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2007年8月14日 (火)

山内容堂の「風流」

歴史家の大久保利謙氏には、「山内容堂の『風流』」という論文があります。初出は中央公論社の『歴史と人物』8-4(1978年)で、『大久保利謙歴史著作集8 明治維新の人物像』(吉川弘文館、1989年)に再録されています。

その論文の中で大久保氏は、幕府廃絶の王政復古から廃藩置県に至るまでの約5年間を「大名罷免の過程」と呼び、その過程の中で一部の有力大名は新政府の大臣クラスになったものの、結局は「新政府の飾り棚の陳列物」に過ぎなかったという評価を下しています。そしてそれらの大名たちは、「もはや自分たち大名の時代は終ったという悲哀を身にしみて痛感したはず」だと言います。

そして大久保氏によれば、そのような悲哀を味わった旧大名の新政への対応には、3つの形態が存在していたそうです。

1つ目は「反目型」で、その代表が薩摩の島津久光です。そして、2つ目が「順応型」で、越前の松平春嶽や宇和島の伊達宗城がこのグループ。そして3つ目が「自嘲型」で、土佐の山内容堂が代表格だと、大久保氏は言います。

「自嘲型」とは何かと言えば、新政府に反目もできず、かと言って順応するのも気に食わない、そんな色々な不平不満を酒と女に遊ぶ「風流」に託したタイプだそうです。容堂の遊びは時に度が過ぎ、政府内でも問題視されたことがあったようです。

ところで、山内容堂は何ゆえに、「風流」に生きる「自嘲型」になったのでしょうか。、大久保氏によれば、土佐藩演出の大政奉還、容堂が目指した「佐幕王政復古」が薩長の「討幕王政復古」に敗れたことへの不満からだったとのことです。容堂は新政府の中にあって何とか徳川慶喜を救おうと努力した人物ですが、結局は徳川慶喜追討令が出されるという状況に至って、「勝って敗けたという苦しい立場に追い込まれた」のだと、大久保氏は言います。

大久保氏の見解の是非をここで問うつもりはありませんが、明治以後の容堂の行動が興味深い特色を持っているのは確かだと思います。「反目型」、「順応型」、「自嘲型」の分類も面白いと感じました。

ちなみにですが、明治以後の容堂の「風流」な生活の様子を綴った伝記として、吉村淑甫『鯨海酔侯 山内容堂』(新潮社、1991年。中公文庫、2000年)という本があります。著者の吉村氏は高知県の郷土史家。中公文庫版には歴史家の羽賀祥二氏による解説が付されています。

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