「邪馬台国」と日本人』から引用を行いましたが、『大日本編年史』についてより詳しいことは、小路田泰直氏の論文「日本史の誕生―『大日本編年史』の編纂について」(西川長夫・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』柏書房、1999年に収録)を参照してください。

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2007年5月10日 (木)

なぜ東京ディズニーランドは人気があるのか。

好き嫌いは別として、日本で「ディズニー」という言葉、あるいは「ディズニーランド」の存在を全く知らない人は、物凄く少数派だと思います。それだけに、大学の学者が「ディズニー」あるいは「ディズニーランド」を研究対象にして学術論文を書くことも、しばしばです。

そうした成果は、一般にはあまり知られてはいませんが、中にはネット上で閲覧可能なものもあります。この記事では、それら学者がディズニーを研究対象として書いた論文のうち、インターネット上で無料閲覧可能なものを、いくつか紹介してみたいと思います。

まず最初。筑波学院大学の教授である岩田隆一氏には「なぜ東京ディズニーランドは人気があるのか。‐サービス・マーケティングからの分析‐」という論文があります(この記事のタイトルとしても借用しました)。昨年刊行された、『筑波学院大学紀要』第1集に収録されたものです。

『筑波学院大学紀要』の入手は容易ではありませんが、ありがたいことに、岩田隆一氏の上記論文は、国立情報学研究所のコチラのページから、PDFで閲覧することができます。コチラのページに飛んでいただいて、右上の「CiNii PDF」もしくは「Full Text」と書かれた部分をクリックしていただければ、PDFが開きます。

岩田氏の論文の目的は、論文タイトルに示されている通りです。まず最初に岩田氏は、東京ディズニーランド(TDL)が国内の他のテーマパークに比べて、抜きん出た売り上げを示していることを紹介します。

そして、そのような現象をもたらした要因として岩田氏が重視するのが、「Product」と「Personnel」という、サービス・マーケティング理論上の2つの概念です。その結論として岩田氏は、「TDLの強さはサービス・マーケティングの基本理論を忠実に実践し、顧客満足度を高いレベルで維持しているためである」と述べています。

次に紹介するのは、山口大学の教授である河村誠治氏の、「東アジアの経済発展と香港ディズニーランドの開園」という論文です。『東亞経済日報』64巻1号(2005年)に収録された論文で、国立情報学研究所のコチラのページから閲覧できます。

河村氏は、香港ディズニーランドの開園を東アジア経済の観点からどのように評価できるのか、また香港ディズニーランドの開園は東アジア経済にとって何を意味するのか考察しています。

結論として、「香港ディズニーランドの2005年開園は、単なる観光領域における個別企業の開業などではなく、東アジア経済とくに中国経済の発展によって追い詰められた香港政府の官業の始まりであり、香港および東アジアの発展が『市場』と『計画』を同時に要求するものであった」と述べられています。

三つ目は、白鴎大学の教授である藤井健氏の論文です。『白鴎大学論集』19号(2004年)に、「コンテンツ・ビジネスの異文化適応戦略‐ウォルト・ディズニー社の事例‐」という論文が収録されています。この論文についても、国立情報学研究所のコチラのページから閲覧することが可能です。

藤井氏は、近年注目されているコンテンツ・ビジネスの先駆け・代表格としてディズニー社を取り上げ、ミッキーマウスがどのように世界中で認知されるようになったのか、そしてまたディズニー社が提供するコンテンツが国際化する中で、ディズニー社はどうやって異文化の壁を乗り越えてきたのかを考察しています。

『青山学院女子短期大学紀要』57号(2003年)に収録された、前之園幸一郎氏(青山学院女子短期大学教授)の論文「人間へのはるかなる旅‐『ピノッキオ』の可能性‐」では、原作との対比においてディズニー映画『ピノキオ』の問題点が指摘されています(コチラから閲覧できます)。

論文なので難しい内容も含んでいますが、興味のある方は読んでみても良いのではないでしょうか。とりあえず、「ディズニー」も学問研究の対象として取りあげられているのだという点だけ、私は指摘しておきます。

なお、ここで紹介した論文のほかにも、国立情報学研究所のサービス「CiNii 論文情報ナビゲータ」で、「ディズニー」などのキーワードで検索すると、閲覧できる論文がいくつか出てきます(有料のものもありますので、ご注意ください)。

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2006年9月20日 (水)

安倍晋三氏と憲法改正の話

安倍晋三氏が、新しい自民党の総裁に決まりましたね。それも、大差で。同時に、日本の新しい総理大臣が安倍氏になることも、ほぼ決まったわけです。私の個人的な好みで言えば、安倍氏はあまり好きではありません。安倍氏は憲法改正の重要性を盛んに訴えていますが、現在の日本国憲法はそこまで声高に主張してまで改正しなければならないものなのか、私には疑問だからです。他に、もっと重要なことはいくらでもあるような気がするのですが。

憲法改正の話になると最大の論点になるのは、やはり戦争放棄を謳った九条でしょう。私の個人的な立場を言えば、九条はなるべく維持した方が良いと考える立場です。戦争なんて、やらなくて済むならそれが一番いいと思うからです。戦争を放棄するに越したことはないと思うのです。もちろん、こちらにやる気がなくても、周辺諸国から攻撃される可能性はあるはずだと言う人もいるはず。実際、そのような事態はありえるでしょう。でも、別に他国から攻撃されたって、今の憲法のままでも充分に対応できそうな気がしています。今の憲法のままで、自衛隊は完全に安全だとは言い切れないイラクに派遣されて、自衛隊員は身を守る際の武器使用を認められています。私は、今の憲法でイラクに自衛隊が派遣できてしまうのはおかしいだろうと考える立場ですが、とにかく現実にはそれが行われています。それならば、日本が他国に攻撃されたときも、自衛のための武器使用ぐらいはできるでしょう。そう思うので、別に九条を改正する必要はないのではないかと感じるわけです。

仮に、私が上記で述べたことが完全に間違い、もしくは私の単なる思い込みで、今の憲法のままでは日本が他国に攻撃されたときにはなす術が全くないのだとしたら、日本の安全を考えて多少の改正は必要なのかもしれません。でも、別に集団的自衛権の行使を可能にする必要は全くないと思います。集団的自衛権の行使が可能になると、日本が直接的には攻撃されていなくても、例えば同盟国のアメリカが攻撃された場合などに、アメリカに協力して日本も戦争に参加できるようになります。私は、基本的にあらゆる戦争はやらないで済むならそれが一番だと思っているので、日本が攻撃されていなくても日本が戦争に参加できるような集団的自衛権の行使は、憲法に盛り込んでほしくありません。そんなことよりも、どうしたら日本があらゆる戦争に加担しないで済むか、むしろその方法を検討していただきたいです。

