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2007年11月10日 (土)

孝明天皇と岩倉具視

原口清氏と言えば、近年の幕末政治史研究に大きな影響を与えた研究者の1人。『原口清著作集』第2巻も、岩田書院から先月刊行されたばかりです(コチラの記事をご参照ください)。

その原口清著作集・第2巻の『王政復古への道』に収録された論文の1つに、「孝明天皇と岩倉具視」があります。初出は名城大学が発行している『名城商学』第39巻別冊(1990年)です。この論文に影響を受けている研究者は多いと思われますし、幕末の朝廷や岩倉具視を論じる上でも決して無視できない研究成果だと思います。

原口清氏は、孝明天皇の死因について病死説を採用し、毒殺説の石井孝氏と論争したことでも知られている研究者です。論争の決着は付いていませんし、どちらかが絶対に正しいと言い切るには史料も不足しているとは思いますが、幕末政治史研究者にとっては、原口清氏の主張に説得力を感じられた方が多かったようです。例えば、佐々木克氏は原口説の登場までは毒殺論者だったにもかかわらず、原口説の登場後に病死説に転換しているぐらいです。そのため、現在では病死説の方が支持されているのが歴史学界の現状です。

原口清氏の「孝明天皇と岩倉具視」は、孝明天皇毒殺説を主張している研究者が、その黒幕として岩倉具視ないし武力倒幕派の存在を指摘することが多いことから生まれたもののようです。つまり、毒殺論者の多くが、孝明天皇が生きていては武力倒幕ができないから、岩倉や武力倒幕派が天皇を毒殺したのだという説に対して、原口氏は異議を唱えているわけです。原口氏の言い分によれば、孝明天皇死去前後の岩倉に武力倒幕の考えはなく、また朝廷内にも武力倒幕派と呼べるほどの勢力は存在しなかったということになります。

それを論証するために原口氏は、岩倉が幽閉されることになった文久2年の「四姦二嬪」排斥問題にまで遡って、そのときの幽閉人とその後の幽閉人たちに対して、孝明天皇や朝廷首脳部たちがどのような態度で処置にあたっていたのかを解明していきます。その論証によって、孝明天皇の死後に岩倉が赦免されることになったのは、天皇毒殺による成果とか、岩倉の政治的手腕による画策の成果といった説を否定します。

そして、孝明天皇死去前後の岩倉の政見については、次のようなものであったとの指摘がなされています。

当面の具体的な政策としては、武力倒幕でもなく平和的倒幕でもなく、朝廷主導の対外政策を前面におし出すなかで国内一致の体制を樹立すること、幕府の存在は認めながらもその権力は削減し、幕府・薩摩藩・長州藩等の協力のもとで朝廷を実質的にも国家最高意志の決定者とする「王政復古」の実現を目ざしていた

そのため、「岩倉は武力倒幕を目指していた→天皇の存在が邪魔→岩倉が黒幕となって天皇を毒殺」という図式が成り立ち得ないことと原口氏は強調しています。私も原口氏の見解に同感です。

どうしても岩倉を孝明天皇毒殺(それ以外の殺害方法でもいいですが)の黒幕に仕立て上げたければ、「岩倉は武力倒幕を目指していた~」という図式以外の動機を持ち出すしかないでしょうが、ほかの動機で岩倉黒幕説を主張するのは、史料的にもなおさら難しいと思います。むしろ、そこまでして岩倉を疑わなくてもいいと思いますし、むしろ何故そこまでして岩倉を徹底的に疑う必要があるのだろうかという気もします。

ともかく、私は原口氏が述べる、孝明天皇死去前後の岩倉の政見について、特に異論はありません。また、原口氏は、岩倉以外にも、当時の公家にまだ武力倒幕派と呼べる人はいなかったと主張されていますが、これにも同感です。

原口氏は、慶応2年末~慶応3年初頭の頃について、「幕府に対抗し得る最大の強藩であり、岩倉らが最も期待していた薩摩藩でさえも、武力倒幕にはふみきっていない」と言います。かつては、慶応2年1月の薩長同盟を、武力倒幕のための軍事同盟と考える見解が有力でしたが、青山忠正氏の研究以来、そのような考えは否定的になってきています(青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」『歴史学研究』557号、1986年。そのほかの薩長同盟研究の文献については、コチラのHPをご覧ください。)。

