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2007年5月 3日 (木)

龍馬暗殺事件をめぐって

結論のほうがはじめにあって、史料をその結論に合わせて曲解してしまう」。これは吉川弘文館の日本史ライブラリーの1冊として刊行されたばかりの、谷口克広『検証 本能寺の変』の「あとがき」に記された言葉です。この言葉は、本能寺の変において明智光秀の背後に黒幕がいたとする、いわゆる謀略説全般に共通する特徴を批判したものですが、同様の批判は幕末の坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺事件の黒幕説にも適用できると思います。

坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された近江屋事件において、事件の裏に薩摩藩の関与があったのではないか(いわゆる薩摩藩黒幕説)と考える人が少なくありません。もっとも強く主張されているのが、西郷隆盛や大久保利通が、暗殺実行犯の見廻組に龍馬の居場所を教えたのではないかとするもの。ほかにも、そもそも暗殺の実行犯が薩摩藩士の中村半次郎だったとする考えを主張される方もいます。

しかし私は通説通り、龍馬と慎太郎の殺害実行犯は見廻組だと思っています。見廻組に指令を下した者がいるかどうかまではわかりません。決め手となる史料に欠けるからです。しかし、もしも命令者や共謀者がいるとしたら、幕府もしくは会津藩などの中にいる人間(いわゆる佐幕派。歴史作家・桐野作人氏の定義を借用すれば、「幕権維持派」)だろうと考えております。

何故なら、幕臣や譜代藩・親藩の藩士たちの中には、薩長が進めているらしき不穏な動きや、土佐藩や芸州藩の大政奉還運動に不快な気持ちを抱いている人間が多かったからです。例えば、佐倉藩の江戸留守居役・依田学海の『学海日録』(第二巻、岩波書店)を見ると、大政奉還への不快感・反感が率直に述べられています。大政奉還の情報を江戸で受けた学海は驚いて、「逆藩等、陰に公卿を誘して非法の政を為す」と述べています。

また、見廻組の佐々木只三郎の実兄・手代木直衛門(会津藩士)は、龍馬暗殺の指令を出したとも言われる人物の1人ですが、彼は「王政復古など思いも寄り申さず候」と、慶応3年の11月に述べていることが、越前藩士・中根雪江の「丁卯日記」に記されています。手代木は、従来の幕府制度を維持したい立場であることが明らかです。そのためには、大政奉還ですら許容できないわけです。

中根の日記には、「内府公(徳川慶喜)のご腹心にて、実に政権に執着これなきは永井(尚志)ばかり」という、在京幕閣の様子を記した記述もあります。新選組の近藤勇は龍馬暗殺4日前の書簡の中で、大政奉還を「驚愕の至り」と述べ、江戸から兵力が「猛烈の勢いにて」上京してくれれば、状況を「挽回」できると言っています。近藤勇も、大政奉還を認めたくない気持ちであることがわかります。

以上のように、京都と江戸を問わず、多くの幕臣や譜代藩・親藩の藩士が大政奉還に反対していることがわかります(引用したのはごく一部です)。薩長や土佐の動きに関わっている龍馬は、佐幕派ないしは幕権維持派にとって、殺害したいぐらい憎むべき存在だったとしても、おかしくはありません(龍馬のことを知っていればの話ですが)。

くわえて、龍馬には、慶応二年に寺田屋で幕府役人を射殺したという前歴があります。それは龍馬を殺害する大義名分にもなったことでしょう。実際、見廻組出身の今井信郎も、その事件を名目に出動した旨、語っています。

また、慶応3年11月に、土佐藩内の佐幕派33名が連署して藩主に提出した建白書があります。そこでは、板垣退助や後藤象二郎、中岡慎太郎や坂本龍馬が批判の対象になっています。佐幕派から見れば、討幕を企図する板垣や中岡も、大政奉還を推進する後藤も龍馬も、ともに憎むべき存在だったのです。そして、龍馬に向けられた批判理由は、薩摩と長州の間で不穏な動きをしていることと、先述の寺田屋での事件だったのです。

以上のような理由から、佐幕派には、坂本龍馬にしろ中岡慎太郎にしろ、殺害動機が充分あると思います。肥後藩士・上田久兵衛の日記(宮地正人編『幕末京都の政局と朝廷』に収録)によれば、幕府は慶応元年ごろにはすでに薩長の間で活発に動いている龍馬を警戒していたようです。だからこそ、寺田屋での襲撃事件も起きたわけですね。

