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2007年9月12日 (水)

長州藩・小倉藩の確執と、朝陽丸事件

以前、「文久3年8月18日政変についての最新の研究」という記事で、町田明広「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について-八月十八日政変を中心に-」(『日本史研究』539号、2007年)という論文を紹介しました。8月18日の政変は言うまでもなく、幕末中央政局の重要事件です。

上記論文の執筆者である町田明広氏は、8月18日政変に至る当時の中央政局に大きな影響を与えたものとして、政令二途をめぐる長州藩と小倉藩の確執の問題を重視します。そして、その確執が原因となって発生した朝陽丸事件も含めて、長州藩と小倉藩の確執から生じる諸問題は、中央政局の最重要案件だと町田氏は主張されているのです。町田氏はその意見を、次の2つの論文にまとめています。

・町田明広「幕末長州藩における朝陽丸事件について」『山口県地方史研究』92号、2004年
・町田明広「政令二途をめぐる長州藩と小倉藩の確執について」『山口県地方史研究』94号、2005年

町田氏の論文を参考にして、まずは政令二途をめぐる長州藩と小倉藩の確執について、ごくごく簡単に概略を紹介してみましょう。詳しいことを知りたい方は、町田氏の論文を参照するようにしてください。

文久3年前半の朝廷は、即時攘夷を主張する三条実美らに主導されていました。そのため、幕府は将軍・徳川家茂が上洛した上で、5月10日を攘夷期限とすることを朝廷に約束させられました。

ところが、攘夷についての幕府の認識は「襲来打払」で、朝廷の認識は「無二念打払」だったというのが、町田氏の論文で指摘されていることです。そのため、攘夷に対する幕府の命令と朝廷の命令に違いが出てくるわけで、それが「政令二途」ということになります。

長州藩は朝廷の命令を重視して「無二念打払」の方針で外国船を砲撃しますが、譜代藩である小倉藩は幕府の命令を重視して、長州藩に協力しません。海を挟んで隣同士である長州藩と小倉藩は、攘夷についての政令二途をめぐって対立してしまうわけです。結果として、奇兵隊による小倉藩領武力占拠という事態を発生させます。

この長州藩と小倉藩の対立は、単なる局地的な争いにとどまらず、中央政局に大きな影響を与えます。町田氏によれば、長州藩・小倉藩がそれぞれ朝廷と幕府の異なる命令に従っていて、あたかも朝廷と幕府の代理戦争のような様相を示していたからです。特に、8月18日政変への直接の影響については、町田氏によって以下のような指摘がなされています。

そこ(長州藩と小倉藩の確執-管理人注)から派生した諸問題は、「無二念打払」の無謀さを共通の認識としていた孝明天皇、中川宮、攘夷実行慎重派公家、また京都守護職や九州諸藩に衝撃を与え、幕令への帰一による事態打開策としての八月十八日政変へと向かわせた。特に政変の主体となった京都守護職松平容保への小倉藩からの度重なる懇請や情報伝播は、会津藩の政変への決断においては看過できない影響を持ち得た。
(町田明広「政令二途をめぐる長州藩と小倉藩の確執について」『山口県地方史研究』第94号、63ページ)

そして、小倉藩の要請を受けた幕府は、幕府の命令に背く外国船砲撃を行ったこと、および小倉藩への不法の行いを糺すため、糾問使を長州に派遣することになります。その糾問使が乗っていた船が、朝陽丸というわけです。

しかし、朝陽丸に小倉藩士が乗船していたことや、糾問書を将軍の直書と偽ったことなどが長州藩側を刺激し、奇兵隊による朝陽丸武力占拠という状況を出現させ、また糾問使として派遣された使番・中根一之丞が殺害されるという事態にも至ります。朝陽丸事件とは、この中根の派遣から殺害に至る一連の経過です。

朝陽丸事件を本格的に分析したのは、恐らく町田明広氏が初めてでしょう。町田氏は朝陽丸事件について、「朝陽丸事件は幕末長州藩史における対幕府戦につながる直接的起点と位置付けられ、また、藩内抗争の火種となった。その重要性は正当に評価されるべきである」と結論づけています。また、町田氏によれば、反幕的な方針を主導しているのは奇兵隊など長州藩内の一部であって、藩の上層部が過激な反幕的方針を主導しているわけではないとのことです。

そのため、8月18日政変の後、長州藩は幕府との関係改善を模索します。その任務に尽力していた吉田稔麿が、不幸にも池田屋事件で命を落とすことになります。ただし、新選組が池田屋に踏み込んだとき、吉田稔麿は池田屋にいなかったことを、町田明広氏は実証しています。それについては、町田明広氏の別の論文、「池田屋事変における吉田稔麿について」(『霊山歴史館紀要』16号、2003年)に詳しいです。

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コメント

パルティアホースカラーさん、こんにちは!
今回も拙稿をお取り上げいただき、誠にありがとうございました。

中央政局を研究していますと、どうしても周辺部分に目が行かなくなりがちです。幕末中央政局は様々な西国問題に影響を受けていましたし、それ以上に規定された事実もあったと考えます。

その中で、今回取り上げていただいた朝陽丸事件、長州藩・小倉藩の確執問題は文久3年の特筆すべき事象であり、中央政局を震撼させ、幕末史にも影響を与えた「大事件」であったと捉えます。

今後も様々な個別事象の解明と共に、特定の主体でなく、トータルで俯瞰的に幕末史を、中央政局を捉えたいと考えます。

今後ともどうかよろしくお願いいたします。

投稿 町田明広 | 2007年9月15日 (土) 18時28分

>町田明広さん

コメント、ありがとうございます。

>中央政局を研究していますと、どうしても周辺部分に目が行かなくなりがちです

上記のお言葉、まさにそのとおりだと思います。中央政局はもちろん重要な事件が色々と起こっているわけですが、その引き金は中央政局の外で起きた事件だったりするわけで、だからこそ複雑なんですよね。

町田さんが分析した長州藩と小倉藩の確執、および朝陽丸事件も、中央政局に大きな影響を与えた大事件だったのだと思います。それだけに、それらを分析することは、中央政局のより深い理解にもつながっていくことになりますよね。

今後のご研究にも、期待しております。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年9月15日 (土) 20時21分

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