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2006年8月14日 (月)

高橋哲哉『靖国問題』

終戦記念日が明日に迫って、小泉純一郎総理大臣が靖国神社を参拝するのか否か、内外の注目を集めています。しかし、そもそも靖国神社とは一体何なのか、何が問題となっているのか、実はあまり知らないという方も少なくないのではないかと、私は感じています。そこで、この記事では、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、2005年)という本を紹介してみたいと思います。

『靖国問題』の著者である高橋哲哉氏は、東京大学教授で哲学者。哲学者の立場から、靖国問題とは何なのかを論理的に明らかにすることを目指したのが、『靖国問題』という本です。この本はベストセラーにもなったので、読まれた方も多いかもしれませんが、私が気になった記述を中心に、内容を紹介していきたいと思います。引用する際は、すべて赤文字で引用します。

靖国問題の根底にあるのは、戦死した家族が靖国神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深刻な断絶であるとも言えるだろう。私たちに必要とされるのは、これらの感情の存在を直視し、それらが何に由来するのかを可能なかぎり「理解」した上で、靖国問題について自らの判断を形成することである。(18ページ)

高橋氏は第一章で、靖国問題の根底に2つの感情があることを、上記引用文のように指摘しています。そして、『靖国問題』という著書は、恐らく後者の「悲しみ拒否する」感情に共感を抱く人の方が、読みやすい本かもしれません。私も、後者の立場で読みました。特に、「首相は8/15に靖国参拝すべき」と強く主張している方々には、容易に受け入れられない記述が多いかもしれません。例えば、以下のように。

天皇であれ皇后であれ、親であれ妻子であれ、それこそ「当り前の人情」を持っていれば、戦死はまず悲しみとして経験されるだろう。だが靖国の論理は、この「当り前の人情」である悲しみを抑圧し、戦死を喜びとして感じるように仕向けるのだ。戦死の不幸は幸福に、その悲劇は栄光に転換されねばならない。そうでなければ国家は、新たな戦争に国民を動員できなくなるであろう。(54ページ)

高橋氏は、全体を通じて、靖国神社は戦死者を「追悼」する施設ではなく、「顕彰」する施設なのだと繰り返し主張しています。天皇のために戦って死んだ人々を「英霊」として讃える靖国神社の姿勢は、「追悼」ではなく「顕彰」を目的としているということです。明治維新期に官軍に抵抗した人々や、日清戦争や太平洋戦争など一連の対外戦争で日本軍に敵対した国々の人々、あるいは東京大空襲や広島・長崎の原爆で亡くなった民間人などは祀られず、天皇のために戦って死んだ人たちを神として祀っていることからしても、「顕彰」施設と呼ぶ方が妥当とのことです。

靖国問題と言えば、真っ先にA級戦犯合祀問題を思い浮かべる人も多いでしょうが、それについて高橋氏は、以下のような指摘をしています。

日本が連合国による占領状態から主権を回復し、国際社会に復帰することを可能にしたサンフランシスコ講和条約において、日本政府が連合国による戦犯裁判の「判決」を受諾している、という事実がある。東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し、「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら、戦後日本国家を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになってしまう。(69ページ)

私は、戦争責任を突き詰めて考えるのであれば、昭和天皇の責任に言及するのは当然だと思っている人間です。そのように突き詰めると天皇制廃止などの議論になりかねないので、アメリカの配慮もあって、戦争責任のすべてをA級戦犯に押し付けたのです。A級戦犯たちも、それは自覚していたと思われます。

だから逆に、A級戦犯を分祀しても、靖国問題の解決にはならず、戦争責任問題を矮小化し、歴史認識の問題を見えなくしてしまうと高橋氏は述べます。もしも、靖国神社からA級戦犯が分祀されていたら、どのような事態が生じていたか、高橋氏は次のような指摘をしています。

