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2007年12月15日 (土)

中津川国学者と薩長同盟

なかなか入手しにくい冊子ですが、中山道歴史資料保存会が発行している『街道の歴史と文化』第5号(2003年)には、宮地正人氏の「中津川国学者と薩長同盟‐薩長盟約新史料の紹介を糸口として‐」という論文が収録されています。

近年、いわゆる薩長同盟をめぐる議論が盛んでした。その議論の発端ともなった論文「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』557号、1986年)を公にしたのは青山忠正氏でしたが、青山氏は薩長同盟を軍事同盟もしくは攻守同盟と呼ぶのは誤りであるとの意見を主張し、それは青山氏の著書『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)でも変わらず主張されています。

そのような研究状況を鑑みつつ、宮地氏は冒頭で紹介した論文において、薩長同盟に関連する新史料を紹介して、薩長同盟をめぐる議論に一石を投じたのです。宮地氏が紹介した史料とは、京都の染物商・池村久兵衛邦則が中津川の平田国学者たちに宛てた書簡(慶応元年12月26日付)。池村の書簡に記されていたのは、大宰府に赴いた後に帰京した水戸藩士が池村に語った内容です。水戸藩士たちは大宰府訪問の後、下関で薩摩藩士・黒田了介(清隆)に会っていて、水戸藩士たちが京都で池村に話した内容は、その黒田から聞いた話。

黒田が語った内容は、西郷隆盛の内意で、以下のような内容。京都で薩摩の兵士が挙兵して、いわゆる一会桑を踏み潰し、それを機に長州藩も挙兵して、幕府軍がその頃まで上方に滞在していれば、一会桑だけでなく幕府軍も攻撃対象となるというもの。黒田は以上の戦略を西郷から聞き、その戦略を相談するため、木戸孝允の上京を促しに下関に来たことを水戸藩士たちに語ったらしいのです。黒田は確かに、京都での薩長首脳会談実現のため、木戸孝允の上京を促しに下関に来ていて、実際に木戸は黒田と一緒に上京することになりますので、池村書簡に書かれた内容もそれなりに信用できそうです。

上記の新史料を紹介しつつ、宮地氏は薩長同盟に軍事同盟の要素が強かったことを主張されているのです。私も、薩長同盟には軍事同盟・攻守同盟の要素があったと思っています。ただし、宮地氏も述べているごとく、軍事同盟・攻守同盟だからと言って、即座にそれを「討幕を目指したもの」と理解することには反対です。

興味のある方は、『街道の歴史と文化』第5号に掲載された宮地氏の論文をお読みください。

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コメント

こんにちは。

ご紹介の宮地正人氏の論文は興味深いですね。
薩摩藩と信濃・美濃の国学者グループとの連携がよくわかります。さらにいえば、江戸の平田家にも江戸詰の薩摩藩士が多数で入りしています。家老の岩下方平や税所篤なども門弟だった可能性があります。

薩長の盟約が軍事同盟なのか否かという点について、学会では軍事同盟ではないという意見が優勢のように思います。青山論文の影響力が強いからでしょう。

もっとも、坂本龍馬宛ての木戸孝允書簡を見れば明らかなように、非常に軍事同盟的色彩が強い内容になっています。「決戦する」とまでいっているのを、ただの修辞だと見るのは、さすがに無理があるのではないかと思います。
史料は素直に読むべきではないでしょうか。

あと、薩摩藩の義務だけを明記した片務的な盟約という見方もいかがかと。
長州は対幕戦争も辞せずという態度を固めているわけで、それに薩摩藩がどこまで協力できるかを定めた盟約だったはずで。木戸が長州側の責務を書いていないのは、自分たちがやらねばならないことは自明だったからでしょう。

討幕のための盟約だったか否かを問うのも、どうなのかなと思っております。もし薩摩藩も巻き込んだ対幕戦争になれば、必然的に討幕戦争へと発展する可能性なきにしもあらずではないでしょうか。
木戸が書いたとおりだとすれば、薩摩藩は京都・大坂で武力行動を起こすことになりますから。
大政奉還から王政復古政変という、現実の歴史展開より、さらにハードランディングな展開さえ想定されたかもしれませんね。

投稿 桐野作人 | 2007年12月16日 (日) 10時03分

>桐野作人さん

コメント、ありがとうございます。

宮地氏の論文はちょうど、青山忠正氏の説に共鳴する見解が優勢になってきた時期に発表されたものだと思いますが、本当に青山氏が提示した見解が妥当なのかどうか、再考を促す意義がありますね。

実際のところ、桐野さんご指摘のように木戸の書簡には「決戦」が明記されていますし、その部分はかなり重要な部分である気がします。少なくとも、薩長同盟が内戦回避のためのものだったというように、軍事同盟の要素を完全に否定するのは私も妥当とは思えません。

片務的な盟約という見方についてですが、確かに木戸が書いた条文には薩摩藩の義務ばかりが書かれているものの、ある意味で長州が「対幕戦争も辞せずという態度」を貫くことは、明記されていないものの長州の義務と見る事ができるように思います。その態度を長州が貫き通すということが、薩長同盟の前提にあった、つまり桐野さんがおっしゃるように自明だったからですよね。

また、桐野さんがおっしゃるように、実際に京都・大坂で対幕戦争が起きれば、結局は討幕に結びつく可能性も大いにあったと思います。少なくとも、同盟の当事者たちはその可能性を想定していたかもしれませんね。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年12月16日 (日) 21時47分

どうも。来栖です。

 実にタイムリーといいますか、本日(12月17日)の東京新聞朝刊に、「幕末維新期史料の宝庫 中津川」という記事が出ていました。何故か、宮地正人氏の顔写真入りで。(通常、東京新聞の場合、識者の顔写真は出ない場合が多いので意外でした。)

 まだまだ整理されていない史料が沢山あるとかで、これから面白いモノが出てくるのでは?と期待を持たせせるような記事でした。

とりあえず、ご報告まで。

投稿 来栖ムツキ | 2007年12月18日 (火) 00時06分

>来栖ムツキさん

コメント、ありがとうございます。

東京新聞の記事については存じておりませんでした。貴重な情報、ありがとうございます。ということは、偶然とは言え本当にタイムリーな話題でしたね。

まだ整理されていない史料がたくさんあるということは、色々な期待を持たせてくれますね。特にそういった史料の整理に宮地さんのような研究者が携わるのであれば、面白いものを期待するなと言う方が無理ですね。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年12月18日 (火) 20時47分

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