桐野作人「龍馬遭難事件の新視角」最終回-薩摩藩黒幕説の誤解を正す-
『歴史読本』第51巻第12号(2006年9月号)に、桐野作人氏の論考「龍馬遭難事件の新視角‐海援隊士・佐々木多門書状の再検討‐」最終回が掲載されました。『歴史読本』第51巻第10号(2006年7月号)から始まった短期集中連載の第三回目にして、最終回です。坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺事件に興味のある方には必読の内容となっています。
桐野氏の論考を三ヶ月間読んでみて改めて感じたことは、やはり坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺事件の犯人探しにおいて、いわゆる薩摩藩黒幕説というものは成り立つ余地がないのだということ。暗殺犯は恐らく通説通り見廻組であって、薩摩藩黒幕説にはその通説を覆せるだけの根拠は全くと言っていいほど存在しないのだと、改めて感じました。
最近は、薩摩藩黒幕説を信じる人だけではなくて、「薩摩藩黒幕説が現在の通説で、見廻組説は過去の通説」だと誤解している人も存在しています。確かに薩摩藩黒幕説を声高に主張している人はいますが、それが通説になったということはありません。アカデミズム・在野含めて、幕末維新史研究者の中で薩摩藩黒幕説を唱えている人は少数であって、大半の研究者は見廻組説を支持しています。まず、その事実を多くの人に知ってほしいと考え、私は「龍馬暗殺について~歴史学者(幕末政治史研究者)の意見を参照することのすすめ~」という記事をかつて書きました。
薩摩藩黒幕説が広まってしまうのには、ある種の理由があると私は思っています。それは以下のような理由です。見廻組説を支持する研究者は、龍馬暗殺犯が見廻組だという通説に疑いを持っていないため、あえて「龍馬暗殺犯はやっぱり見廻組だ」と声高に主張することが少なくなりがちだという事情があります。
その一方で、薩摩藩黒幕説を主張する少数の研究者は、「龍馬暗殺犯は見廻組」という通説を覆したいわけですから、声高な主張を繰り返します。声高な主張をしているだけに、その主張は一般にも広く知られる形となり、その結果として「薩摩藩黒幕説がもっとも妥当で、現在の通説になっている」という誤解をしている人が生まれているような気がするのです。
そのような状況の中、『歴史読本』2006年7月号・8月号・9月号において、桐野作人氏の論考「龍馬遭難事件の新視角‐海援隊士・佐々木多門書状の再検討‐」が掲載されていたわけです。非常に読み応えがあるばかりか、実証的で説得力があり、この記事の冒頭で述べたように、薩摩藩黒幕説に成り立つ余地はないのだと実感させてくれる内容になっています。薩摩藩黒幕説を妥当だと考えている方には、是非とも読んでもらいたい論考です。
発売されたばかりの『歴史読本』第51巻第12号(2006年9月号)に掲載された連載の最終回の中だけでも、多くの論点があるのですが、その中でも私がもっとも「その通りだ!!」と感じ、また薩摩藩黒幕説を支持する人にそっくりそのまま説明してあげたいような文章を、以下に赤文字で引用します。括弧内は私が付けた注です。
近年、近江屋事件について薩摩藩黒幕説が根強くあるが、西郷(隆盛)はまだ西国海上におり、大久保(利通)はあくまで小松(帯刀)の代理として、たまたま事件当日に上京しただけだという明白な史実が忘れられている。
また西郷・大久保らはこの時期、薩長土に芸州藩を加えた四藩で王政復古による新政体樹立を協議していた。その政治の流れを見れば、土佐藩を敵に回すことになる黒幕説が成立するはずもない。
(『歴史読本』第51巻第12号、245ページ)
桐野氏の言うとおりです。西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀という薩摩藩の指導者的メンバーは、大政奉還の後の慶応3(1867)年10月17日に京都を離れて鹿児島に行きました。坂本龍馬が暗殺されたのは、その約一ヵ月後の11月15日の京都において。そのとき、西郷は海の上にいましたし、大久保は龍馬暗殺当日に京都に来ましたが、あくまで病気で上京できなくなった小松の代理として上京した日付が、偶然にも龍馬暗殺当日だっただけです。この時点で、西郷や大久保が龍馬暗殺の黒幕だと主張するには苦しい状況になってきます。
