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2006年8月 9日 (水)

浪士組と坂本龍馬-三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画」-

『歴史読本』第49巻第7号(2004年7月号)に、三野行徳氏(NHK大河ドラマ『新選組!』に、資料提供していた研究者)の興味深い論考が掲載されています。タイトルは、「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」。その論考は、以下のような文章で始まります(引用は青文字で行います)。

文久二年(一八六二)に清河八郎が提案し、翌三年に、のちの新選組の母体となる二百有余名を引き連れて京都へ向かったとして知られる浪士組だが、この浪士組に坂本竜馬が参加する可能性があったことはあまり知られていない。竜馬のみならず、平野国臣や真木和泉、宮部鼎蔵や久坂玄瑞など当時の錚々たる浪士たちが、幕府が取り立てるべき浪士としてリストアップされていた。
(『歴史読本』2004年7月号、204ページ)

さて、上の引用文を読んで、どう思われたでしょうか。「浪士組」というものの存在を知っている人の中で、その浪士組に参加すべきメンバーとして坂本龍馬がリストアップされていた事実を、どれだけの人が知っているでしょうか。もちろん、その事実は三野行徳氏の論考を読まなくても、田口英爾『最後の箱館奉行の日記』(新潮選書、1995年)などの中で紹介されていますので、すでに知っていた方もいることでしょう。しかし、知らない人も多いことでしょう。

浪士組に参加すべきメンバーとして坂本龍馬や久坂玄瑞をリストアップしているのは、杉浦梅潭(正一郎・誠)が書いた、「浪士一件」という史料(国文学研究資料館所蔵)です。杉浦梅潭は当時の幕府の目付で、最後の箱館奉行を務めた人物でもあります。1991年に刊行された『杉浦梅潭目付日記』(みずうみ書房)は、今や幕末史研究の主要史料となっています。その杉浦梅潭が、目付として浪士取立計画管轄を命じられてから書き始めたのが、「浪士一件」だそうです。冒頭で引用した三野行徳氏の論考は、この「浪士一件」の紹介を兼ねて、浪士組について考察したもの。

杉浦が記した「浪士一件」の最初(文久二年の記事)に記されているのが、清河八郎や池田徳太郎など、後に浪士組の中心となる志士たちの名前。ここに、坂本龍馬や蝦夷地探検で知られる志士・松浦武四郎の名前が記されています。これら清河や龍馬ら志士の名前は、浪士取立計画を推進した幕臣の松平忠敏(主税助)が杉浦に提出した名簿だとのこと。ちなみに、ここでリストアップされているのは、清河八郎・池田徳太郎・石坂宗順・坂本龍馬・松浦武四郎・村上俊五郎ら、全部で12人。

その後、「浪士一件」には浪士組関係の記述(人事面や資金面など様々)が続き、文久二年十二月二十日の記事では、幕府が取り立てるべき浪士の筆頭として、清河八郎の名前が挙げられているそうです。そして、年が明けた文久三年の最初の記事には、幕府が取り立てるべき浪士たちの名前が再びリストアップされていて、結構凄い名前が並んでいます。例えば、坂本龍馬・平野国臣・真木和泉・間崎哲馬・宮部鼎蔵・西郷隆盛・久坂玄瑞・藤本鉄石などなど。これも、リストアップしたのは松平忠敏だそうですが、清河八郎の影響を受けているものと思われます。

坂本龍馬は、浪士取立計画の開始以来、ずっと名前が挙がっているわけですが、龍馬自身がその計画についてどのように考えていたのか、はっきりわかりません。ただ、龍馬が交流していた土佐藩士の間崎哲馬は、清河八郎の同志でもありました。その筋から、龍馬は浪士組の計画について聞いていたかもしれません。実際、坂本龍馬の周辺にいた人物が書いたと思われる「雄魂姓名録」という史料に、浪士組に関する記述があります。

