桐野作人氏による最新の坂本龍馬論2つ
約1ヶ月前、『桐野作人「龍馬遭難事件の新視角」』という記事で、歴史作家・桐野作人氏による、坂本龍馬暗殺事件についての論考を紹介しました。論考のタイトルは「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討-」で、『歴史読本』第51巻第10号(2006年7月号)に掲載されました。短期集中連載の第1回です。
このたび、その続きの論考が、『歴史読本』第51巻第11号(2006年8月号)に掲載されました。タイトルは前回と基本的に同じです。今回の論考はパラパラ読んだだけで、まだ精読していないのですが、坂本龍馬および中岡慎太郎の暗殺事件に興味のある方は必読だと思います。前回の記事でも引用しましたが、佐々木多門の書簡に出てくる、「才谷(龍馬)殺害人姓名迄相分かり、是ニ付、薩藩之所置等種々愉快之義之れ有り」という文言の中の、「愉快」という言葉の意味することは何かなど、詳しく分析されています。
桐野氏によれば、佐々木が言う「愉快」とは、次のような意味です。龍馬暗殺犯を見つけたい土佐藩関係者は、薩摩藩が保護していた御陵衛士(高台寺党)の残党の証言によって、龍馬暗殺は新選組の仕業だと確信します(現在から考えると誤解も甚だしいですが)。その確信に至るまでには、大久保利通や中村半次郎ら薩摩藩関係者の協力がありました。そのような薩摩藩の協力的対応が土佐藩関係者にとってはありがたく、海援隊士の佐々木にとっては「愉快」と感じられたというわけです。
龍馬暗殺に薩摩藩が関与していたと主張する論者は、先の佐々木の書簡を薩摩藩関与の証拠とするわけですが、桐野氏は全く逆です。同じ書簡の同じ文言から、桐野氏は龍馬暗殺犯探しに薩摩藩が土佐藩に協力してくれたことを読み取ります。この違いは大きいです。
桐野氏と逆の立場の論者たちは、佐々木が言う「愉快」という言葉について、「土佐では『冷笑』などの意味に使われる」ということを根拠に、「自分たちが龍馬暗殺に関与したことを知られた薩摩藩が、色々と慌てている様子を佐々木が冷笑している」という類の解釈に結び付けていました。しかし、前回の論考で桐野氏は、佐々木が土佐人ではなく、恐らく江戸の生まれだということを明らかにしています。ですから、佐々木の書簡を龍馬暗殺に薩摩藩が関与していた証拠とするのは、無理があると思います。
私は、龍馬暗殺犯は見廻組であって、薩摩藩は全く関与していないという立場を採っていますので、桐野作人氏の見解に非常に共感を覚えます。坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件に興味があって、なおかつ薩摩藩関与説を信じていらっしゃる方には、ぜひとも桐野氏の論考を読んでいただきたいなぁと思います。きっと、考え方が変わることと思います。興味のある方は、『歴史読本』の最新号(2006年8月号)と、2006年7月号を探してみてください。
さて。桐野作人氏は最近、もう1つ、坂本龍馬についての論考を発表しています。それは、「同盟の実相と龍馬の果たした役割」というタイトルで、発売されたばかりの『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』(学習研究社)に収録されています。
こちらの論考は薩長同盟についてのものです。まず、この論考の最大の特徴は、近年の歴史学界における薩長同盟研究の研究動向を、手際よくまとめてくれているところです。近年、歴史学界では、薩長同盟についての研究が増えていて、青山忠正・芳即正・三宅紹宣・宮地正人・佐々木克・高橋秀直などの諸氏が次々と新しい成果を発表しています。これらの研究者の名前は、一般の方にはあまり馴染みがないかもしれませんが、幕末史研究では有名な学者たちです。これら研究者の成果を、桐野作人氏はわかりやすく整理して、それに桐野氏自身の見解を加えて説明してくれています。
最近は「薩長同盟」のことを「薩長盟約」もしくは「島津家盟約」と呼ぶ研究者がいたり(芳即正・青山忠正など)、薩長同盟の成立日を慶応2年1月ではなく慶応元年9月とする研究者がいたり(高橋秀直)、坂本龍馬が西郷隆盛・大久保利通から預かった重要な書簡を長州藩首脳に渡す任務を帯びて長州に行ったことを指摘する研究者がいたり(佐々木克)しますが、そのような最新の研究成果は、一般の方にはどれだけ浸透しているでしょうか。