もちろん、西郷や大久保はもっと前から龍馬暗殺の指令を誰かに出していて、暗殺が決行されたのがたまたま11月15日だっただけだという意見を唱える人もいるかもしれません。しかし、そのような主張をあくまで繰り返す人は、そもそも慶応3年の政治状況というものを全く考慮していないか、もしくは理解していないか、どちらかだと言わざるを得ません。
この記事の一番下に載せた関連記事の中でも述べたことなのですが、薩摩藩黒幕説を支持する方々は、「大政奉還を推進した坂本龍馬は、武力討幕を目指す薩摩藩にとって障害となっていた」という認識があるようです。しかし、その認識は桐野作人氏も今回の連載最終回で述べているように、誤りです。最近の幕末政治史研究では、薩摩藩は大政奉還を支持しており、大政奉還を前提として、大政奉還を推進した土佐藩などと協調して王政復古の実現を目指していたという説が盛んに主張されるようになっています。
薩摩藩は大政奉還に反対していない、だから龍馬が討幕の邪魔になったということはないと言われても、すぐに納得できない方もいるかもしれません。しかし実際、大政奉還に反対した勢力の多くは薩摩藩内ではなく、幕府内や親藩・譜代藩の中にいました。会津藩や紀州藩、新選組などです。つまり、今回の連載最終回で桐野作人氏が使っている言葉を借りれば、「慶応三年後半における政局の主要な対立軸は大政奉還を支持するか否か、あるいは大政奉還支持派(武力討幕派との連合)と幕権維持派との対抗にこそあったのである」(249ページ)ということになります。そのように考えないと、12月9日、王政復古の政変と呼ばれる宮中クーデターを、薩摩藩と土佐藩が協力して実行したことの説明がつきません。
大体、龍馬が討幕の邪魔になるのであれば、薩摩藩は後藤象二郎や山内容堂を殺害して然るべきでしょう。大政奉還を実現させる上で最大の功績があったのは、龍馬ではなく後藤象二郎です。後藤象二郎に対する影響力などを考えれば龍馬の存在を無視できないのは確かでしょうが、土佐藩で正式に重役として活動し、また率先して大政奉還の実現に向けて各方面と交渉していた後藤象二郎こそ、大政奉還実現の立役者であって、討幕の邪魔になる可能性が大きかったはずです。
しかし実際は、薩摩藩はその後藤と協調する路線を選んでいます。「薩摩藩にとって、大政奉還路線の龍馬は邪魔だった。だから薩摩は龍馬を殺す必要があったのだ」と主張する方々は、薩摩藩が龍馬以外で大政奉還路線を推進した後藤象二郎など土佐藩の主要メンバーと協調する路線を採択し、一緒に王政復古のクーデターまで実行しているのは何故なのか、納得のできる説明はできるのでしょうか。
薩摩藩と土佐藩は、徳川慶喜の処遇などについて対立する点がありましたが、大局的に見れば両者とも大政奉還支持派なのです。大政奉還を支持するということは、王政復古に向かう流れを支持するということです。薩摩藩も土佐藩も、王政復古の実現を目指していたという点で、協調することができたのです。いわゆる討幕派と呼ばれる薩摩藩と、公議政体派と呼ばれる土佐藩の違いは、王政復古の内容・実現方法において考え方の相違があっただけだと言えると思います。
今回の連載最終回で桐野作人氏は、龍馬暗殺犯を探す土佐藩に対して、大久保利通が協力的な対応をしていることを、史料を駆使しながら指摘しています。そのとき、西郷隆盛も小松帯刀も京都にいませんでしたから、大久保が在京薩摩藩の代表者です。大久保は在京薩摩藩の代表者として、龍馬暗殺犯の解明に協力する対応を採り、それは土佐藩と協調する姿勢を選んだとも言えるわけです。
桐野作人氏の「龍馬遭難事件の新視角‐海援隊士・佐々木多門書状の再検討‐」を、龍馬暗殺に興味を持つ方々に是非読んでいただきたいと思います。とりわけ薩摩藩黒幕説を信じる方には、発表されたばかりの最終回を読んでみることをお勧めします。
龍馬暗殺犯を通説通りに見廻組(幕権維持派)と考える人は、龍馬暗殺について積極的な意見を主張する機会が多くないのですが、それがかえって、薩摩藩黒幕説がなかなか消えない要因にもなっているような気がします。その意味で、桐野作人氏の論考は非常に意義のあるものだと私は考えています。私も、機会あるごとに薩摩藩黒幕説を否定する考えを述べていこうと思います。
関連記事
・桐野作人「龍馬遭難事件の新視角」
・桐野作人氏による最新の坂本龍馬論2つ