ところが私には、薩摩藩士たちに龍馬を殺さなければならなかった理由が見つかりません。よく、「討幕を目指す西郷にとって、龍馬は邪魔だった」という殺害理由を聞きますが、それでは納得できません。なぜ、討幕を目指すと龍馬が邪魔になるのでしょうか?龍馬が何か、討幕の邪魔になるような積極的な活動をしたでしょうか。結論から言えば、龍馬は討幕の邪魔をしていません。

まず、これは前提事項として押さえておきたいところですが、討幕派と公議政体派(とりあえず、龍馬はこちらに含みます)は、「王政復古」という共通の目標を持っていました。目指すべき王政復古の内容や、それに至るまでの手段について意見の相違はあったかもしれませんが、ともかく王政復古を目指していました。それが、討幕派と公議政体派の共通性です。大政奉還も、王政復古への通過点として、討幕派にとって許容できる事項です。つまり、私は討幕派に龍馬を殺す動機など存在しないと言いたいのです。

薩摩藩黒幕説(あるいは実行犯説)を支持される方は、討幕派と公議政体派について、私が述べた「目指すべき王政復古の内容や、それに至るまでの手段について意見の相違はあった」点を重視しているのでしょう。しかし、「意見の相違」が重要であるならば、討幕派と公議政体派の「意見の相違」よりも、その両者と佐幕派との間の「意見の相違」の方が、はるかに大きいです。何しろ、討幕派と公議政体派はまがりなりにも「王政復古」という共通目標を持っていましたが、佐幕派は「王政復古」なんて事態は絶対に嫌なのですから。

「王政復古」を目指す点で共通しているのならば、討幕派に近い意見から公議政体派に近い意見に変える者がいますし、その逆の人間も当然います。坂本龍馬は、その振幅が特に激しかった人物です。慶応3年10月には後藤象二郎と一緒に大政奉還を喜んだ龍馬も、その前月の9月には、後藤を帰国させて討幕論の板垣退助を上京させたい考えを披露しているのです。

そのようなことからも、討幕派と公議政体派は、相互に行き来・転換が可能なほど、考え方に共通性があったグループなのです。討幕の密勅の降下工作に関与した小松帯刀は、同時に大政奉還運動を進める後藤象二郎や辻将曹とも、しきりに交流しています。研究者によっては、この小松の行動を、武力討幕路線から大政奉還路線へ転換したと見る人もいます。

また、討幕派に属していた薩摩藩士の伊地知正治は、大政奉還ののち、徳川慶喜を高く評価する意見書を書いています。そこには、「徳川前日の重罪悔悟」云々という文章から始まり、新しくできるであろう政府内で慶喜を高い役職に就けるべきだという意見が記されているのです。小松の場合は研究者の評価が分かれていますが、伊地知に関しては、公議政体派寄りの意見に変化したものと見て間違いないでしょう。

このような事例から見ても、討幕派と公議政体派はそれほど隔たった考え方を持っていたわけではなく、討幕派の人間が公議政体派になることもあれば、その逆もありうるぐらい、共通性が強かったと言えるでしょう。要するに、佐幕派(幕権維持派)が大政奉還を許容していないのに対して、公議政体派と討幕派は大政奉還を許容しているという特徴が指摘できます。

大体、公議政体派に近い意見を持ったら討幕の邪魔になるのなら、慶喜を高く評価していた伊地知正治は、討幕派にとって邪魔者以外のなにものでもないでしょう。伊地知のような意見が薩摩藩内で支持を得たら、それこそ討幕などできないはずです。実際、薩摩藩内にはかなりの討幕反対論者がいました。伊地知のような人物を邪魔者と見なして殺すのであれば、いったい西郷や中村は何人の人物を殺せばいいのでしょうか?きりがないはずです。

「龍馬は特に大物で影響力があるから、そのため他の誰よりも邪魔だと見られて殺されたのだ」という意見を言う人もいるかもしれません。しかし、大政奉還運動の中心人物は龍馬ではなく、後藤象二郎です。後藤の同僚・寺村左膳の手記には、後藤について「尽力苦心、筆紙の及ぶところにあらず」と記されています。そういう人物を殺そうとせず、龍馬だけ殺す必要性が感じられません。大政奉還を推進した人間が討幕派の邪魔者ならば、討幕派にとって真っ先に消すべき存在は後藤だったはずです。