また、「雄魂姓名録」の中には、幕府の政事総裁職だった松平春嶽が浪士組の計画を認めていたことについて、勝海舟が「春嶽公大失策也」という話をしたことが記述されています(平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社、1978年、465ページ参照)。坂本龍馬が勝海舟と同じ考えだったと即座に断定するのは危険ですが、恐らくは同様な考えを持っていたのだろうと推測はできます。

文久三年正月二十二日には、浪士取立計画を採用した政事総裁職の松平春嶽、「浪士一件」を書いた杉浦梅潭、春嶽を批判していた勝海舟、「浪士一件」に名前が載っていた坂本龍馬の四人が同じ船に乗っていて、その船中で少なくとも春嶽・梅潭・海舟の3人は浪士取立計画について議論をしたようなのですが、そこでどのような議論がなされたのか詳しいことはわかりません。きっと興味深い内容が話されたと思いますので、わからないのが残念です。

杉浦梅潭が記した「経年記略」(『杉浦梅潭目付日記』に所収)にも、このとき坂本龍馬と会話したことは記されているのですが、詳しい会話の内容は不明です。「浪士一件」を書いた梅潭と、「浪士一件」に名前を書かれた龍馬は、きっと浪士組について何か興味深い会話をしたのだろうと思うと、史料がないのが残念ですね。

ところで、三野行徳氏は「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」の中で、浪士組について他にも興味深い考察をしています。それらのすべてを紹介しているとあまりに長くなってしまうので、興味のある方には実際に三野氏の論考を読んでもらいたいと思いますが、中でも私が興味深かった考察を2つほど紹介します。

まず、三野氏は、清河八郎が幕府を尊王攘夷のために幕府を欺くつもりだったという通説に否定的です。むしろ清河は、当時の一橋慶喜の将軍後見職就任・松平春嶽の政事総裁職就任・松平容保の京都守護職就任の流れを高く評価しており、幕府の改革姿勢に期待する面があったと、三野氏は指摘します。松平春嶽に期待した清河の浪士組絡みの動きと、松平春嶽の紹介を受けたらしい坂本龍馬の勝海舟への弟子入りを、ともに春嶽を通じての幕府への接近として対比する三野氏の視点は、なかなか新鮮でした。

もう1つ。浪士組と言えば新選組の母体となったということで、三野氏は新選組についても少し触れています。三野氏は、近藤勇が文久三年五月ごろに書いた書簡の中の、「拙者関東発足之時々より忠天朝ニ奉シ、躬ハ幕府致し候者、素より僕志願候」という文言に注目しています(私は、平尾道雄『定本新撰組史録』新装版、新人物往来社、2003年、250ページより引用)。この文言から、三野氏は次のように指摘します。

近藤は浪士組に参加する時点で既に「躬ハ幕府」となっており、この時点で浪士的立場を放棄していることになる。(『歴史読本』2004年7月号、220~221ページ)

ここまで紹介して、とりあえずこの記事は終了とさせていただきます。興味のある方は、ぜひ三野行徳氏の論考「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」をお読みください。以下の参考文献も、よろしければご参照ください。

参考文献
・小高旭之「浪士組の実像―清河らの通説を検証」『歴史読本』第49巻第12号(2004年12月号)
・小高旭之「池田徳太郎の素顔―浪士組もう一人のリーダー」『歴史読本』第49巻第12号(2004年12月号)
・田口英爾『最後の箱館奉行』新潮選書、1995年
・松浦玲「民間『浪士』と維新期の『改革』」『環』第13号、2003年
・三野行徳「浪士組時代」大石学編『新選組情報館』教育出版、2004年
・三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」『歴史読本』第49巻第7号(2004年7月号)

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コメント

三野行徳氏の論考はなかなか興味深いですね。
少し気になった点に触れますと、

>まず、三野氏は、清河八郎が幕府を尊王攘夷のために幕府を欺くつもりだったという通説に否定的です。むしろ清河は、当時の一橋慶喜の将軍後見職就任・松平春嶽の政治総裁職就任・松平容保の京都守護職就任の流れを高く評価しており、幕府の改革姿勢に期待する面があったと、三野氏は指摘します。