・龍馬暗殺について~歴史学者(幕末政治史研究者)の意見を参照することのすすめ~
・坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺前後の政局‐史料の中に見える薩摩藩士たちの言葉‐
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コメント
いつも拙稿のご紹介有難うございます。
薩摩藩黒幕説、今さらあえて論じるほどの値打ちもないのではないかとも思うのですが、ご指摘のとおり、研究者というより、歴史ファンの間で根強い支持があることから、きっちり書くべきだと思った次第です。
とくに2年前の大河ドラマで、西郷が佐々木只三郎に龍馬の居場所を伝えるというシーンがあったことに、憤りを感じたことが大きいですね。
西郷が在京していないという明らかな史実があるのに、このいい加減さは何だと思いました。この影響、いえ悪影響は非常に大きいと思います。蟷螂の斧かもしれませんが、誤解にははっきりと釘を刺しておかねばと、半ば義憤にかられたものでして(笑)。
拙稿については不十分さも感じております。
とくに永井尚志が幕府の公式見解として土佐藩の福岡藤次に「新撰廃」と伝えたわけですが、新選組は廃止された形跡がありません。たとえば、市中見廻りの任務から外されたとかあればよいのですが、その形跡もありませんね。
永井も土佐藩側も王政復古政変の対応に追われていましたから、一新選組の処分を考える余裕もなかったというのが現実かもしれませんが、後藤象二郎らがこの形だけの処分で、陸海援隊や藩内討幕派を押さえることができたのかどうかという疑問も残ります。
近江屋事件は明らかに王政復古に向かうプロセスにおける政治事件(幕権維持派の苦し紛れのテロリズム)ですから、その後の真相解明や収拾策も政治的に究明する必要があると思います。
とくにリーダーを殺された陸海援隊士たちが抜け駆けやはね上がりで暴走する恐れがあり、後藤ら在京土佐藩重役はその統制に苦心したと思われます。
その点、拙稿には書きませんでしたが、『神山郡廉日記』によれば、彼らが軽挙妄動しないように「君公」(山内豊範か)から「示諭書」が出され、陸海援隊士はすべて白川屋敷に入るよう命じられています。一種の禁足令だと思います。
後藤らは、陸海援隊の暴発が新選組との抗争から幕府VS土佐藩の全面対立に発展するのを恐れていたと思われます。そうなると、大政奉還は画餅に帰してしまうからです。
その意味では、近江屋事件の解決は土佐藩、幕府の双方にとって大変重大だったと思います。
そうした視点を盛り込めたらという思いで書きましたが、紙数の関係もあり中途半端だった感が否めません(笑)。
投稿 桐野作人 | 2006年7月27日 (木) 10時41分
どうもです。
>桐野さん
>とくに永井尚志が幕府の公式見解として土佐藩の福岡藤次に「新撰廃」と伝えたわけですが、新選組は廃止された形跡がありません。
これなんですが、本当に幕府の公式見解であったのでしょうか?永井尚志の八方美人的性格を考慮すると、「方便」だったという可能性は無いのでしょうか?
野口武彦だったか誰だったか忘れてしまいましたが、何かの本で、永井の巧妙さについてやや辛辣に書かれていたのを読んだことがあるのですが、思い返せば、新選組の近藤 勇が御陵衛士残党に狙撃され療養していた時、「将軍からだ!」と言ってフトンをプレゼントしていたのも永井だったような気がします。この話、どうも胡散臭い気がして、これも何となく永井の「方便」のような気がするんですね。要するに、その場その場で相手を言いくるめるのが上手い人なのではないかと。
ですが、仮に本当に幕府の公式見解だったのだとしたら、「陸海援隊の暴発が新選組との抗争から幕府VS土佐藩の全面対立に発展する」可能性は低いような気もします。廃止しようとしている部署なら、それを理由に廃止してしまえばいいと思うからです。
案外、新選組を廃止に追い込むために、近江屋で下手人は新選組が犯人と疑われるように振舞った(「こなくそ!」など)のかも?などと、一瞬、妄想してしまいました。
投稿 来栖ムツキ | 2006年7月27日 (木) 22時33分
来栖ムツキさん
ご意見有難うございます。
私も永井尚志は風見鶏的人間だったと思っております。土佐藩にも新選組にもいい顔をしたかったのではないかと。
