元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募
今年刊行された『國學院雑誌』第108巻第5号(通巻1201号)に、加藤弘之氏の「元治元年一橋徳川家関東領知における有志徴募」という論文が掲載されています。
幕末の中央政局(幕藩権力)に包摂されていく草莽層集団の実態と、中央政局における草莽層集団のダイナミズムの持続に関する問題を、「一橋徳川家における草莽層集団的性格を持つグループ」を対象として考察した論文です。以下、その内容をごく簡単に紹介していきます。
幕末の一橋家は軍事力が不足していたため、外部から積極的に人材登用を進めました。加藤弘之氏は上記論文で、その一環である関東の有志徴募を大きく取り上げ、「出自・思想・行動等で新撰組のような草莽層集団と近似する性格がみられる」と指摘しています。
一橋家に登用された渋沢栄一と渋沢成一郎は、一橋慶喜をして幕府に攘夷実行させることを目指し、活動します。渋沢両名は、そのために関東での有志徴募を画策しますが、その狙いは単なる農民兵の徴募ではなく、攘夷を目指す同志集団の形成にあったと加藤氏は述べています。政治的な志を持たない農民ではダメだったのです。そして撃剣に優れていることも、渋沢両名が重視したポイントです。
ところが、渋沢両名を支持していた平岡円四郎が暗殺されると、一橋家上層部は有志徴募に消極的な姿勢を示したようです。むしろ、一橋家上層部は一橋家の軍事力を整える上で、渋沢両名が重視していた剣術の腕前や志を持つ者の登用を、制限する方針に出ていたようです。
加藤氏によれば、「上層部が求めたのは、命令が浸透し均質な行動をとれる組織的軍隊であり、そのために農民―銃撃戦に不要な撃剣を身につけておらず、思想的個性もない者たちを徴発しようとした」そうです。そのため、撃剣に優れた関東の有志たちも、結局は銃隊に編成され、農民兵たちと同様の扱いになったそうです。「有志たちの身に付けた武士文化は武芸・思想両面とも顧みられなかったのであり、一橋家という組織のなかで存在意義を失いつつあった」ということが言えそうです。
しかし鳥羽・伏見の戦い後、一橋家の当主であった徳川慶喜が朝敵となったとき、これに敏感に反応して彰義隊を結成したのは、それこそ一橋家の中で存在意義を失っていた関東の有志たちだったと指摘されます。慶喜の冤罪を雪ごうとする自発的な行動です。
関東から徴募された有志たちはそれ以外の人々(例えば一橋家譜代の家臣)に比べて、「有志のダイナミズムは、一度否定されても根強く残っていた」と加藤氏は述べ、そのようなダイナミズムは維新政権側と旧幕府側とを問わず、当時の草莽層にとって普遍的な心性だったのではないかと結論付けられています。
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コメント
ちょうどその関係史料を入手中でしたのでリアルタイムでした。農兵徴募の原史料は埼玉県立文書館で発見し、彰義隊まで行動をともにした草奔の志士では比留間良八が挙げられるのではないでしょうか?
一橋家史料は茨城県立歴史館に多く所蔵されておりますが、紐解けば多くの面白い史料が出そうです。
投稿 あさくらゆう | 2007年11月 8日 (木) 07時07分
>あさくらゆうさん
コメント、ありがとうございます。
またもや、あさくらさんが調査中のことに関連する話題を取り上げることになったのですね。何らかのお役に立てたのであれば、嬉しいです。
私は自分自身で一橋家の農兵徴募の件を調べたことはありませんが、結構面白そうな題材ですね。今後、色々と興味深い事実が出てきそうなテーマだと感じました。比留間良八については加藤弘之氏も少しだけですが言及していました。彰義隊の話題も。茨城県立歴史館の一橋家史料も活用されていましたね。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年11月 8日 (木) 21時13分
どうも。来栖です。
加藤弘之氏の論文は以前、読んだことがありますが、今回、パルティアホースカラーさんが御紹介の論文は未読です。でも、とても面白そうですね。
加藤氏の以前の論文に関しては、拙ブログ(http://mkuru.blog.shinobi.jp/Entry/109/)でも触れたのですが、一橋家と渋沢栄一&成一郎の関係について非常に詳しく、氏の論文は一橋家及び慶喜に興味ある人間は必読じゃないかな、と思っています。
徳川勢力下の草莽層の研究が近年進んでいますが、これによって横の繋がりが見えてきたことが、新選組愛好者の当方には、実に嬉しいです。(以前は、新選組だけが突出した奇妙な集団扱いでしたので・・・。)
>そのようなダイナミズムは維新政権側と旧幕府側とを問わず、当時の草莽層にとって
>普遍的な心性だったのではないかと結論付けられています。
まさに↑の部分の認識が一般的に浸透していないがゆえに、新選組が旧幕側の中で良くも悪くも目立ってしまっているわけですが、徳川勢力下の草莽層の研究が進むと、維新政権側とか旧幕府側とかといったレベルではない、もっとベーシックな部分での地殻変動が維新へと日本列島を突き動かしたことを実感せずにはいられなくなるでしょうね。
投稿 来栖ムツキ | 2007年11月 9日 (金) 22時44分
>来栖ムツキさん
コメント、ありがとうございます。
来栖ムツキさんの以前の記事は読ませていただきました。私が今回紹介した加藤弘之氏の論文は、来栖ムツキさんがブログで紹介されていた論文の少し後に発表されたものですね。ご指摘のとおり、加藤氏の論文は一橋家周辺に興味のある人にとっては面白いですよね。
確かに草莽、それも徳川勢力下の草莽に関する研究が進めば(そして、それが学術論文を読まない一般の幕末好きの人にまで浸透すれば)、必要以上に新選組の特殊性を強調する議論は下火になってくれますよね。
新選組には新選組なりの個性というのはもちろんあるわけですが、それ以上に幕末という時代の中で、旧幕府側・維新政権側を問わず政治的関心の強い人々が共通の体験を経て、共通の認識なり共通の了解事項なり普遍的な心性というのを持っていた面があると思いますね。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年11月10日 (土) 22時54分