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2006年8月30日 (水)

「船中八策」作成に坂本龍馬が関与していない可能性

幕末史あるいは坂本龍馬に興味のある方ならば、慶応3(1867)年6月に、長崎から京都に上京する船の中で、坂本龍馬が土佐藩重役の後藤象二郎に提示したと言われる「船中八策」という政治綱領の存在はご存じでしょう。

池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)には、「船中八策」について次のような記述があります(池田氏の著書からの引用は緑文字で行います)。

長崎から上京する船中で、龍馬は後藤に、新しい国家の体制について意見をのべた。もはや幕府を従来のまま存続させることはできない。天皇を中心にした国内の統一こそが必要であるというのだ。こうして新しい国家の体制についての八ヵ条の要項を、長岡謙吉に書かせたのが、世に有名な「船中八策」である。
(池田敬正『坂本龍馬』159ページ)

上記の池田氏の記述と大同小異な記述は、龍馬の伝記によく見られます。つまり、通説となっていると言えるでしょう。しかし、実は、この「船中八策」が作成されるまでの過程は史料的には明らかになっていない…言い換えれば、坂本龍馬が「船中八策」の作成に関与したことを証明する確実な証拠はないということを、どれだけの人が知っているでしょうか。そんなことを言われたら、驚愕してしまう方もいるのではないでしょうか。

最近、そのことを積極的に主張している歴史家がいます。例えば、思想史家の松浦玲氏は、『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』(学習研究社、2006年)に掲載された、「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」という論考の冒頭で、次のように述べています(松浦氏の論考からの引用は赤文字で行います)。

残念なことに「船中八策」には坂本龍馬の自筆本が存在しない。龍馬の自筆本を元にしたと称する写本も存在しない。そもそも龍馬が書いたのではなくて、書記役の長岡謙吉に起草させたと伝えられるのだが、その長岡自筆本も、長岡自筆本を元にしたことが確かな写本も見当らないのである。更に厄介なことに、いわゆる「船中八策」は長岡起草本でさえもなくて、それを更に後藤象二郎が修正したものだという説まであるのだが、これを裏付ける原本も写本も見当らない。
(『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』102ページ)

松浦玲氏が言うように、「船中八策」と現在呼ばれている文書が一体どこから出てきたものなのか、本当は誰が書いたものなのか、伝えられているように坂本龍馬の関与があったのか、実ははっきりわからないのです。何しろ、「船中八策」の原本も、原本を元にしたことが確実な写本も現存していないのですから。

たとえ原本や写本が残っていなくても、例えば龍馬の友人・知人の誰かが日記などに、「龍馬が八ヵ条の政治的な文書を作って後藤象二郎に見せたらしい」というような内容を書いていてくれれば、まだいいのです。龍馬の同時代人がそのような史料を残していてくれれば、龍馬が「船中八策」作成に関与したらしいという証拠にはなります。しかし、残念ながら、そのような史料も残っていないため、「龍馬が『船中八策』を作ったのだ、100%とは言わないまでも高い確率で間違いない」と断言できる状況ではないのです。

そのような主張をしている歴史家は、松浦玲氏だけではありません。他に、青山忠正氏もいて、次のようなことを述べています(青山氏の論文からの引用は青文字で行います)。

坂本が後藤に「政権奉還」建白構想の原案を示した(「船中八策」)と言われるが、その事実が史料に基づいて論証されたことは一度もない。天皇から将軍への「政権」委任、さらにその逆としての「政権」返上(および将軍職辞任)という考え方は、遅くとも文久二年(一八六二)後半には、政局表面に浮上しつつあり、慶応三年時点の政治社会ではすでに共通の了解事項になっていたと見る方が自然である。
(青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」『佛教大学総合研究所紀要』8号、71ページ)

龍馬の「船中八策」作成への関与が史料的に明らかにされていないことを、松浦氏と同様に指摘しています。と同時に、大政奉還を始めとする「船中八策」に示されたような国家構想が、「船中八策」の登場を待つまでもなく、慶応3年の時点ですでに識者には共通の了解事項となっていたことを指摘しています。

青山氏の指摘をさらに強調しておきます。私の経験上、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』を教科書のようにして龍馬について語る方が、特に誤解しがちなのですが、大政奉還の案を最初に考え出したのも、最初に提起したのも坂本龍馬ではありません。青山氏が言う文久2年には幕臣の大久保一翁が大政奉還について公言していますし、大久保に共鳴した松平春嶽が、何度も大政奉還を徳川慶喜に勧めています。薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛が書いたものにも、大政奉還の構想が見られます。

それはともかく、何度も繰り返すように、坂本龍馬が「船中八策」の作成に関与したことを確実に証明する史料が見つかっていません。今後、坂本龍馬を語る上で、安易に「船中八策」と結び付けて語るのは慎んだ方がいいのではないかと、私は考えています。

ちなみに、青山忠正氏は先に引用した論文の中で、坂本龍馬が書簡の中で使用している「文体と言語」を分析し、龍馬が近世に定型的だった書簡用の文体(候文)を正確に用いていないことを指摘しています。そのことから青山氏は、坂本龍馬が文章の中で抽象的な概念を駆使する能力がなかったのではないかという見解を披露しています。青山氏の見解への賛否はともかく、傾聴すべき見解だと思います。

青山氏は、「船中八策」とは違って龍馬自筆原本が現存している、「新政府綱領八策」(慶応3年11月と記されています)についても、抽象的な概念を駆使できなかった龍馬が発案したものとは考えにくいとまで述べています。

個人的には、龍馬自筆原本が残っている「新政府綱領八策」については龍馬の発案と考えてあげてもいいのではないかと思っています。もっとも、その「新政府綱領八策」については、松浦玲氏も、「論理的な文章が得意でない龍馬」が、「珍しくも自筆でここまで論じて見せた」と解釈しています。

龍馬自筆原本も写本も残っていない「船中八策」、および龍馬自筆原本が2通残っている「新政府綱領八策」という2つをどのように評価するか、それが坂本龍馬という人物の評価についても大きな影響を与えることだけは確かでしょう。

参考文献
・青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」『佛教大学総合研究所紀要』第8号、2001年(青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
・池田敬正『坂本龍馬』中公新書、1965年
・平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末記』中公文庫、1976年
・松浦玲『検証・龍馬伝説』論創社、2001年
・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年

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2006年8月27日 (日)

ドナルドダックとグーフィー

__3数あるディズニーアニメの中でも、私は特にミッキーマウス、ドナルドダック、グーフィーの3人が共演している映画が好きです。例えば、『ミッキーの引っ越し騒動』(1936年公開)や『ミッキーの大時計』(1937年公開)、あるいは『ミッキーのお化け退治』(1937年公開)、『ミッキーの船大工』(1938年公開)、『ミッキーの船長さん』(1940年公開)などです。

これらの作品はとても面白いのですが、1つ問題があります。タイトルにミッキーの名前が冠されているにもかかわらず、ミッキーの影が薄い場合が多いのです。これは非常に残念なことではあります。そしてその分、共演者のドナルドダックとグーフィーの個性が強烈です。

_2_065 例えば、『ミッキーの引っ越し騒動』では、ドナルドが引っ越し作業の途中にすっぽん(トイレで使うものです)を自分のお尻にはめてしまいます。それを何とか引き抜こうとするドナルドは、スッポンを思い切り捻りすぎて、それがプロペラのようになって部屋の中を飛び回るシーンがあります。文章ではその面白さをうまく伝えられないのですが、とても笑えるシーンです。

また、『ミッキーのお化け退治』で、お化けを捕まえようとしたグーフィーは、激しく動きすぎて、しかも自分で自分の首を思い切り絞めたあげく、自分の身体が家具にはまって動けなくなってしまいます。そのときグーフィーは、自分の後ろで動く自分のお尻を、お化けだと思い込んでしまいました。そこで彼が採った行動は、お化け(だと思い込んでいる自分のお尻)に針を刺して攻撃することです。とても面白いシーンなのですが、私は自分のお尻に針を刺すグーフィーが不憫で、見ていられなくなることもあります。