そうは言ってももちろん、龍馬は重要人物です。私もそれは否定しません。しかし、そうであればなおさらに、薩摩藩は龍馬を殺すわけにはいかないのです。西郷や大久保は討幕を成功させるためにも、できる限り土佐藩を味方に付けたいと思っていました。多くの政治勢力を味方に付けておいた方が、自身の行動を正当化しやすい効果もあります。

その状況で、土佐藩士の龍馬を殺すはずがありません。もしもバレたら、土佐は薩摩討幕派の敵になってしまいます。西郷や大久保が龍馬を殺そうと思ったら、土佐藩を敵に回す覚悟が必要なのです。その場合はむしろ、討幕がさらに難しいものになってしまうと思うのですが。

また実際のところ、龍馬の殺害事件に薩摩藩が関与していたことを証明する史料は一切ありません。「薩摩がやったのではないか」という噂話の類は史料として残っていますが、その噂がどこから出てきたのか、信頼できる情報筋から出てきた情報なのか、情報筋が確かだとしても誤報・誤解だった可能性はないかなどの検討を経ることなく、噂話の類を薩摩藩関与の証拠史料に使うことはできません。薩摩藩関与を主張する論者は、これらの吟味・検討を経ることなく、安易に噂話が記された史料を自説の根拠に使っている傾向が強いです。

「龍馬殺害に薩摩が関与したのではないか」という類のことが書かれている史料は、『肥後藩国事史料』など、いくつか存在します。それらは龍馬暗殺に薩摩が関与したことの証拠としてはきわめて不十分ですが、「龍馬殺害当時、すでに薩摩藩が関与していたのではないかという噂があった」ことの証拠にはなります。しかし、噂が流れていたことと、その噂が事実であることの間には、大きな落差があります。「噂がある」ということだけでは、薩摩藩が関与していた証拠にはならないのです。

『肥後藩国事史料』の場合、なぜ肥後藩なのか、まずは考える必要があるでしょう。龍馬暗殺事件の当事者でもない肥後藩が、どうやって薩摩藩や土佐藩に関する情報を入手したのか。『肥後藩国事史料』には、そのような疑問への解答は記されていません。ほかの史料を見ても、それはよくわかりません。しかし、それがわからなければ、『肥後藩国事史料』の記述を安易に信用することはできないのです。『肥後藩国事史料』に龍馬殺害記事を書いた人は、もしかしたら自分の妄想・推測だけで、根拠もなく無責任に薩摩藩の関与を記した可能性だって否定できません。

西郷隆盛やら大久保利通やら中村半次郎らが、龍馬暗殺に結び付くような怪しい動きを見せていた様子も、史料上には見当たりません。薩摩藩士と見廻組隊士の間に人的な接点があるということや、維新後に龍馬を斬ったと言う今井信郎に対して西郷隆盛が寛大な態度をしている事実をもって薩摩を怪しむ人がいますが、怪しいということを指摘するだけでは、薩摩藩の関与を証明したことにはなりません。

「西郷は見廻組出身の今井に寛大だった」という話から、「西郷が龍馬暗殺の黒幕で、見廻組に龍馬殺害を指令もしくは示唆したんだ」という発想に至るのはあまりに短絡的です。その発想(思い付き)に史料的根拠があれば別ですが、史料的根拠もなく「事実」だと主張されても、「それはただの思い付きであって、証拠はないでしょう?」と反論したくなります。

直接的な証拠となる史料がなかったとしても、十分に納得できる推論が展開されていれば別です。しかし、多くの論者は先に指摘したように、史料批判が不十分で、なおかつ「龍馬は討幕の邪魔」という認識を無批判に信じ込んでしまっているため、説得的な議論を提示している例を、私はほとんど見たことがありません。

龍馬殺害の薩摩藩黒幕説というものは、討幕派と公議政体派の相違点ばかりに注目し、共通性を無視してきたがゆえに出てきた考え方です。「討幕派と公議政体派には妥協点が一切なく、決定的対立状態だった」という認識が正しければ、確かに薩摩藩は怪しく見えるかもしれません。しかし両者の共通性に着目すれば、そんな考えは起こりようがありません。少なくとも、「討幕派VS公議政体派」の図式を疑ってみることぐらいは必要なのではないでしょうか。

