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2008年4月23日 (水)

戊辰戦争諷刺錦絵と薩摩藩

『諷刺眼維新変革-民衆は天皇をどう見ていたか-』(校倉書房、2004年)や『絵解き幕末諷刺画と天皇』(柏書房、2007年)などの著書がある奈倉哲三氏は、昨年3月に、「戊辰戦争諷刺錦絵の世界史的位置-国民国家草創期における民衆思想-」(『跡見学園女子大学文学部紀要』第40号)という論文を発表しています。国立情報学研究所が提供する「CiNii 論文情報ナビゲータ」のコチラのページから、PDF閲覧が可能です。

奈倉氏の論文は、「戊辰戦争諷刺錦絵が有する思想史的特質を、同時期ヨーロッパの諷刺画と比較することで、その世界史的位置の解明を試みたもの」です。ここでは、その全体を紹介するのではなく、私が特に興味を持った部分を断片的に紹介・引用することにします。全体の論旨が気になる方は、ぜひ上記のリンクからご自分でお読みください。

奈倉氏は考察の中で、諷刺錦絵2点を取り上げ、戊辰戦争前後の江戸市民が、新政府の中心をなしていた薩摩藩勢力に対して反感を抱いていたことを指摘しています。要するに、その気持ちが諷刺錦絵に出ていると。慶応3年11月頃から江戸で起きた強盗などの犯人が、薩摩藩士や薩摩藩邸に匿われている浪人たちであることを、江戸市民が知っていたことにもよるそうです。次のような指摘もされています。

江戸市民が薩摩を嫌ったのは、市民にとっては現実の恐怖であったからである。薩摩が、たとえ、神権性を喧伝され始めた天皇と「錦の御旗」によって、その正当性を主張しようとも、押し込み強盗を指揮した藩が新政府の中心にあるのであれば、その支配に対し、民衆が拒否の反応を示したのは当然であり、また、天皇による江戸親征に対しても、薩摩が担いでいる以上、忌避の反応を示したのも当然であった。

奈倉氏が指摘しているようなことも、江戸市民の感情としては実際にあったのかもしれません。

ただ、慶応3年末の薩摩藩による、いわゆる江戸撹乱工作ですが、従来は西郷隆盛ら薩摩藩の指導者層の指示を受けての行為と理解されていました。しかし近年、高橋秀直氏によって、京都の薩摩藩指導者から撹乱工作中止の指令が出ていたことが指摘されました。もしも高橋秀直氏の主張が正しければ、慶応3年末の撹乱工作は、藩としての方針ではなく、江戸藩邸の薩摩藩士たちの暴走という可能性も考えられることになります。高橋氏の主張が絶対に正しいとは言いませんが、検討すべきことだと思います。

なお、奈倉氏の論文を面白いと感じた方は、冒頭で紹介した奈倉氏の著書も、お読みになると良いと思います。論文と著書で、相互に補完し合う関係になっているはずです。

もしよろしければ、下記をクリックしてください。
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