これらドナルドやグーフィーの活躍に比べて、ミッキーがおとなしすぎると感じてしまうことがしばしばあります。極端な場合、ミッキーがいなくてドナルドとグーフィーしか出ていなくても、面白さはそんなに変わらないのではないかと感じてしまうことすらあります。もちろん、ミッキー・ドナルド・グーフィーが共演した映画のすべてがそうだと言うつもりは毛頭ありません。ミッキーの活躍が光っている映画はたくさんあります。3人いるからこそ素晴らしい映画になっているものもたくさんあります。ただ、残念なことですが、3人で共演した作品の中に、ミッキーの印象が薄いなぁと感じる作品があるのも事実なのです。

そのためなのかどうなのかはわかりませんが、ミッキー抜きで、ドナルドとグーフィーの2人がコンビを組んで活躍する短編映画が何本かあります。例えば、『ドナルドの南極探検』(1938年公開)があります。この作品では、食糧としてペンギンを捕まえることに必死なドナルドが印象的です。ドナルドはペンギンに変装し、ペンギンをおびき出そうとします。他には、『ドナルドのきつね狩り』(1938年公開)、『ドナルドとヤギ』(1940年)、『ドナルドの漂流記』(1945年公開)、『ドナルドとグーフィーの炎熱旅行』(1947年公開)などがあります。

『ドナルドの漂流記』は『ドナルドのギャグファクトリー』というDVD・ビデオに収録されています。タイトルにドナルドの名前しかないので見逃してしまいがちですが、ドナルドとグーフィーが2人で漂流するお話です。クチバシに髭が生えたドナルドと、普段よりも髭が濃くなったグーフィーという珍しい2人の姿を見ることができる作品でもあります。漂流して辛そうなドナルドと、全く動じることなく海水も平気で飲んでしまうグーフィーの対比が面白い作品です。

ドナルドとグーフィーの2人がコンビを組んでいる短編映画はあまり有名ではなく、タイトルにドナルドの名前しか入っていないことも多いので見逃す人もいそうですが、面白い作品が多いです。ミッキー・ドナルド・グーフィーの3人で共演している作品と同様に、ドナルドとグーフィー2人の作品も、2人の個性が際立っています。

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2006年8月25日 (金)

プルート(ディズニーキャラ)と冥王星の話

下記のニュース(毎日新聞)にもあるように、惑星の定義が変わって、今まで惑星に分類されていた冥王星が、惑星ではなくなってしまいましたね。

太陽系惑星:冥王星の除外決定 9個から8個に--天文学連合・新定義可決

で、冥王星が惑星ではなくなったというニュースを受けて、ディズニーファンとしてはプルート(ミッキーマウスの愛犬)のことが気になるわけです。何故なら、冥王星を英語で言うとプルート。ミッキーマウスの愛犬であるプルートは、冥王星が発見されたことにちなんでプルートと命名されたという経緯があるからです。それについて、私は下記の記事で詳しく書いたことがありますので、興味のある方はぜひお読みください。

ミッキーマウスの愛犬、その名はプルート

上記の過去記事を読むのは面倒だという方のために、上記過去記事の中の冥王星に関わる部分を、下に引用してみます(赤文字部分)。

プルートがプルートという名前になり、ミッキーの愛犬にもなるのは、デビュー三作目の短編映画『ミッキーの猟銃』(1931年公開。以前は『ミッキーの大鹿狩り』というタイトル)でした。少しだけ星の話になってしまいますが、プルートという名前の由来は、1930年に発見された冥王星でした。新たに発見された冥王星は、太陽からとても遠い位置にあるため、地球からは暗く見えます。そのため、ギリシャ神話の冥界(死者の国)の王・ハデスの別名であるプルトンを英語読みして、「プルート」と命名されました。ディズニーキャラクターの「プルート」の名前は、冥王星の名前から取ったものです。だから、アメリカ人はミッキーの愛犬もプルートと呼び、冥王星のこともプルートと呼びます。日本語の「冥王星」という言葉は、もちろん「冥界の王・プルート」から名付けたものです。ちなみに、1997年に公開されたディズニー映画『ヘラクレス』には、悪役として冥界の王・ハデスが登場しますが、このハデスの別名がプルートの名前の由来だと思うと、面白いですね。

上記の過去記事でも述べたことですが、プルートはデビュー作では名無し、2作目ではローヴァーという名前で、冥王星が発見されたことにちなんで、3作目でプルートという名前になりました。これは上記過去記事ですでに書いたことではありますが、この機会にもう一度述べておくのもいいだろうと考えた次第です。

何となく、冥王星が惑星ではなくなってしまったというのは、プルートがかわいそうな気もしますね。例えば、戦国武将の織田信長にちなんで「信長」という名前を親に付けられた人が、「実は織田信長は戦国武将ではなかったらしいよ」と言われたら、結構ショックではないでしょうか。いや、例が良くないかもしれませんが。

個人的には、せっかく冥王星の話題によってプルートがクローズアップされたので、この機会に、今までグーフィーとプルートの区別がつかなかったという人が、両者を区別できるようになればいいなぁと、冥王星の話題とは全く関係のないことを考えていたりします。

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2006年8月24日 (木)

ビッグ・バッド・ウルフに負けた日

__1今日は、私がビッグ・バッド・ウルフに負けた日です。ビッグ・バッド・ウルフとは、短編映画『三匹の子ぶた』(1933年公開)でデビューしたディズニーキャラクター。ビッグ・バッド・ウルフのことをご存じない方は、まず最初に、「映画の中のビッグ・バッド・ウルフ」という過去記事を読んでいただけたら幸いです。

私は今日、ゲームセンターに行きました。「最近気になったディズニー関連のブログ記事」という過去記事でチラッとお話した、セガプライズの新商品「海底2万マイル巨大イカ付ノーチラス号フィギュア」を探したかったのです。確か8月下旬から発売とのことだったので、ゲームセンター内のUFOキャッチャーを必死に探したのですが、見つかりませんでした。まだ出ていないのでしょうか、それとも私が行ったゲームセンターにはたまたま置いていなかっただけなのでしょうか。私はUFOキャッチャーを比較的得意としているので、見つけたら何とかして取りたいと思っています。

ノーチラス号を見つけることはできなかったものの、思いがけないものを、バーバーカットというゲーム機の中に見つけました。何と、ビッグ・バッド・ウルフの大きなヌイグルミです。私は、ゲームセンターのゲームの景品にビッグ・バッド・ウルフがいるのを見たことがなかったので、思わず興奮してしまいました。なかなか出来も良かったので、何とか手に入れたいと思った私は、何度かチャレンジ。しかし、バーバーカットは掴んで取るような一般的なUFOキャッチャーとは少し勝手が違い、思いがけず苦戦して、ビッグ・バッド・ウルフのヌイグルミを手に入れることはできませんでした。悔しいです。1回100円で遊べるので、また今度チャレンジしてみようかと思います。それぐらい、気になったヌイグルミでした。そのウルフのヌイグルミを何度やっても取ることができなかったので、今日は「ビッグ・バッド・ウルフに負けた日」なのです。

ところで、私は今日初めて知ったのですが、TplanetというTシャツ屋さんで、「ディズニーTシャツプレゼント!D+2006 COLOURS トラックバックキャンペーン」という企画をやっているそうですね。
この企画に参加できるのは、ブロガーだけ。トラックバックを送ることで、コチラのディズニーTシャツの中の、「D+PINK」もしくは「D+ORANGE」に分類されているTシャツの中から、お好きなものを抽選で貰えるかもしれないという企画です。何と、ビッグ・バッド・ウルフのTシャツもあります(コチラ)。他にも、『ライオン・キング』のプンバァとか珍しいものがあります。
抽選に外れた方にも、オリジナルピンズが貰えるチャンスがあるそうです。オリジナルピンズの中には、『ミッキーのクリスマスの贈りもの』に登場した幼少期のマックス(グーフィーの息子)とか、『蒸気船ウィリー』登場時のピートとか、『ミッキーのアルバイトは危機一髪』のミッキーとか、面白いものがたくさんあります。Tシャツよりも、むしろピンズが欲しい方もいるかもしれませんね。当面の応募期間は8/31まで。ブログを運営していてディズニー好きな方ならば、要チェックの企画と言えるでしょう。