私は龍馬暗殺事件について、薩摩藩もしくは薩摩藩士が何らかの形で関与したという説に強い疑いを抱いているので、今後も同じテーマで記事を書くことがあると思います。

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コメント

龍馬暗殺についての力作、拝読しました。
まったく妥当なご指摘で、全面的に賛成です。

『肥後藩国事史料』の記事については、肥後藩細川家の政治的立場も考慮に入れる必要があると思います。
同藩京都留守居の上田久兵衛が一会桑権力の有力な同伴者で、薩摩藩とは相互に政敵関係にあったことは、宮地正人氏『幕末京都の政局と朝廷』によく描かれていますし、白石烈氏「『公武合体』をめぐる会津藩の政治活動」(『史学研究』235号、2002年)でも、上田久兵衛をはじめとする肥後藩周旋方の一会桑権力寄りの活動がよく描かれています。

こうした肥後藩の親会津、親一会桑的な政治的立場は慶応三年になっても、それほど変化はないと思います。また当該期における肥後藩の活動の焦点が後藤象二郎への接近にあり、武力討幕派と公議政体派の分断といいますか、薩摩藩と土佐藩の分裂をめざしていたように思います。
その立場から龍馬暗殺を見れば、下手人を薩摩藩にしたい希望的観測が働いているように感じられます。あるいは、そう吹聴することで、薩土の対立を煽れるという計算もあったのかもしれません。

そのように見れば、近江屋事件の実行犯探しはむろんですが(すでに結論は出ていますが)、近江屋事件が肥後藩も含めて諸政治勢力にどのような波紋を拡げたのかという視点も興味深いのではと思います。

投稿 桐野作人 | 2007年5月 3日 (木) 16時26分

お久しぶりです。

>『肥後藩国事史料』に龍馬殺害記事を書いた人は、もしかしたら自分の妄想・推測だけで、根拠もなく無責任に薩摩藩の関与を記した可能性だって否定できません。

 当該記事を書いた人って肥後藩家老の有田将監でしょ。妄想と推測の産物と決めなくても、風評を記していると、ただそれだけの話とみなせばよろしいのでは。2006年3月17日の貴ブログでは「幕末の肥後藩は政治史の表舞台では目立つ活躍をしなかったものの、情報収集に力を入れていたようです。そのため、『肥後藩国事史料』は、幕末史研究の基礎的史料となっています」と評価されていましたが、今回は手厳しいですね。
 話は変わりますが、元禄の時代、あの赤穂事件で当事者でない藩の探索書も史料として重宝がられています。龍馬の事件については尾張藩や鳥取藩も記録を残していますが、当事者でない藩の情報は信用がなりませんかね。


投稿 鏡川伊一郎 | 2007年5月 3日 (木) 19時15分

お久し振りです。
面白い記事が目白押しで、レスしたくて仕方なかったのですが、多忙で読み専になっていた来栖です。

>「西郷は見廻組出身の今井に寛大だった」という話から、
>「西郷が龍馬暗殺の黒幕で、見廻組に龍馬殺害を指令もしくは
>示唆したんだ」という発想に至るのはあまりに短絡的です。

↑ですが、近藤勇が斬首刑になっているので「寛大」に感じられるだけで、もし、近藤が斬首になっていなかったら、別に今井に対する処遇も「寛大」だとは言われなかったと思うんですよね。

でも、よくよく考えでみれば、近藤の時も薩摩藩は早急な斬首刑には反対しています。もし、当時、薩摩サイドの意見が通っていたら、板橋での処刑は無かったでしょうね。
そう考えると、薩摩サイドは、割といつも「寛大」なんですよ。

これは全くの私見ですが、薩摩に「なすりつけたい」人達が、意外に沢山いるというだけ、ということのような気もします。
近藤も言わば「なすりつけ」の犠牲者とも言えますし、薩摩は、ある人々にとっては、なすりつけるのに調度良い存在なのかもしれません。

投稿 来栖ムツキ | 2007年5月 3日 (木) 20時54分

>桐野作人さん

コメント、ありがとうございます。
桐野さんに賛同していただけると非常に心強いです。
また、補足の説明もしていただきまして、どうもありがとうございます。

確かに、肥後藩の政治的立場を見てみると、ずっと一会桑に近い位置にいたようですね。その立場から見れば、薩摩の討幕論に土佐が接近するのは避けたかったでしょうし、できれば土佐を自分の方に引き寄せたかったでしょうね。