大体、安倍氏は何故そこまで憲法を改正したがるのでしょうか。私は、憲法というのものは、国民が国を縛るものだと思っています。安倍氏は縛られる側の人間のはず。私には、安倍氏が、「今の憲法は国を縛りすぎだ。これでは自分のやりたいことができない」としか考えていないような気がします。とりあえず安倍氏には、総理大臣になるからには、安倍氏の「やりたいこと」が、国民の多くが望むことと一致しているかどうか、よく考えて行動していただきたいと思っています。もちろん、それは安倍氏に限ったことではありませんが。

また、安倍氏には、日本国憲法はアメリカに押し付けられたものだという認識があるのかもしれません。日本国憲法にはもともと、明治の私擬憲法(植木枝盛など)以来、日本人が考えてきた憲法構想がまとめられて完成したという面があります。必ずしも、アメリカが勝手に考えて勝手に作ったわけではありません。日本人の憲法草案が、GHQに影響を与えたという面があります。それならば、今の憲法を押し付けた側にいるのはアメリカだけではなく、日本国民も入るということになるでしょう。日本政府は日本国憲法を押し付けられているのかもしれませんが、日本国民は必ずしも押し付けられていないのです。憲法は国民が国を縛るものですから、日本国民が政府に押し付けたような形になっているのは、むしろ良いことではないでしょうか。

安倍氏は日本を「美しい国」にしたいそうですが、安倍氏はどのような国を「美しい」と思っているのか、私にはよくわかりません。私に言わせれば、アメリカと一緒に戦争する国を、とうてい「美しい」とは思えないのですが。憲法改正すれば「美しい国」に近づくのだと安倍氏は思っているのでしょうか。私はむしろ、今の日本国憲法に明記された理念や理想がすべて実現された国の方が、よほど美しいような気がします。もちろん、今の日本が日本国憲法の理念や理想が実現された国だとは思っていません。「美しい国」を作りたいなら憲法改正ではなく、今の憲法の理念をすべて実現させてみたらどうでしょうと言いたいところです。

以上、安倍氏が自民党の総裁に決まったと聞いて思いついたことを、まとまりもなく述べてみました。

<参考文献>
・古関彰一『新憲法の誕生』中公文庫、1995年
・田中彰『小国主義』岩波新書、1999年
・小西豊治『憲法「押しつけ」論の幻』講談社現代新書、2006年

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2006年8月20日 (日)

原武史『皇居前広場』

原武史『皇居前広場』(光文社新書、2003年)を読みました。なかなか興味深い本でした。私は皇居前広場には行ったことがありませんし、どのような場所なのか、あまり知りませんでした。しかし、原武史氏が本文中で、恐らく日本人なら皇居前広場の存在は知っているはずだと指摘しているように、私も存在そのものは確実に知っていました。

皇居前広場についての研究はあまり多くないそうですが、原氏の著書を読んだ結果、あまり研究されていないのは勿体ない場所だと感じています。まず、皇居前広場の研究意義・研究方法について、原氏の言葉を引用してみます(引用は赤文字で行います)。

皇居前広場は、近代天皇制や象徴天皇制の支配のかたち、あるいは「明治」や「大正」とは異なる「昭和」の、そして戦後占領期や戦後独立期の思想を探るための、絶好の定点観測点になるはずであり、政治学者がもっと関心をもってよいテーマだと考える。本書では、建築学の成果を大いに参考にしながらも、筆者の専攻する政治思想史の視点から、広場が現れる明治中期から現在に至るまでの記憶を掘り起こし、この間に広場で行われたさまざまな儀礼や集会を見てゆくことにする。
 本書は
(中略)特定の政治空間を主人公として描く近現代日本思想史の試みである。大げさに言えば、建築学のこれまでの成果に政治学を融合させた「空間政治学」の試みと言い換えてもよいかもしれない。(15ページ)

また、原氏が皇居前広場の研究を始めたきっかけが「あとがき」に記されていますが、それも興味深いです。原氏は1999年に行われた、天皇在位10周年を祝う「国民祭典」を取材したとき、皇居前広場の広さ(約46万5千平方メートル)を改めて痛感したそうです。そしてまた、原氏にとっては時代錯誤的としか見えなかった「国民祭典」の内容にもかかわらず、皇居前広場と広場の正面にある二重橋が存在する限り、いつでも同じような儀礼を行うことができる不気味さを感じた…それが、皇居前広場を研究する1つのきっかけになっているとのこと。

皇居前広場では、戦前や戦後しばらくは皇室関係の儀礼だけでなく、政治的な色合いの強い集会も行われていました。しかし、現在では一部の儀礼を除いて、集会などを皇居前広場で行うのは困難な状況になっています。原氏はそんな皇居前広場を、外国人を含めた1人ひとりの市民どうしによる多様なコミュニケーションの場、つまり「公共的空間」に変えることはできないだろうかという問いかけを行っています。

皇居前広場を「国民公園」の名にふさわしく、誰もが気軽に行けるような場所に変え、その結果として皇居前広場に現れる光景はどのようなものになるか…それを見極めることは、21世紀の天皇制の行方を占うことにもなると、原氏は指摘しています。

そのような視点から、原氏は皇居前広場について様々な考察を行っています。ここでは、それらを逐一紹介することは避けますが、とても興味深く読めたことは確かです。そもそも、私は皇居前広場について無知でしたので、その意味でも新知見を得られて良かったです。

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2006年8月14日 (月)

高橋哲哉『靖国問題』

終戦記念日が明日に迫って、小泉純一郎総理大臣が靖国神社を参拝するのか否か、内外の注目を集めています。しかし、そもそも靖国神社とは一体何なのか、何が問題となっているのか、実はあまり知らないという方も少なくないのではないかと、私は感じています。そこで、この記事では、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、2005年)という本を紹介してみたいと思います。

『靖国問題』の著者である高橋哲哉氏は、東京大学教授で哲学者。哲学者の立場から、靖国問題とは何なのかを論理的に明らかにすることを目指したのが、『靖国問題』という本です。この本はベストセラーにもなったので、読まれた方も多いかもしれませんが、私が気になった記述を中心に、内容を紹介していきたいと思います。引用する際は、すべて赤文字で引用します。