これは卓見ですね。私も試衛館グループを含めて浪士組に参加した人々にはかなり共通する性向ではないかと思っております。
尊王攘夷だからといって反幕とは限らないとして、宮地正人氏が親幕的傾向を有する関東の攘夷派(浪士・草莽)を「東国勤王派」という概念でとらえていますが、まさにこれに該当すると思います。
文久2年改革により一橋派が復権し、とくに攘夷のご本家ともいうべき水戸斉昭の一子一橋慶喜が幕府の要職に就いたことがその象徴で、関東の攘夷派に期待を抱かせたのではないかと思います。
だからこそ、天狗党の流れをくむ芹沢鴨グループも加わったのだと思います。

>近藤は浪士組に参加する時点で既に「躬ハ幕府」となっており、この時点で浪士的立場を放棄していることになる。(『歴史読本』2004年7月号、220~221ページ)

ただ、この点はどうかなと思います。
「忠天朝ニ奉シ」は奉勅攘夷を理念的に護持することを意味し、具体的というか実務的には「躬ハ幕府」、すなわち、勅命を奉じた幕府の命で行動するという程度の意味ではないかと思います。
三野氏が紹介したこの書簡より1年後の元治元年(1864)5月、近藤勇は幕閣に宛てて進退伺の文書を提出していますが、そのなかで「私共は昨年以来尽忠報国有志」と自己規定しています。そして、「見廻の為に付御募に相成候儀には無御座候哉と奉存候」として、市中見廻りという任務しか与えられないことに不満をもらし、時と場合によっては「退散仕度」とも述べて、新選組の解隊さえほのめかしております。
つまり、自分たちの進退は自分たちで決定する(必ずしも幕府の意向には従わない)姿勢を示しています。
これは、行動の自由をあくまで担保しておきたい草莽的・浪士的な態度というべきで、宮地氏の「東国勤王派」の属性と合致するように思います。その意味では、慶応3年(1867)6月の幕臣化まで、近藤らは浪士的性格を維持し続けたのではないかと思いますが、どうでしょうか?


投稿 ダンダン | 2006年8月11日 (金) 00時52分

すみません。
上記コメント、ハンドル名が違いますが、桐野が書きました。責任の所在を明らかにする意味で追記します。

投稿 桐野作人 | 2006年8月11日 (金) 00時57分

>ダンダン(桐野作人)さん

コメント、ありがとうございます。

私も、浪士組は幕府を欺いたものだとする通説を疑う見解には賛成ですね。ダンダンさんがおっしゃる「尊王攘夷だからといって反幕とは限らない」という意見にも同感です。実際、過去の研究は「尊王攘夷派=反幕勢力」という固定観念なり先入観なりが強すぎたように思います。
清河の上洛後の行動などを見れば、浪士組によって幕府を欺いたようにも見えるかもしれませんが、浪士組の計画当初から欺くつもりだったと考えるのは短絡的に過ぎると思います。その意味で、三野氏の指摘は貴重だと思いますね。

三野氏の「躬ハ幕府」云々の解釈については、三野氏の意見にすぐさま賛同するのではなく、私も検討の余地ありと考えています。そのため、説を紹介するに留めておきました。
私自身は、ダンダンさんのご意見に賛成です。近藤が新選組の解散をほのめかしたことについては、確かに「自分たちの進退は自分たちで決定する」気持ちの表れだと見ることができますよね。
「躬ハ幕府」という表現は、私も実務的な意味合いが強いのではないかと思いますね。浪士組参加から、新選組解散をほのめかすまで、近藤は幕府のもとで攘夷を行うつもりだったと考えられます。その、幕府のもとで攘夷を行うことが、「躬ハ幕府」という表現になっているのでしょうね。幕府に期待できなくなったら新選組を解散するというのですから、私も近藤が浪士的立場を放棄しているとは思いません。私も、幕臣になったときが、近藤が浪士的立場を捨てたときだと考えます。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年8月11日 (金) 23時33分