私も、桐野さんがおっしゃるように、龍馬暗殺の犯人を薩摩とする希望的観測、ないしは薩土の対立を煽る計算が働いていたのではないかと思います。

近江屋事件の犯人・黒幕探しについては、歴史学界ではほぼ見廻組ということで結論が出ているものと私は認識しているのですが、作家や評論家、あるいは歴史ファンの間では未だに黒幕議論が盛んですね。

「それってどうなんだろうなぁ」と昔から思っていたので、何度も何度も龍馬暗殺について黒幕説を批判する記事を書いているわけですが、桐野さんが言うような「近江屋事件が肥後藩も含めて諸政治勢力にどのような波紋を拡げたのかという視点」での議論はあまりなされていませんね。近江屋事件の議論にはそのような視点を取り入れたほうが、有意義でしょうね。


>鏡川伊一郎さん

久々のコメント、どうもありがとうございます。

鏡川さんが指摘してくださった箇所は、確かに言い過ぎの感もありますね。
ですが、桐野作人さんのコメントにありますように、「手人を薩摩藩にしたい希望的観測が働いている」可能性や、「あるいは、そう吹聴することで、薩土の対立を煽れるという計算もあった」かもしれないと私も考えました。
そのような計算があったのかなかったのか不明ですが、あったとすれば、ただ単に風評を記しただけとは言い切れなくなります。

妄想・推測の産物と決めているわけではなく、その可能性があると述べているだけです。その注意を喚起する意味で厳しい書き方をしました。ですが、結局のところ風評を記しただけかもしれません。

『肥後藩国事史料』が幕末史研究の基礎的史料だという認識は、以前も今も変わりありません。『肥後藩国事史料』は重要かつ貴重な史料で、今後も幕末史研究において大いに活用されるべきだと思っております。
要は、『肥後藩国事史料』全体を信頼できないと言いたいわけではなく、龍馬暗殺について記された一節だけを厳しく評価しているだけです。『肥後藩国事史料』のほかの部分については、龍馬暗殺の記述と同様に胡散臭い話もあれば、大いに信頼できる情報もあります。

尾張藩や鳥取藩の記録についても同様です。当事者でない者が記した史料のすべてに利用価値がないなどと私は思っていません。要は、一つ一つの事例・記事において、その史料が有用かどうかを吟味する必要があると言いたいのです。『肥後藩国事史料』の龍馬暗殺記事については、その吟味がないままに使用されている傾向が強いように感じられるため、その点に疑問を述べたに過ぎません。
吟味の結果、当事者でない人間の記録でも信頼できるものがあるでしょうし、当事者が残した史料でも場合によっては必ずしも信用できないものが出てくるかもしれません。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年5月 3日 (木) 21時02分

>来栖ムツキさん

久々のコメント、ありがとうございます。
読んでいただいているだけでも嬉しいです。どうもありがとうございます。

龍馬暗殺への関与を否定していた近藤勇が斬首されて、一方で龍馬暗殺を自白している今井は西郷の取り計らいでそんな目には遭っていない…確かに、両者を比べると今井がたまたま「寛大」に取り扱われているだけにも見えます。

近藤勇の処置をめぐる件でも同感です。私も、薩摩藩は西郷と今井の件に限らず、意外に寛大な態度をしていることが多いように感じられるんですよね。

「薩摩に「なすりつけたい」人達が、意外に沢山いる」という点は、私も感じております。それには色々な理由があるのかもしれませんが、そんな願望によって史料を曲解して構築された説が人口に膾炙しているとしたら、問題がありますね。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年5月 3日 (木) 21時15分

ちょっと気になりましたので。
今井は兵部省と刑部省では龍馬「暗殺」を自白しておりませんよ。
見張り役だったとして、逃げているのです。

投稿 鏡川伊一郎 | 2007年5月 3日 (木) 22時03分

>鏡川伊一郎さん

すみません。
不正確な書き方をしてしまいました。
暗殺を自白したのではなく、暗殺団の見張りをしていたと自白した…と書けば良かったですね。
ご指摘、感謝いたします。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年5月 3日 (木) 22時52分

私はよく知らないのですが、西郷隆盛が今井信郎の釈放に尽力したために、西郷が龍馬暗殺の黒幕だとされる説があるのでしょうか? それはどのような史料に基づいているのでしょうか?