靖国問題の根底にあるのは、戦死した家族が靖国神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深刻な断絶であるとも言えるだろう。私たちに必要とされるのは、これらの感情の存在を直視し、それらが何に由来するのかを可能なかぎり「理解」した上で、靖国問題について自らの判断を形成することである。(18ページ)

高橋氏は第一章で、靖国問題の根底に2つの感情があることを、上記引用文のように指摘しています。そして、『靖国問題』という著書は、恐らく後者の「悲しみ拒否する」感情に共感を抱く人の方が、読みやすい本かもしれません。私も、後者の立場で読みました。特に、「首相は8/15に靖国参拝すべき」と強く主張している方々には、容易に受け入れられない記述が多いかもしれません。例えば、以下のように。

天皇であれ皇后であれ、親であれ妻子であれ、それこそ「当り前の人情」を持っていれば、戦死はまず悲しみとして経験されるだろう。だが靖国の論理は、この「当り前の人情」である悲しみを抑圧し、戦死を喜びとして感じるように仕向けるのだ。戦死の不幸は幸福に、その悲劇は栄光に転換されねばならない。そうでなければ国家は、新たな戦争に国民を動員できなくなるであろう。(54ページ)

高橋氏は、全体を通じて、靖国神社は戦死者を「追悼」する施設ではなく、「顕彰」する施設なのだと繰り返し主張しています。天皇のために戦って死んだ人々を「英霊」として讃える靖国神社の姿勢は、「追悼」ではなく「顕彰」を目的としているということです。明治維新期に官軍に抵抗した人々や、日清戦争や太平洋戦争など一連の対外戦争で日本軍に敵対した国々の人々、あるいは東京大空襲や広島・長崎の原爆で亡くなった民間人などは祀られず、天皇のために戦って死んだ人たちを神として祀っていることからしても、「顕彰」施設と呼ぶ方が妥当とのことです。

靖国問題と言えば、真っ先にA級戦犯合祀問題を思い浮かべる人も多いでしょうが、それについて高橋氏は、以下のような指摘をしています。

日本が連合国による占領状態から主権を回復し、国際社会に復帰することを可能にしたサンフランシスコ講和条約において、日本政府が連合国による戦犯裁判の「判決」を受諾している、という事実がある。東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し、「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら、戦後日本国家を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになってしまう。(69ページ)

私は、戦争責任を突き詰めて考えるのであれば、昭和天皇の責任に言及するのは当然だと思っている人間です。そのように突き詰めると天皇制廃止などの議論になりかねないので、アメリカの配慮もあって、戦争責任のすべてをA級戦犯に押し付けたのです。A級戦犯たちも、それは自覚していたと思われます。

だから逆に、A級戦犯を分祀しても、靖国問題の解決にはならず、戦争責任問題を矮小化し、歴史認識の問題を見えなくしてしまうと高橋氏は述べます。もしも、靖国神社からA級戦犯が分祀されていたら、どのような事態が生じていたか、高橋氏は次のような指摘をしています。

 A級戦犯を排除した靖国神社に昭和天皇が参拝し、「英霊」たちを慰撫する。それは、A級戦犯に主要な戦争責任を集中させ、彼らをスケープゴート(犠牲の山羊)にすることで昭和天皇が免責され、圧倒的多数の一般国民も自らの戦争責任を不問に付した東京裁判の構図に瓜二つなのである。
 一方では、「大元帥」として帝国陸海軍最高司令官であった昭和天皇の責任、そして天皇制の責任が問われることなく免責され、他方では、有無を言わせず戦争に動員され、戦死したという点では被害者と言えるけれども、実際に侵略行為に従事したという意味では加害者であった、一般兵士の責任もまったく問われずに終わってしまう。さらにまた、天皇の権威によって天皇の神社として、それらの兵士を動員することに決定的な役割を果した「戦争神社」靖国神社の戦争責任もまったく問われないことになる。
(79ページ)

中国や韓国の批判を避けるためだけなら、A級戦犯を分祀するか、首相や閣僚が靖国神社に参拝しなければいいだけの話です。何故なら、中国や韓国が批判しているのは、戦争責任があるとされたA級戦犯が祀られている場所に、日本政府のトップが参拝するという行為に対してだからです。しかし、A級戦犯を分祀するだけでは結局、戦争責任問題・歴史認識の問題などが曖昧にされたままで終わってしまうということです。高橋氏が言うように、「近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観」を持つ靖国神社の存在そのものが問題視されないことにもなります。

ともあれ、高橋哲哉『靖国神社』で提示されている論点のすべてを、この記事で取り上げるのは不可能です。まだ高橋氏の著書を読まれていない方には、高橋氏の著書を読んでいただくのが一番かと思います。そこに記されている内容には、賛否両論あるでしょう。あるいは、全面的に支持できないという人もいるかもしれません。そうであったとしても、「靖国問題」をみんなで考える上での糸口になるのであれば、良いと思います。

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2006年4月21日 (金)

教育基本法「改正」の話と、愛国心

今日、「教育基本法改正案 月内にも国会提出」というニュースを見ました。政府・与党は、教育基本法の「改正」案を28日にも閣議決定し、国会に提出する方針を固めたそうです。

私は、今の教育基本法を「改正」しなければならない積極的な理由を感じないのですが、政府・与党は何としても「改正」したいらしいです。与党が最終的に決定した「改正」案については、「教育基本法:与党が正式決定の「最終報告」案」というニュース記事で全文を読むことができます。

この「改正」案で最も議論になるであろう文章は、以下の赤文字の部分でしょう。

伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う。

上記の文章は、「愛国心」について語ったものであることは明白です。この「愛国心」を国民に求める表現については、それの明記を譲らない自民党と、「『国』に統治機構の意味を含まないことを明確にすべきだ」として反対する公明党の議論があったようです。しかし、最終的には、「愛国心」を求める表現だけが突出する印象を避ける目的で、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という文章を続けることによって、自民党と公明党は合意しています(詳しくは「教育基本法 愛国心表現、自公合意」というニュース記事を参照)。

ところで、私は憲法やら教育基本法やらに「愛国心」を国民に求めるような表現を明記することに、反対です。要するに、今回の教育基本法「改正」案に反対です。「改正」という言葉にわざわざカギ括弧を付けているのも、「本当に、正しく改めることになるのだろうか」という疑問が私の心の中にあるからです。

