新選組に対する申し訳ない気持ち
数年前の私は、幕末史を研究する大学生でした。大学を卒業するまでの間に松浦玲氏の著書『新選組』(岩波新書、2003年)が刊行され、同じ年に平尾道雄氏の『定本新撰組史録』が新人物往来社から復刻されましたが、そのときまで私は、新選組を歴史学の研究対象として見てはいませんでした。そのことについて、今では新選組に対して申し訳ない気持ちです。
そもそも、大学での歴史研究においては、「何故、それを研究する必要があるのか」とか、「それを研究して、どんな意味があるのか」という意識で研究に臨むことを求められます。少なくとも私は、先生や先輩から、そのように教わりました。要するに、研究するからには問題意識を持つことが求められたのです。
例えば、「新選組のことが好きだから、新選組を研究する」という理由では、批判されるかもしれません。「新選組を研究することで、何が明らかにできるのか。また、新選組を研究することが、幕末史の研究の進展にどのように寄与するのか」といったところまで踏み込んで考えておかないと、大学で新選組を研究することは諦めざるを得ません。大学での研究は、何よりも「学問」であることを求められるからです。
巷に新選組の研究本は溢れていますが、それらの本には、上記のような問題意識が希薄のように感じられました。幕末史の中に新選組を正しく位置づけようとか、そのような問題意識・課題意識が見られないものが多かったのです。そこにあったのは、「新選組のことが好きだから、新選組について多くのことを知りたい。だから研究する」という意識が大半だと感じられました。しかしそこには恐らく、「学問」の発展に貢献しようという意識は希薄でしょう。
これは何も新選組に限ったことではありません。一般的に歴史小説や時代劇に頻繁に取り上げられるような人物や集団、あるいは事件は、研究者の研究対象としては敬遠される傾向があります。世間に人気のある人物や集団は、小説などでのフィクションと史実を峻別することなく勝手なイメージが形成されていることがよくありますが、研究者はそのような対象に首を突っ込みたがらない傾向があるようです。それらの世間のイメージは、「学問」を意識して語られているものではないからでしょう。
幕末史で言えば、新選組はその最たるものでしょう。新選組は、本格的に研究した歴史学者が少ない状況が長く続き、新選組研究を牽引しているのは、「学問」への貢献を意図していないと思われる在野の研究家たちでした。それが進めば進むほど、歴史学は新選組を相手にしなくなっているように見える状況がありました。
私も大学時代、そのような歴史学の風土で幕末史を学んでいました。はっきり言ってしまえば、私が所属していた大学の史学科には、「『新選組に興味があるから研究したい』なんてことを言ったら恥ずかしい」と思えるような空気すら漂っていました。それで何となく、私は新選組を避けていました。
ところが、冒頭で述べた平尾道雄氏の『定本新撰組史録』を読んでみたところ、これが大変面白いではないですか。平尾道雄氏はすでに亡くなっている方ですが、生前は土佐藩や坂本龍馬の研究において、歴史学界でも定評ある研究者でした。私も好きな歴史家でした。だから、それなりに期待して『定本新撰組史録』を読んだのですが、これが当たりだったのです。私は平尾氏の著書を読んでから、徐々に新選組に対する認識を改め始めました。
平尾氏の『定本新撰組歴録』が復刻されたのと同じ年に、松浦玲氏の『新選組』が岩波新書から刊行されました。松浦氏は思想史を専門とする歴史学者で、勝海舟や横井小楠の研究で定評があります。平尾氏と並んで、私が好きな歴史家の1人でした。その松浦氏が新選組の本を出したと知ったときは、衝撃を受けました。さっそく読んでみたところ、平尾氏の著書を読んで抱いた気持ちが、確信に変わり、新選組は面白い存在なのだと、ようやく認識したのです。
その後、宮地正人氏や大石学氏、鶴巻孝雄氏や平川新氏など、アカデミズムに属する歴史学者が次々と新選組論を展開していく中で、私は自分を恥じるようになりました。「新選組を研究する価値はない」なんて思い込みをしていた以前の自分が恥ずかしく、また新選組にも申し訳ないです。
今では、私は新選組を興味深い集団だと感じています。彼らを史実の中にしっかり位置づける必要性があると思っています。そのためには近藤勇が正しく分析されることが必要であるとも思います。このブログでも、それは何度も主張してきました。
ただ、今でも史実とフィクションを峻別しない新選組研究本、新選組を幕末史の中に性格に位置づけようという意識が希薄な研究本が多く見受けられます。アカデミズムに属する研究者には、ぜひそのような状況を是正できるよう、頑張ってもらいたいものです。本来、史実を扱う歴史学と、フィクションが許容される小説や時代劇の世界は別物ですから。