そして、今朝放送のディズニータイムを録画していたので観たところ、『ハウスオブマウス』の中で、ビッグ・バッド・ウルフが七面鳥を追いかけていました。七面鳥を食べられないならハムでもいいと言って、三匹の子ぶたを震え上がらせていました。そんなこともあって、今日はやたらとビッグ・バッド・ウルフが印象深い日でした。ゲームセンターのバーバーカットで見たビッグ・バッド・ウルフのヌイグルミは、気になりますよ。

関連記事
映画の中のビッグ・バッド・ウルフ
2回目のディズニー・アート展
最近気になったディズニー関連のブログ記事
東京ディズニーシーに行って、ノーチラス号に想いを馳せる‐映画『海底2万マイル』の世界‐
ディズニーのマイナーキャラ紹介~マックス(グーフィーの息子)~
『ミッキーのクリスマスの贈りもの』
『蒸気船ウィリー』、ピート、『キングダムハーツ2』など…
ディズニー映画のすごい邦題‐『オリビアちゃんの大冒険』・『ミッキーのアルバイトは危機一髪』ほか‐

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2006年8月22日 (火)

ウルトラマンUSA

ウルトラマンと聞けば、実写の特撮ヒーローを思い浮かべる方は多いでしょう。しかし、中には実写ではなく、アニメ作品でデビューしたウルトラマンも存在します。例えば、1979年4月から約一年間TV放送された『ザ☆ウルトラマン』は、アニメ作品です。ウルトラマンジョーニアスという名前の新しいウルトラマンが主人公で、後に実写スーツも製作され、他のウルトラマンたちと映画の中で共演しています。そして、この記事で詳しく取り上げる『ウルトラマンUSA』という作品も、アニメ作品なのです。

『ウルトラマンUSA』は、日本の円谷プロダクションとアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションが、合作として製作した作品です。アメリカのケーブルテレビで放送され、日本では1989年に劇場公開されました。私はこの作品を小学生の頃に初めて観て、強い印象を受けました。3人のウルトラマンが登場するのですが、3人とも気に入っています。

基本ストーリーは、こんな感じです。M78星雲にある惑星ソーキンが爆発し、危険なソーキン・モンスターが地球に飛来。地球を守るため、M78星雲から3人のウルトラ戦士が派遣され、彼らはアメリカ空軍のアクロバットチームのメンバー3人と一心同体になり、「ウルトラフォース」のメンバーとして地球の平和のために戦うというもの。

3人のウルトラ戦士とは、リーダー格のウルトラマンチャック、若いウルトラマンスコット、女戦士のウルトラウーマンベスです。それぞれ、ウルトラフォースのチャック・ギャビン、スコット・マスターソン、ベス・オブライエンが変身します。この3人のウルトラマンはマイナーですが、私は大好きなのです。アニメとは言え、とても魅力的でかっこいいキャラクターに仕上がっていると思います。3人とも、ウルトラマンの象徴とも言うべきカラータイマーが胸に付いていませんが、その代わりに額のビームランプがピンチになると点滅します。

『ウルトラマンUSA』の内容で特筆すべきことは、初めてアメリカの大地に降り立つウルトラマンの姿が描かれたということ。『ウルトラマンUSA』以前に、ウルトラセブンやウルトラマンタロウ、ウルトラマンレオなど、たくさんのウルトラマンが登場していましたが、アメリカ合衆国の中で戦ったウルトラマンは初めてだったのです。

また、2つ目の特筆事項として、ウルトラマン・シリーズにおいて初めてキスシーンが描かれたということが挙げられます。ウルトラマンスコットに変身するスコット・マスターソンと、女性科学者であるスーザン・ランドのキスシーンが描かれました。

このように、『ウルトラマンUSA』はアニメ作品ということもあって、かなりマイナーではありますが、40年続いたウルトラマン・シリーズの中でも、それなりに意義のある作品と言って良いのではないでしょうか。個人的に一番惜しいと感じることは、せっかくウルトラマンスコット、チャック、ウルトラウーマンベスの3人はかっこいいのに、マイナーであるがゆえになかなか活躍の機会を与えてもらえないことです。

余談ながら、スコット・チャック・ベスの3人は、1995年になって実写用スーツ(要するに着ぐるみ)が初めて製作されました。そして、映画『新世紀ウルトラマン伝説』(2002年公開)などの作品で、他の実写ウルトラマンたちと共演しています。

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2006年8月20日 (日)

原武史『皇居前広場』

原武史『皇居前広場』(光文社新書、2003年)を読みました。なかなか興味深い本でした。私は皇居前広場には行ったことがありませんし、どのような場所なのか、あまり知りませんでした。しかし、原武史氏が本文中で、恐らく日本人なら皇居前広場の存在は知っているはずだと指摘しているように、私も存在そのものは確実に知っていました。

皇居前広場についての研究はあまり多くないそうですが、原氏の著書を読んだ結果、あまり研究されていないのは勿体ない場所だと感じています。まず、皇居前広場の研究意義・研究方法について、原氏の言葉を引用してみます(引用は赤文字で行います)。

皇居前広場は、近代天皇制や象徴天皇制の支配のかたち、あるいは「明治」や「大正」とは異なる「昭和」の、そして戦後占領期や戦後独立期の思想を探るための、絶好の定点観測点になるはずであり、政治学者がもっと関心をもってよいテーマだと考える。本書では、建築学の成果を大いに参考にしながらも、筆者の専攻する政治思想史の視点から、広場が現れる明治中期から現在に至るまでの記憶を掘り起こし、この間に広場で行われたさまざまな儀礼や集会を見てゆくことにする。
 本書は
(中略)特定の政治空間を主人公として描く近現代日本思想史の試みである。大げさに言えば、建築学のこれまでの成果に政治学を融合させた「空間政治学」の試みと言い換えてもよいかもしれない。(15ページ)

また、原氏が皇居前広場の研究を始めたきっかけが「あとがき」に記されていますが、それも興味深いです。原氏は1999年に行われた、天皇在位10周年を祝う「国民祭典」を取材したとき、皇居前広場の広さ(約46万5千平方メートル)を改めて痛感したそうです。そしてまた、原氏にとっては時代錯誤的としか見えなかった「国民祭典」の内容にもかかわらず、皇居前広場と広場の正面にある二重橋が存在する限り、いつでも同じような儀礼を行うことができる不気味さを感じた…それが、皇居前広場を研究する1つのきっかけになっているとのこと。

皇居前広場では、戦前や戦後しばらくは皇室関係の儀礼だけでなく、政治的な色合いの強い集会も行われていました。しかし、現在では一部の儀礼を除いて、集会などを皇居前広場で行うのは困難な状況になっています。原氏はそんな皇居前広場を、外国人を含めた1人ひとりの市民どうしによる多様なコミュニケーションの場、つまり「公共的空間」に変えることはできないだろうかという問いかけを行っています。

皇居前広場を「国民公園」の名にふさわしく、誰もが気軽に行けるような場所に変え、その結果として皇居前広場に現れる光景はどのようなものになるか…それを見極めることは、21世紀の天皇制の行方を占うことにもなると、原氏は指摘しています。

そのような視点から、原氏は皇居前広場について様々な考察を行っています。ここでは、それらを逐一紹介することは避けますが、とても興味深く読めたことは確かです。そもそも、私は皇居前広場について無知でしたので、その意味でも新知見を得られて良かったです。

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2006年8月18日 (金)