そもそも、私は「愛国心」というものは、持っていようが持っていまいが、個々人の自由だと思っているのです。たとえ国を愛する心がなかろうと、それによって国家だとか政府だとかに、とやかく言われる筋合いのものではないと考えているのです。愛国心を持っていない国民が多いなら、それは国民に愛される国家になろうとする努力が国家や政府の側に足りないのであって、国民に悪いところは少しもないと思うのです。国民に愛してもらいたいなら、まずはそれ相応の努力を国が行うことが前提だと、私は考えています。

それなのに、法律の中に「愛国心」を国民に求める表現を入れるということは、「愛国心」を国民に強制するものだと考える人がいても、仕方のないことでしょう。教育基本法の中に「愛国心」を求める表現を入れるということは、国が国民に向かって、「俺を愛せ」と言っているようなものではないでしょうか。それとも、そのような私の見方が異常、もしくは考え過ぎなのでしょうか。

大体、「国を愛する」ということが具体的にどういうことなのか、私にはわかりません。自分で自分は「愛国心」を持っている人間だという自覚さえ持っていれば、それだけで「愛国心」を持っている人だと言えるのでしょうか。そうだとしたら、私は「愛国心」の持ち主だと言えそうです。

しかし、政府・与党の中の教育基本法「改正」を推進している人たちに私の考えをすべて述べたら、恐らく私は「愛国心」を持っていない人間だと判定されてしまうことでしょう。何故なら、私は国旗・国家法や憲法改正案にも反対ですし、小泉改革にも批判的な意見を持っているからです。

もしも私が、「国家にとって国旗が必要なのはわかるけど、それが『日の丸』でなければいけないとは思わない。国民全員に意見を聞いて、その結果次第では別の旗にしようよ」なんて言ったら、教育基本法に「愛国心」を盛り込みたい人たちに怒られることでしょう。「あなたのような人がいるから、教育基本法に『愛国心』を明記すべきなんだ」というような感じで。

でも、それでも私は「愛国心」を持っているつもりなのです。私は、国のやっていることに色々と批判的な意見を持っていますが、日本が日本国民にとって良い国になってほしいという願いを持っているから、批判的になるのです。日本が良い国になることを願っているから、「今の国の政策は駄目だ。多くの国民(=自分を含む)にとって大した利益にならない」という風に考えますし、それによって国や政府を批判します。それは、私が「愛国心」を持っているからなのです。私の中に「愛国心」がなければ、国がどんな政策を行おうと特に批判しません。むしろ、無関心になります。

「愛国心」の持ち主だと自負する私は、教育基本法に「愛国心」を明記することは国民にとって利益にならない(=日本が良い国になる方向に向かわない)と判断するから、反対するのです。

しかし結局のところ、公明党が反対したように、教育基本法「改正」案が言う「国」というのは、統治機構のことなのでしょう。この「改正」案を推進している人たちの認識では。私は、「国民全員が『日本は良い国だなぁ』と感じることが理想。少しでもその状態に近づけるように、国や政府に駄目だと感じる部分があったら、それを徹底的に批判することが、『愛国心』だ」という考えなのですが、教育基本法「改正」案は恐らく、「国や政府の言うことに無批判に従うことが、『愛国心』だ」と言いたいのでしょう。この認識の溝は、簡単には埋まらないと思います。

ともあれ、思想・信条の自由の観点から言っても、国を愛する心(その具体的な内容はともかく)を持とうが持つまいが、それは個々人の自由であって、「国を愛することが国民として必要なことだ」とか、もしくは逆に「日本国民は国を愛してはいけない」なんてことを法律に明記したら、それは思想・信条の自由の侵害につながると思うので、それだけはやめてほしいと思います(もっとも、それが「改正」の狙いなのでしょうが)。

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2006年4月 6日 (木)

国立国会図書館についての気になる話

「堂中日録」さんのコチラの記事を経由して知った情報ですが、「国立国会図書館の近代デジタルライブラリー」のページで閲覧できる明治期の文献の数が、一昨日から大幅に増えたらしいですね。

「国立国会図書館の近代デジタルライブラリー」とは、ネット上で明治期の貴重な書物を無料閲覧できる、素敵なページなのです。国立国会図書館のサイトのそのページでは、弘松宣枝『阪本龍馬』(民友社、明治29)とか、松村巌『近藤勇』(内外出版協会、明治36)とか、山川浩『京都守護職始末』の初版本とか、勝田孫弥『大久保利通伝』(同文館、明治43~44)とか、『孝明天皇紀』の初版本とか、貴重な書物が無料で全ページ閲覧できてしまうわけです。知らなかった方で、興味のある方は、今すぐ閲覧すべきでしょう。

そんな便利なサイトが、一昨日さらに拡充されて、明治期の図書の75%が閲覧可能になったらしいです。これは、何とも喜ばしいことですね。日本の文化と学問の発展において、国立国会図書館は重要な役割を果たしているのです。

ところが、一部の政治家の中に、国立国会図書館を独立行政法人にしたがっている人たちがいるようです。自由民主党の行政改革推進本部のサイトに、「国会事務局等改革に関する提言」というPDFファイルが置いてあって、そこには、公務員を削減していく方針の中で、国立国会図書館を法人化すべきことが述べられています。

個人的には、国立国会図書館を法人化しようという議論には反対です。日本図書館協会のサイトでは、「国立国会図書館に独立法人化はなじまない」というPDFファイルが公開されています。そこには、国立国会図書館の多様な事業に「効率的な運営」を重視する原理がなじむのかどうか、慎重な吟味をしないまま法人化の話を進めることへの危惧が述べられていますが、それについては私も同感です。

ところで、私は国立国会図書館の最重要な機能として、全国の図書のほとんどが納本されていることを挙げたいです。「葦岸堂」さんでも指摘されていますが、そのような国会図書館の機能を「副業」と捉える見方には反対です。

国内すべての図書が納本され、保存されるということは、いわば文化を保存していることになります。それらの蒐集された資料が、冒頭で紹介したような方法で利用することができるようになれば、学問の発展にもつながります。国立国会図書館では、蒐集された資料をもとに様々な書誌情報を作成し、たとえば「国立国会図書館NDL-OPAC蔵書検索・申込システム」として公開されています。それも、学問の発展に大いに役立つ。

実際に私も、学生時代は卒業論文作成のために活用させてもらいましたし、今でもこのブログで発進するための情報を収集するために、「国立国会図書館NDL-OPAC蔵書検索・申込システム」を活用しています。