現在では、武力倒幕派の成立は、四侯会議の後、すなわち慶応3年5月後半~6月ごろと考える説が有力です。そもそも、武力倒幕派という政治勢力を設定する必要性すらないとする研究者もいて、例えば家近良樹氏は四侯会議後の西郷隆盛や大久保利通といった人物を、「対幕強硬派」と呼んでいます(家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』文春新書、2002年)。また、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)のように、武力倒幕派と呼ばれた勢力も平和的な倒幕に反対していたわけではないという説も、それなりに支持されているように感じます。

いずれにせよ、孝明天皇が死んだ頃の岩倉具視に武力倒幕を推進する気はなく、したがって天皇の存在が武力倒幕の障害だから岩倉の画策によって殺されたと考えることは不可能だとする原口氏の見解に、私も賛成です。

原口氏の論文はせっかく『原口清著作集』の第2巻にも収録されたので、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。それに、ここで紹介した原口氏の論文は後の研究者にも大きな影響を与えていますので、それを読むことで、幕末政治史研究の現状の一端も知ることができるはずです。

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コメント

ご無沙汰しております。

『原口清著作集』第2巻のご紹介有難うございます。
孝明天皇の死因を直接検討した論文「孝明天皇の死因について」もむろん興味深いのですが、紹介された論文「孝明天皇と岩倉具視」のほうが2人の関係を考えるうえで、なお一層興味深いですね。
私たちが安易に討幕とか討幕派という用語を使っていたことがいかに史実に即していなかったかを突きつけられる思いがします。
私は、岩倉が近習小番だったことが重要だろうと思っています。これは天皇の最側近であり、その主従関係の濃密さからすると、暗殺なんて以ての外の埒外ですからね。その方面では、近年、仙波ひとみ氏の研究で次第に明らかになっており、今後、幕末維新期の公武関係の再検討や、朝廷・公家の諸勢力の新たな検討が課題になってくるだろうと思われます。

「武力討幕派」の成立については、慶応3年6月前後というのが通説になっていますし、私もさほど異議はないのですが、やはり用語の定義ははっきりさせるべきだと思います。武力討幕派の首魁である西郷自身が同年8月段階で「討幕は仕らず」と言っていることも留意すべきでしょうね。

あと、薩長同盟についてですが、武力倒幕のための軍事同盟という考え方が、原口氏の論文でも明らかなように、武力討幕派の成立が翌3年ですから、ありえようはずもありません。
ただ、軍事同盟か否かについてはなお議論の余地があると思っています。近年は「盟約」論が優勢かもしれませんが、個人的には「軍事同盟」ではないかと考えております。長州藩自身が慶応2年夏段階において、対幕戦争に打って出ており、軍事力行使を躊躇しておりません。その背景には薩長同盟があったからにほかならないと思います。

駄弁を弄しました。これにて失礼。

投稿 桐野作人 | 2007年11月11日 (日) 13時15分

>桐野作人さん

久々のコメント、ありがとうございます。
原口さんの「孝明天皇と岩倉具視」は久しぶりに読んでみましたが、やはり面白いですね。それに、示唆に富む内容が満載です。後進に与えた影響も大ですよね。

岩倉が近習小番だったことを論じた仙波ひとみ氏の研究については、桐野さんも何度かブログで紹介されていましたね。確かに、天皇との濃厚な主従関係があったという面まで考慮すれば、ますます岩倉が天皇殺害に関与したとは考えにくくなると思います。公武関係の再検討は、今後どんどん進んでいってほしいものですね。

「討幕は仕らず」発言については、桐野さんが以前から重視されていましたよね。私も自分なりに考えてみたことはありますが、未だに自信のある結論は導き出せていない状態です。「『討幕』とは何か」という問題を突き詰めて考えるとき、避けては通れない発言だと私も思っております。

薩長同盟について、最近の私は「同盟」とか「盟約」といった表現にこだわり過ぎず、あまり厳密な区別をせずに使ってしまっているのですが、軍事同盟か否かは確かに、まだ検討する余地があるような気がします。実際、有名な六ヶ条を見ても軍事的な取り決めが記されているわけですし、幕長の戦いが発生することをかなりの程度で想定した内容になっていますしね。まだまだ、色々と議論される余地は残っていると思います。

ともあれ、そのような通説を疑う議論を、原口氏の論文は喚起してくれていますね。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年11月11日 (日) 21時40分

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