ドナルドダックのセリフ

私はドナルドダックが、数あるディズニーキャラクターの中でも特に好きです。彼には色々な魅力を感じるのですが、その1つが彼の声。英語版でも日本語版でも、友人のミッキーマウスや恋人のデイジーダックでさえ聞き取れないことがある彼の声が、私は大好きです。

あの聞き取りにくい声で長いセリフを喋っていたり、歌を歌っているドナルドを見るのが好きですね。アニメでは、そのようなシーンが比較的多いと思います。しかし、パーク(東京ディズニーリゾート)のショーではどうでしょうか。

パークのショーでは、ドナルドは、あまり長いセリフを喋らせてもらえないことが多いような印象があります。長いセリフどころか、言葉を喋らせてもらえないこともあります。グワグワ叫んでいるだけとか。これは、ドナルドの喋りが好きな私としては残念な限りです。何故でしょうね。私とは反対に、ドナルドの声が聞き取りにくいことに不満を感じる人もいるからでしょうか。そのような不満を持つ人に配慮して、ドナルドにはあまりセリフを喋らせないのでしょうか。まさかそんなことはないと思いますが、もしもそうだとしたら、残念ですね。

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2006年8月17日 (木)

幼い頃の誤解-ディズニー編-

1980年代の生まれである私は幼少時代、1930年代~1940年代ぐらいのディズニー短編アニメを観て育ちました。家に、たまたまディズニーアニメのビデオがあったからです。

1930年代~40年代のディズニー短編アニメとは、『ミッキーのお化け退治』や『ドナルドの摩天楼』、『ミッキーのつむじ風』などの作品です。それらのアニメを観て育ったことが、現在の私がディズニー好きになる上で重要な意味を持ったことは、このブログで何度かお話した通りです。幼少時代に観ていたディズニーアニメの中でも、とりわけドナルドダックの活躍が印象的でした。そのため、私はドナルドへの愛着が強いのです。

そこまではいいのですが、幼い頃の私には誤解していたことがありました。それは、1930~40年代のディズニーアニメを、比較的最近のアニメだと思っていたこと。もう1つの誤解は、私が観ていたようなディズニーアニメを、同世代の子供たちも観ているものだと思い込んでいたこと。理由はよくわかりませんが、そんな誤解をしていました。

つまり、幼い頃の私は、ミッキーマウスやドナルドダックやグーフィーが出てくる何十年も昔のディズニーアニメを、『ドラえもん』とか『アンパンマン』とかと同じように、子供なら誰もが観ているアニメだと思っていたのです。しかも、何十年も昔のアニメだなんて、夢にも思いませんでした。だから、自分が子供の頃に楽しんでいたディズニーアニメの中には、太平洋戦争よりも前に製作されたものも少なくないと知ったときは、天動説を信じていたのに地動説が正しいことを知ってしまったぐらいに驚きましたね。

まだ20歳代の私にとって、1930~40年代はかなりの昔に感じられます。そんな昔に作られたディズニーアニメの質の高さに驚いたのでした。1930年代に製作されたアニメが、1980年代に生まれた私を虜にしていたわけですから、本当に驚きました。良いものは時代が移り変わっても良いものとして認識され続けるということですね。

そんな幼い頃の誤解から目が覚めて、冷静に世間を見渡してみたとき、ディズニーの短編アニメを幼少時代に楽しんでいた人はむしろ少数派かもしれないということに気付かざるを得ませんでした。何故なら、プルートとグーフィーの区別がつかなかったり、デイジーダックを知らなかったり、ドナルドダックはアニメの中でいつもチップとデールに痛い目に遭わされていることを知らなかったりする人が、私の予想外に多かったからです。

そんな幼い頃の誤解と、現実のギャップが、私にこのブログでディズニーキャラクターについて語らせる要因の1つになっていることは間違いありません。「『私は大のディズニーファン』と公言しているくせに、ミッキーの宿敵・ピートを知らない人もいる。それって、どうなんだろうなぁ」という気持ちが、ディズニーキャラクターについての拙い意見を私に語らせているのだろうと思います。

例えば、ピートを好きになる人が増えて巷に良質なピート・グッズが溢れたり、グーフィーの魅力に気付く人が増えて良質なグーフィー・グッズが増えてくれれば、嬉しいですからね。

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2006年8月16日 (水)

幼い頃の誤解-流行の音楽編-

あらかじめ述べておくと、私は1980年代前半の生まれです。それを前提として、私が幼い頃、巷で流行っている音楽について誤解していたことをお話しましょう。

私は、現在の趣味の1つにカラオケがありまして、年に何回かしか行かないものの、行けば誰よりも熱唱します。比較的、歌は得意なのです。今はそんな私ですが、中学二年生ぐらいになるまで、世間で流行っている歌(J-POPというヤツです)にほとんど興味がありませんでした。だから、私が中学生の頃に活躍していた、いわゆるミスチルとかスピッツという人たちの歌について、何とか存在だけは知っているという感じだったのです。

ところが、小学生以前の頃は、もっと流行の歌について興味がありませんでした。その頃、凄い誤解をしていたのです。私の父の話になりますが、父は加山雄三やグループサウンズの歌が好きで、例えば加山雄三の「君といつまでも」などを、家や車の中でよくかけていました。こともあろうに、幼い頃の私はそれを最新のヒットソングだと思っていたのです。何故だかはよくわかりませんが、父の影響で加山雄三の歌を聴く機会がもっとも多かったからでしょうね。

確か、私が幼稚園児か小学校低学年のときに、光GENJIが活躍していたような気がするのですが、流行の歌に興味のなかった当時の私も、光GENJIの歌は口ずさんでいたような記憶があります。「パラダイス銀河」とか。しかし、加山雄三の「君といつまでも」を最新のヒット曲だと思っていた私は、光GENJI・加山雄三・グループサウンズの諸々の人たちが、J-POPの世界を同時期に担っているのだと信じて疑わなかったのです。

幼い頃の誤解というのは恐ろしいですね。

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2006年8月14日 (月)

高橋哲哉『靖国問題』

終戦記念日が明日に迫って、小泉純一郎総理大臣が靖国神社を参拝するのか否か、内外の注目を集めています。しかし、そもそも靖国神社とは一体何なのか、何が問題となっているのか、実はあまり知らないという方も少なくないのではないかと、私は感じています。そこで、この記事では、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、2005年)という本を紹介してみたいと思います。

『靖国問題』の著者である高橋哲哉氏は、東京大学教授で哲学者。哲学者の立場から、靖国問題とは何なのかを論理的に明らかにすることを目指したのが、『靖国問題』という本です。この本はベストセラーにもなったので、読まれた方も多いかもしれませんが、私が気になった記述を中心に、内容を紹介していきたいと思います。引用する際は、すべて赤文字で引用します。

靖国問題の根底にあるのは、戦死した家族が靖国神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深刻な断絶であるとも言えるだろう。私たちに必要とされるのは、これらの感情の存在を直視し、それらが何に由来するのかを可能なかぎり「理解」した上で、靖国問題について自らの判断を形成することである。(18ページ)

高橋氏は第一章で、靖国問題の根底に2つの感情があることを、上記引用文のように指摘しています。そして、『靖国問題』という著書は、恐らく後者の「悲しみ拒否する」感情に共感を抱く人の方が、読みやすい本かもしれません。私も、後者の立場で読みました。特に、「首相は8/15に靖国参拝すべき」と強く主張している方々には、容易に受け入れられない記述が多いかもしれません。例えば、以下のように。

天皇であれ皇后であれ、親であれ妻子であれ、それこそ「当り前の人情」を持っていれば、戦死はまず悲しみとして経験されるだろう。だが靖国の論理は、この「当り前の人情」である悲しみを抑圧し、戦死を喜びとして感じるように仕向けるのだ。戦死の不幸は幸福に、その悲劇は栄光に転換されねばならない。そうでなければ国家は、新たな戦争に国民を動員できなくなるであろう。(54ページ)