このような国立国会図書館を「効率化」などの理由だけで大した議論をせずに法人化したら、文化の保存・学問の発展に悪影響を与えはしまいかと心配です。国立国会図書館を法人化したいと強く主張する人々は、「文化の保存・学問の発展」について全く考えていないのではないかと思えて仕方がありません。何でもかんでも「効率化」すれば良いとは限らないでしょう。

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2006年2月28日 (火)

坂本龍馬と「竹島」

先日の2/22は、島根県が条例で制定している「竹島の日」でした。条例が制定されたのは昨年のこと。何故に昨年かと言えば、日本が竹島を自国領土に編入したのが1905(明治38)年で、要するに昨年がその100年目だったからということです。

ただ、この竹島は、現在では韓国との間で領土問題が発生している島。そんな問題が発生している島について、韓国の意見を聞くこともなく条例で記念日を制定するとは、いくら何でも強引なのではないかというのが私の個人的な気持ちです。日本と韓国がお互いに領有権を主張している段階で制定すべき記念日だとは思えないというのが、正直なところです。まぁ、この問題には人それぞれの考え方があるでしょう。私の意見は、あくまで1つの意見でしかありません。

ともあれ、この記事での本題は現在の竹島に関する問題ではなく、幕末の話です。幕末の志士たちの間でも、「竹島」は注目されていました。しかし、あらかじめ述べておけば、幕末に「竹島」と呼ばれていた島と、現在の竹島は同一の島ではありません。幕末に「竹島」と呼ばれていた島は現在の鬱陵島で、今の竹島は幕末の時代には「松島」と呼ばれていました。冒頭で述べた1905年、「松島」を日本の領土に編入するに当たって、その島を竹島と呼ぶようになったのです。

つまり、「幕末の時期に『松島』と呼ばれていた島」=「現在の竹島」で、「幕末の時期に『竹島』と呼ばれていた島」=「現在の鬱陵島」です。以下、坂本龍馬と「竹島」の関係について述べますが、龍馬が語る「竹島」は現在の鬱陵島のことです。そして、幕末当時の「竹島」(=現在の鬱陵島)は、1696(元禄9)年の幕府の命令によって、日本人の「竹島」(=鬱陵島)渡海が禁止されている状態でした。そして、幕末の「竹島」(=「鬱陵島」)は、朝鮮の領土だったのです。それをあらかじめ認識した上で、以下の文章をお読みください。

まず、「坂本龍馬と『竹島』」というテーマで記事を書こうと思ったきっかけがあります。1つは、冒頭で述べた「竹島の日」がつい最近の日だったこと。もう1つは、岸本覚氏の、「幕末海防論と『境界』意識‐『志士』集う『場』を中心に」(『江戸の思想9 空間の表象』ぺりかん社、1998年)という論文を読んで、触発された部分が大きいからです。

坂本龍馬が蝦夷地の開拓に情熱を燃やしていたことは、諸書で紹介されており、龍馬に詳しい方はいちいち述べるまでもなく、ご存じのことでしょう。龍馬と交友のあった北垣国道の回想によれば、池田屋事件の勃発によって、龍馬の構想は暗礁に乗り上げたようです(宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』増補四訂版、光風社、1988年、1037~1038ページ参照)。しかし、龍馬の書簡では、池田屋事件以後も蝦夷に言及していますので、龍馬は生涯、蝦夷地開拓を諦めていなかったと言えるでしょう。

蝦夷地開拓を夢見ていた坂本龍馬が、「竹島」に言及しているのは、1867(慶応3)年3月6日付で長府藩士の印藤肇に宛てて書いた書簡の中です。この印藤宛書簡は全部で十段構成になっているのですが、その第四段で、龍馬は以下のような自分の考えを述べています(龍馬書簡からの引用は青文字で行います)。

エゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間、何卒一人でなりともやり付け申べくと存居申候。                               (平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社、1978年、180ページ)

上記引用部分で龍馬は、「新国」を開くことが積年の夢だったと語っています。その「新国」を開くにふさわしい場所が、蝦夷地だと思ったわけです。しかしながら、蝦夷地開拓の計画が暗礁に乗り上げると、龍馬は、「新国」を開くにふさわしい新たな場所として、「竹島」(=鬱陵島)を視野に入れるようになったのです。それは何故かと言えば、龍馬は長州藩の井上馨などから、「竹島」には材木や平地があるという情報を仕入れていたからです(前掲、印藤宛龍馬書簡を参照)。つまり、龍馬は「竹島」を蝦夷地同様に、開拓する価値のある島だと思っていたわけです。そして、龍馬は同じ書簡の第十段で、自分が竹島に行くことが実現した後の構想を、次のように語っています。

諸国浪生らを命じて是が地(=「竹島」)を開かすべしと、其余思千万ナリ。        (『坂本龍馬全集』185ページ)

岸本覚氏は、前掲論文「幕末海防論と『境界』意識」で、龍馬が「竹島」の歴史的経緯を知らなかった可能性を指摘しています。つまり、龍馬は「竹島」が朝鮮の帰属であること、日本人の渡海禁止の法令が出されていたことを知らなかった可能性もあるということです。しかし、志半ばで暗殺された龍馬がもしも「竹島」行きを実現していたら、間違いなく日本という国の「境界」認識の問題にぶち当たっただろうとも、岸本氏は指摘しています。

朝鮮の領土であった「竹島」を開拓し、「新国」を開こうとすれば、確かに岸本氏の言うとおり、「境界」問題にぶつかるでしょう。その意味で、坂本龍馬を含む幕末の志士たちも、現在と同じような「竹島」問題を考えていた、あるいは考える可能性があったのです。

ところで、龍馬は蝦夷地や「竹島」を開拓して、そこに開こうとしていた「新国」を、どのようなものにしたかったのでしょうか。それを考える上で、慶応3年5月5日付で龍馬が長府藩士の三吉慎蔵宛に書いた書簡の中の、以下に引用する一節が参考になります。

国を開らくの道ハ、戦するものハ戦ひ、修行するものは修行し、商法ハ商法で名々かへり見ずやらねば相不成事(中略)戦国のさまハ此よふなものでもあろふかと存候てずいぶんおもしろふ存候。(『坂本龍馬全集』205ページ)