私が知る範囲では、西郷が箱館戦争の犯罪人にある程度寛大な立場にいたことは確認できると思います。
『西郷隆盛全集』に桂四郎(元薩摩藩家老桂久武)に宛てた西郷書簡が収録されています。明治五年正月十二日付のものです。それには、次のようにあります。

「扨、榎本抔の御処置振りに付いては、御案内通り六ヶ敷(むつかしく)、薩長寛猛の違いにて決し兼ね居り候処、(中略)黒田は初心を変えず、透間々々には追々議論持ち出し候処、大体長州人も近来は思い当り、寛論相立て候得共、木戸一人の処甚だ六ヶ敷御座候処、長人より一向責め付け候故、否みながら落着相成り、此の四日に都て(すべて)特赦を以て免ぜられ、榎本一人丈ケは実兄内へ暫時の慎みと相成り」

大意を取りますと、
「榎本武揚はじめ箱館戦争の犯罪人に対して、薩摩は寛大の処分をしようとしたが、長州が強硬論だった。黒田了介(清隆)が何度も榎本赦免論を説いてまわったので、長州側もだいぶ軟化しており、強硬論は木戸孝允だけだったが、木戸もほかの長州人から説得されて、渋々納得し、正月四日にすべて特赦になった。榎本だけは(首謀者ゆえ)実兄のところにしばらく謹慎になった」

これによるかぎり、黒田清隆が箱館戦争の終結の際、榎本の才能を惜しんだ一件から、薩摩藩は榎本らに一貫して同情的だったようで(じつは会津藩関係者に対してもそうだった)、その赦免を事あるごとに要求していたが、長州側がようやく納得したので、特赦になったということです。

西郷は格別、今井信郎だけを赦免したわけでなく、黒田を支持して箱館戦争の榎本一派全体を赦免するつもりでいたという趣旨ではないでしょうか。
これによるかぎり、西郷や黒田が気にしていたのは榎本の処遇であり、榎本を特赦するなら、今井を含む部下たちも特赦しないわけにはいきません。
榎本も今井も明治五年のほぼ同じ時期に釈放されています(榎本は謹慎のため三月釈放と若干遅れましたが)。むろん、松平太郎などほかの関係者も同様です。

これによるかぎり、西郷が今井だけに格別の温情をかけたとは思えないのですが……。


投稿 桐野作人 | 2007年5月 4日 (金) 01時14分

>桐野作人さん

コメント、ありがとうございます。
また、西郷書簡の引用と解説もしてくださいまして、ありがとうございます。

西郷が今井信郎に対して寛大だったという話には、どうやら今井家に伝わる家伝の存在が影響しているようです。

信郎の孫である今井幸彦氏の「『龍馬暗殺事件』と今井信郎」(『坂本龍馬のすべて』新人物往来社)に、「家伝によると、龍馬裁判中、西郷隆盛は個人的に信郎の命乞いに奔走してくれ」て、信郎が西南戦争での西郷討伐隊の大隊副長となったとき、西郷への恩返しのために「討伐の名目で西下し、熊本に着いたら寝返るハラだった」という話が記されています。

私の手許にないので確認していませんが、今井氏の『坂本竜馬を斬った男―幕臣今井信郎の生涯』には、家伝がもっと詳しく紹介されているようです。

木村幸比古氏は『龍馬暗殺の謎』の中で、西郷が今井を助けたという話があることから、「龍馬暗殺に薩摩の関与があったという疑惑は、つねにぬぐいきれないことも事実である」と述べていますね(木村氏自身は薩摩藩関与に否定的ですが)。

どうも、今井の語った話が、薩摩藩黒幕説を主張される方に無批判に利用されている印象があります。私は未読なのですが、中村彰彦氏の『竜馬伝説を追え』(学陽書房)などが、その説を主張されているらしいですね。

個人的には、桐野さんが引用してくださった書簡にもあるように、西郷は函館戦争の犯罪人のすべてに対して寛大であって、今井を特別扱いしたわけではないと思うのですが。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年5月 4日 (金) 11時28分