正直、学術雑誌に掲載された学術論文や、高価な学術書でどんな研究成果を発表しても、それらはなかなか一般には浸透しないものです。歴史学界であたりまえのごとく浸透している説も、一般には浸透していない…それは、薩長同盟や坂本龍馬に限らず、よくあること。その意味で、それら一般の方々の目にはなかなか触れない研究成果を紹介した桐野氏の論考が、普通の書店で売られている『歴史群像』に掲載されたことには、大きな意義があります。
薩長同盟の最新の研究成果に興味のある方は、ぜひ書店で、学研から発売されたばかりの『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』を探して、桐野作人氏の論考を読んでみましょう。ただ単に最近の研究成果を紹介しているだけではなく、桐野氏自身の見解も披露しているので、面白いです。オススメです。
また、私自身も、このブログで最近の薩長同盟研究の動向を紹介した記事があります。もしよろしければ、下記の三つの記事をお読みください。
・「薩長同盟」を「薩長盟約」と言い換える
・芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』
・薩長同盟の新しい研究‐薩長同盟成立を慶応元年九月とする説‐
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コメント
また拙稿を取り上げていただき有難うございます。
それほどの価値があるかどうか、いささか疑問ですが、光栄ではあります。
さて、せっかくご紹介いただいたのに、重要な部分で誤植があったため、ここで訂正させて下さいませ。
歴史群像「維新創世 坂本龍馬」83頁3段目10行目からの段落ですが、以下のとおりです。
10行目 ×妥協性 → ○妥当性
13行目 ×書籍 → ○書簡
この部分、最後の校了時に直したため、再チェックできませんでした。
あえて、この段落数行を書き入れましたのは、やはり「同盟」か「盟約」かについて自説を述べておく必要があると思い直したからです。
私は軍事同盟説でよいのではないかと思っています。木戸書簡にある盟約6カ条を素直に読めば、そうなるのではないでしょうか。
あと、青山説の影響力は大きくて、とくに薩摩藩側が履行義務を一方的に誓約したので「同盟」ではなく「盟約」だという点、多くの研究者から支持されているように思います。
しかし、青山氏も仰せのように、これは長州藩の徹底抗戦路線を前提とした同盟です。長州の木戸の手紙ですから、この前提が書かれていないだけで、長州藩が幕府軍との全面対決の最前線に立つという覚悟のうえでの同盟だという点が議論されていないと思います。つまり、長州藩がもっとも苛酷な履行義務を負っているのではないでしょうか。薩摩藩はそれの手助けがどこまで出来るかを具体的に示しただけというのが、木戸書簡の、そして薩長同盟の性格ではないかと思っております。
史料に書いてあることだけでなく、その裏にある部分も検討すべきではと思った次第です。
それともうひとつ、木戸書簡の内容だけでなく、実際の戦争において、この同盟が果たして機能したのかどうかの検証が必要ではないか。それができれば、おのずとこの問題の結論は出るのではないかと思っています。先行研究は盟約6カ条の軸の解釈に終始し、そうした視点が忘れられているのではという気がします。
そして実際に、第2次幕長戦争(いわゆる四境戦争)があったわけで、その過程で盟約六カ条が適用されたか否かを検証できるのではないでしょうか。
私は中岡慎太郎が木戸貫治に宛てた書簡をその論拠としました。これは慶応2年(1866)7月頃と思われるもので、すでに長州藩が勝勢になっている時期です。
その書簡によれば、中岡は薩摩藩の吉井幸輔と会って、薩摩藩が「蒸気船及陸兵応援の儀を約し」ていたことの確認を求めます。吉井は帰国したとき、西郷と相談したところ、西郷も「至極同意」で、戦況を見て「尊藩(長州藩)の御勝利も相見え申さず候わば、すぐさま蒸気船を以て、内応の人数指し出し候含み」があったけれど、芸州口・石州口・田ノ浦口で勝利を収めたと聞いたので、「右応援の儀は只今指し控え相成り居り候」と話しています。
また中岡は木戸に、今度の機会(四境戦争)が去ったら、「天下の大機去り候故、ぜひ尽力せねばならずと、大いに憤発の模様」と、吉井が燃えていたと伝えています。
これらから薩摩藩は長州藩の戦況が不利なら、蒸気船と陸兵を送るつもりでいたことがわかります。
これは盟約6カ条のうち、とくに第五条の「決戦条項」を柔軟に適用したと解釈できないでしょうか?