上記引用部分について、歴史家の井上勲氏は、論文「坂本龍馬の可能性」(『歴史と人物』第80号、1978年)において、「『戦国のさま』こそ、龍馬の希求した社会にほかならない。『戦国のさま』とは、各個人個人が、志と意欲と能力とに応じて選択された『職業』を通じて、他を顧みることなく社会に貢献しうる、いわば開かれた動態的な社会であると考えてよい」と述べています(『歴史と人物』第80号、52ページ)。

また池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)は、「龍馬は、軍人と学生と商人とが、それぞれ自分の立場を十分に守りとおすことが、『国を開く』方法だとのべているのである。軍人と学生と商人とが、ここでは同列に扱われている」と指摘しています(池田敬正『坂本龍馬』157ページ)。

私は井上勲氏の意見も池田敬正氏の意見も、どちらも正しいと思っています。つまり、私は先の引用部分について、龍馬は同列に扱われるべき「職業」を自由に選択できる社会を求めていたのだと解釈します。そのような社会を創る「場」として、蝦夷地や「竹島」の開拓を志したのでしょう。しかし、そのような龍馬の夢は、龍馬自身は意識していなかったのかもしれませんが、岸田覚氏が指摘するように、突き詰めれば「境界」問題にぶち当たるはずの構想だったと言えるかもしれません。そうなったときに、龍馬はどうしたか、それも知りたかったところですが、龍馬が暗殺されてしまい、そのようにならなかったのは周知の事実です。

以下は参考文献

・池内敏「『武威』の国‐異文化認識と自国認識‐」井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年
・池田敬正『坂本龍馬』中公新書、1965年
・池田敬正「海援隊について」平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』新人物往来社、1979年
・井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)」『史学雑誌』第81編第11号、1972年
・井上勲「坂本龍馬の可能性」『歴史と人物』第80号、1978年
・岸本覚「幕末海防論と『境界』意識‐『志士』集う『場』を中心に」『江戸の思想9 空間の表象』ぺりかん社、1998年

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2006年2月11日 (土)

網野善彦と皇太子・徳仁親王

建国記念の日に歴史家の故・網野善彦氏を取り上げると、なかには反発心を感じる人もいるかもしれません。何故かと言えば、網野氏は生前、以下に引用するような主張を方々で述べられていた歴史家だからです(網野氏の著書からの引用は、青文字で行います)。

この法律(国旗・国家法―管理人注)は、二月十一日という戦前の紀元節、神武天皇の即位の日というまったくの架空の日を「建国記念の日」と定める国家の、国旗・国家を法制化したのであり、いかに解釈を変えようと、これが戦前の日の丸・君が代と基本的に異なるものでないことは明白な事実である。このように虚偽に立脚した国家を象徴し、讃えることを法の名の下で定めたのが、この国旗・国家法であり、虚構の国を「愛する」ことなど私には不可能である。それゆえ、私はこの法に従うことを固く拒否する。
 しかし「日本」という国号、国の名前がいつ定まり、「天皇」という王の称号がいつ公的にきまったかについては
(中略)大方の見解は七世紀末、六八九年に施行された飛鳥浄御原令とするが、それと異なる見解にしても七世紀半ばを遡らず、八世紀初頭を下らない。「日本」はこのときはじめて地球上に現れたのであり、それ以前には日本も日本人も存在しない。(中略)それゆえ、「日本国」の「建国」をもしも問題にするならば、この国号の定まった時点にするのが事実に即して当然                                 (網野善彦『日本の歴史00 「日本」とは何か』講談社、2000年、20~21ページ)

強調しておきたいのは、「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でもそれ以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた国家の名前―国号である以上、これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在せず、その国制の外にある人々は日本人ではない。(『日本の歴史00 「日本」とは何か』87ページ)

「日本」が国名であることを意識せず、頭から地名として扱い、弥生人、縄文人はもとより旧石器時代人にまで「日本」を遡らせて「日本人」「日本文化」を論ずることも、ふつうに行われているが、これは「日本」が始めもあれば終りもあり、またその範囲も固定していない歴史的存在であることを意識の外に置くことによって、現代日本人の自己認識を著しくゆがめ、曖昧模糊たるものにしているといわなくてはならない。                  (『日本の歴史00 「日本」とは何か』344ページ)

上記のような網野氏の主張に対し、絶対に認められない(認めたくない)という人もいれば、全面的に賛成という人もいるでしょうし、言いたいことは何となくわかるけれど心情的に同意できないとか、そこまで厳密に考える必要はないと感じる人もいるかもしれません。しかし、「日本」というものについて考えるときに、網野氏の上記の主張は、賛成であれ反対であれ、一考に価するものだと思います。そう思ったので、反発心を感じる人もいるであろうことを予想しつつも、あえて網野氏の見解を建国記念の日に取り上げました。

網野氏の主張の是非はともかく、彼がもしも今も生きていたら、皇位継承問題などで積極的な発言をされたのだろうと思います。特に、「神武天皇以来2600年続いている」男系の血筋を絶えさせるべきではないと主張する勢力(恐らく、多くの歴史家と相容れない勢力)に対して、いかなる批判を展開したか、個人的に興味のあるところです。

ところで、そんな網野善彦氏が、さきほど長々と引用した著書『日本の歴史00 「日本」とは何か』の中で、現在の皇太子・徳仁親王のことを、「堅実な学風を持つ日本中世史家」(同書116ページ)と、好意的とも受け取れる言葉で評価しています。

もしかしたら知らない人もいるかもしれませんが、皇太子・徳仁親王は、歴史研究に深く携わり、現在でも学習院大学史料館客員研究員として、精力的に論文を発表している歴史研究者です。専門は日本中世の交通史・流通史。

その点で、歴史好きな私は皇太子に親しみを感じているのですが、それはともかく、皇太子・徳仁親王の代表的な論文には例えば、「忘れられた車図--陽明文庫所蔵『納言大将車絵様』および『車絵』について」(『学習院大学史料館紀要』第12号、2003年。木村真美子氏との共同執筆)、「室町前中期の兵庫関の二、三の問題」(『中世日本の諸相』下巻、吉川弘文館、1989年)などがあります。

網野善彦氏に「堅実な学風」と評され、現在でも精力的に歴史研究を進めている(最新の論文は上記の2003年のもの)皇太子・徳仁親王は、「神武天皇以来2600年続いている」男系の血筋云々という主張に対して、本音の部分ではどう思っているのか、非常に興味があります。また、もしも聞くことができるならば、自身の「皇太子」という立場についてもどう思っているのか、聞いてみたいです。

