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2007年10月 9日 (火)

幕末中央政局における朔平門外の変

先月下旬に刊行された、雑誌『日本歴史』第713号(2007年10月号)に、町田明広氏の「幕末中央政局における朔平門外の変-その背景と影響について-」という論文が掲載されています。朔平門外の変とは、文久3年5月20日に起きた、姉小路公知の暗殺事件のことです。

その朔平門外の変について詳しく分析したのが、町田明広氏の最新論文。従来の幕末維新史研究では、朔平門外の変は単なる暗殺劇の1つであるかのように扱われ、簡単な事件経過のみが紹介され、犯人推理が行われる程度の言及しかされていなかったようです。しかし、町田氏は朔平門外の変が後の政局推移に与えた影響は甚大だと言います。

そもそも朔平門外の変は、度重なる天誅の中で唯一、堂上公家が殺された事件であったため、当時の朝廷をかなり動揺させました。そして、一連の天誅の多くは「即今破約攘夷派」(後に8・18政変で追放されるグループが中心)に属する人間によって起こされたものであるにもかかわらず、朔平門外の変で殺された姉小路公知は「即今破約攘夷派」の首領だったという点で、かなり特異な事件でもあります。

町田氏は朔平門外の変を、「その影響力から見て、江戸・武家側で起こった桜田門外の変と対称をなす中央・公家側における最大の謀略事件」と評価しています。

事件の実行犯として捕まったのは、薩摩藩の田中新兵衛でした。町田氏はとりあえず、史料を見ていく限り、田中が犯人であることは否定できない旨を述べています。ただ、実行犯は田中のほかに2人いたということなので、その2人は滋野井公寿と西四辻公業の家臣と推理しています。

詳しくは町田氏の論文をお読みいただきたいのですが、事件後の同日に、滋野井・西四辻の家臣2名の出奔と、滋野井・西四辻両名の禁足申渡、薩摩藩の九門出入り解禁(田中が犯人と目されたことで、薩摩藩士の九門出入りは禁止されていました)が一気に発生したことを、「一連の流れで捉えない方が不自然であろう」と述べています。

田中新兵衛は土佐勤王党の武市瑞山らと親しく、また滋野井公寿・西四辻公業の両公は「即今破約攘夷派」の一員です。そのため、町田氏の犯人推理が正しければ、「即今破約攘夷派」が自分たちの首領を殺害したということになります。その理由としては、従来から言われていることですが、姉小路公知が勝海舟の影響を受けて通商条約容認に傾いてきていたことが挙げられます。町田氏も当時の勝海舟や姉小路公知の言動を詳しく分析した上で、従来から言われていた暗殺理由を首肯しています。

朔平門外の変の実行犯が薩摩藩の田中新兵衛と目されたことで、薩摩藩は朝敵にもなりかねない窮地に陥ったと町田氏は述べています。実際、事件の後に薩摩藩の乾門警備が免じられ、先述したように薩摩藩士の九門出入りが禁止されてしまいました。町田氏の言葉を借りれば、「薩摩藩にとっては事実上、表立った政治的活動の禁止を意味する最悪の展開」です。

さらに、事件の首謀者として中川宮朝彦親王も「即今破約攘夷派」に疑われます。薩摩藩と同様に、「攘夷慎重派」に属する人物です。そのため、宮は自ら攘夷先鋒を申し出るなど、「即今破約攘夷派」に迎合する姿勢を示します。しかし町田氏によれば、あくまで迎合する姿勢を示すことが目的の保身行動で、本心から「即今破約攘夷派」に鞍替えしたわけではないようです。

そのような状況を「即今破約攘夷派」は巧みに利用して、中川宮は西国鎮撫大将軍に任じられます。町田氏によれば、攘夷行動に消極的であるがゆえに隣国の長州藩と対立している小倉藩を征伐する総帥にあたるそうです。「攘夷慎重派」の宮にとっては受け入れがたい任務ですが、宮が断れば、いよいよ孝明天皇自身が攘夷親征に赴かねばならないとのことで、宮は絶体絶命の状況を迎えます。

「即今破約攘夷派」は薩摩藩の田中新兵衛や中川宮が犯人として疑われた朔平門外の変を利用して、薩摩藩の権威を失墜させ、中川宮を攘夷実行に向かわせるなど、「攘夷実行慎重派」を追い詰めていったということになります。町田氏は、それゆえに薩摩藩や中川宮が8月18日の政変を断行するに至ったと結論づけています。

つまり、町田明広氏は朔平門外の変を、一連の天誅のうちの一事件として扱うのではなく、8月18日政変が起きるまでの中央政局の動向に、甚大な影響を与えた最も重要な事件として捉えたのです。

その論旨には個人的に納得できる部分が多く、またここで紹介した以外にも、興味深い論点が多数提示されております。幕末政治史に興味のある方には、必読の論文だと思います。『日本歴史』713号(今年10月号)に掲載された、町田明広氏「幕末中央政局における朔平門外の変-その背景と影響について-」です。

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コメント

パルティアホースカラーさん、こんにちは!
今回も拙稿をご紹介くださり、ありがとうございます。

文久期の中央政局における朔平門外の変、八月十八日政変と、薩摩藩や中川宮を軸に論じることができました。
今しばらく、薩摩藩、島津久光を中心に様々な視角から中央政局を論じ続けたいと思います。

今後とも、どうかよろしくお願いいたします。

投稿 町田明広 | 2007年10月15日 (月) 21時25分

>町田明広さん

コメント、ありがとうございます。

さっそく最新の論文を読ませていただきましたが、非常に面白く、しかも納得できる箇
所が多い内容でした。
朔平門外の変は有名な事件である割に、深く分析した研究はそれほど多くない印象があ
ったので、町田さんの今回の論文は本当に興味深かったです。

今後も、町田さんの幕末中央政局の分析には期待しておりますので、ぜひ頑張ってくだ
さい。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年10月16日 (火) 20時28分

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