「兵農未分離」の八王子千人同心
江戸時代には「士農工商」という固定的な身分制度が成立していて、明治になってから「四民平等」が実現されたという単純な図式は、多くの日本人に強固に根付いている江戸時代認識だと思います。その図式は大まかに言えば正しいのですが、しかし単純にその図式に当てはめることのできない様々な身分が、江戸時代には存在していました。また、身分間の移動も少なくありませんでした。
「農」から「士」へ、あるいは「士」から「農」へなど、身分間の移動が行われているとなると、「武士とは何か」という疑問が生じてくるかもしれません。それを考える上で、多摩地域に居住していた特異な武士集団・八王子千人同心の存在は、手がかりになるようです。ここでは、久留島浩編『シリーズ近世の身分的周縁5 支配をささえる人々』(吉川弘文館、2000年)に収録された、神立孝一氏の「八王子千人同心」という論文を紹介してみたいと思います。
神立孝一氏は論文「八王子千人同心」の中で、武士と農民の違いについて、以下の三点を指摘しています。
① 年貢を受け取るのか支払うのか、という点。村の年貢を取り立てるのが武士で、納めるのが農民。
② 農民は五人組制度に組み込まれて「五人組帳」に名前が記載され、さらに檀家制度を基盤とする戸籍制度とも言える「宗門(宗旨)人別帳」に名前が登録される。しかし、武士はそれらに登録されない。
③ 「苗字帯刀」が武士の特権で、さらに武士は城下町などの「都市」に集住するのに対し、農民は「村」に居住するという生活領域の違いがある。
以上の三点は、豊臣秀吉が推進した政策によって、「兵農分離」が進んだ結果によって現われたものだと指摘されます。そのことから、「武士」という身分は近世になってから出現したものだとも指摘されます。中世までは、普段は農業に従事している人間が、戦時には武器を持って戦場に赴くといったことが普通で、武士を専業としている人間はごく一部だったからです。
豊臣秀吉の政策以降、「兵農分離」が進み、上記に挙げたような「武士と農民の違い」が現われてきます。ところが八王子千人同心は、上記の「武士と農民の違い」で挙げた武士の特徴と農民の特徴を両方持っていたのです。神立孝一氏は、次のように指摘しています。
「八王子千人同心」は、武蔵野国多摩郡八王子を中心に居住し、近世初頭から幕末にいたるまで、日常的には農業を営み、年貢を納入しているのであるが、同時に、扶持米・切米を給付され、時には武士としての「役」を担う存在でもあった。
普段は「農民」と同様に農業を営み、「人別帳」にも登録されていた八王子千人同心は、しかし時には「武士」として動員され、将軍が日光東照宮へ参詣する際のお供をしたり、江戸城修築の際の警備を行っていたのです。幕末期には第二次長州征伐にも参加しています。八王子千人同心は、武士と農民の両義性を有した、いわば「兵農未分離」の存在です。
太宰春台は『経済録』において、千人同心を武士の理想の姿として論述しているそうです。春台は、兵農分離が進んでいなかった頃の中世を想起して、そのように述べたのでしょう。「千人同心は、一人の人間が二重の身分を有しているようにみえる。だがそれは、武士が専業化し兵農分離の過程が進むことによって、そのように映るのではなかろうか」とは、神立孝一氏の指摘です。
やがて、八王子千人同心のなかには、自分たちを「武士」身分として「農民」と区別しようとする動きが強まってきます。「寛政御改正」がそれを決定付け、八王子千人同心は近世後期になってからようやく、武士としての身分を完全に獲得することになります。
江戸時代には「士農工商」という身分制度が存在していたというイメージはありますが、それはすべての地域に当てはまっていたわけではなく、少なくとも多摩地域においては「兵農分離」が近世後期まで進まなかったのです。神立孝一氏は論文の最後で、次のように述べています。
近世的な身分社会の基盤たる兵農分離は、かくして旧慣と相克しつつ少なからぬ時を経ながら整えられていったのである。「兵農分離」の過程は、決して画一的なものではなかった。幕府や大名の有力家臣団はまだしも、千人同心のような下級武士層においては、近世最後のおよそ五十年余こそが、「農」から離れた「士」の時代だったのである。しかしながら、兵農分離が完成し、あらゆる人々の共通認識になっていった段階では、それを支える基盤がすでに古い制度となり、うち崩されるべき対象となっていたというのは、歴史の妙というほかにない。