徳仁親王には、学生時代に英国のオックスフォードに留学した際の体験を綴った、『テムズとともに‐英国の二年間‐』(学習院教養新書、1993年)という著書があるのですが、その著書を読んでいると、自身が置かれている立場についてどのように思っているのか、率直な気持ちを聞きたいという気持ちがますます高まってしまいます。

例えば、英国で初めて「ディスコ」というものを体験した徳仁親王は、『テムズとともに』の中で、次のように述べています(『テムズとともに』の引用は赤文字で行います)。

女子学生と向かい合って踊ったりしたので、退屈するようなこともなかった。ディスコを後にしたのは夜中の二時を回っていた。私にとって生涯最初で最後のディスコであったかも知れない。(『テムズとともに』102ページ)

また、徳仁親王はオックスフォードでテムズ川の水上交通史について研究し、また本来の専門が日本中世の交通史であることは先ほど述べました。では、何故それらのテーマを選んだかについて述べた次の言葉は、かなり印象深いです。

そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」についてたいへん興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ赤坂御用地の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう。(『テムズとともに』150ページ)

そして、留学期間を終える直前のときの心境を、徳仁親王は次のように記しています。

再びオックスフォードを訪れる時は、今のように自由な一学生としてこの町を見て回ることはできないであろう。おそらく町そのものは今後も変わらないが、変わるのは自分の立場であろうなどと考えると、妙な焦燥感におそわれ、いっそこのまま時間が止まってくれたらなどと考えてしまう。(『テムズとともに』211~212ページ)

上記のような文章を読んだ後、また、歴史家としての面を持っていることも考慮するとなおさら、皇太子・徳仁親王は自身の立場や皇位継承問題について一体どう考えているのだろうなぁと、つい思ってしまいます。

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2006年2月 8日 (水)

井伊直弼と将軍継嗣問題

現在、皇位継承問題について色々と議論されていますが、幕末には13代将軍・徳川家定の継嗣を誰にするか、激しい議論がなされた時期がありました(話の持って行き方が強引なのは、ご容赦ください)。

一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)を継嗣に推す一橋派が猛烈な運動を展開したにもかかわらず、14代将軍が徳川慶福(後の家茂)になったことは周知の通りです。その過程で一橋派に対抗したのが、大老・井伊直弼。

では、井伊直弼は何故、一橋派に対抗しなければならなかったのでしょうか。それについて、ここでは、『王政復古』(中公新書、1991年)で知られる歴史家の井上勲氏が「大老 井伊直弼」というタイトルの講演で語った見解を、以下に引用して紹介してみたいと思います(引用は青文字部分)。なお、井上氏の「大老 井伊直弼」という講演を活字化したものが、『学習院史学』第35号(1997年)に収録されています。

従来の慣行からして、大老に期待された役割は将軍代替りにともなって発生するかもしれない危機を管理することにありました。したがって、井伊直弼が大老に就任したということは、近い将来に将軍代替りがあることの予告です。では、徳川慶福と徳川慶喜と、井伊直弼はどちらを将軍継嗣として望ましいと考えていたかと言えば、閥閲の名門の当主として前者、つまり慶福でした。 
 井伊直弼は、次の二重の意味で一橋派に敵対せざるをえませんでした。まず第一に、英明な慶喜を将軍継嗣に迎えるべきだとの主張への敵対です。慶喜が英明であるかどうかではなくて、英明という価値を将軍継嗣選定の基準においたことにです。徳川支配の正統性の根拠の一端は、徳川家康からの血脈の連続性にあります。ですから、家康からの血脈を正当に継承しているか否かが問題なのであって、他のいかなる価値も基準にはなりえないのです。英明をいいたてることは、ですから、徳川の支配の正統性の根拠を損なうことになるわけです。徳川幕藩体制のもとでは当然の論理です。
 つぎに、将軍継嗣の選定について発言したことへの敵対です。将軍継嗣といっても、その本質は、徳川宗家の継嗣です。 したがって、継嗣を選定することは現将軍だけがなしうる、いわば専権事項です。だから、継嗣の選定について他の者が口をさしはさむことは、それ自体が将軍の権威を侵害することになるわけです。
(『学習院史学』第35号、133~134ページ)

私は将軍継嗣問題についてはさほど詳しくないので、今回は自分の意見を語ることをやめて、井上氏の見解を紹介するにとどめておきます。

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2006年1月26日 (木)

ライブドア騒動について思うこと

ライブドアおよび同社の前社長で堀江貴文氏(いわゆるホリエモン)を巡る一連の騒動、関心を持っている人は多いことでしょう。私自身は、ホリエモンがどうなろうと、知ったことではありません。

私はむしろ、ホリエモンそのものよりも、この一連の騒動を報道しているメディアの姿勢や、この騒動に強い関心を抱いている人々の反応の方に興味があります。

私がよく拝見させていただいている、史実の新選組を扱っている素晴らしいサイトに、「新選組検証!」さんというサイトがあるのですが、その中のブログ「管理人のひとり言」のコチラの記事で述べられている、今回の騒動について同感する部分が非常に大きいので、少し長くなってしまいますが、一部分を引用させていただきます(引用は青文字部分)。

ライブライブドア騒動を巡る報道というものには、ちょっと気になる部分がある。それは、日本人のいい加減いい加減さが、このライブライブドア騒動を通して垣間見れるからである。かつて、ライブライブドアやホリエモンを持ち上げていた人々がいた。その人達は何処へ行ったのだろう?今や、ライブライブドア&ホリエモンは国民総バッシングの対象とされている感がある。こういう現象に、人間人間のいやらしさ、醜さみたいなものを感じる。
 勝手にホリエモンに期待しておきながら、
犯罪犯罪者となったホリエモンに対して「裏切られた!」と怒るのは筋違いではないだろうか?怒る前に、バッシングする前に、おのれの見る目の無さを戒めるべきではないだろうか?