高橋氏は、全体を通じて、靖国神社は戦死者を「追悼」する施設ではなく、「顕彰」する施設なのだと繰り返し主張しています。天皇のために戦って死んだ人々を「英霊」として讃える靖国神社の姿勢は、「追悼」ではなく「顕彰」を目的としているということです。明治維新期に官軍に抵抗した人々や、日清戦争や太平洋戦争など一連の対外戦争で日本軍に敵対した国々の人々、あるいは東京大空襲や広島・長崎の原爆で亡くなった民間人などは祀られず、天皇のために戦って死んだ人たちを神として祀っていることからしても、「顕彰」施設と呼ぶ方が妥当とのことです。

靖国問題と言えば、真っ先にA級戦犯合祀問題を思い浮かべる人も多いでしょうが、それについて高橋氏は、以下のような指摘をしています。

日本が連合国による占領状態から主権を回復し、国際社会に復帰することを可能にしたサンフランシスコ講和条約において、日本政府が連合国による戦犯裁判の「判決」を受諾している、という事実がある。東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し、「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら、戦後日本国家を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになってしまう。(69ページ)

私は、戦争責任を突き詰めて考えるのであれば、昭和天皇の責任に言及するのは当然だと思っている人間です。そのように突き詰めると天皇制廃止などの議論になりかねないので、アメリカの配慮もあって、戦争責任のすべてをA級戦犯に押し付けたのです。A級戦犯たちも、それは自覚していたと思われます。

だから逆に、A級戦犯を分祀しても、靖国問題の解決にはならず、戦争責任問題を矮小化し、歴史認識の問題を見えなくしてしまうと高橋氏は述べます。もしも、靖国神社からA級戦犯が分祀されていたら、どのような事態が生じていたか、高橋氏は次のような指摘をしています。

 A級戦犯を排除した靖国神社に昭和天皇が参拝し、「英霊」たちを慰撫する。それは、A級戦犯に主要な戦争責任を集中させ、彼らをスケープゴート(犠牲の山羊)にすることで昭和天皇が免責され、圧倒的多数の一般国民も自らの戦争責任を不問に付した東京裁判の構図に瓜二つなのである。
 一方では、「大元帥」として帝国陸海軍最高司令官であった昭和天皇の責任、そして天皇制の責任が問われることなく免責され、他方では、有無を言わせず戦争に動員され、戦死したという点では被害者と言えるけれども、実際に侵略行為に従事したという意味では加害者であった、一般兵士の責任もまったく問われずに終わってしまう。さらにまた、天皇の権威によって天皇の神社として、それらの兵士を動員することに決定的な役割を果した「戦争神社」靖国神社の戦争責任もまったく問われないことになる。
(79ページ)

中国や韓国の批判を避けるためだけなら、A級戦犯を分祀するか、首相や閣僚が靖国神社に参拝しなければいいだけの話です。何故なら、中国や韓国が批判しているのは、戦争責任があるとされたA級戦犯が祀られている場所に、日本政府のトップが参拝するという行為に対してだからです。しかし、A級戦犯を分祀するだけでは結局、戦争責任問題・歴史認識の問題などが曖昧にされたままで終わってしまうということです。高橋氏が言うように、「近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観」を持つ靖国神社の存在そのものが問題視されないことにもなります。

ともあれ、高橋哲哉『靖国神社』で提示されている論点のすべてを、この記事で取り上げるのは不可能です。まだ高橋氏の著書を読まれていない方には、高橋氏の著書を読んでいただくのが一番かと思います。そこに記されている内容には、賛否両論あるでしょう。あるいは、全面的に支持できないという人もいるかもしれません。そうであったとしても、「靖国問題」をみんなで考える上での糸口になるのであれば、良いと思います。

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2006年8月13日 (日)

軍艦奉行木村摂津守-近代海軍誕生の陰の立役者-

購入したまま読んでいなかった、土居良三『軍艦奉行木村摂津守-近代海軍誕生の陰の立役者-』(中公新書、1994年)を読みました。「木村摂津守」とは、木村喜毅あるいは木村芥舟の名前で知られ、万延元(1860)年に太平洋横断を果たした咸臨丸を総督として指揮していた人物です。

著者・土居良三氏の曾祖父である長尾幸作は、咸臨丸がアメリカに行った際、福沢諭吉と共に木村喜毅の従者の名目で、咸臨丸に乗り組んでいた人物だそうです。そんな事情もあって、土居氏は木村や咸臨丸に関心を持ったとのこと。土居氏には他に、『幕臣勝麟太郎』(文芸春秋、1995年)、『幕末五人の外国奉行』(中央公論社、1997年)、『咸臨丸海を渡る』(中公文庫、1998年)、『開国への布石-評伝・老中首座阿部正弘-』(未来社、2000年)、『評伝堀田正睦』(国書刊行会、2003年)などの著作があります。

さて、今回読んでみた『木村摂津守』ですが、297ページというボリュームで、内容も充実しており、非常に読み応えがあって面白かったです。木村摂津守(喜毅・芥舟)という比較的地味、と言うよりもむしろマイナーな人物の評伝として、よくまとまっています。

最も注目すべきは、副題の「近代海軍誕生の陰の立役者」という部分でしょう。一般的には、日本における海軍創設の先駆者として、勝海舟の名前を連想する方が多いことでしょう。土居氏も、それを否定するつもりはありません。しかしながら、勝海舟の活躍の陰で、努力を続けていた木村摂津守の存在が軽視されているのは間違いないでしょう。勝海舟の名前を知っていても、木村摂津守のことを知らない人は少なくないと思います。

そこで、土居良三『軍艦奉行木村摂津守』という本の登場です。これを読めば、木村摂津守が日本の近代海軍誕生において、どのような活躍をし、どのような功績を残したのか、その概略を知ることができます。咸臨丸という言葉で勝海舟を連想する方も少なくないでしょうが、咸臨丸の船中で勝は病気に苦しんで艦長らしいことは何もできず、実際は軍艦奉行の木村摂津守が頑張った様子などが、『軍艦奉行木村摂津守』を読むことで伝わってきます。

私が個人的に興味深かったのは、戊辰戦争時の木村について。江戸開城の後、木村は、金座・銀座の現金の調査および当時の官軍への引き渡しの責任者として、大久保一翁の命令で勘定奉行になっています。要するに、木村は幕府の財産を官軍に引き渡すという嫌な役を果たしたわけです。

もう1つ興味深かったのが、木村と勝海舟・福沢諭吉の関係。福沢諭吉が勝海舟を嫌っていたのは有名な話です。木村の従者の名目によって自費で咸臨丸に乗ることができた福沢は、船酔いもせず病気もしなかったらしいのですが、勝は病気で自室に篭り切りで、艦長らしさを発揮できませんでした。そのときから、福沢は勝海舟のことをずっと嫌っていたのです。福沢が、新政府の要職に就いた勝海舟と榎本武揚を、『痩我慢の説』で痛烈に批判したことは有名な話でしょう。

その一方で、福沢は木村のことをとても尊敬しており、死ぬまで木村を敬愛する気持ちを忘れなかったようです。土居氏の言葉を借りれば、「福沢は誰よりも芥舟の存在を意識し、ほとんど片時も忘れなかったといっても過言ではない」(272ページ)ということになります。木村も、死ぬまで福沢と親しく交流していました。

他方、木村は福沢が嫌う勝海舟と一緒に『海軍歴史』を編纂したりして、勝海舟の長所・功績を認めていました。勝も、木村の功績を称えていたようです。しかし、勝と福沢の仲が悪化する一方だったというのは、何とも面白い話です。

ともあれ、土居良三『軍艦奉行木村摂津守』は、「近代海軍誕生の陰の立役者」の生涯を、史料を駆使して手際よくまとめています。良書です。咸臨丸と言えば勝海舟しか知らない人、あるいは幕末の海軍関係の話と言えば勝海舟しか思い浮かばない人は、「陰の立役者」を知るためにも、『軍艦奉行木村摂津守』を読んでみてはいかがでしょうか。