八王子千人同心は、多摩地域の歴史を考える上で、無視できない存在です。また近年、この八王子千人同心の存在に着目しつつ、新選組を論じている研究者も存在します。どちらも多摩を基盤にしていたというのが、まず重要ですし、両者の関係性もあります。新選組隊士・井上源三郎の兄・松五郎は、八王子千人同心でした。新選組隊士の中島登も、千人同心に所属していたそうです。
また、新選組については、「士道」とか「武士になりたかった」とか、まるでスローガンのように叫ばれ、新選組と「士道」を安易に結び付け過ぎる傾向もあると思います。そもそも私は、「新選組の隊士たちが武士になりたかった」と言われていること自体に、「本当か?」と疑いを抱いております。論証よりもイメージ先行な気がします。
それでも仮に、新選組隊士たちの多くが「武士」になりたかったとして、「武士」とは何なのか、彼らは「武士」をどんな存在だと認識していたのか、それを考える上でも八王子千人同心の存在は、何らかの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
また、八王子千人同心研究者としての立場から、新選組を丁寧に分析した研究書として、吉岡孝『八王子千人同心』(同成社、2002年)があります。この吉岡氏の著書について、ここで紹介した神立孝一氏が、『国史学』187号(2006年)に書評を書いています。
<関連記事>
・新選組情報を読む-<士道>の虚構、<政治>の実態-
・吉岡孝氏による新選組論
・江戸時代の身分願望
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コメント
どうも、来栖です。
最近、色々あってインターネットも出来ない状態が続き、パルティアホースカラーさんのブログも閲覧していなかったのですが、その間にこんな記事を書かれていたとは!
>この吉岡氏の著書について、ここで紹介した神立孝一氏が、『国史学』187号(2006年)に書評を書いています。
↑知りませんでした!
さっそく、探してみようと思います。
情報、ありがとうございます。
私も新選組が「武士になりたかった集団」と規定されることに違和感を覚える者の一人です。
新選組隊士そのものは、もともと士分だった人間が多いですし、「武士になりたかった」と規定するのはちぐはぐな印象ですね。
井上兄弟もそうなのですが、親族に士分の者がいて、当人は士分ではなかったが新選組隊士になった人物に大石鍬次郎という人物もいますね。
彼も多摩出身ですが、源三郎や鍬次郎みたいなケース、あるいは、いとこが千人同心だった土方歳三など、実に多摩らしいと思います。彼等は身分として武士ではなかったかもしれませんが、心もち自体は千人同心なんかと大差なかったんじゃないかと思います。
ですので、特定の身分を欲しての行動というより、やはり江戸幕府や徳川将軍家へ、そして多摩という地域に対する思いが彼等を行動に至らしめたと考えるほうが辻褄が合うように思えます。
投稿 来栖ムツキ | 2007年6月 3日 (日) 22時39分
>来栖ムツキさん
コメント、ありがとうございます。
まずは来栖ムツキさんがインターネット可能な状態に戻れたようで、良かったです。
神立孝一氏の論文は八王子千人同心を知るためには手頃なものなので、いつか紹介したいと思っていました。しかしながら、記事にするタイミングがよくなかったですね(笑)。
それはともかく神立孝一氏は、このブログでも以前紹介した吉岡孝氏の『八王子千人同心』の書評を書いていますので、その点もついでに紹介しておこうかなと。喜んでいただけたようで何よりです。
新選組が「武士になりたかった集団」という考えはおかしいですよね。中核メンバーの中にそもそも武士身分の人間がいたわけですし。史料を見ても、彼らが武士になりたかったということを明確に証明してくれるものはないと思います。土方歳三が八王子千人同心と似たような心持ちだったというのも、確かにありそうですね。
>特定の身分を欲しての行動というより、やはり江戸幕府や徳川将軍家へ、そして多摩という地域に対する思いが彼等を行動に至らしめたと考えるほうが辻褄が合うように思えます。
上記の来栖ムツキさんのご意見に、まったく同感です。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年6月 3日 (日) 23時26分