 A級戦犯を排除した靖国神社に昭和天皇が参拝し、「英霊」たちを慰撫する。それは、A級戦犯に主要な戦争責任を集中させ、彼らをスケープゴート(犠牲の山羊)にすることで昭和天皇が免責され、圧倒的多数の一般国民も自らの戦争責任を不問に付した東京裁判の構図に瓜二つなのである。
 一方では、「大元帥」として帝国陸海軍最高司令官であった昭和天皇の責任、そして天皇制の責任が問われることなく免責され、他方では、有無を言わせず戦争に動員され、戦死したという点では被害者と言えるけれども、実際に侵略行為に従事したという意味では加害者であった、一般兵士の責任もまったく問われずに終わってしまう。さらにまた、天皇の権威によって天皇の神社として、それらの兵士を動員することに決定的な役割を果した「戦争神社」靖国神社の戦争責任もまったく問われないことになる。
(79ページ)

中国や韓国の批判を避けるためだけなら、A級戦犯を分祀するか、首相や閣僚が靖国神社に参拝しなければいいだけの話です。何故なら、中国や韓国が批判しているのは、戦争責任があるとされたA級戦犯が祀られている場所に、日本政府のトップが参拝するという行為に対してだからです。しかし、A級戦犯を分祀するだけでは結局、戦争責任問題・歴史認識の問題などが曖昧にされたままで終わってしまうということです。高橋氏が言うように、「近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観」を持つ靖国神社の存在そのものが問題視されないことにもなります。

ともあれ、高橋哲哉『靖国神社』で提示されている論点のすべてを、この記事で取り上げるのは不可能です。まだ高橋氏の著書を読まれていない方には、高橋氏の著書を読んでいただくのが一番かと思います。そこに記されている内容には、賛否両論あるでしょう。あるいは、全面的に支持できないという人もいるかもしれません。そうであったとしても、「靖国問題」をみんなで考える上での糸口になるのであれば、良いと思います。

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コメント

 どうも、来栖です。

 書店で何度も見かけていますが、未読です。しかし、ずっと気になっていたのです。今回の記事で何となく内容が判り、なるほどと思いました。

 昨今の靖国神社にまつわる色々な報道などを知って、一番思うのは、日本人の自己中心主義的思考性ですね。
 自分が幕末という攘夷の狂気に踊った時代に興味を持っているせいか、日本人がその頃と本質的にあまり変わっていないという事を感じます。自分(達)のやり方に固執し、何が一番優先されるべき事なのか?、何が一番大事なのか?ということを忘れてしまうのですね。物事の目標や理想を明確にし、それを実現するために合理的に変革してゆくという事が出来ないのです。目的実現のためならそれまでの自分のやり方を放棄する…ということが不得手なのです。
 現在の靖国神社の在り方というのは、非常に非常に日本的であると思います。この状態を外国人に理解しろ!認めろ!と言うのは、あまりにも自己中心主義であると私は思うのです。理解しなくても認めなくてもいいから、勝手にやらせて!というのが靖国肯定派日本人の本音だと思うのですが、そういう考えでは鎖国するしかないんじゃないか?と思うのです。
 靖国を外国から非難されずに存続させ、かつ首相が参拝しても非難を受けないという方法はいくらでもあると思います。ただ、今現在の在り方では駄目なのです。私もA級戦犯分祀は小手先の策でしかないように思えますが、中韓の非難をかわすという部分では効果はあると思います。そもそも、戦犯になるのが嫌な人間が国のリーダーになってはいけないのですから、リーダーが責任を負うのは当然だと思います。しかし、根本的に靖国神社の在り方そのもの、その歴史観や思想も含め、根っこの部分を変革しないと存在価値そのものが揺らぐことになるのではないかと思います。

 個人的には、国家単位で行う対外戦争の戦死者を戊辰戦争や西南戦争のような内乱の延長線上に配置していることに無理があるのではないかと思っています。

投稿: 来栖ムツキ | 2006年8月15日 (火) 01時47分

どうも、ROMばかりで御無沙汰している松裕堂です。

私は高橋哲哉氏の『靖国問題』については未読なので大したこともいえないんですが、そもそも神道の祭祀には「追悼」(名詞。死者の生前をしのんで、悲しみにひたること)という概念自体もとから希薄なので、その比較上靖国神社に「追悼」の概念より「顕彰」という概念がつよいと感じられる点には私も同意です。

