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2006年11月15日 (水)

龍馬暗殺論議における「薩摩藩黒幕説」への疑問 その2

私はこのブログで、坂本龍馬および中岡慎太郎暗殺事件の黒幕が、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通なんてことはありえないと、何度も語ってきました。先日も、「龍馬暗殺論議における「薩摩藩黒幕説」への疑問」という記事を書いたばかりです。

しかし、旧暦の11月15日はまさに龍馬と慎太郎が暗殺された日ということなので、上記の記事本文で述べたこととは別の観点から、薩摩藩黒幕説への疑問を表明してみます。これから述べることは、私と同様に薩摩藩黒幕説を支持していない方には当たり前の事実に過ぎませんが、薩摩藩黒幕説を信じていらっしゃる方の中には、その事実を忘れている方や知らない方もいるかもしれません。

どういうことかと言えば、薩摩藩黒幕説を主張される方は、西郷や大久保が龍馬を殺さなければならなかった理由として、「大政奉還を推進する龍馬が、薩摩藩の武力討幕方針にとって邪魔だったから」と述べる場合が多いです。仮に、その殺害動機が正しかったとするならば、龍馬暗殺前後の西郷や大久保の行動に、私は納得がいかないのです。

細かい日付を述べていきましょう。龍馬が暗殺されたのは、慶応3年の11月15日。徳川慶喜の大政奉還の決意が朝廷に認められたのが、1ヶ月前の10月15日。その2日後の17日に、西郷・大久保そして小松帯刀という在京薩摩藩邸の代表者3人が、揃って鹿児島に帰るために、京都を離れます。討幕挙兵を実現させるために、薩摩藩全体の藩論を統一するためです。問題は、ここからです。

西郷が京都に戻ってくるのは11月23日。すでに龍馬は殺されています。龍馬が殺されたとき、西郷は海の上にいました。小松は病気で鹿児島を離れることができず、龍馬が殺されたときには鹿児島にいます。大久保は、まさに龍馬が暗殺された11月15日に、京都に戻ってきました。

しかし大久保は、もともと11月15日に京都に戻ってくる予定があったわけではありません。もともと、小松が高知に行って土佐藩の後藤象二郎や山内容堂と打ち合わせする予定だったのを、小松が病気になって動けなくなったので、大久保が代わりに高知に行き、そして京都に着いたのが、たまたま11月15日だったのです。「たまたま」というところがポイントです。

西郷・大久保・小松の実際の行動を見て、どう思うでしょうか。「坂本龍馬が武力討幕の障害になっていた」という説が本当に正しければ、西郷や大久保にとって、龍馬殺害はかなりの重要事項のはず。ところが実際には、龍馬暗殺の日に京都にいたのは大久保だけ。それも、偶然その日に京都に着いただけの話です。本当に、西郷や大久保は龍馬を殺害しなければならないと思っていたのでしょうか。彼らの行動を見ていると、龍馬殺害を重要事項あるいは急務と感じているようには思えません。

10月17日から、龍馬が暗殺される11月15日までの約1ヶ月間、西郷も大久保も京都にいませんでした。彼らが本当に龍馬暗殺の黒幕であるならば、龍馬殺害を実行犯に依頼・指示したのは一体いつなのでしょうか。10月17日以前に指令を出していて、暗殺が実行されるまでに1ヶ月近く、あるいはそれ以上の時間がかかったということなのでしょうか。

それに、龍馬を殺害しなければならないと思っている割に、彼らが鹿児島に帰ってしまっていたのは何故でしょうか。薩摩藩黒幕説を主張する方によれば、龍馬は武力討幕の邪魔者だったはず。となれば、龍馬殺害は薩摩藩にとってかなりの重要事項。それなのに、在京薩摩藩邸の代表者たちが揃って鹿児島に帰ってしまったあたりに、本当に龍馬を殺害しなければならないと思っていたのか疑問が生じます。要するに、彼らには龍馬を殺害しようなどという気持ちはなかったのです。「大政奉還を推進する龍馬が、薩摩藩の武力討幕方針にとって邪魔だったから」という殺害動機が、そもそも間違いなのです。