最後に。ここ数年の中公新書は、木村摂津守のように地味な人物の優れた評伝が多くないように感じられます。できれば、このような本をもっと出してほしいですね。昔の中公新書には、松岡英夫『大久保一翁』(1979年)、同『岩瀬忠震』(1981年)、吉田常吉『唐人お吉』(1966年)、須見裕『徳川昭武-万博殿様一代記-』(1984年)、藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(1985年)など、地味な人物を扱った評伝が多かったように思います。マイナーで地味な人物を扱った評伝は、類書が少ないだけに、どれも読んで新鮮味があります(しっかりした内容になっている場合の話です)。それだけに、今回読んだ土居良三『木村摂津守』も、新鮮で面白かったです。

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2006年8月12日 (土)

2回目のディズニー・アート展

Photo_11 昨日は平日ですが、仕事が休みだったので、東京都現代美術館で開催中のディズニー・アート展に行ってきました。と言っても、行くのは2回目です。前回行ったときの感想などについては、コチラの記事をご覧ください。

それでは、2回目の訪問になるディズニー・アート展の感想を、以下に述べていきたいと思います。今回は、なるべく前回とは違った観点で感想を述べていく方針です。また、マニアックな視点で語っている部分も多いので、ご注意ください。

まず、今回は朝から行きました。前回は夕方に訪れたため、美術館の閉館時間の関係で最後までじっくり鑑賞することができなかった反省を踏まえてのことです。今回は朝10時過ぎに入館し、展示を観終わったのが午後3時過ぎ。約5時間、ディズニー・アート展の会場にいた計算になります。展示されているすべての作品が見応えたっぷりなので、時間はあっと言う間に過ぎ去ってしまうというのが、正直なところです。

前回も気付き、今回も思ったことがあります。途中、ミッキーマウスのデビュー作(製作された順番で言うと3作目)である『蒸気船ウィリー』(1928年公開)が上映されているコーナーがあります。『蒸気船ウィリー』を初めて観る方も多いためか、ここで立ち止まる人が大勢います。その人たちの会話を耳にして気付いたのですが、昔の映画でミッキーが結構やんちゃな性格だったということは、案外知られていないのですね。と言うのも、『蒸気船ウィリー』の中で、ミッキーが猫の尻尾を掴んで振り回すシーンがありますが、それを観て「ミッキーは結構ひどいことするんだなぁ」という会話をしている方も少なくなかったものですから。

昔の映画の中のミッキーは、ミニーのスカートをめくったり、たばこを吸ったり、動物虐待に近い行為(例えば、そこらの動物を捕まえて楽器代わりにする)などを行っていて、かなりやりたい放題な印象があります。そのような昔のミッキーの行動をあまり観たことがなくて、今のミッキー(特にパークのミッキー)を観ているだけでは、昔のミッキーの行動にかなり意外な感じがする人も少なくないのでしょうね。最初の頃はやんちゃな性格だったミッキーも、人気が出るにつれて教育的配慮からおとなしい性格になり、その代わりに短気で暴れ回るドナルドダックが活躍し始めたという事情があるようです。

ともあれ、『蒸気船ウィリー』という作品が多くの人の目に触れる機会ができて、私は結構満足しています。ここでは、ウォルト・ディズニーと共にミッキーマウスの生みの親として知られるアブ・アイワークス直筆の、ミッキーやミニー、そして蒸気船ウィリーの原画を見ることができます。これは興奮です。アブ・アイワークスについては、前回の記事で書き落としてしまいました。これは必見です。

前回の記事でも書きましたが、最後の方ではシリー・シンフォニー・シリーズの『骸骨の踊り』(1929年公開)、および『花と木』(1932年公開)を大画面で観ることができます。そのコーナーを素通りしている方もいらっしゃいましたが、非常に勿体ないです。『骸骨の踊り』も『花と木』も、笑えるシーン満載なので、ぜひとも観ることをオススメします。『花と木』は世界で初めてアカデミー賞を獲得したアニメでもありますし、観て損はないはずです。

『骸骨の踊り』は、幼少時代から私のお気に入り作品の1つ。これは、本気でオススメの作品です。音楽に合わせて踊る骸骨たちに、爆笑すること間違いなしです(多分)。骸骨がメインなので怖がっている子供もいましたが、骸骨たちは怖いと言うよりもお茶目で可愛らしいです。ラスト、朝が来たので墓に帰ろうと大慌ての骸骨たちは必見です。あまりに面白かったので、2回も観てしまいました。何度観ても笑えます。多分、この作品を一日中何度も観ていても、決して飽きないのではないかという気さえしてくるアニメです。大画面で観ることができて、幸せでした。

展示されているコンセプト・アートなどについて、今回最も印象深かったのが、マーク・デイヴィス。彼が描くオーロラ姫(むしろ、ブライア・ローズ)は美しすぎます。図録を買った人は見ていただければわかるかと思いますが、図録の200ページに載っているブライア・ローズ(オーロラ姫)のコンセプト・アートを見て、マーク・デイヴィスが描く女性キャラクターの凄さを実感。前回は時間がなくてゆっくり見ることができなかった、ディズニーランド関係のコンセPhoto_30プトアートでも、マーク・デイヴィスの活躍が光っていました。

以下、購入してきた品をいくつか紹介します。

左は、シリー・シンフォニー・シリーズ『三匹のこぶた』(1933年公開)のポストカード。真ん中にいるのが、こぶたたちを狙うビッグ・バッド・ウルフ。ビッグ・バッド・ウルフは私のお気に入りキャラクターの1人なので、迷わず購入してきました。

Photo_31右の写真は、映画『ファンタジア』(1940年公開)の中の一編「交響曲第6番/田園」に登場する、酒の神バッカス(人間型の方ですよ)。先ほどと同様、ポストカードです。このあたりから、私のマニアック志向ないしはマイナーキャラクター志向が発揮されてきたことを自分でも自覚します。ゼウスの稲妻投げの標的にされながら、酒で酔っ払って大騒ぎするバッカスが面白いアニメです。見た瞬間、これは買うべきだと思いました。『ファンタジア』と言うと、ミッキーの「魔法使いの弟子」ばかりがクローズアップされがちですが、他の作品も結構面白いのです。

Photo_32左は、『メロディ・タイム』(1948年公開)の中の一編「リンゴ作りのジョニー」に登場する、ジョニー・アップルシード。これもポストカードです。リンゴを作るのがとにかく大好きな開拓民で、楽しそうにリンゴ作りに励む彼の様子が、私は大好きなのです。好きなことに打ち込んでいる人は輝いて見えますが、 彼もまさにそのような感じです。

ディズニー・アート展では、上記のようなマニアックなグッズが多数取り揃えられているので、ついつい買ってしまいました。すべての展示を見終わった後のグッズ売り場は、まさに「罠」と呼ぶにふさわしいです。思わず買いたくなるものが並んでいるのですから。

ともあれ、2回目のディズニー・アート展も、楽しむことができました。大満足の5時間でした。こんな素晴らしい展示品の中には、千葉大で発見されたものだけでなく、ディズニー社の秘蔵品が日本に来たものも含まれています。そのこと自体に感謝です。ディズニー・アート展は2回観ただけでは勿体ないと感じるぐらいに素晴らしい内容なので、終わるまでにあと1回は行こうと思います。

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2006年8月 9日 (水)

浪士組と坂本龍馬-三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画」-

『歴史読本』第49巻第7号(2004年7月号)に、三野行徳氏(NHK大河ドラマ『新選組!』に、資料提供していた研究者)の興味深い論考が掲載されています。タイトルは、「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」。その論考は、以下のような文章で始まります(引用は青文字で行います)。

文久二年(一八六二)に清河八郎が提案し、翌三年に、のちの新選組の母体となる二百有余名を引き連れて京都へ向かったとして知られる浪士組だが、この浪士組に坂本竜馬が参加する可能性があったことはあまり知られていない。竜馬のみならず、平野国臣や真木和泉、宮部鼎蔵や久坂玄瑞など当時の錚々たる浪士たちが、幕府が取り立てるべき浪士としてリストアップされていた。
(『歴史読本』2004年7月号、204ページ)

