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2008年6月25日 (水)

慶応3年10月10日前後の坂本龍馬書簡

慶応3年10月10日頃に書かれたと思われる後藤象二郎宛の坂本龍馬の書簡には、有名な一節があります。以下に赤文字で引用してみます。

幕中の人情に行われざるもの一ヶ条これ在り候、其儀は江戸の銀座を京師にうつし候事なり、此一ヶ条さへ行われ候得は、かへりて将軍職は其まゝにても、名ありて実なけれは恐るゝにたらずと存じ奉り候
(宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社学術文庫、481ページ。ただし、読み下しに直しています)

龍馬書簡の上記の部分については、昔から色々と議論がありました。たとえば池田敬正『坂本龍馬』は、「幕府権力を経済的に支えている一つの条件として貨幣鋳造権の独占があるが、銀座の移転ということは、その鋳造権を奪いとれということである」と指摘した上で、「一面大変重要なところをついているが、やはり町人的な安易さがあったといえないだろうか」と主張されています。武力行使よりも平和的な手段を優先させているところが「町人的な安易さ」が出ているというわけです。

近年の成果である松岡司『定本 坂本龍馬伝』は、「将軍家が『天領』をもつ、日本最大の封建領主であることに目をつむったこの発言は、いかにも商業へかたむく龍馬らしく、政権返上策としてはいささか不徹底だ」と言います(その後で、「だが、これは象二郎の役割を考えてのことらしい」と付け加えておりますが)。

池田敬正氏の考えに真っ向から反対したのが、飛鳥井雅道『坂本龍馬』。飛鳥井氏は池田氏の記述を引用して批判しながら、「経済権を奪いとられることは、将軍や幕府にとって、絶対にできないことだった」と指摘した上で、王政復古政変後に「納地」すなわち土地取り上げを幕府がのめなかった事例を挙げて、「『納地』は経済権の封建的表現であり、銀座とりあげはそれを流通面でいいかえたものである」と主張されています。

上記3名とは異なる観点から、龍馬を「鋭い政治感覚」の持ち主と評価しているのが井上勲氏です。井上氏は色々なところで、「大政奉還」の「大政」の内容を具体的に決めることの重要性を述べている研究者ですが、要するに、一言で「大政」を奉還ないし返上すると言っても、その「大政」にはどんな権利が含まれているのかということです。

井上氏は、多くの大政奉還論者が「大政」の内容について曖昧に考えていたにもかかわらず、龍馬は曖昧のままにしておかなかったと、龍馬の上記書簡から判断します。龍馬は貨幣鋳造の権限もしっかり「大政」の中に含めるべきだと考えた、そのあたりに「鋭い政治感覚」が出ているというのが、井上氏の主張です。井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本 坂本龍馬の謎』新人物往来社、1985年)を参照。

ところで私は、佐々木克氏や青山忠正氏の薩土盟約関係の論文を読んだとき、何となく思いついたことがあります。慶応3年6月に結ばれた薩土盟約は9月になって、薩摩側が一方的に破棄を宣告しますが、その理由として佐々木氏や青山氏は「将軍辞職条項」を重視しています。つまり、6月の段階では土佐藩の方針として徳川慶喜に将軍辞職を求めるということで薩摩藩と合意したのに、9月の時点で土佐藩の方針から「将軍辞職条項」が消えていたということです。

龍馬はそのあたりで土佐と薩摩が疎隔する事態を避ける意味も込めて、「将軍職は其まゝにても、名ありて実なけれは恐るゝにたらず」と妥協的なことを言ったのではないか。つまり、将軍辞職を慶喜に求める薩摩と将軍辞職を求めない土佐の妥協案として、貨幣鋳造権を奪うことで将軍の名目はそのままに将軍職を実のないものにする案を後藤に提示したのではないか…佐々木氏や青山氏の主張に触れたとき、何となくそう思ったわけですが、詳しい検証をしたわけではないので、強く主張するつもりはありません。

いずれにしても、冒頭で引用した龍馬の書簡は、色々と面白い内容を含んでいると思います。

<参考文献>
・青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)
・青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2005年)
・飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)
・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)
・井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本 坂本龍馬の謎』新人物往来社、1985年)
・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)
・松岡司『定本 坂本龍馬伝』(新人物往来社、2003年)
・宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社学術文庫、2003年

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コメント

お久しぶりです!小林哲也です。龍馬の十月書簡、面白いですね!龍馬が「大政奉還」や「将軍職」の中身をどう捉えていたのか、興味深いです。
龍馬が「武力行使」について具体的にどう理解していたのかと、ふと迷うことがあります。(基本的には、やっぱり武力行使せずというスタンスなのかもしれませんが)

武力行使を念頭におきつつ、相手が降参したら平和裏にものごとを解決しようとする西郷隆盛にも似ているような気がします。

幕末の社会情勢にも目を配りつつ、青山氏が言うように言葉の「中身」を考えながら柔軟に幕末史を語れればいいなと思う今日この頃です。

思い付き的なコメントですみません。

またよろしくお願いいたします。 

投稿 小林哲也 | 2008年7月 1日 (火) 17時24分

>小林哲也さん

久々のコメント、ありがとうございます。

武力行使についてどのように考えていたのか、
それは龍馬に限ったことではなく、
当時の人々すべてについて知りたいところですが、
龍馬は特に気になるところですよね。

何にせよ、あまり固定観念やイメージにはとらわれず、
柔軟に考えていければと思いますね。

思い付き的なコメントでも全く問題ないですよ。
私も思い付きだけで記事を書いていますから(笑)。

こちらこそ、またよろしくお願いします。

投稿 パルティアホースカラー | 2008年7月 1日 (火) 21時41分

ありがとうございます。龍馬の「武力行使論」気になるところです。銃器を土佐にまわしていることといい、木戸宛ての書簡で、武力行使で、「後藤の動きが悪い様なら、乾を用いる」と言っていることといい、武力行使に関しての龍馬の思考と行動が気になります。

またコメントします。よろしくお願いいたします。

投稿 小林哲也 | 2008年7月 1日 (火) 22時19分

>小林哲也さん

再度のコメント、ありがとうございます。

これは私の個人的な考えですが、
龍馬は時期によっても、
だいぶ考え方に揺れが見られると思います。

そんなことは人間ならば、
誰しも当たり前にありえることですが、
龍馬の場合は立場に制約が少なかったので、
その揺れが大きく見えるのだろうと私は考えています。

投稿 パルティアホースカラー | 2008年7月 2日 (水) 19時59分

小林哲也です。
 
なるほど。龍馬に身分的制約は多くなかったかもしれませんね。確か、青山忠正氏が龍馬のことを指して「草莽」のリーダー的存在と言っていました。龍馬も含めた「草莽」の研究などがぐっと進むといいな、と思っています。

個人的には羽賀祥二氏の『坂本龍馬と土佐の群像』がはやく書店に並ばないかなあと楽しみにしています。

たびたびコメントすみません。またよろしくお願いいたします。

投稿 小林哲也 | 2008年7月 2日 (水) 23時50分

>小林哲也さん

そうですね、羽賀祥二氏の『坂本龍馬と土佐の群像』は、いつ刊行されるのかわかりませんが、
早く出てくれれば嬉しいですね。

こちらこそ、またお願いします。

投稿 パルティアホースカラー | 2008年7月 4日 (金) 00時14分

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