パルティアホースカラーさん

ご教示有難うございました。
今井家の家伝が根拠なのですね。
私は西郷書簡という一次史料が優先されるべきだと思いますが。

なお、前回分量が多かったので引用を控えたのですが、西郷がなぜ榎本たちを赦免しようとしたのか、同書簡にその理由も述べられています。

ひとつは「西洋使節出帆前に大論相起り、只此のみ因循いたし居り」云々。つまり、岩倉使節団出発の直前に、榎本たちの処遇をどうするかが懸案となっており、もし使節団が出発してしまうと、政府要人が国内と国外と分かれてしまい、その処分を当分決定できなくなるので、西郷は使節団出発前に決着がつけたかったことがうかがわれます。そして、その決め手が長州側の説得にあったのは、前回書いたとおりです。

もうひとつの理由ですが、これは西郷の明治国家観を示していて興味深いです。
「亜米利加抔は戦争落着、直ちに所置を施し候美談もこれあり、若し責められ候ては何と返答相成るべきや。勿論米国軍艦総督よりも、榎本の儀を政府へ嘆願いたしたき段も申し出候処、黒田了助押し留め置き候次第もこれあり」

西郷は、アメリカが南北戦争終結後、南軍捕虜をすぐ釈放するなどの処置をとったことを高く評しており、もし榎本らを処刑などしたら、外国から責められるに違いなく、何と釈明したらいいのかと述べています。また、西郷がこうした見解をとるようになったのは、アメリカ駐日海軍司令官?からの嘆願があったことも影響しているようです。
ともあれ、西郷が箱館戦争を、アメリカの南北戦争になぞらえ、北軍政府の寛大な処置に見ならうことが近代国家の道徳的な姿だと考えていたことが、榎本たちの赦免処置の背景にあったことは留意されるべきかもしれません。

西郷のこのような国家的見地に立った考えと、今井家の家伝とは落差がありすぎますね。
どちらがより信頼できるかは自明ではないかと思いますが。

あと、今井の口供書で、今井が近江屋事件に関与したことを自供しながら赦免されたのは、鏡川さんが指摘されたように、見張り役だと言い抜けたことがその一因かもしれません。
ただ、それだけでは、新選組元隊士の大石鍬次郎が近江屋事件への関与を否定したのに処刑された理由が説明できません。

あくまで私の推測ですが、近藤勇を近江屋事件の責任者として処刑した以上、明治政府はあくmだえ新選組犯人説に固執せざるを得なかったというか、土佐藩側の主張と面目という一線を守らざるをえなかったのではないかと思われます。
その意味では、大石は不幸で不当な犠牲者だったのかもしれません。またそれは同時に、新選組犯人説に固守するという方針を固めた以上、今井の自供内容はさほど意味を持たなかったともいえそうです。

のちに、今井信郎が前言を翻した『近畿評論』を谷干城が読んで激怒し反論に及んだのも、新選組犯人説をもっとも主張した谷の立場と面目が潰されたからだろうと思われます。

近藤勇を処刑してしまった以上、明治政府はその後も新選組犯人説の方針を変えるわけにはいかなかったのでしょう。そのため、思わぬ災難や幸運が起きたともいえそうです。

投稿 桐野作人 | 2007年5月 4日 (金) 12時24分

>桐野作人さん

私も、やはり一次史料を重視すべきだと思います。龍馬暗殺の議論においては、どの説にしても、各史料の信頼度・質の高低を考慮することなく、自説に都合の良いことが書いてある史料を利用している例が少なくないですね。

西郷書簡のさらなる内容紹介もしてくださいまして、ありがとうございます。西郷が函館戦争をアメリカの南北戦争と重ね合わせて考えているのが興味深いですね。岩倉使節団の出発前だったから、なおさら外国に責められることを心配したのでしょうか。そのような国家的見地から榎本たち(今井信郎を含む)の赦免を提言していたと考える方が、今井家の家伝よりも信頼できそうですね。

今井家の家伝にしても、その内容が仮にある程度本当だったとしても、それを「龍馬暗殺の黒幕は西郷」という考えに簡単に結び付けてしまっていいものか、疑問です。

明治政府が、龍馬暗殺の犯人は新選組という考えを固守せざるを得なかったという推測は、なかなか興味深いですね。近藤を犯人として処刑してしまった以上、大石が何を言っても無駄だったということになるのでしょうか。そうだとすれば、今井が赦免されたのも当然の成り行きだったのかもしれませんね。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年5月 4日 (金) 20時51分

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