薩摩藩黒幕説に反論しようと思えば、いくらでも根拠を挙げることは可能です。この記事で述べた西郷や大久保の行動については、あくまで薩摩藩黒幕説を支持する方があまり言及しないような気がしたので、明白な事実を指摘してみただけです。龍馬暗殺のときに西郷が海の上にいたことなどを知らない方がいくら声高に薩摩藩黒幕説を主張しても、まるで説得力がありません。どうしても薩摩藩黒幕説を主張するのであれば、せめて基礎的な事実だけは抑えておいてほしいものです。

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コメント

パルティア・ホースカラーさま

続編興味深く読ませていただきました。
とくに、近江屋事件前後の西郷・大久保らの動向を具体的に書かれていて、どう見ても薩摩黒幕説が成立する余地がないと思うのですが、かの説を信奉する方々は、近江屋事件当日、大久保が入京して指令を出したのだとか勘ぐるのでしょうね(笑)。

西郷・大久保の盟友というべき公家の岩倉具視が近江屋事件を知って、坂本・中岡の二人が落命したことを非常に悔しがり、坂本・中岡の仇を討ちたいとまで真情を吐露しています。大久保もまたそんな岩倉を慰めて、当時、下手人だとされていた近藤勇らは自滅するに違いありませんとまで言い切っています。
二人のそういう手紙のやりとりは、かの説の信奉者の方々にはどのように映るのでしょうか? 名うての謀略家の二人が後世の人々を欺くために互いに芝居を打って、黒幕であることを隠そうとしたとでも解釈するのでしょうね。いやはや。

パルティア・ホースからーさんが取り上げられた事例で十分だと思うのですが、ダメを押すためにもうひとつ、西郷書簡を取り上げておきたいと思います。
それは、大政奉還直後、討幕の密勅を携えて鹿児島に帰ることになった西郷が、10月19日付で海援隊の中島作太郎と小沢庄次に宛てた短い書簡です。
帰国のため京都から大坂まで下ったときに書いたもので、内容は、中島・小沢の二人が西郷らが乗船する芸州船に一緒に乗り込むことになっており、西郷が二人にもう乗船支度が始まっていることを知らせるとともに、二人の荷物を積み込むために人足を送りますというものです。

中島作太郎はのちに明治政府の要人となる中島信行ですね。小沢庄次は本名が戸田雅楽で、三条実美の家司で、変名の尾崎三良のほうが有名ですね。彼は龍馬の秘書的な役割をしていました。「新官制議定書」作成にも関わったとされています。
このときの中島の目的地はよくわかりませんが、小沢は長州三田尻で下船して陸路、三条がいる太宰府に向かったことが、彼の『尾崎三良自叙略伝』に書かれています。
また尾崎はこのときの西郷について、西郷が芸州船乗船の案内の人を寄こしてくれ、荷物も運んでくれたと書いていて、上の西郷書簡と合致します。

西郷はこの書簡以来、鹿児島に帰り、坂本・中岡にはもはや会えなくなってしまったのですが、坂本存命中、彼もしくは海援隊に示した西郷の最後の態度は二人の海援隊士への行き届いた配慮と親切だったわけです。

このことからも、西郷が近江屋事件の黒幕ではないことは明らかだと思うのですが、かの説の信奉者の方々はこうした史実は見ようとしないし、見えないのでしょうね。

近江屋事件の政治的背景まで述べなくても、信頼できる史料に書かれている基本的な史実からだけでも、薩摩藩黒幕説は成立する余地などないと思うのですが、これもまた暖簾に腕押しなんでしょうね(笑)。

そうそう、ブログを始めました。URLに書いておきましたので、よかったら、のぞいてみて下さい。

投稿 桐野作人 | 2006年11月16日 (木) 09時31分

>桐野作人さん

コメント、ありがとうございます。
西郷や大久保の行動を細かく見ていけば、彼らが龍馬暗殺の黒幕だと言うのは難しいですよね。龍馬暗殺当日に入京した大久保が指令を出したなど、何の証拠もなしに主張するのは無理がありすぎます。

大久保と岩倉の手紙のやり取りには、2人の悔しさや憤りがよく現れていますよね。あれが本当の心情とは逆のことを綴った芝居だなんて、いくら何でも無茶な解釈です。

西郷の書簡について補足してくださって、どうもありがとうございます。そう言えば、中島と小沢(尾崎)の2人は鹿児島に向かう西郷・大久保と同じ船に乗っていたんでしたね。その2人は、龍馬とかなり親しい間柄にいたわけで、西郷が本当に龍馬を暗殺しようと思っていたのであれば、その2人に気遣いするとは思えません。薩摩藩黒幕説を主張される方は、まさか中島や小沢までグルだったとでも言うつもりでしょうか。