ただし靖国神社など所謂「招魂社」の創設については、幕末に福羽美静(文久二年十二月、霊山に)や高杉晋作(慶応元年八月、桜山にて)など、その走りとして行ったことは比較的著名だと思いますが、その経緯から察しますに、彼らの意中にはおそらく「追悼」・「顕彰」両方の意識が内在していたことでしょう。

祭祀の対象について「追悼」の念を抱こうが、「顕彰」の念を抱こうが、形而上のそれらの問題については、突き詰めると個々の信条にこそかえされるべき問題だと思いますんで、個人的には「靖国神社は戦死者を「追悼」する施設ではなく、「顕彰」する施設なのだ」と限定されること自体に、些か違和感をおぼえます。仮に寺へ墓参りにいっても祈る概念自体、普通は規程されたりはしませんしね。

それと、パルティアホースカラーさんの仰る「中国や韓国の批判を避けるためだけなら、A級戦犯を分祀するか、首相や閣僚が靖国神社に参拝しなければいいだけの話」という点についてなんですが、中国や韓国の批判を中韓政府の靖国神社における問題としてのみ限定し、なおかつ形而上の問題としてのみ捉えれば、全くもって仰る通りだと思います(実際には限定要項が多すぎて現実的には不可能でしょうが)。

しかし同じ形而上のこととして問題を捉えた場合、こんど神道側にとってみれば、ここでいう本来の神道教学上の分祀とは異なる「分祀」という概念自体、神道の教義とは相容れない内容なのだそうで、理屈でもって論じあっても結局は理念のぶつかりあいに終止することでしょう。

件の書籍についてパルティアホースカラーさんの御紹介を読む限り、この本は所謂「靖国問題」を理念の問題として捉える傾向がつよく、現実の政治的駆引きという問題が希薄のようにも感じられます。

かつて中国・韓国のあいだで問題にもされていなかった首相の靖国神社参拝が、いまの「靖国問題」へといたった政治的経緯について考えますと、「ことは到底、形而上の問題としてのみ捉えることはできない」と私なんかは考えております。

理念・理屈・心情や政治・法律・駆引きなどなど、当然ながらややこしい問題ではありますね。

投稿: 松裕堂 | 2006年8月15日 (火) 10時04分

>来栖ムツキさん

コメント、ありがとうございます。
確かに、「日本人の自己中心主義的思考性」とは、多かれ少なかれ、幕末の頃から変わっていないかもしれませんね。来栖ムツキさんの意見に同感です。

>解しなくても認めなくてもいいから、勝手にやらせて!というのが靖国肯定派日本人の本音だと思うのですが、そういう考えでは鎖国するしかないんじゃないか?

上記のご意見は、まさにその通りだと思います。
「参拝について、他国が干渉すべき問題ではない」とか「心の問題」とか言い張るのは、まさにその典型ではないでしょうか。

A級戦犯分祀が小手先の策に過ぎないというのは、まさにその通りですね。靖国問題とは、中国や韓国の批判を避けることができれば解決という問題ではないはずです。
「靖国神社の在り方そのもの、その歴史観や思想も含め、根っこの部分を変革」するしか、真の意味で解決することはできないはずです。ここを曖昧にしておくと、決して問題は解決しないでしょうね。

内乱と対外戦争を同じ次元で捉えることにも問題があるという指摘に同感です。

>松裕堂さん

コメント、ありがとうございます。

おっしゃるとおり、「追悼」か「顕彰」かという問題は、個々の信条に任せるべき問題だと思います。「追悼」の目的で靖国神社を参拝しても、それは個々人の自由でしょうね。

ただ、高橋氏は、靖国神社自体が戦死者を「英霊」と規定していることが「顕彰」を意図しているとして、靖国神社は戦争を肯定する戦前の価値観そのままで、そのような施設と政府が結び付いている面が強いとして問題視していますね。政教分離さえ少なくとも違憲判決が出ない程度にしっかりされていれば、一宗教法人である靖国神社がどのような思想を持とうとも、それはそれでいいのでしょうが。