ただ、土佐藩の主張を認めたのは永井だけでなく、老中の板倉勝静もそうだったようで、将軍慶喜のそば近くにいる老中と若年寄格の2人が同様の見解だったとすれば、その役柄からも幕府の公式見解といってよいと思います。
あと、幕府の公式見解が出た時期ですが、11月26日に永井が近藤勇に事情聴取しているのが判明していますので、その直後だと思われます。
となりますと、近江屋事件から10日以上かかったわけで、私が陸海援隊と新選組の抗争から土佐藩と幕府の全面対立に発展するかもしれないとみたのは、まさにその時期です。
幕府から何らかの誠意ある回答を引き出せないと、陸海援隊が暴発する恐れがあったのではないかと思います。在京重役の後藤象二郎や福岡藤次らはそれを恐れていたからこそ、板倉・永井らとの交渉を急いだのではないでしょうか。
『丁卯日記』11月24日条には、越前藩士の酒井十之丞が土佐藩邸を訪れたところ、「此間龍馬暗殺人も露顕に付、一同に気立、甚心配之由」という土佐藩邸内の空気を伝えています。
事件から10日近くたっても、河原町の土佐藩邸でさえこういう状況ですから、陸海援隊士が詰めている白川屋敷はもっと殺気が充満していたと推測できます。
一応、幕府が「新撰廃」という結論を出したので、後藤らはこれによって陸海援隊士をなだめたものと思われ、とりあえず、これによって後藤らが恐れた最悪の事態は何とか回避できたのではないでしょうか。
投稿 桐野作人 | 2006年7月28日 (金) 09時01分
>桐野作人さん
コメントどうもありがとうございます。
桐野作人さんがおっしゃるように、大河ドラマで明白な史実の捻じ曲げ(意図的か単なる間違いかはともかくとして)があると、一般の歴史ファンに与える影響が懸念されるというのは同感です。色々なサイトを見ていると、大河を見て「やっぱり龍馬暗殺の黒幕は西郷なのか」と思った人もいるようですし。
紙数の関係で論じ切れなかった部分は多いというのは残念ですが、それでも十分に読み応えのある文章になっていると思います。ぜひ、多くの人の読んでもらいたい論考だと思います。私自身、今回の論考をとても楽しく読ませていただきました。
来栖ムツキさんとの間で話題になっている「新撰廃」について。
永井が土佐藩に伝えた内容はともかくとして、実際に新選組が廃止された形跡は全くありませんよね。でも、桐野作人さんが論考の中で述べていたように、重要なのは実際に廃止されたかどうかではなく、幕府の公式見解がどのように伝えられたのかということですよね。
私も永井は風見鶏的な部分があるような気はしますが、板倉も新選組を廃止するというようなことを言っているのであれば、やはり公式見解と言ってよさそうな気はしますね。永井や板倉が本心でどう考えていたかはともかく、少なくとも土佐藩には幕府の公式見解として新選組廃止を伝えたのでしょうね。
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたとき、土佐藩の白川屋敷は相当に殺気立っていたような様子が、各種史料で窺えますよね。実際、新選組廃止というような結論が出なければ、陸援隊が暴発していた可能性は十分あると思います。また、そのような事態は後藤にとって避けたいことだったでしょう。その意味で、幕府から新選組廃止という見解を引き出せたことは、後藤にとってかなりの成果だったと言えると思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年7月28日 (金) 19時38分
どうもです。
>桐野さん
>となりますと、近江屋事件から10日以上かかったわけで、私が陸海援隊と新選組の抗争から土佐藩と幕府の全面対立に発展するかもしれないとみたのは、まさにその時期です。
なるほど、合点いきました。
しかし、そうなると、ますます、何故実際に新選組が廃止されることがなかったのか?という点が気になります。というか、廃止まではいかなくても、土佐側に公式見解として「新撰廃」と伝えた以上、何らかの処分をしなければ土佐側に示しがつかないような気もします。
「新撰廃」が、近江屋事件に対する懲罰としての廃止なのではなく、単に新遊撃隊へと名称変更のための「新撰廃」案だったのを、さも懲罰としての廃止であるが如く永井尚志が装って土佐側に伝えたという可能性はないのでしょうか?