どうも、来栖です。

 該当論文を読むと、どうしても色々な事が頭の中を巡ってしまい、それをうまく文章にまとめるのが困難なので、コメントを書くのを躊躇していました。
 いまだに考えがまとまらないのですが、いくつか気になった事を書かせて下さい。

 まず、龍馬が浪士組リストに載っていた話は、最近出た『龍馬の金策日記』等でも取り上げられていて、少しずつ知られた話になっているような気がします。
 しかし、当の龍馬自身は勝海舟の影響もあり、浪士組計画そのものに否定的であったであろうことは疑いようが無いように思えます。私が気になるのは、何故、勝海舟はこの浪士組計画に否定的であったか?という部分です。勝自身は、文久三年正月下旬、春嶽や杉浦正一郎らと一緒に順動丸で移動していた頃の日記に「偽浪人」という単語を書いてますよね。この「偽浪人」というのは、何か浪士組計画を揶揄しているように私には思えるのですが、揶揄するにしても、何故「偽」なのか?という部分が非常にひっかかります。
 逆説的に言えば、龍馬が「真」の浪人ならば、「偽」の浪人の組織には関わろうとしないのは当たり前です。ともかく、勝が「偽」と言った真意は何なのか?、個人的にいくつか推理はあるのですが、この勝の「偽」という評価と順動丸乗船中に春嶽と杉浦と勝が「松平上総介のことを儀せり」というのはリンクしているように思えてなりません。更にそれは、松平忠敏の昇進とも微妙に関係している事のように思えるのは穿ち過ぎでしょうか?
 私がこの三野論文を読んで一番印象深かったのは、実はこの松平忠敏の昇進なのです。通説として、清河八郎が松平忠敏を欺いた…と流布されているということは、三野氏も論中に書いていますが、この論文を読んで、むしろ逆だったんじゃないか?と思ったのです。

 で、松平忠敏ときて、連想するのは、試衛館一派が浪士組に参加する前に、松平に直談判に行った…という話です。
 私も近藤書簡の「躬ハ幕府」の解釈はダンダンさんや パルティアホースカラーさんと同じなのですが、どうもこの幕府の浪士募集は、多くの人間の色々な思惑が複雑に絡み合う魑魅魍魎な部分がもっともっとあるのではないかと思えてなりません。

投稿 来栖ムツキ | 2006年8月13日 (日) 23時19分

>来栖ムツキさん

コメント、ありがとうございます。
来栖ムツキさんの書き込みで、私自身が気付かなかった点に気付くことができました。どうもありがとうございます。

勝海舟の「偽浪人」という言葉は、確かに浪士組を揶揄しているのではないかと考えられる節はありますね。「偽」というのが何なのか、私には現段階ではわかりませんが、非常に気になる文言ですね。勝海舟が浪士組を批判する理由も、はっきりわかりません。

「偽」の対になるのが「真」であり、「真」の浪士が龍馬である(と勝が認識している)なら、文久三年四月に大久保一翁が松平春嶽宛の書簡の中で、龍馬のことを「真の大丈夫」と述べているのが気になったりするのですが…まぁ、直接の関係はないでしょうね。

ともかく、来栖ムツキさんがおっしゃるように、「偽浪人」と勝・杉浦・春嶽の会談は関連性があるような気がしてきます。勝・杉浦・春嶽(・龍馬)が話し合ったときと、松平忠敏昇進のタイミングが気になるんですよね。

松平忠敏の昇進の件で来栖ムツキさんが思ったのは、清河が松平忠敏を欺いたのではなく、むしろ長澤松平家を再興させたい松平忠敏が、清河を利用したのではないかということですよね。それについては、私も同感です。確かに、通説とは違って、清河が当初は幕府に期待していたのなら、むしろ欺いていたのは忠敏の側ということも考えられるような気がします。

いずれにしても、この浪士取立計画については、色々と検討すべきことがたくさんあるような気がします。今までは、「清河が幕府を欺いて…」という通説に流されて検討がおろそかになっていた感があります。今後、詳しい検討がもっとなされて然るべき問題だと思っています。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年8月14日 (月) 00時44分

