津山藩と幕末政局
『佛教大学大学院紀要』第27号(1999年3月)には、笹部昌利氏の「津山藩と幕末政局‐中央政治と『攘夷』への対応の一形態‐」という論文が収録されています。
かつての幕末政治史研究は西南雄藩(特に長州藩)の分析に偏る傾向がありましたが、同時に幕府や朝廷あるいは中小諸藩を分析する必要性が古くから主張されてきました。ここで紹介する笹部氏の論文は、その研究が遅れている中小諸藩の1つである津山藩の、幕末維新期における政治動向を分析した貴重な研究成果です。
津山藩とは現在の岡山県津山市近辺に位置し、元禄11年に越前松平家の松平長矩が入封して以来、10万石(一時的に5万石)の藩でした。津山藩の松平家は、徳川家康の第二子・結城秀康を祖とする越前松平家の嫡流筋の家柄です。
津山藩が一時的に10万石から5万石に減封されたのは、幕府によって禁じられていた末期養子を立てたからですが、文化14年に将軍・徳川家斉の子が津山藩主の養子になる際、10万石に復帰しています。家斉の子が津山藩主の養子になることに関連して、笹部氏は以下のような指摘もしています(赤文字で引用、以下同じ)。
家斉の実子の他家への流入過程については、意外にあきらかにされておらず、詳細な分析を要しよう。なぜなら文化文政期における将軍家斉の子の他家への流入動向が、幕末政治の重層性を規定する一つの要因となってゆくからである。
そして、笹部氏の論文の本題となる、津山藩の政治運動についてですが、活発化するのは文久2年11月頃のようです。笹部氏によれば、「薩摩、長州を初めとする外様藩勢力が京坂地域に滞在して、朝廷との関係を密にし、それに伴い京都において幕府権力が希薄化していく状況へのアンチテーゼとして津山藩の政治運動は企画された」とのことです。
笹部氏によれば、津山藩内には、津山藩独自の政治運動展開を願う藩士もいたものの、藩主・松平慶倫はそれを容れず、あくまで幕府が主体となって攘夷問題を解決していくべきだという考え(独自の明確なビジョンは持たない考え)のもと、朝廷の望む攘夷を行うよう幕府に促すといった程度の運動を展開していたそうです。『津山市史』5巻や『岡山県史』9巻といった先行研究では、「尊王攘夷」の藩是に一決した上で慶倫の上京周旋が行われたとされているものの、それは誤りだと笹部氏は強調しています。
そのため、幕府が横浜鎖港を諸外国と交渉するようになると、慶倫は京都での政治運動の必要性をなくし、さっさと退京してしまいます。そのような津山藩の活動を、笹部氏は「地味」と評した上で、その「地味」な運動を展開した諸藩を研究する意味を、次のように述べています。
何かにつけてダイナミックな側面が強調される幕末期の政治史において、大胆かつ際立った政治運動を展開した藩は明らかに薩長土の外藩勢力、これに付け加えるなら鳥取藩など朝議と密接な関係にあった藩のみであり、いうなればこれらの藩は特殊、かつ少数派である。(中略)薩長両藩が維新変革の主体となったことは否定できない事実であるが、変革には客体つまり「変えられる側」と「変わってゆく」或いは「変わる」勢力が存在する。以後、明治維新研究において考えられるべきは、維新変革において客体となった勢力についてであろう。
私は基本的に、笹部氏が述べている上記の意見に賛成です。もちろん、薩摩藩や長州藩のことについても判明していない問題が色々とあるので、それは今後も研究されて然るべきだと思います。特に薩摩藩は、長州藩に比べると研究が遅れていると思いますし。ただ、笹部氏が言うように、従来の研究では重要視されなかった諸藩の研究が進むことによって、幕末維新史をより深い次元で理解することができるようになるはずです。
笹部昌利氏の論文「津山藩と幕末政局‐中央政治と『攘夷』への対応の一形態‐」(『佛教大学大学院紀要』第27号)は、今から8年前に公にされた論文ですが、新史料の紹介もあり、今まで知られていなかった事実も明らかにされていて、貴重な成果だと感じました。
もしよろしければ、下記をクリックしてください。
人気blogランキングへ
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/128116/17021494
この記事へのトラックバック一覧です: 津山藩と幕末政局:



コメント
話がズレるかも知れませんが、津山藩が慶応年間、年貢の圧政を行っていたことから各地で農民の一揆が行われてました。私も昭和13年の津山事件(横溝正史「八つ墓村」の基となった事件)を調査した際、その村にある寺に碑があったのを覚えています。
藩主が幕府寄りだった関係か、献金等もしたのでしょうね。このあたりが津山藩の限界だったのかも知れません。
投稿 あさくらゆう | 2007年12月 3日 (月) 00時11分
>あさくらゆうさん
コメント、ありがとうございます。
なるほど、津山藩では農民一揆が頻発していたのですね。それに加えて中小藩で、藩主も幕府寄りで…となれば、自ずと限界もあるでしょうね。井上勲氏の『王政復古』によれば、一つの藩がそれなりに自立すると見なされる基準として、10万石以上というのが一つの指標になるそうですから、津山藩はギリギリといったところですね。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年12月 3日 (月) 21時03分