私は神道に詳しくないのでよくわからないのですが、高橋氏は分祀は絶対に不可能というわけではないとして、以下のように述べていますね。

靖国神社は他の神社と異なり「座がひとつしかない」から「いったん祀られた魂ははずせない」というのは、まさに他の神社と異なり明治初期に靖国神社という装置が発明されたときの産物であって、日本の神社神道の古来の伝統ではないのだから、自分たちで作ったものを自分たちで修正することが不可能であるはずはない。つまり、靖国神社がみずから分祀に応じ、すべての遺族がそれを了承すれば、決して不可能とまでは言えないのだ。(76~77ページ)

ともあれ、高橋氏の著書が理念を重視しているのは確かですね。それは、高橋氏が哲学者ということにもよるのかもしれません。私自身は理念を重視する高橋氏の方法論には共感する部分が多いのですが、しかし理念だけで解決できる問題ではないのも確かです。「理念・理屈・心情や政治・法律・駆引きなどなど」、ややこしい問題なんですよね。

投稿: パルティアホースカラー | 2006年8月16日 (水) 01時05分

>戦死者を「英霊」と規定していることが
「英霊」という単語には「死者、特に、戦死者の霊を敬っていう語」なんて用例もありますから、慣用語の一種としてごくごく妥当な用法だと私は思います。

神道ではほかにも祭祀の対象を称して「御霊」とか「御魂」とか「神霊」とか、呼び方ならば色々とありますが、それらにしても尊称や美称としての意味が込められてますんで、取り用や取る人に寄っては「「顕彰」を意図している」ものにはなっちゃいますね。

この点、呼称に関する問題については、なんか”言いがかり”に近いモノを感じちゃいます。

>高橋氏は分祀は絶対に不可能というわけではない
分祀については神社本庁による教義上の公式見解も、単立神社としての靖国神社側の言い分も新聞記事として出てますんで、個人的にはそれを尊重したいなというのが私の意見です。なんといっても神道上の教義(ないしは文化)に関する問題ですから、外部の圧力で弄くりまわすというのにも正直違和感をおぼえます。

その点では最近、麻生太郎外務大臣が提唱した靖国神社に対する意見(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0608.html#2-B)なんかは、個人的にも興味深いです。コチラの案にしても外部からの圧力という面は否定出来ませんが、神道上の文化や靖国神社側の意思を尊重しているという点で一考の余地があろうかと思います。

投稿: 松裕堂 | 2006年8月16日 (水) 08時33分

>松裕堂さん

再度のコメント、どうもありがとうございます。

あまり言い過ぎると「言いがかり」と取られてしまうのは確かですよね。高橋氏は多分、「英霊」という言葉に「敬う」意味があること自体を問題にしていると思うんですよね。
もちろん、戦死者の遺族が戦死者を敬ったりするのは個々人の問題ですから一向に構わないのでしょうが、高橋氏は戦死者を戦争で死んだ被害者であると同時に侵略戦争に従事した加害者として捉えています。
高橋氏は、その加害者の側面も持つ戦死者を「敬う」意図で祀った神社に国家のトップが参拝したりすることで、「戦死の悲哀を名誉に換え、国民を新たな戦争や武力行使に動員していく」可能性があることを述べています。
そのような高橋氏の意見に対して、「言いがかり」に近い面があることには、私も同感です。ただ、このあたり、個々人の歴史認識・戦争観・国家観などによって、だいぶ意見が分かれるところかと思います。「A級戦犯は悪くない」と言う人と、「戦争責任は主にA級戦犯だけにある」と言う人(あるいはそういうことにしたい人)、「一般の戦死者も加害者である」と主張する人では、意見が噛み合うはずはないと思いますし。「英霊」などの言葉の意味の取り方も変わってくるでしょうし。
でも、靖国の問題はそういう根本的なところを議論すべきなのだろうと私は思っていますね。

麻生氏の意見は興味深いですね。一考に価するものだとは思います(ただ、個人的に靖国神社を宗教法人でないものにするという意見にはあまり賛同できないのですが)。
いずれにしても、現在の靖国神社は一宗教法人ですから、靖国神社の見解を尊重すべきという意見には賛成です。靖国神社の意見を受けて、さあどうするかということですね。

