思い入れがある歴史記事10個
ブログというものは新しい記事をどんどん書いていくと、昔書いた記事が段々探しにくくなる傾向があります。もちろん、訪問してくださった方には一生懸命書いた新しい記事を読んでいただけたら嬉しいのですが、古い記事にも力を入れて書いたものや思い入れが深い文章があります。それらを風化させないためにも、昔書いた歴史関連の記事の中から、10個を選んで紹介してみたいと思います。
特に、最近になって初めて私のブログを訪問してくださった方で、昔の記事を読まれていない方などに、せっかくですので読んでいただけたら幸いです。
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コメント
面白い記事がありますね。
密着型な人間のせいか、多くのファンと話す機会があります。確かにパルディア氏の述べるような「歴史を動かすことのない史実」に注力する作家が多いのが新選組作家の現状でしょう。しかし、ファンの多くは新選組隊士の「生きていた証」を求めています。それは実際に生存していたということを実感したいためでしょうか。その気持ちはじゅうぶんにわかります。
要は昔出た『脳内革命』と似たようなもので、1行で書けることを1ページ、あるいは短編として作り上げる。そういった行為が空想を生み、なかには『噂の真相』なみのニュースソースが登場して、それが「ひとり歩き」して、ひょんなことから何年、何十年後に登場したりすることが生まれていることです。
アカデミズムが出す新選組本はそういった瑣末な出来事でなく、あくまでも歴史とは?という観点からという意味での探求だと思います。
慶応3年、幕臣となった近藤勇の採った行動、そして新選組の活動なんかもけっこう掘り出された歴史といえましょう。
ものごとには何事にも『基礎』と『応用』があります。基礎ができないものが応用を求めれば、ある点でゆがみが出るものです。
新選組においてはまだまだ基礎が足りないようですので、これからの課題となると思います。
投稿 あさくらゆう | 2007年7月 2日 (月) 00時32分
>あさくらゆうさん
コメント、ありがとうございます。
そうですね、新選組に限ったことではないかもしれませんが、特定の人物や組織のファンの方は、「生きていた証」を求める傾向がありそうですね。そういうファン心裡は私も理解できます。
『噂の真相』なみのニュースソースが「ひとり歩き」してしまうというのも、言いえて妙ですね。同感です。アカデミズムはそのような空想を相手にすることはないでしょうね。
新選組においてはまだまだ基礎の段階だというご意見にも同感です。空想が事実として受け入れられている現状、もしくは空想と事実の峻別を重視しない現状では、危なくて応用には進めないでしょう。これから、本当の意味で新選組の実像が追究されえばいいなぁと願っています。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年7月 2日 (月) 20時33分
僕の大学時代の先生の一人に、「宇垣 纏」を専門的に研究されている方がいました。ですがその先生、「宇垣 纏」の事が、大嫌いだったんですよね。
「歴史家と「ファン系研究者」-主に新選組研究を素材にして-」という記事を読んだ当時、その先生を思い出してしまいました。
「アンチファン系研究者」とかでも無いと思います(汗)
投稿 ストラップ | 2007年7月 3日 (火) 01時19分
>ストラップさん
コメント、ありがとうございます。
研究者のスタンスは色々ですよね。何故それを研究するのか、その人だけの理由があるんですよね。何がきっかけで興味を持つかは人それぞれなんでしょう。
だから、同じ研究対象でも、人によって色々な見方が出てきて面白いと思いますね。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年7月 3日 (火) 20時37分
どうも、来栖です。
>●近藤勇と後藤象二郎、および大久保利通
↑の記事中で紹介いただいている拙ブログは移転させてしまったので、移転先を記させて下さい。
http://mkuru.blog.shinobi.jp/Entry/58/
それにしても、今、あらためて読み直してみると、何故か新鮮ですね!と、同時に色々な思いが頭をよぎります。
近藤と後藤の発言の違いは、突き詰めれば、彼等が想定している国家像の違いなわけですよね。結局は、「天皇という存在をどうするのか?」という点に行き着くと思うのです。
ですが、どうも幕末ファンの間では、この近藤と後藤のやりとりは大政奉還を絡めて、「幕府をどうするか?」という問答であると認識されているような気がします。近藤は幕権維持派で、対する後藤は大政奉還派という図式ですね。
確かに、表面的にはそうなのかもしれませんが、それは表層のみしか見てない人の意見なのではないかと私は思っているのです。
記事で紹介された両者の会話を見る限り、後藤や大久保の考える「天皇」と、近藤のそれは違っています。私はその点が最も重要に思えます。そして、従来、後藤や大久保の考える「天皇」の方が進歩的で、近藤や松平容保などの考える「天皇」の在り方は旧式であると喧伝されてきました。私は、そういった捉え方の再検討が必要な時期に入ったのではないかと、最近感じています。
投稿 来栖ムツキ | 2007年7月 3日 (火) 23時06分
>来栖ムツキさん
コメント、ありがとうございます。
そう言えば、以前にブログを移転されたんですよね。申し訳ないので、記事中のリンクを後で修正しておきますね。
さてさて、私自身も自分が過去に書いたものを読むと「あ~、そう言えばこんなこと書いたなぁ」と新鮮な気持ちになります。ともかく、来栖ムツキさんがおっしゃるように、「幕府をどうするか」という問題は、「天皇をどうするか」という問題につながってくると思います。
天皇が大政奉還を受け入れるか否かだけでも天皇の立場はだいぶ変わってくるわけで、「天皇をどうするか」という考え方の違いが大政奉還の支持・不支持を決める重要な指標になっていることが、後藤と近藤のやり取りから窺えますね。少なくとも、両者の「天皇の意志」を重視する姿勢がまるで異なるのは確かです。
私も、後藤や大久保の天皇観が「進歩的」という見方はしません。と言うよりそもそもの話、どちらが進歩的でどちらが旧式だとか言える問題なのだろうかという気持ちが強いですね。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年7月 4日 (水) 21時15分