ところで、歴史読本誌の連載はすでに3回目の原稿を入稿してありますが、前回の「薩摩藩の所置」の部分をさらに詳しく展開したつもりです。
機会があれば、また目を通していただければ幸いです。
ご紹介有難うございました。
投稿 桐野作人 | 2006年6月26日 (月) 00時10分
>桐野作人さん
コメント、ありがとうございます。
桐野作人さんの今回の2つの文章は、どちらも意義深いものだと思います。内容的にも、とても面白かったですしね。
『歴史群像』の誤植の部分は、私も気付きました。最後の最後で挿入した文章だったのですね。でも、あの部分は挿入して良かったと思います。桐野作人さんの見解がよくわかりますから。
青山忠正氏の影響力は凄いですよね。私も以前、このブログに書きましたが、最近は「薩長盟約」という呼称を使用する研究者がかなり増えていると思います。
私自身は、桐野作人さんが論の冒頭で引き合いに出していた井上勲氏のように、「同盟」とか「盟約」という言葉について厳格な使い分けをしていないタイプでした。
でも、その使い分けをちゃんと考えるのであれば、私は桐野作人さんの意見に賛成です。「履行義務」という点を考えるなら、確かに薩摩よりも長州の方が大変な「履行義務」を負っていますよね。実際に幕府と戦うのは長州で、薩摩はそれを色々な面で援助するだけですから。ただ、木戸書簡には長州側の「履行義務」については書いてありません。木戸書簡の内容だけで判断すれば「盟約」ということになるのでしょうが、桐野作人さんのおっしゃるように、史料の裏を読むことが重要ですね。
また、私は最近の研究で強く指摘されている、「薩長盟約(同盟)は長州藩の冤罪赦免のために薩摩藩が尽力することを約束したもの」という見解に好意的な立場ではありますが、それはあくまで木戸書簡に書かれていることを解釈しただけであって、幕府と戦う長州藩の立場までを考慮した見解ではないですよね。それをちゃんと考慮すれば、この同盟に、軍事的な要素が強いことは疑いがないと思います。特に、青山氏の内戦回避説には反対です。
薩長同盟がその後、どの程度実行されたのかは、なかなか難しい問題ですよね。芳即正氏は、「薩長盟約は軍事同盟ではない」という立場からですが、盟約の内容は実行されたということを、『明治維新の新視角』(高城書房)の論考の中で述べていますけどね。
私は中岡の書簡を確認していないのですが、桐野作人さんが引用してくださった部分だけでも、薩摩が長州を軍事的に援助するつもりだったことがわかりますね。盟約第五条は「橋会桑」を決戦相手に想定してはいますが、これを柔軟に適用すれば、中岡が木戸に語ったような使い方も、確かにできますよね。
何はともあれ、盟約六ヶ条以外の史料を色々見ていると、薩長同盟にはやはり軍事同盟と言って差し支えないほど、軍事的な要素が色濃いことがわかってきますね。
貴重なご意見、どうもありがとうございました。
とても勉強になりました。
『歴史読本』の次回論考も、楽しみにしています。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年6月26日 (月) 11時39分
パルティアホースカラーさま
コメントいただき有難うございます。
話が振り出しに戻ってしまうかもしれませんが、前回の議論に少し付け加えさせて下さい。
先行研究が「同盟」か「盟約」かという用語にこだわるなら、もう少し厳密な規定をしたほうがよいのではないかと、かねがね思っておりました。
青山氏はじめ「盟約」を支持される方は、薩摩藩の一方的な履行義務が木戸書簡に書かれているからという理由で「同盟」に値せず、それを否定するために、とりあえず「盟約」という用語を用いている傾向がないでしょうか? 私の不勉強かもしれませんが。
ニュアンス的には「同盟」がふさわしくないから、その下位概念にあたる「盟約」にしたのではという気がしております。
しかし、「盟約」にしても本来「固い約束」という意味であり、当事者双方をそれなりに制約する言葉であることは変わりありません。その見地からすると、当事者の一方だけの履行義務を「盟約」と呼ぶのもあたらないのではないかという素朴な疑問もあるわけです。
また一方、「薩土盟約」という言葉もあります。これには「同盟」か「盟約」かという議論はなく、~盟約と用語に異議は唱えられていません。
この盟約が結ばれるにあたって、薩土の在京首脳の間の議論の結果を土佐側がまとめ、王政復古と慶喜の将軍辞職の実現や上下議事院を置くことなどが双方で確認され、約定書まで取り交わされています。
これを「盟約」と呼ぶとすれば、「薩長盟約」あるいは「島津家盟約」との落差(手続きの省略)は大きいですね。「盟約」の条件さえ満たさないのではないでしょうか。