投稿: パルティアホースカラー | 2006年8月16日 (水) 12時30分

>このあたり、個々人の歴史認識・戦争観・国家観などによって、だいぶ意見が分かれる
ごもっとも、仰る通り同感です。
昨日、韓国政府は靖國神社参拝問題について「A級戦犯分祀では靖国問題解決できず(http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=012006081613800)」との立場をかためたようですが、これなんかはその最もたる例でしょう。

くだん韓国政府の見解や高橋氏の論をすすめていくと、問題は靖國神社にとどまらず、各都道府県の護国神社廃止論にまで行き着きそうな勢いですね。

もっともこの考えに従うと、神道祭祀による戦没者慰霊なんて不可能なのかも知れません。

投稿: 松裕堂 | 2006年8月17日 (木) 07時48分

>松裕堂さん

コメント、どうもありがとうございます。

確かに、紹介していただいた記事で韓国政府の見解を見る限り、問題は靖国神社だけにとどまりそうもありませんね。

靖国神社だけでなく、「軍国主義を美化し侵略戦争を正当化する歴史観」を有している(と、韓国政府が感じた)施設に日本政府の指導者が参拝すれば、噛み付いてきそうな勢いですね。

私自身は、一宗教法人や個々人がどのような考えを持とうと、それ自体は自由だと思いますし、そうでなければならないと思います。少なくとも、個々人が「軍国主義を美化し侵略戦争を正当化する歴史観」を持つのは自由だと思います。

投稿: パルティアホースカラー | 2006年8月17日 (木) 16時37分

 管理人さん、はじめまして。

 靖国神社には、確か旧皇族方の御霊が二体鎮座ましまして、
しかも、一般人とは分祀されていらっしゃったような。

 この方々は、拠所ない事情があって、靖国の祭神となられました。
 お一方は中国でのテロ(今風にいえば)にあわれ爆死、もう一方は、
台湾神社の祭神でいらっしゃいましたが、行き場がなくなってこちらへ。
 ところが、普通に?戦病死された特殊事情のない他の旧皇族方は、
何故か靖国にはいらっしゃいません。

 このようなカラクリが全国民に認識されて始めて、
靖国問題は語られるべきかと。

投稿: 暢夫 | 2006年8月19日 (土) 23時56分

>暢夫さん

はじめまして。
コメント、ありがとうございます。

皇族と、「臣民」が区別されて祀られているということですよね。私も不勉強ゆえに詳しい事情は知らないのですが、そのような事実があることだけは存じております。

確かに、この事実はあまり知られていないことは確かでしょうね。この事実を認識した上で語るべきというご意見に同感です。
私も、もう少し勉強してみようと思います。

投稿: パルティアホースカラー | 2006年8月20日 (日) 00時10分

 管理人さん、早速のご返事ありがとうございました。

 靖国は臣民・赤子のための社で、いわば皇室のために殉死した藩屏の招魂社。
 古くはスサノオや日本武尊、下っては将門や道真の例を持ち出すまでもなく、
鎮魂とは表向きで、実は荒ぶる魂を封印する社。
 従って、靖国におわしますお二方以外の普通に?戦病死された旧皇族方は、
天皇家の一族として、恐らくはご遺骨?と共にその魂は立派な墳墓で眠っていらっしゃいます。

 しかし、その赤子たちは御霊は靖国にあっても、
それぞれの家庭には、白木の名札はあるが魂魄不在の墳墓が、
虚しくその主の帰りを待っているのではないでしょうか。

投稿: 暢夫 | 2006年8月20日 (日) 10時42分

>暢夫さん

「皇室のために殉死した藩屏の招魂社」とは、まさに靖国神社の本質的な部分ですよね。

>赤子たちは御霊は靖国にあっても、
それぞれの家庭には、白木の名札はあるが魂魄不在の墳墓が、
虚しくその主の帰りを待っているのではないでしょうか

遺族の方々の中には、そのような理由で靖国神社に反発している人も少なからずいるでしょうね。

靖国問題には様々な意見を持つ方がいますが、なるべく多くの方が納得できるような解決法が見つかるといいですね。

投稿: パルティアホースカラー | 2006年8月20日 (日) 21時35分

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