どうもです。

>松平忠敏の昇進の件で来栖ムツキさんが思ったのは、清河が松平忠敏を欺いたのではなく、むしろ長澤松平家を再興させたい松平忠敏が、清河を利用したのではないかということですよね。

 ズバリ、そういうことです。
一方、清河も浪士取立計画によって牢獄に入っている仲間達を救出することを秘願としていたように思われます。そういった清河の悲願を松平は察知し、清河という攘夷派浪士の巨魁を上手く利用したという側面があるのではないか?と思ったのです。

 幕府が攘夷を行うはずが無いことは、幕府の人間だったら判っていると思うのです。勝海舟が浪士取立計画に否定的だったのは、勝が開国派であり攘夷不可を知っているからこそ、清河というゴリゴリ攘夷派を使って人集めをする松平忠敏のやり方の欺まん性に気付いた為と推測することも出来ます。
 三野論文中にある清河の書簡を読むと、彼が攘夷に対する希望を捨てていないことが判ります。一方で、松平忠敏の建白書は、もっぱら治安を乱す浪人や反幕浪士に対してどう策を講じればよいか、ということが主題になっています。つまり、清河と松平忠敏は、最初から浪士取立を行う理由が違っていたと解釈して良いのではないかと思います。同床異夢だったわけですね。
 
 浪士・浪人対策を立案指揮した功績で松平は昇進するのに、清河は暗殺されてしまいます。しかし、浪士取立計画を最初から浪士・浪人対策としか(松平忠敏以外の)幕府サイドが認知していなかったのだとしたら、集めた浪士達を攘夷の先鋒にしよう!という清河の主張は認知外のことであり「聞いてないよー!」となります。清河の考えはその全てが幕府サイドに伝わっていなかった可能性があると思えるからです。
 それで、幕府サイドの人間は「清河は幕府を欺いた!」と怒ってしまい、結果、清河暗殺ということになったのだと推測します。

投稿 来栖ムツキ | 2006年8月15日 (火) 00時49分

>来栖ムツキさん

再度のコメント、どうもありがとうございます。

勝海舟が浪士組に反対な理由は、自身の開国論・幕府が攘夷を行うわけがないという認識・松平忠敏のやり方への疑念などということですね。

言われてみれば、清河と松平忠敏が浪士組に求めていたものは全然違うような気がします。清河自身に幕府を欺く意図はなかったものの、幕府が清河の構想をきちんと理解していなかったがゆえに、欺かれたように感じた面があるということなのですね。

三野論文と来栖ムツキさんの推測を合わせて考えると、世に知られている浪士組の通説・常識にかなり疑問が生じてきますね。このあたり、さらに突き詰めた研究や説が出てくると、面白くなりそうですね。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年8月16日 (水) 00時37分

はじめまして。
突然、申し訳ございません^^
清河八郎のサイト「回天の魁士 清河八郎」を運営しているサイト製作兼管理者です^^
清河八郎生誕の地・山形県庄内町で運営しているサイトでもありますが、ほぼ私的なサイトに近いかもしれません(^。^;)
 八郎に対する一般的な先入観は「ヒール」で、歴史的に評価も低くまだまだマイナーな存在。。。観光アピールもかねて広く、八郎の行動力とその一徹した志と理念の中から、真の八郎の姿を知っていただければと立ち上げたサイトです。