今では、方々のメディアがホリエモン批判を繰り広げていますが、今回の事件が明るみになるまでは、ホリエモンが出演予定だった番組などが色々とあったわけですよね。要するに、今回の騒動の前は、ホリエモンは各メディアに引っ張りだこの状態だったわけです。それが、急にホリエモン批判を始めるメディア。あまりに節操がなさ過ぎる気がします。それはメディアに限らず、メディアに踊らされている人々も同じ。

『東京新聞』の公式サイトのコチラのページには、立教大学教授(メディア法)の服部孝章氏の次のような言葉を載せています(引用は緑文字)。

世の中が勝ち組負け組という中で、堀江氏は成功をばく進中の人というイメージがあり、視聴率がとれた。ニッポン放送株をめぐる問題も、株ゲームとしてとらえられ、立て続けにテレビに出ることで、ホリエモン劇場となった。それが話題を呼び、堀江氏の信用が上がるというスパイラルに入り、テレビと堀江氏が持ちつ持たれつの関係になった

視聴率が取れるから、メディアはホリエモンを優遇していたということでしょう。しかし今や、ホリエモン批判をした方が視聴率が取れる、だからホリエモン批判を展開するのでしょうか。要するに金のためなのでしょうが、それが節操のない事態を生み出すのかもしれません。上記『東京新聞』のページの末尾に、月刊誌『創』編集長の篠田博之氏の以下のような言葉が載っています(引用は緑文字)。

数字(視聴率)が取れるからとメディアの側も無自覚に堀江氏に乗っかり、そのことが株価にも影響を及ぼし、ビジネスに利用された。ふたを開けてみれば『共犯関係』になっていた。政治の側も同様に利用された。本来なら自覚しなければいけなかったことで、そこは深く考え、反省しなければならない

節操のないメディアもメディアですが、それに踊らされる人々も、自分を反省すべきでしょう。自分の頭でしっかり考えて行動する、それが必要だと思います。冒頭で紹介した「新選組検証!」さんの言うように、「おのれの見る目の無さを戒めるべき」でしょう。東京地検が動いたことでライブドアの株価が下がったなどと怒っている人がいるそうですが、そういう人は見る目のなかった自分をまず反省すべきでしょう。

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2005年10月31日 (月)

自民党の新憲法草案の話

今日はハロウィン当日ということで、とりあえず言っておきましょう、ハッピーハロウィーン!!そんなわけで、ハロウィン関連の話題は以前の記事「2005年、東京ディズニーランドのハロウィン‐パンプキンキングダムへの誘い‐」や「ハロウィンが近いからこそ、ディズニー映画『イカボード先生のこわい森の夜』について語りたい」をご覧ください。今日の主題はハロウィンではありません。

ハロウィンのことはさておき、今日は第三次小泉改造内閣の顔ぶれが決まったということなので、珍しく政治の話でもしようかと思います。

基本的に、私は現在の小泉政権を支持しておりません。郵政民営化に反対だとか、そういうわけではなく、自民党の憲法改正論議に賛同しかねることが一番の大きな理由です。

10/28に、自民党の新憲法制定推進本部が新憲法草案を発表しましたが、その中に気になることが色々と。

まず前文に、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」云々と書かれているのが気になります。「帰属する国」に「愛情」を持つことが「責務」とまで言われることにイマイチ納得できません。この文章は要するに、日本に生まれた者は日本がどんな国であろうとも愛することが責務だと言っているのでしょう。しかし、例えば日本がかつての軍国主義の国家や言論の自由が保障されない国家に再びなってしまったら、私はそのように変わってしまった日本を愛することはできません。私が日本を愛するためにはそのような事態にならないことが不可欠の前提であって、その前提もなしに国を愛することが「責務」だと言われても少々困ってしまいます。大体、日本に生まれているのですから、「責務」とまで言われなくても日本は好きですよ。でも、そのように自然と好きと思うのと、愛することが「責務」だから愛するのは違うと思います。

次に、新憲法草案は、現行の日本国憲法の第九条にある「国の交戦権はこれを認めない」という文章を削除しています。そして、自衛隊は「自衛軍」にすることが明記されています。このへんに違和感、もしくは胡散臭さを感じるのは私だけなのでしょうか。どうも、日本国外での武力行使を可能にするための措置だとしか、私には思えないのですが。また、自衛隊が「軍」ということになれば、軍事費も当然増えるでしょう。そのために増税にでもなったら、たまったものではありません。

新憲法草案の第十二条には、「自由及び権利には責任及び義務が伴う」と書かれています。一見すると正しいような気もしますが、現行の日本国憲法には、「責任及び義務が伴う」ということは書かれていません。その意味で、国民の自由と権利を日本国憲法に比べて制限しようとする意図があるような気がしてなりません。

続いて第二十条の「信教の自由について」。現行憲法では、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と明記しているのに対し、新憲法草案は「社会的儀礼又は習俗的行為を超える宗教教育その他の宗教的活動」と記しています。どうも、政教分離の原則を少し緩やかにしようという意図があるようです。このへんの動きにもイマイチ賛成できません。やや性急すぎるかもしれませんが、戦前の「国家神道」などを想起してしまうからです。

新憲法草案の第七十三条には、「政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、義務を課し、又は権利を制限する規定を設けることができない」と記されていますが、逆に、法律の委任があるならば、「義務を課し、権利を制限する」規定を設けることが可能だというのでしょうか?義務を増やして権利を制限する可能性があるものには反対です。

新憲法草案の第七十六条には、「軍事裁判所を設置する」と明記してあるのですが、ここにも胡散臭さを感じます。

次に七十九条。現行の日本国憲法では、最高裁判所の裁判官の報酬は減額することができないと明記されていて、これは司法権の独立の一つの例と言えるのですが、新憲法草案では減額する場合があることを示唆しています。司法権の独立の侵害につながったりしないか、少々心配です。

…以上、新憲法草案について私が不満を感じた部分を色々と述べてみました。正直、新憲法草案の全文を精読したわけではありませんので、私の誤解や意味の取り違いなどもあるかもしれません。しかしながら、私は基本的に憲法改正に反対です。そもそも、改正する必要性をほとんど感じていません。特に憲法九条が最大の論点になるかと思いますが、日本が他国から攻撃を受けた場合、現行の日本国憲法でも十分に対応可能だと私は思っています。なので、これも改正する必要性があるとは思いません。

また、改憲論者の間では、日本国憲法はアメリカに押し付けられたものだという認識があるようですが、この認識が必ずしも正しくないことは、古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)などの諸研究が述べていることです。

以上述べた憲法改正論議に反対だということから、私は小泉政権を支持していません。

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2005年8月 8日 (月)

郵政法案否決、衆議院解散へ

<衆院選>衆院解散を閣議決定 9月11日投票の見通し

どうなることやらって感じですねぇ。参議院で否決されて衆議院を解散するというのは強引な気がします。しかし折角の機会ですので、とりあえず私は投票します。

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