さて、上の引用文を読んで、どう思われたでしょうか。「浪士組」というものの存在を知っている人の中で、その浪士組に参加すべきメンバーとして坂本龍馬がリストアップされていた事実を、どれだけの人が知っているでしょうか。もちろん、その事実は三野行徳氏の論考を読まなくても、田口英爾『最後の箱館奉行の日記』(新潮選書、1995年)などの中で紹介されていますので、すでに知っていた方もいることでしょう。しかし、知らない人も多いことでしょう。

浪士組に参加すべきメンバーとして坂本龍馬や久坂玄瑞をリストアップしているのは、杉浦梅潭(正一郎・誠)が書いた、「浪士一件」という史料(国文学研究資料館所蔵)です。杉浦梅潭は当時の幕府の目付で、最後の箱館奉行を務めた人物でもあります。1991年に刊行された『杉浦梅潭目付日記』(みずうみ書房)は、今や幕末史研究の主要史料となっています。その杉浦梅潭が、目付として浪士取立計画管轄を命じられてから書き始めたのが、「浪士一件」だそうです。冒頭で引用した三野行徳氏の論考は、この「浪士一件」の紹介を兼ねて、浪士組について考察したもの。

杉浦が記した「浪士一件」の最初(文久二年の記事)に記されているのが、清河八郎や池田徳太郎など、後に浪士組の中心となる志士たちの名前。ここに、坂本龍馬や蝦夷地探検で知られる志士・松浦武四郎の名前が記されています。これら清河や龍馬ら志士の名前は、浪士取立計画を推進した幕臣の松平忠敏(主税助)が杉浦に提出した名簿だとのこと。ちなみに、ここでリストアップされているのは、清河八郎・池田徳太郎・石坂宗順・坂本龍馬・松浦武四郎・村上俊五郎ら、全部で12人。

その後、「浪士一件」には浪士組関係の記述(人事面や資金面など様々)が続き、文久二年十二月二十日の記事では、幕府が取り立てるべき浪士の筆頭として、清河八郎の名前が挙げられているそうです。そして、年が明けた文久三年の最初の記事には、幕府が取り立てるべき浪士たちの名前が再びリストアップされていて、結構凄い名前が並んでいます。例えば、坂本龍馬・平野国臣・真木和泉・間崎哲馬・宮部鼎蔵・西郷隆盛・久坂玄瑞・藤本鉄石などなど。これも、リストアップしたのは松平忠敏だそうですが、清河八郎の影響を受けているものと思われます。

坂本龍馬は、浪士取立計画の開始以来、ずっと名前が挙がっているわけですが、龍馬自身がその計画についてどのように考えていたのか、はっきりわかりません。ただ、龍馬が交流していた土佐藩士の間崎哲馬は、清河八郎の同志でもありました。その筋から、龍馬は浪士組の計画について聞いていたかもしれません。実際、坂本龍馬の周辺にいた人物が書いたと思われる「雄魂姓名録」という史料に、浪士組に関する記述があります。

また、「雄魂姓名録」の中には、幕府の政事総裁職だった松平春嶽が浪士組の計画を認めていたことについて、勝海舟が「春嶽公大失策也」という話をしたことが記述されています(平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社、1978年、465ページ参照)。坂本龍馬が勝海舟と同じ考えだったと即座に断定するのは危険ですが、恐らくは同様な考えを持っていたのだろうと推測はできます。

文久三年正月二十二日には、浪士取立計画を採用した政事総裁職の松平春嶽、「浪士一件」を書いた杉浦梅潭、春嶽を批判していた勝海舟、「浪士一件」に名前が載っていた坂本龍馬の四人が同じ船に乗っていて、その船中で少なくとも春嶽・梅潭・海舟の3人は浪士取立計画について議論をしたようなのですが、そこでどのような議論がなされたのか詳しいことはわかりません。きっと興味深い内容が話されたと思いますので、わからないのが残念です。

杉浦梅潭が記した「経年記略」(『杉浦梅潭目付日記』に所収)にも、このとき坂本龍馬と会話したことは記されているのですが、詳しい会話の内容は不明です。「浪士一件」を書いた梅潭と、「浪士一件」に名前を書かれた龍馬は、きっと浪士組について何か興味深い会話をしたのだろうと思うと、史料がないのが残念ですね。

ところで、三野行徳氏は「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」の中で、浪士組について他にも興味深い考察をしています。それらのすべてを紹介しているとあまりに長くなってしまうので、興味のある方には実際に三野氏の論考を読んでもらいたいと思いますが、中でも私が興味深かった考察を2つほど紹介します。

まず、三野氏は、清河八郎が幕府を尊王攘夷のために幕府を欺くつもりだったという通説に否定的です。むしろ清河は、当時の一橋慶喜の将軍後見職就任・松平春嶽の政事総裁職就任・松平容保の京都守護職就任の流れを高く評価しており、幕府の改革姿勢に期待する面があったと、三野氏は指摘します。松平春嶽に期待した清河の浪士組絡みの動きと、松平春嶽の紹介を受けたらしい坂本龍馬の勝海舟への弟子入りを、ともに春嶽を通じての幕府への接近として対比する三野氏の視点は、なかなか新鮮でした。

もう1つ。浪士組と言えば新選組の母体となったということで、三野氏は新選組についても少し触れています。三野氏は、近藤勇が文久三年五月ごろに書いた書簡の中の、「拙者関東発足之時々より忠天朝ニ奉シ、躬ハ幕府致し候者、素より僕志願候」という文言に注目しています(私は、平尾道雄『定本新撰組史録』新装版、新人物往来社、2003年、250ページより引用)。この文言から、三野氏は次のように指摘します。

近藤は浪士組に参加する時点で既に「躬ハ幕府」となっており、この時点で浪士的立場を放棄していることになる。(『歴史読本』2004年7月号、220~221ページ)

ここまで紹介して、とりあえずこの記事は終了とさせていただきます。興味のある方は、ぜひ三野行徳氏の論考「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」をお読みください。以下の参考文献も、よろしければご参照ください。

参考文献
・小高旭之「浪士組の実像―清河らの通説を検証」『歴史読本』第49巻第12号(2004年12月号)
・小高旭之「池田徳太郎の素顔―浪士組もう一人のリーダー」『歴史読本』第49巻第12号(2004年12月号)
・田口英爾『最後の箱館奉行』新潮選書、1995年
・松浦玲「民間『浪士』と維新期の『改革』」『環』第13号、2003年
・三野行徳「浪士組時代」大石学編『新選組情報館』教育出版、2004年
・三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画―杉浦梅潭文庫『浪士一件』の紹介を兼ねて」『歴史読本』第49巻第7号(2004年7月号)

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2006年8月 7日 (月)

8/6 東京ディズニーリゾート インパーク報告

今回の記事では、8/6の東京ディズニーリゾートでの行動を報告いたします。私のブログでは、舞浜での詳しい行動・動き方についてあまり書いたことがないので、たまには書いてみようかと思いました。

8:30 舞浜駅に到着
徒歩で東京ディズニーシー(以下、TDS)に移動。
私は普段から、東京ディズニーランド(以下、TDL)とTDS間は徒歩で移動することが多いのです。

9:30 ミート&スマイル
ミート&スマイルを、リドアイルにて立ち見で観ました。
メディテレーニアンハーバーでは観たことがあったのですが、リドアイルで観たのは初めて。
ハーバーではピノキオとジミニー・クリケットがいるのに、リドアイルではいなくて、その代わりにポートディスカバリーのアトモスに出ているらしい博士と助手がいらっしゃるのですね。
ハーバーのときと同じ内容かと思って観たのですが、だいぶ違うのですね。とても面白かったです。ジーニーが元気で良いと思いました。
ミート&スマイル公演中にいいタイミングでリドアイル付近にやってきたゴンドラの乗船客の皆さんは、思いがけずミッキーたちに手を振ってもらえて嬉しそうでした。