投稿 来栖ムツキ | 2006年7月29日 (土) 00時27分
>パルティアホースカラーさん
陸海援隊の暴発ということでは、12月7日の天満屋事件はまさにそうだと思います。
ただ、これは王政復古政変の決行日を事前に知っていて、それに便乗したというか、どさくさ紛れに報復しようという意図もあったかもしれませんね。
>来栖ムツキさん
>しかし、そうなると、ますます、何故実際に新選組が廃止されることがなかったのか?という点が気になります。
仰せのとおりです。この点が拙論の弱点になっていますね。
ひとつは王政復古政変が起きる直前という情勢下で事態は非常に流動的ですから、一段落するまでは明確な処分には手をつけられなかったともいえます。
ただ、この時期、王政復古にあくまで反対する会津藩を帰国させようとする動きがありました。それは当然、京都守護職の罷免を意味しますから、それが新選組の処遇にも影響を与えることは十分考えられます。
永井あたりはもしかして、その辺を後藤・福岡らに示唆したのかもしれません。が、確証はありません(笑)。
>「新撰廃」が、近江屋事件に対する懲罰としての廃止なのではなく、単に新遊撃隊へと名称変更のための「新撰廃」案だったのを、さも懲罰としての廃止であるが如く永井尚志が装って土佐側に伝えたという可能性はないのでしょうか?
十分ありえると思います。私も在京幕府軍の再編成という形で新選組を組織替えするような動きはなかったのかなと思いました。
「新遊撃隊」の話は初耳でしたので、ちょっと調べてみたら、王政復古後政変後に所司代や京都町奉行、見廻組などが新遊撃隊に編成替えになり、新選組もそこに雇用される形になったんですね。
拙論と結びつければなかなか面白いのですが、ただ、王政復古政変という重大事件に規定された再編成であり、近江屋事件との直接的な関連性はないと見たほうがいいでしょうね。
いろいろご教示いただき有難うございました。
投稿 桐野作人 | 2006年7月29日 (土) 11時33分
そう言えば、確かに会津藩を帰国させる云々の話がありましたね。本気で会津藩を帰国させるなら、それと同時に新選組や見廻組を廃止するというような動きがあったとしても、おかしくないような気がします。
また、「新遊撃隊」の動きは桐野作人さんがおっしゃるように、近江屋事件とは直接の関連性はないと思います。
いずれにしても、王政復古政変に向かう動きの中で曖昧になってしまっている部分が多いですが、近江屋事件の後処理をめぐって、土佐藩や幕府の動きにはまだまだ検討する要素がありそうですね。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年7月29日 (土) 23時17分
どうもです。
パルティアホースカラーさんや桐野さんのレスを拝読して、頭に浮かんだことを書かせて下さい。
まず、新遊撃隊のことですが、確かにこれは王政復古の大号令の日である12月9日に、京都守護職や京都所司代が廃止されたのに伴い新選組が「新遊撃隊御雇」となったわけですが、王政復古のクーデターに伴って場当たり的に幕府が打ち出したというより、元々検討されていた案を王政復古宣言に合わせて発表しただけなのではないか?、という疑問です。
大政奉還上表は10月14日ですが、永井尚志などはそれ以前より大政奉還策に関する働きをしていたわけですから、大政奉還を行うことによって起こるかもしれない諸々について、ある程度予想し検討していた可能性があると思います。
そうなると当然、奉還後は奉還前と同じでいられるはずはないわけですから、そこで幕府から一諸侯へと組織をスリム化させる計画の中で、「新撰廃」という案が出てきてもおかしくはないですね。
そうなると、「新撰廃」自体も近江屋事件が主因というより、もともとあった案に副因として近江屋事件が付け加えられたとも考えられます。
もし王政復古のクーデターがもう少し後に起こっていたら、近江屋事件絡みで新選組に対する処置があったかもしれない…、とも思います。逆にクーデターが起こってしまったがゆえに、細かいことをやっている暇がなくなってしまい、結果的にそのまま下坂→鳥羽・伏見となし崩しになってしまったのでしょうね。
投稿 来栖ムツキ | 2006年7月30日 (日) 01時18分
>来栖ムツキさん
なるほど、確かにそのように考えることもできますね。
王政復古政変において場当たり的に新遊撃隊という措置が採られたというよりも、もともと検討されたいた案が王政復古に合わせる形で実施されたと考えた方が理解がしやすそうですね。
そうなると、副因としての近江屋事件という見方にも納得できます。実際、近江屋事件から一ヶ月弱で王政復古となってしまったわけですから、幕府も土佐藩も近江屋事件絡みの細かい動きをやっている場合ではなくなってしまった感がありますね。王政復古政変がもう少し遅ければ、近江屋事件に直接関わる形で、もう少し面白い動きがあったかもしれませんね。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年7月30日 (日) 07時21分
新遊撃隊の記事が掲載されているのは『淀稲葉家文書』413~14頁にある板倉勝静が江戸の幕閣に宛てた通知です。
それには守護職と所司代が御役御免、見廻役と(京都)町奉行が遊撃隊頭に転任になったことなどを書いたのち、次のように記しています。
「右之通被 仰付、所司代御附伏見組与力同心并町奉行支配向見廻組等一同、新遊撃隊被 仰付、新撰組ハ新遊撃隊御雇申付」云々
これによれば、所司代と京都町奉行が改廃されたことにより、その配下だった伏見組の与力同心と町奉行支配の者、それと見廻組が新遊撃隊に編成替えとなり、新選組はその「御雇」という形です。
なお、「御雇」は正規の構成員ではないという意味でしょうか。幕臣に取り立てられながらもなお、新選組は差別されている感じですね。
ということは、廃止された所司代と町奉行の配下、そして守護職配下の新選組が新遊撃隊に編成替えになったわけですから、やはり王政復古政変以前に幕府組織の再編成が進行していたというよりも、政変の結果、宙に浮いてしまった組織をやむをえず編成替えにしたように思えるのですが、どうでしょうか?
