大政奉還後の高田藩の動向
上越教育大学社会科教育学会が発行している『上越社会研究』第16号(2001年)に、長部薫「大政奉還後の高田藩の動向-榊原家文書を中心に-」という論文が掲載されています。それを、最近読みました。
高田藩とは、徳川四天王と称された榊原家が藩主を務めていた譜代藩です。その高田藩を素材に、上越市立高田図書館所蔵の「榊原家文書」などを駆使して、いまだ十分に進展していない「旧体制」側の動向を考察して、幕末維新史研究の進展に寄与しようと試みたものです。
その論文によれば、徳川慶喜が朝敵とされてからの高田藩は、「哀訴諫争」を藩の方針としていたとのこと。つまり、朝廷に対しては徳川家の存続を願う「哀訴」、徳川慶喜に対しては朝廷への謝罪を促す「諫争」を方針として時局に対応していたそうです。徳川家の存続のため、朝廷と旧幕府の衝突を回避する戦争防止を目指したと言い換えることもできるでしょう。
ただ、この方針は、藩内に様々な考えを持った人間がいることに配慮して決まったものなので、会津藩などから文句を言われた場合、あるいは朝廷に文句を言われた場合にどのように対応するのか、そのあたりの態度が曖昧だったようです。そういったこともあって、朝廷から疑念を抱かれ、その払拭に苦心していたとのこと。
さらに、古屋佐久左衛門や今井信郎らの衝鋒隊が高田領内を通行したときには、高田藩が朝敵になりかねないと藩主以下が危機感を抱いたようです。衝鋒隊は表向き旧幕府によって組織されたものであるとの認識から、衝鋒隊と交戦することは徳川家に弓を引く行為になるとの認識が高田藩内に根強く、だからと言って朝廷との戦いも辞さない覚悟の衝鋒隊を全面的に支援しては朝敵になってしまうかもしれないとの危険性を、高田藩では感じていたようです。そのため、高田藩は衝鋒隊に対して、朝廷にも旧幕府にも等しく奉公すべきだという論理で説得を試みたそうです。
最終的に高田藩は、衝鋒隊を追討することになって、朝廷からの疑念を払拭することに成功するものの、衝鋒隊の領内通行を一旦は認めてしまった責任を取る形で北越戦争を先鋒として戦うことを強いられ、鳥羽・伏見の戦い以来の戦争回避の方針が挫折することになってしまったそうです。
幕末維新期の高田藩に関する研究は少ないと思いますし、私自身もあまり詳しく知らなかったので、長部薫氏の論文の内容は色々と興味深く、勉強になりました。
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