一方、「薩長同盟」に対しても、同盟は近代においては国家間の取り決めである。「薩長同盟」は国家間どころか、両藩間(藩主が同意するという意味)の取り決めでもなく、薩長両藩の有志だけの取り決めにすぎないではないかという反論も予想されましょう。
用語を差別化し、より厳密に使うなら、薩土盟約まで視野に入れて用語の統一性、整合性を図る必要があるのではないでしょうか。かといって、私に対案があるわけではありませんが(笑)。
個人的には、薩長間の「軍事同盟」に本質があり、形式的には藩主体の合意でもないことから、とりあえず薩長「密約」とでも呼べるかもしれませんが、「密約」だと何か軽い印象がありますよね(笑)。
藩主が同意してないから藩間の盟約あるいは同盟ではないという議論も形式論に陥ると思います。幕末政局で、諸藩の政策や方針の策定は藩主の同意や藩当局の合意を待っていては時勢に遅れてしまいますし、多くは在京重役の独断専行で主導されました。そうした経験的に蓄積された政治慣習をもっと重視してもいいのではないかと思います。
何の結論も導き出せていませんが、とりあえず素朴な問題提起ということでお許し下さい。
投稿 桐野作人 | 2006年6月26日 (月) 21時23分
>桐野作人さん
またまた、コメントありがとうございます。
>ニュアンス的には「同盟」がふさわしくないから、その下位概念にあたる「盟約」にしたのではという気がしております。
確かに、そんな気がしますね。ニュアンス的な問題が一番大きいような気がします。「同盟」ではないから、とりあえず「盟約」と呼んでいる人もいそうですよね。
また、「盟約」という言葉自体に「固い約束」という意味があるのも、そのとおりですね。その意味ではむしろ、「同盟」と大差ないと考える人もいるでしょうね。
>また一方、「薩土盟約」という言葉もあります。これには「同盟」か「盟約」かという議論はなく、~盟約と用語に異議は唱えられていません。
これは、確かにそうですね、なるほど。薩土盟約については、私はあまり気にしていませんでした。しかし、確かに薩土盟約はかなり細かい修正などを加えて合意に至っていますね。薩長同盟あるいは薩長盟約と違って、薩摩もしくは土佐の一方だけの履行義務を取り決めたわけでもないですし。「薩土盟約」と言ったときの「盟約」と、「薩長盟約」と言ったときの「盟約」の意味合いは異なっているような気がします。
私は気付きませんでしたが、確かに薩長盟約まで視野に入れて、薩長同盟あるいは薩長盟約の名称について考えたほうが良さそうですね。
桐野作人さんがおっしゃるように、藩主の同意がないから同盟ではないとか言い出しても、形式論になるだけだと思います。
「盟約」という言葉には「固い約束」という意味がありますし、「同盟」という言葉は国家と国家の同盟を想起させる場合が多いですが、必ずしも国家と国家の場合だけでなく、個人と個人の約束のことを「同盟」と呼んでも、間違った使い方ではないようです。そうなると、「盟約」も「同盟」も、使い方によっては同じ意味合いになりそうです。
それならば、松浦玲氏も言っていましたが、研究史の中で定着している「薩長同盟」という用語を使用すれば済むような気もします。
薩長同盟が軍事同盟であろうとなかろうと、内戦回避のために結ばれたものであろうとなかろうと、長州藩の履行義務だけを取り決めたものであろうとなかろうと、いずれにしても「薩長同盟」という用語のままで問題ないのではないか、「同盟」と「盟約」は厳密に区別しなくてもいいのではないかと、私は思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年6月27日 (火) 20時25分
薩長同盟に関しては、
「真説薩長同盟」(文芸社・山本栄一郎)
という本が一番だと、わたしは信じています。
ぜひ読んでみてください。
投稿 あかね | 2006年7月15日 (土) 21時47分
>あかねさん
コメント、ありがとうございます。
山本栄一郎氏の『真説・薩長同盟』については、私も読んだことがあります。
斬新な視点で面白く、頷ける主張もあったのですが、全体的に物足りない気がした…というのが、率直な感想です。
多分、私が「研究史」やら「先行研究との関連」やらを意識しながら読んでいるからかもしれません。山本氏には、過去の幕末史研究の研究史において、自分の研究がどのように位置づけられるのかという意識が希薄な気がしたからです。
もっとも、かなり前に読んだので、内容をすべて記憶しているわけではありません。
でも、せっかくオススメいただいたこともありますので、また読んでみようかと思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年7月16日 (日) 00時41分