なお、新遊撃隊と似た遊撃隊は慶応の軍事改革により、同2年(1866)10月に発足しています。名前は似ていますが、別編成と見てよいでしょうね。
投稿 桐野作人 | 2006年7月30日 (日) 13時53分
どうもです。
>パルティアホースカラーさん
徳川慶喜が大政奉還をするにあたって、どんな構想を持ち、どんな将来を予測していたのかは、私には判りませんが、何人かの研究者は西周の構想と同じではなかったはずだ、と推測していますね。その後の慶喜の行動を鑑みるに、一諸侯に成り下がることを覚悟していたように思えます。
となると、組織のスリム化は必須ですが、大政奉還後に松平容保が守護職に関するお伺いを幕府にしたのも、大政奉還後に奉還前と同じ状態を続けていくことは不可能という認識が容保にあったから(会津藩サイドが大政奉還に怒った一因も同じ理由から)であると推測しますが、この時期の徳川サイドの研究は少ないような印象がありますので、今後研究が進み、色々な事が解明されるのを願ってやみません。
>桐野さん
『淀稲葉家文書』の引用、ありがとうございます。いつもいつも、史料を丹念に当る姿勢に敬意を持たずにはいられません。
不思議と、「新撰廃」にしろ、「新遊撃隊御雇」にしろ、今までの新選組研究の中でもあまり深く突っ込んで取り上げられていないように見受けられます。自分自身、今回の桐野さんの記事および、このパルティアホースカラーさんのブログでこの二つの事項に興味を持ったというのが正直なところですので、このことは今後の自分への宿題としたいと思います。
>なお、「御雇」は正規の構成員ではないという意味でしょうか。幕臣に取り立てられながらもなお、新選組は差別されている感じですね。
私自身はこのあたりに徳川幕府の前近代性といいますか、限界みたいなものを感じます。
近江屋事件に関しても、新選組を犯人であると思わせるような工作が為されたのではないか?という疑念を持っていますので、もしその様な工作を見廻組がしていたのいだとしたら、その意図の向こうにあるものは何なのか?等、一・会・桑や江戸幕閣を含めた徳川勢力の「やり方」というものに、「倒幕されて当然だな。」と感じてしまうこともしばしばです。
投稿 来栖ムツキ | 2006年7月30日 (日) 23時12分
>桐野作人さん
なるほど、引用していただいた部分を読む限りでは、もともと再編成が進んでいたというよりも、場当たり的に再編成されたと考えられますね。私は来栖ムツキさんの意見を読んで「なるほど」と思ったのですが、史料を読む限りでは、場当たり的と見る方が妥当なようですね。
いずれにしても、もう少し検討してみたい問題ではありますね。
来栖ムツキさんがおっしゃっているように、今まで深い追究がなされていない問題だと思いますので、これから検討が進んでほしいと思います。
>来栖ムツキさん
大政奉還後の慶喜の構想について、西周を重視するのは田中彰氏などですが、私は西周と慶喜を安易に結び付けるのは危険だと思っている側です。私は、慶喜がすべての権力を大政奉還によって手放す気だったとは到底思えませんが、「一諸侯に成り下がること」自体は覚悟していたと思います。王政復古政変の後も、王政復古政府の中で要職に就くことを狙っていたようですしね。
ともあれ、大政奉還後の幕府側の動向には、確かにまだまだ検討課題が多いと思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年7月31日 (月) 00時36分