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2008年2月10日 (日)

維新の記憶と「勤王志士」の創出

最近、高田祐介氏の「維新の記憶と『勤王志士』の創出-田中光顕の顕彰活動を中心に-」という論文を読みました。大阪歴史学会が発行している、雑誌『ヒストリア』第204号(2007年3月)に掲載されている論文です。以下、その内容紹介と感想を簡単に。

田中光顕とは、幕末期には土佐出身の志士として活動し、中岡慎太郎の陸援隊にも参加していた人物です。田中顕助という名前でご存知の方もいらっしゃるかもしれません。明治期には宮内大臣を11年間も務め、昭和14年まで生きました。

高田氏の論文は、田中が宮内大臣を務めていた時期から昭和初期までにおいて、明治維新期の志士顕彰が田中の政治活動の重要な側面だったと見て、その志士顕彰の意義を探ったものです。

高田氏の研究によれば、田中は宮中関係の仕事に就く以前から、維新志士らに対する贈位斡旋活動を行っていた可能性があるようです。そして、明治期に贈位された人物は全部で1091名いるものの、その約60%が田中の宮内大臣の任期に贈位されているとの指摘がなされています。これはもちろん、田中の宮内大臣就任期間が長かったことにもよりますが、それだけではなく、田中が宮内大臣という地位を活用して、積極的に維新の志士たちを顕彰しようと努めていたことも大きいのでしょう。

高田氏は、「贈位を通した『勤王家』像の形成あるいはその一般化」に、田中の果たした役割は大きかったと指摘しています。また、田中が特に積極的に顕彰しようとしたのが、同郷の土佐出身者と水戸出身者だったそうですが、田中は独自の判断と権限で、土佐・水戸出身者に位階の追贈を行っていた可能性もありうるそうです。

高田氏も指摘していることですが、大胆な言い方をしてしまえば、今現在、「勤王の志士」として名前を知られている人物たちは、田中光顕が顕彰すべき対象として選んだからこそ、「勤王の志士」として名前が知られるようになったのかもしれません。

ところで、高田氏の論文の中で、私が特に興味を持って読んだのは、「昭憲皇后瑞夢事件」絡みの記述。昭憲皇后瑞夢事件とは、明治37年、昭憲皇太后の夢に坂本龍馬が現われ、日本海軍を守護する旨を述べて消え、それを聞いた香川敬三が龍馬の写真を奉献したというもの。

これを香川や田中らの捏造話と見る意見もありますが、捏造とまで言えることではなく、皇后が龍馬の夢を見たこと自体は確かだろうと私は考えております。ただ、高田氏も述べているように、「何れにしても、この事件は日露戦争時の戦意高揚と宣伝に利用され、そのような意味においては政治的意味を持つ事件であった」と言えそうです。

ただ、この事件に関する注(17)の記述が気になりました。『坂本龍馬関係文書』第1巻には、上記事件が明治37年3月の『時事新報』で報道されたと記されています。高田氏もその記述を見て、『時事新報』明治37年3月の記事を探したらしいのですが、上記事件についての記事は確認できていない旨、記されています。それもそのはずで、松岡司『定本坂本龍馬伝―青い航跡』(新人物往来社、2003年)によれば、上記事件の記事が『時事新報』に掲載されたのは明治37年4月13日だったそうです。

つまり、『坂本龍馬関係文書』第1巻は何らかの理由により、明治37年4月13日付『時事新報』の記事について、間違って明治37年3月と記してしまい、高田氏も『坂本龍馬関係文書』の間違いを鵜呑みにしてしまったということなのでしょう。ちなみに、『時事新報』明治37年4月13日のことについて、私は松岡司氏『定本坂本龍馬伝』を読んで知りましたが、松岡氏よりも前に、近藤功氏(このブログにコメントしてくださったこともある鏡川伊一郎さん)が、『龍馬研究』No.119(1999年)に「『皇后の夢』の真実」と題して発表されているそうです。

ともあれ、この事件の後、「坂本・中岡没後40年祭」が皇室から祭祀料が下賜される形で開催され、坂本や中岡の遺墨が展示されたそうです。もちろん、高田氏も指摘しているように、皇室からの祭祀料下賜などには田中の周旋があったものと推察されます。そして、坂本龍馬について海軍の守護者としてのイメージが広まっていったそうですが、そこには高田氏が述べているように、「国家に引きつけた形での歴史像の創出と展開が企図」があったと見ることもできそうです。その歴史像創出の上で、志士たちの遺墨は活用されていくことになります。

田中の顕彰活動は政治の表面に出てくるものではないものの、裏面でかなり重要な働きをしていて、「勤王の志士」の確定と国民の歴史像形成の面で、影響力があったようです。高田氏の論文を拝読して、そのような感想を抱きました。

雑誌『ヒストリア』第204号(2007年3月)に掲載されている、高田祐介氏の論文「維新の記憶と『勤王志士』の創出-田中光顕の顕彰活動を中心に-」には、もっと多くの論点について詳細な分析がなされています。興味のある方は読んでみてください。

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コメント

こんばんわ。
くだんの時事新報の記事は、国会図書館に三日通って明治37年の新聞全紙をあたって見つけたものでした。しばらくして西尾秋風氏の論文に「オリジナルの紙面のコピーや写真すら見たことがない」とあるのを見て、西尾氏にコピーをお送りしたところ、氏から高知の龍馬研究会に連絡がいき、同会に、御紹介いただいた『「皇后の夢」の真実」を執筆した経緯がありました。これが縁で今も龍馬研究会の会員です。
 皇后の夢の逸話はデッチあげで、田中光顕ら土佐人の怨念の産物と見なす人が多いようですが残念ですね。皇后から夢の話を直接聞いた人物は、小川又次陸軍中将(福岡県出身)で、この人が最初にマスコミにリークしたと私は推測しております。
 徳富蘇峰ではないですが、薩摩の芋畑を肥やし長州の蜜柑畑を肥やした土佐人を顕彰したいという気持ちは田中光顕には、たしかにあったでしょうね。
 

投稿: 鏡川伊一郎 | 2008年2月11日 (月) 20時11分

>鏡川伊一郎さん

コメント、ありがとうございます。

時事新報については、調査が大変だったことでしょう。
『坂本龍馬関係文書』が何故3月と書いてしまったのかはわかりませんが、まぁ単純に間違えたのだろうと私は判断しています。
でも間違いだとは言え、時事新報の記事の詳細がほとんど知られていなかったことの一因にもなっているんでしょうね。

皇后の夢がデッチアゲだとは私も思いません。巷間に広まっている話がどこまで真実かは別としても、少なくとも皇后が龍馬の夢を見たというのは本当なのでしょう。
田中ら土佐出身者のグループがそれをうまく顕彰に利用した面はあったのかもしれませんが、すべてをでっち上げたと言うのはさすがに濡れ衣ですよね。

投稿: パルティアホースカラー | 2008年2月11日 (月) 23時14分

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