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2006年8月30日 (水)

「船中八策」作成に坂本龍馬が関与していない可能性

幕末史あるいは坂本龍馬に興味のある方ならば、慶応3(1867)年6月に、長崎から京都に上京する船の中で、坂本龍馬が土佐藩重役の後藤象二郎に提示したと言われる「船中八策」という政治綱領の存在はご存じでしょう。

池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)には、「船中八策」について次のような記述があります(池田氏の著書からの引用は緑文字で行います)。

長崎から上京する船中で、龍馬は後藤に、新しい国家の体制について意見をのべた。もはや幕府を従来のまま存続させることはできない。天皇を中心にした国内の統一こそが必要であるというのだ。こうして新しい国家の体制についての八ヵ条の要項を、長岡謙吉に書かせたのが、世に有名な「船中八策」である。
(池田敬正『坂本龍馬』159ページ)

上記の池田氏の記述と大同小異な記述は、龍馬の伝記によく見られます。つまり、通説となっていると言えるでしょう。しかし、実は、この「船中八策」が作成されるまでの過程は史料的には明らかになっていない…言い換えれば、坂本龍馬が「船中八策」の作成に関与したことを証明する確実な証拠はないということを、どれだけの人が知っているでしょうか。そんなことを言われたら、驚愕してしまう方もいるのではないでしょうか。

最近、そのことを積極的に主張している歴史家がいます。例えば、思想史家の松浦玲氏は、『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』(学習研究社、2006年)に掲載された、「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」という論考の冒頭で、次のように述べています(松浦氏の論考からの引用は赤文字で行います)。

残念なことに「船中八策」には坂本龍馬の自筆本が存在しない。龍馬の自筆本を元にしたと称する写本も存在しない。そもそも龍馬が書いたのではなくて、書記役の長岡謙吉に起草させたと伝えられるのだが、その長岡自筆本も、長岡自筆本を元にしたことが確かな写本も見当らないのである。更に厄介なことに、いわゆる「船中八策」は長岡起草本でさえもなくて、それを更に後藤象二郎が修正したものだという説まであるのだが、これを裏付ける原本も写本も見当らない。
(『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』102ページ)

松浦玲氏が言うように、「船中八策」と現在呼ばれている文書が一体どこから出てきたものなのか、本当は誰が書いたものなのか、伝えられているように坂本龍馬の関与があったのか、実ははっきりわからないのです。何しろ、「船中八策」の原本も、原本を元にしたことが確実な写本も現存していないのですから。

たとえ原本や写本が残っていなくても、例えば龍馬の友人・知人の誰かが日記などに、「龍馬が八ヵ条の政治的な文書を作って後藤象二郎に見せたらしい」というような内容を書いていてくれれば、まだいいのです。龍馬の同時代人がそのような史料を残していてくれれば、龍馬が「船中八策」作成に関与したらしいという証拠にはなります。しかし、残念ながら、そのような史料も残っていないため、「龍馬が『船中八策』を作ったのだ、100%とは言わないまでも高い確率で間違いない」と断言できる状況ではないのです。

そのような主張をしている歴史家は、松浦玲氏だけではありません。他に、青山忠正氏もいて、次のようなことを述べています(青山氏の論文からの引用は青文字で行います)。

坂本が後藤に「政権奉還」建白構想の原案を示した(「船中八策」)と言われるが、その事実が史料に基づいて論証されたことは一度もない。天皇から将軍への「政権」委任、さらにその逆としての「政権」返上(および将軍職辞任)という考え方は、遅くとも文久二年(一八六二)後半には、政局表面に浮上しつつあり、慶応三年時点の政治社会ではすでに共通の了解事項になっていたと見る方が自然である。
(青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」『佛教大学総合研究所紀要』8号、71ページ)

龍馬の「船中八策」作成への関与が史料的に明らかにされていないことを、松浦氏と同様に指摘しています。と同時に、大政奉還を始めとする「船中八策」に示されたような国家構想が、「船中八策」の登場を待つまでもなく、慶応3年の時点ですでに識者には共通の了解事項となっていたことを指摘しています。

青山氏の指摘をさらに強調しておきます。私の経験上、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』を教科書のようにして龍馬について語る方が、特に誤解しがちなのですが、大政奉還の案を最初に考え出したのも、最初に提起したのも坂本龍馬ではありません。青山氏が言う文久2年には幕臣の大久保一翁が大政奉還について公言していますし、大久保に共鳴した松平春嶽が、何度も大政奉還を徳川慶喜に勧めています。薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛が書いたものにも、大政奉還の構想が見られます。

それはともかく、何度も繰り返すように、坂本龍馬が「船中八策」の作成に関与したことを確実に証明する史料が見つかっていません。今後、坂本龍馬を語る上で、安易に「船中八策」と結び付けて語るのは慎んだ方がいいのではないかと、私は考えています。

ちなみに、青山忠正氏は先に引用した論文の中で、坂本龍馬が書簡の中で使用している「文体と言語」を分析し、龍馬が近世に定型的だった書簡用の文体(候文)を正確に用いていないことを指摘しています。そのことから青山氏は、坂本龍馬が文章の中で抽象的な概念を駆使する能力がなかったのではないかという見解を披露しています。青山氏の見解への賛否はともかく、傾聴すべき見解だと思います。

青山氏は、「船中八策」とは違って龍馬自筆原本が現存している、「新政府綱領八策」(慶応3年11月と記されています)についても、抽象的な概念を駆使できなかった龍馬が発案したものとは考えにくいとまで述べています。

個人的には、龍馬自筆原本が残っている「新政府綱領八策」については龍馬の発案と考えてあげてもいいのではないかと思っています。もっとも、その「新政府綱領八策」については、松浦玲氏も、「論理的な文章が得意でない龍馬」が、「珍しくも自筆でここまで論じて見せた」と解釈しています。

龍馬自筆原本も写本も残っていない「船中八策」、および龍馬自筆原本が2通残っている「新政府綱領八策」という2つをどのように評価するか、それが坂本龍馬という人物の評価についても大きな影響を与えることだけは確かでしょう。

参考文献
・青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」『佛教大学総合研究所紀要』第8号、2001年(青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
・池田敬正『坂本龍馬』中公新書、1965年
・平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末記』中公文庫、1976年
・松浦玲『検証・龍馬伝説』論創社、2001年
・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年

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