信頼できる史料を素直に読み、また疑う余地のない史実を並べるだけでも、薩摩藩黒幕説に成り立つ余地はないはずですね。それなのに、史料を素直に読まず、自説に都合の良さそうな史料だけ紹介し、自説に都合の悪い事実は紹介しないような方には困ったものですね。

ブログ、拝見いたしました。「三条若君様」の話など、興味深かったです。今後も拝見させていただきますので、ぜひ頑張ってください。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年11月16日 (木) 21時21分

西郷が京都に居なかったから、薩摩藩黒幕説は成り立たないというのはいかがでしょうか。実行犯ではなく黒幕説ですから、京都に犯行時にいなくてもいいわけです。るる京都不在を証明しても意味はないわけです。

投稿 鏡川伊一郎 | 2006年12月10日 (日) 21時29分

>鏡川伊一郎さん

コメント、ありがとうございます。
確かに黒幕説なら、事前に実行犯に指示を出しておけば、犯行当日に京都にいなくても問題ないと思います。

ただ、西郷が京都を離れたのは、龍馬殺害の1ヶ月近く前です。仮に西郷が黒幕だとしたら、龍馬殺害日よりも1ヶ月も前に殺害の命令を出していたことになりますが、そのときの西郷に、特に龍馬を殺そうとする動機がうかがえません。

また、暗殺実行犯はなぜ龍馬を殺害するのに一ヶ月もかかったのか、その理由もイマイチわかりません。

そのような理由から、私は、西郷が黒幕と考えられる根拠はほとんどないと思っています。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年12月11日 (月) 20時19分

あまり、このことに拘る必要はないのではという思いで、コメントさせて頂いたのですが、逆になりましたね。なぜ京都で指示を出したと固定的に考えなければいけないでしょうか。指令はどこからでも可能ではないでしょうか。
私は明治になっての今井信郎と西郷のかかわりかた、あるいは渡辺篤と海江田信義の関係、事件前の佐々木只三郎と八田知紀の親密さなどから、実行犯の見回り組と薩摩藩の関係を疑うものです。
http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/bdba525b8fa3eb6a31ae5fab36afd380

投稿 鏡川伊一郎 | 2006年12月11日 (月) 23時05分

>鏡川伊一郎さん

コメント、ありがとうございます。

おっしゃるとおり、西郷がどうしても龍馬を殺したいのであれば、どこからでも指令は可能だったかもしれません。しかし私は、京都以外の遠隔地から、龍馬殺害を指示しなければならないほど、西郷に龍馬を殺す動機があったはずはないという考えです。

それ以前に、たとえ西郷が京都にいたとしても、西郷に龍馬を殺す理由が全く見当たりません。ですから、薩摩藩と見廻組の人的結び付きなどの問題以前に、私は西郷が龍馬殺害の黒幕になるはずがないと考えています。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年12月12日 (火) 07時11分

そこなんですね。西郷観の違いということでしょうね。私などは西郷は「謀略の人」と思っていますから。
 私はブログに以前、「西郷隆盛、隠された素顔」を載せました。
 ご不興をかうかもしれませんが、よろしければご笑覧ください。小御所会議で西郷は山内容堂を刺せというような勢いでしたよね。その心情の同一線上に龍馬の暗殺もありえたと考えているものです。

 いっそうのご健筆、お祈りしております。

投稿 鏡川伊一郎 | 2006年12月12日 (火) 13時29分

>鏡川伊一郎さん

そうですね、私と鏡川伊一郎では、西郷の評価がだいぶ違いそうですね。
ただ、もしも西郷が謀略に長けた人で、政敵を殺害することに躊躇いを感じないタイプの人間だったとしても、龍馬殺害の黒幕になりうるとは、どうしても思えないのです。

といいますのは、大政奉還前後の龍馬は西郷の政敵ではなく、むしろ政治的には協調すべき間柄だったと思えるからです。
それに、龍馬殺害に薩摩が関わったことを証明できるような史料も、信頼できるものの中にはありませんし。

ともあれ、私自身ももっと議論を深められるよう、勉強してみます。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年12月13日 (水) 00時03分

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