在野の研究家や新選組ファンにありがちなことですが、新選組を単体で考え過ぎている面があります。新選組の内部ばかりに目を注ぐのではなく、新選組は幕府内の一組織という視点を持って、もう少し広い視野で幕末史全体を見てみる必要があると思います。アカデミズムが新選組を敬遠してきた理由には、それもあるでしょう。新選組を通じて幕末史を見る視点を変える必要があると思います。
しかし、史実と乖離した新選組イメージが流布しているのは、アカデミズムが新選組をまともに取りあげようとしなかったことも原因の1つだと、歴史学者には意識してもらいたいです。松浦玲氏にしろ宮地正人氏にしろ、優れた新選組研究を出していますが、それが可能だったのは、彼らの批判の矛先にいる在野研究家たちの研究成果があったからだということを、私自身への自戒と反省の意味も込めて、指摘しておいても良いでしょう。
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コメント
こんばんは。
記事、大変感動しながら拝読しました。
管理人様の謙虚な反省の弁。
そして、そこから生まれた新たな視点。
読みながらストンと自分の胸にも落ちてきました。
21世紀にはいって、ようやく新選組研究はアカデミズムに乗りました。
やはり旧世紀のうちは妨げになるものが多かったのでしょう。
大河ドラマの素材になること自体、昭和までは考えられませんでしたからね。
この先、新選組が幕末史においてどのような位置を占めることになるのか。
10年後、私達はどんな新選組像と向き合うことになっているのか。
興味が尽きないところです。
投稿 通りすがりの一ファン | 2007年7月30日 (月) 01時30分
いま振り返って、新選組研究本?についてはいくつかの変遷があったように思えます。
(1)に学術目的として台頭させようとした時期→昭和前期の「新撰組史録」や「新選組始末記」などが挙げられるでしょう。
(2)に小説、映画のブーム→昭和30~40年代にかなりの役者が演じ、司馬遼太郎氏の小説が登場した時期ですね。
(3)にスポット的な史実の追究→沖田総司や土方歳三等、個人に対する追及ですね。在野の愛好家による拠出が始まった時期でしょう。
(4)に飽和期→在野の愛好家の限界が空想を生み、トンデモ本も出てきて、重箱のスミのような事項を重要視し、その結果が幕末史と新選組史を分離する状況が発生してます。
(5)にアカデミズムの発生→大河ドラマで採りあげられると、興味を持ったアカデミズムも研究の対象としてイデオロギーの追究やトンデモ論の誤り等の指摘が開始されます。
これから6の時期になるのでしょうが、これはまだ進行中のものでしょう。来年あたりに結果が出るのかもしれませんね。
どうか新選組を見捨てないでくださいね。
投稿 あさくらゆう | 2007年7月30日 (月) 03時32分
>通りすがりの一ファンさん
コメント、ありがとうございます。
過去の私の狭量な態度を書き連ねた文章で「感動」というお言葉をいただいてしまい、大変恐縮しております。ありがとうございます。
今は新選組研究の現状について偉そうなことを言ってしまうことがありますが、そんな私も、昔は新選組に見向きもしないアカデミズムの風潮に、迎合していた人間でした。
時にはそんな過去を反省し、謙虚に自分自身を見つめ直さなければ、自分に新選組を語る資格があるかどうか疑わしいと思いますし、昔から新選組に愛情を注いでいた人たちに対して失礼になります。新選組に興味のなかった過去の自分を省みることなく新選組のことを偉そうに語っていたら、傲慢もいいところでしょう。そんな自省の気持ちから、今回の記事を書いてみました。
昔は大河ドラマの題材になることすら考えられなかった時代を経て、今やアカデミズムの研究者も新選組についての本や論文を公にする時代です。とても興味深い時代になったと思います。今後はどうなるのかわかりませんが、私も興味深く見守っていこうと思っています。
>あさくらゆうさん
コメント、ありがとうございます。
また、新選組研究の推移についてまとめてくださって、どうもありがとうございます。確かに、ご指摘のとおりの変遷を辿っているように見えますね。
私が新選組に興味を持っていなかった反省すべき時代は、恐らく(4)の飽和期なのだと思います。その時期はある意味、従来の新選組研究が行き詰まりの状況を呈していたわけですね。それだけならまだしも、それこそトンデモ本と言いたいような本も増えてきて、そんな状況に私は嫌気がさしていたのかもしれません(よく見れば、良いものもあったのですが)。
でも、(5)の時期から新選組研究に変化が見え始めました。(1)の時期の再評価もなされ始めたと思います。その時期の新しい新選組研究が、私にはとても魅力的に思えました。そして(6)の時期、つまり現在へと続いてきているわけですが、ますます興味深くなっているような気がします。
