天領における草莽の志士の行動と思想
雑誌『日本歴史』622号(2000年3月号)には、小佐野淳氏による論文、「天領における草莽の志士の行動と思想‐甲州上暮地村暮地義信を事例として‐」が掲載されています。同論文は、幕末維新期の草莽の志士・暮地義信を研究対象に据えたものです。後述しますが、暮地義信の幕末期の経歴はなかなか興味深いです。
小佐野氏は、草莽の志士たちを7種類の身分に類型化しています。具体的には、①浪人、②郷士、③村役人、④豪農・豪商、⑤中農層、⑥知識層(医者・神官・僧侶など)、⑦博徒の7つです。小佐野氏によれば、暮地義信は③と⑤の折衷型に見ることができるそうです。どういうことでしょうか。
暮地義信の家は甲州の百姓代、つまり村役人を務めてきた家柄です。その意味では上記類型の③と言えるわけですが、甲州の自然環境では余剰農産物の蓄積が困難で、村役人と一般農民の経済格差は特筆するほどのものではないそうです。そのため、⑤の面をも持つと言えるわけです。
その暮地義信が自発的対外活動、つまり志士としての活動を始めた理由を、小佐野氏は2つ指摘します。1つは彼が生まれ育った甲州上暮地村の財政的蓄積基盤(石高185石)。もう1つは、士籍獲得への意志だそうです。
後者については、武士身分獲得を目指して志士活動を行ったというより、むしろ志士として活動するには武士身分の方が都合が良いという側面もあったのではないかとも感じます。ただし、私は義信について詳しく調べたことはないので、あまり強く主張する気はありません。
その義信は江戸の玄武館(北辰一刀流)の道場で、清河八郎と剣の修業をともにしています。また義信は、同じく伊東甲子太郎とも親交を持ちました。慶応3年に義信の門人・高山兵蔵が新選組に入隊する際、義信は高山を伊東甲子太郎に随行させたそうです。清河や伊東の影響を受けたことが、後の義信の行動を規定していきます。
玄武館での剣術修行を経た義信は、清河が指導する浪士組に参加します。そしてその後、江戸で新徴組に所属することになります。小佐野氏は新徴組について、「外圧に対する名分論的対応として成立した尊王攘夷派が、幕藩体制を否定する論理を内在化させた結果、既存の体制の外部にある草莽によって組織されたもの」と定義しています。
そして、新徴組は表向き庄内藩に属したものの、清河八郎の意志を継ごうとする生粋の勤王家も多く、暮地義信はその代表格だと小佐野氏は言います。そのような志を持つ義信は、鳥羽伏見の戦い後、新徴組を脱退して官軍に従い、徳川慶勝のもとで帰順正気隊を組織して戊辰戦争を戦います。帰順正気隊の隊士は出身地も身分もバラバラで、いわば浪士組の小型版だそうです。
小佐野氏の論文では、維新後の義信が郷里の殖産興業に尽くした様子が詳述されていますが、ここでは割愛します。その代わり、私が共感した小佐野氏の考え方を最後に紹介しておきましょう。小佐野氏は、暮地義信のような存在を、幕末維新史全体から見れば一分子に過ぎない存在だと言います。しかし、小佐野氏は次のようにも言うのです。
浪士組も新徴組もその実態は分子の集合体である。分子の正確な把握ができてこそ、幕末諸隊の真の性格を認識できるものと考える。
上記の言葉は気に留めておいて良いと思います。ただ、「分子の正確な把握を通じて、幕末諸隊の真の性格の認識、あるいは幕末維新史全体の重層的な理解に結び付けよう」という意図を忘れると、瑣末な事実の探索に終始する危険性があります。その兼ね合いには気をつけるべきでしょう。
ちなみに、暮地義信には『天性剣術日本武基』、『明倫義信歌集』、『新徴組略記』などの著作があり、それら3つは小佐野淳『富士北麓幕末偉人伝』(山梨日日新聞社出版局、1995年)に収録されています。
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コメント
ひとつ訂正させてください。
確かに暮地は明治になって清河八郎の贈位活動を行ってますが、その際、「面識はない」と触れています。これは浪士組加入以前を指し、暮地
=早川文太郎の日記によると、浪士組では京都で合流したと記されています。
これらの原史料のコピーは東大史料編纂所で閲覧が可能です(ただし、現在閉館中)。
個人的には、明治になっても知己の人物の顕彰。余談ですが、藤堂平助とは千葉道場で親友になったと記されています。
そして、明治天皇の崩御の際、殉死した気概が根底から「志士」だったのだろうと思いました。
ちなみに私は暮地氏の子孫宅、および富士吉田博物館で原本閲覧いたしました。
投稿 あさくらゆう | 2007年8月26日 (日) 03時49分
>あさくらゆうさん
コメント、ありがとうございます。
そうでしたか。小佐野氏の論文では、清河と暮地が会っていた可能性を想定していて、私もそれに基づいて書いたのですが、それは間違いだったのですね。訂正の情報をくださって、どうもありがとうございます。今度、確認してみようと思います。
ところで、明治天皇崩御に殉じたあたり、確かに「志士」的気概を持ち続けていたのでしょうね。非常に興味深い人物だと思いました。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年8月26日 (日) 23時14分