たまたまここにたどり着きまして、とてもうれしく、面白く読ませていただきありがたく感じたところです^^
 『歴史読本』第49巻第7号は私も参考とさせて頂きました。
 八郎は幕府を欺く気など無く、むしろ、攘夷に優柔不断な態度で煮え切らない幕府に対し、攘夷決行を決断・・・というか、有無を言わせず破約攘夷させるための一手段に過ぎなかったのではと感じます。浪士組結成時の時代背景として生麦事件の賠償問題がありますが、八郎はこの賠償問題をきっかけとして朝廷から勅状を賜り、幕府に攘夷を促す強攻策に出た。。。あくまで自分の信念「赤心報国回天倡始」を遂行した、それだけのことだったと思います。少なくとも八郎自身の真意はそれであったと思いますが、幕府としては「裏切り」「謀略」でしかなく、面目丸つぶれでプライドが許さなかったのでしょう^^
 八郎は幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)、松岡 萬ら幕臣とも親交が厚く、八郎が結成した攘夷のグループ・虎尾の会の主力メンバーでもあり、この2人は浪士組の取締役でもあります。山岡だけは、八郎の真意を知っていたとい言われますので、幕臣側の要人が安易に討幕に転じるようなことは、武士道を重んじていたこの時代ありえないはず。
 ただ、これも先入観の話になるのですが、攘夷派=討幕派というような簡略的な図式が、八郎のイメージを作り変えているのだろうと思います。当時の長州過激藩士らにはあてはまるんでしょうけど^^現に数多くの小説の中でも、八郎は浪士組を京都で討幕の軍隊に回天させたというふうに表現されていますが、この時討幕の狼煙は上げておりません。「生麦事件賠償問題に対する破約攘夷のため江戸にもどれ」という勅状を賜り、「攘夷の浪士組」となったのです。
 八郎は脅迫的な手段を駆使してでも、ふがいない幕府に対し、攘夷しなきゃだめだ、攘夷しなきゃ日本国は外国の食い物にされてしまうという危機感をもっと感じて欲しかっただろうし、幕府が動かないのであれば自分がやる!そんな覚悟もあったでしょう。幕府は単に八郎を認めたくなかっただけだったのでしょう。只の豪商のせがれにすぎない一介の浪人が先出ることを。仮に八郎が庄内藩士であったらどうだったのか?そんなことすら考えさせられる。
 八郎の性格は、相当強引で一歩も引かない負けず嫌いなところがあり、相手が誰であろうとも、ことごとくやっつけてしまう・・同胞・高橋泥舟が後述しています。幕府相手にそんな喧嘩を仕掛けたわけですから、いつの時代も官僚はプライドの塊、自分より格下の人間の更に下につけるはずは無く、結局八郎の存在は邪魔となり殺されてしまう。
 幕府にとって、八郎は面目丸つぶれの勝手な行動を強攻し、生意気で癇に障る(自分たちより能力が高く)部外者に過ぎなかったのだと私は思います^^

投稿 清河管理人 | 2007年2月21日 (水) 00時40分

>清河管理人さん

はじめまして!!
コメントをくださいまして、どうもありがとうございます。
自治体で運営しているサイトを、一手に引き受けて制作されているのですね。少し拝見させていただきましたが、かなりの情報量で素晴らしいですね。
そして、今回は私の書いた記事を面白く読んでくださったということで、どうもありがとうございます。

おっしゃるとおり、清河はマイナーですし、名前は知っている人でも先入観だけで彼のことを語っている方は少なくないでしょうね。実際、彼は幕府を欺くことに主眼があったわけではなく、攘夷が目的だったのだと思います。自分が望む形での攘夷を実行するために幕府に頼ろうとして、途中で幕府に任せていたのでは攘夷が思うように実行できないことに気付き、独自に攘夷の方策を考え直した…それが結果的に、幕府を欺いたかのように見られてしまったのでしょうね。

少なくとも、清河に討幕の気持ちなどはなかったと思います。おっしゃるとおり、「攘夷派=討幕派というような簡略的な図式」が清河を理解する上で弊害になっていることは確かですね。清河だけでなく、幕末史全体に当てはまることでもありますが。仮に清河が討幕の気持ちを強く持っていたとしたら、山岡鉄舟などの幕臣は清河に協力しないでしょうね。

幕府内で清河の真意を知っていたのは、山岡鉄舟など清河と親しい一部の幕臣だけだったため、幕府としては裏切られた気持ちが強く、結局は暗殺という形になってしまったのでしょうね。おっしゃられるように、清河が藩士ではなく浪士だったことも、幕府にとって癪に障る要素だったのかもしれません。

投稿 パルティアホースカラー | 2007年2月21日 (水) 21時25分

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