10:00 フォートレス・エクスプロレーションを探検
ここには何度か足を踏み入れたことはあるものの、実はゆっくり時間をかけて見て回るのは初めて。暑かったので、なかなか大変な冒険になりましたが、楽しかったです。
色々入り組んでいて、歩いているだけで面白いものをたくさん発見できるので、ついつい子供のようにワクワクしながら探検気分を味わってしまいました。子供のように、大砲を撃つことに興じてみたり、100円で操縦できる船の模型で遊んでみました。
船の模型の操縦は、思いのほか楽しかったです。同行者と、どちらがうまく操縦できるか競ってみるのも、一興かもしれません。
また探検してみたい場所ですね。

11:00 昼食
12:30からのビッグバンドビートを観るつもりだったので、ブロードウェイ・ミュージック・シアターに移動しやすいニューヨーク・デリで昼食。
注文したのはターキー・チャパタサンド、フレントフライポテト、コカ・コーラ。
私はコーラ大好き人間なので、このような場所に来ると90%の確率でコーラを注文します。ターキー・チャパタサンドは思ったよりも味が薄かったので、ケチャップをかけて食しました。

12:30 ビッグバンドビート
昼食の後、ブロードウェイ・ミュージック・シアターへ。ビッグバンドビートを、1階席の前の方の席で観ました。
私はミッキーなどのキャラクターが出ているとキャラクターを、キャラクターが出ていないシーンではダンサーやシンガーの方々を中心に観てしまう傾向が強いのですが、バンドの方々も細かいところで結構面白い動きをしていることを確認。多分、ずっとバンドの方々だけ観ていても充分楽しめると思います。そういう意味で、色々な面で楽しめるショーですよね。

13:00 かき氷
リフレスコスにて、抹茶あずきミルクのかき氷を購入。暑かったので、冷たいものを食べたくなってしまったのです。私はかき氷と言えば、いつもメロンばかり食べる人なので、抹茶あずきミルクというかき氷は新鮮でした。暑い日に食べるかき氷は、本当においしいですね。

14:30 レジェンド・オブ・ミシカ
かき氷を食べた後は、レジェンド・オブ・ミシカを観ました。
場所は、午前中に探検して気に入ったフォートレス・エクスプロレーションです。
ここでハーバーのショーを観たのは初めてなのですが、個人的にかなり良かったです。
何より、高いところからハーバー全体が見渡せるので、ショーの壮大な雰囲気を堪能することができたのが良かったです。
ミシカでは物凄く高い位置に登場するミッキーも、結構見やすかったです。
ミッキーのいる場所から出る水によって、虹ができている様子も見ることができて綺麗でした。

15:10 TDSエントランス
エントランスで、TDS5周年の衣装を着たミッキーたちがグリーティングしている様子を初めて観ました。ミッキーは、本当にグリーティングのときだけ帽子をかぶっていないのですね。ゲストに囲まれているグーフィーを見て満足しながら、TDLに移動。

15:30 成城石井
TDLに移動。例によって、徒歩です。目的は、15:50からのクール・ザ・ヒートを観ること。
途中、イクスピアリの1階にある成城石井で、飲み物を購入。パーク内で買うよりも安いので、活用しています。

15:50 クール・ザ・ヒート
クール・ザ・ヒートの最終回に、ギリギリで間に合いました。主役のグーフィーはこの日も元気。そして、続いて登場したのはミッキーマウス。さすがに、ミッキーが登場すると歓声が凄いです。
1日に4回行われるクール・ザ・ヒートでは、主役のグーフィーはすべての回に登場しますが、いずれかの回に1回ずつ、ミッキーマウス・ドナルドダック・ミニーマウス・インクレディブル夫妻のいずれかが登場します。誰がどの回に登場するかは公表されていないので、特に観たいキャラがいる場合は運に頼るしかないのですが、ミッキーは最終回に出てくる確率が高いらしい…という情報を得て、ミッキー大好きな同行者の希望を容れて、クール・ザ・ヒート最終回を観るためだけに、TDLに行ったのです。
思い切り濡れて、とても気持ちが良かったです。

16:30 ミラコスタ
私はホテルミラコスタに宿泊したことはありませんが、グッズ購入などの目的で何度か入ったことがあります。買い物に来ただけなのに「荷物をお持ちしましょうか」と声をかけてくださる従業員の皆様、宿泊客ではない私にわざわざ声をかけさせてしまって申し訳ありません。
それはともかく、この日は、ロビーでスーベニアメダルを購入するため、ミラコスタに行きました。100円玉が足りなかったので、ミラコスタのロビー内にあるミニリザ・サンドリーでお菓子を購入して100円玉を入手し、ほしいスーベニアメダルを無事に購入することができました。
ミラコスタのロビーでは、いつも何かしらのディズニー映画を上映しているみたいですが、私が昨日行ったときは『ダイナソー』を上映中でした。普段は、何故か『ラマになった王様』ばかり上映している印象があります。
ミニリザ・サンドリーで買ったお菓子をロビーで食して、疲れを癒した後、再びTDSへ。

19:15 ビッグバンドビート2回目
再びTDSに入った目的は、ビッグバンドビートをもう1度観ること。
昼間よりも長い時間並んだだけあって、昼間のときよりも良い席を確保できました。それもあって、昼間よりも楽しむことができました。
同行者に「ミッキー大好きで、なおかつジャズ大好き」人間がいると、自然と観ることになるショーです。…と、まるで同行者のせいで2回観る羽目になってしまったような言い方をしましたが、決してそれだけが2回観ることになった理由ではありません。私自身も、凄く楽しいし盛り上がれるショーだと思っていますので、同行者の意向とは関係なく、私にも2回観たい気持ちがあったのです。
いわば、そんな私と同行者の意見が合致して、観るべくして2回観ることになっ
たわけです。

20:30 夕食
ビッグバンドビートを観た後は、イクスピアリに移動して夕食を食べました。
と言うより、発泡酒を飲みました。成城石井で発泡酒を購入し、成城石井と同じフロアにある各店舗で食べたいものを色々と購入したのです。
イクスピアリの1階はピザ、おにぎり、たこ焼き、チキン、パン、サンドイッチ、ケーキ、ラーメン、カレー、そば、サラダ、寿司など、何でも買えるので便利です(昨日はそんなにたくさん食べていませんが)。
アルコールはあまり得意ではない私ですが、暑い日だけは飲みたくなります。

そんな感じで1日を終えて、帰宅したのでした。

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2006年8月 5日 (土)

ウルトラマンメビウス ウルトラマンの重圧

本日放送の『ウルトラマンメビウス』第18話のサブタイトルは、「ウルトラマンの重圧」。かつて、ウルトラマンジャック(帰ってきたウルトラマン)とウルトラマンタロウを苦しめた宇宙大怪獣ベムスターが登場しました。

先週の放送で、ウルトラマンメビウスのピンチを何度も救ってくれたウルトラマンヒカリは、M78星雲光の国に帰ってしまいました。地球を守るウルトラマンは自分1人だけだという重圧を、GUYSのミライ隊員(メビウスの地球での仮の姿)は感じています。その重圧から焦るメビウスは、GUYSの存在を考慮することなく、自分の判断だけで地球に迫る彗星を破壊してしまいます。

無事に彗星を破壊できたことでミライは上機嫌ですが、自分たちの存在を無視されたと感じるGUYSの面々は白け気味。リュウ隊員に至っては、メビウスも所詮は宇宙人だから人間の気持ちはわからないのだと言い放ちます。それを聞き、落ち込むミライ。

落ち込むミライに対し、サコミズ隊長は、信頼というものは築くのは大変だが、壊れるのは怖いくらい簡単だとアドバイス。サコミズ隊長の様子からして、ミライの正体をわかっているとしか思えません。

地球には、かつてウルトラマン2人を苦しめたベムスターが襲来。「ドキュメントMATに2度、ドキュメントZATに1度」出現が記