(6)の時期が結果的にどうなるのか、まだわかりませんが、私はその結果を楽しみにしています。私は新選組を見捨てませんよ。あさくらさんのご研究にも期待しております。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年7月30日 (月) 20時33分
どうも、来栖です。
コメントしようと思いつつ、忙しくて今頃になってしまいました。
すみませんです。
>巷に新選組の研究本は溢れていますが、それらの本には、上記の
>ような問題意識が希薄のように感じられました。幕末史の中に
>新選組を正しく位置づけようとか、そのような問題意識・課題
>意識が見られないものが多かったのです。
新選組の場合、巷にフィクション類が溢れかえっているせいか、それらから得た知識や印象が先入観として根付いていてしまっていて、たいてい「好き・嫌い」に二極化して、それ以上進まなくなる時代が長かったように思います。
好印象を持った人は、新選組をビューティフル・ルーザーとして極端に持ち上げる場合がありますし、逆に悪印象を持った人は新選組をフーリッシュ・ルーザーだと断じて他の意見に聞く耳を貸さない傾向があるようです。
両者とも、正に「信じたいものを信じている」状態で、歴史学がそこへ入って行っても何も生まれない、何も信じてもらえない、といった諦めが学術研究者側にもあったのだと推測します。
勿論、その様な強固な二極を生じさせた一因は、長年、アカデミズムの研究者達が新選組を放置して来たせいでもあるのですが、NHKの大河ドラマが新選組を題材とする決定したことによって、岩波書店が動いたことが、結果的に新選組を学術研究の俎上に乗せる決定打になったのではないでしょうか。
その意味では、新選組研究におけるエポックメイキングは三谷幸喜が新選組を題材に選択したことにあったと言えるのかもしれませんが、しかし逆に言えば、『歴史のなかの新選組』にあるように、長年、気になりながらも取り組む機会を得ることが出来なかった研究者にとって、大河ドラマは背中を押しただけの存在に過ぎないのかもしれません。
アカデミズムに属する研究者達が新選組について論じ始めたことによって、ビューテフル・ルーザーでもフーリッシュ・ルーザーでもない、第三の新選組像が提示されました。つまり、激動の時代を近世と近代の両面を持って駆け抜けた「庶民」有志組織、という新選組像です。
逆説的なのですが、ビューテフル・ルーザーだフーリッシュ・ルーザーと言う人達、両者とも、必ずこの「庶民」であることに言及します。
しかし、両者はその「庶民」自体に意義があるとは思っていなかったのですね。ですが、学術研究者側は、そこが重要と言うわけです。
私は、この第三の新選組像の提示こそ、真のエポックメイキングであったと思っています。
投稿 来栖ムツキ | 2007年8月 7日 (火) 00時42分
>来栖ムツキさん
コメント、ありがとうございます。
新選組を「ビューティフル・ルーザー」とする見方、そして「フーリッシュ・ルーザー」とする見方の二極化は確かにありましたし、今も根強くありますね。
色々な要因はあるのでしょうが、とにかく二極化が進行していて、どちらも互いの意見に固執し、自分自身の考えや認識を見つめ直してみる人は少数派だったようにも感じます。もちろん、あくまで私の印象に過ぎませんが、少なくともそのような印象を抱いてしまう状況だったと思います。
歴史学の側に諦めの気持ちは確かにあったのかもしれません。もしかしたら、どんなに論理的で実証的な見解を述べても「信じたいものを信じる」態度が優先しすぎる人たちに、関わりたくないという気持ちもあったのかもしれません。そのような歴史学を後押ししたのは、確かに大河ドラマ→岩波書店の流れだったのかもしれませんね。正直、私は松浦玲氏が岩波から新選組の本を出したとき心から驚きましたが、「まあ新書だし、それぐらいは出てもおかしくないか」という気持ちも多少ありました。
でも、同じ岩波から今度は新書以外の形で宮地氏が『歴史のなかの新選組』を出したときは、さらに驚きましたね。でも、同書をよく読んでみると、確かに昔から新選組に興味を持っていたことが明記されているんですよね。となると、もともと新選組に興味を持っていた研究者が新選組の本を出したというだけの話なんですよね。そのきっかけを作ったのは、確かに大河ドラマ→岩波書店の流れだと私も思います。
そして、来栖ムツキさんが重視されている第三の新選組像は、確かに重要ですね。「ビューティフル・ルーザー」あるいは「フーリッシュ・ルーザー」の立場からは深く言及されてこなかった面を重視している第三の新選組像が今後どのように描かれ、どのように研究が深化していくのか、私は非常に楽しみにしています。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年8月 8日 (水) 00時08分