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2006年5月25日 (木)

高橋秀直「王政復古への政治過程」

先日の記事で、今年の初めに亡くなった歴史家の高橋秀直氏(生前は京都大学助教授)が、初めて幕末政治史を扱った論文「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」(『日本史研究』第457号、2000年)を紹介しました。

高橋氏は上記の論文を発表した翌年、「王政復古への政治過程」(『史林』第84巻第2号<通巻426号>、2001年)という論文を発表しました。その論文では、「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」で展開された論点をさらに精緻に分析し、慶応3年の大政奉還から王政復古政変に至るまでの時期の分析において、通説とは異なる解釈を提示することに成功しました。

「王政復古への政治過程」という論文には、本文の前に【要約】が載っているので、それを引用してみたいと思います。それを読んでいただければ、高橋氏の主張の大体は理解していただけるでしょう。引用は青文字部分です。

 本稿は大政奉還より王政復古クーデターにいたる政治過程を、この時期の二つの中心勢力、徳川慶喜と薩摩討幕派に焦点をあてて再構成したものである。
 その主要な論点は第一に、大政奉還によりこれまでの政治対抗の構図(武力倒幕論の薩摩対慶喜)は大きく変化し、慶喜も薩長もふくんだ挙国一致の新政体をつくるということで両勢力は接近しつつあったということである。そしてこの接近の背景には、天皇・公議政体論という政体論での一致があった。
 第二に、クーデターの性格について。慶喜との接近にもかかわらず、薩摩がクーデターを計画したのは、慶喜の打倒を意図したからではなく、成立する新政権での主導権の確保をめざしたからであった。一方、慶喜や土佐は、薩摩の意図に反発しつつも、内戦回避のためそれとの対立を避けようとした。そのため、土佐は、クーデターに参画しつつも、それを慶喜に受け入れ可能なものにすべくその内容の緩和をはかった。一方、慶喜はクーデターを知りながらも、その阻止に動かないのみではなく、保守派の会津の行動を牽制した。両者は、公議政体樹立後に薩摩勢力の掣肘を期していたのである。
(『史林』第84巻第2号、1ページ)

以上が、高橋秀直「王政復古への政治過程」の【要約】部分です。以下、本文の中から私が特に気になった記述を、いくつか抜粋してみたいと思います。今度は赤文字で引用します。

慶喜の大政奉還の政体論は、幕府を否定することで二重政権を解消するとともに、現存する朝廷を改革し、天皇のもとに公議機関が中心をしめる政体を新たに樹立しようという主張であり、典型的な天皇・公議政体論だったのである。(中略)問題となるのは、新政体における自己の位置についての慶喜の考えである。慶喜が構想する公議機関は大名・公家よりなる上院、陪臣などよりなる下院の二院制で、自身は上院の主導的地位を占め、朝廷の実質的中心となることを考えていた、と原口清氏は推定されているが妥当なものと言えよう。そして最大の大名で、大政奉還の功労者となる慶喜がこうした地位を期待するのはまったく自然なことであった。(4~5ページ)

大政を奉還=幕府を廃止しようとする以上、将軍を辞任するのが自然である。しかし、それにもかかわらず、大政奉還上表には将軍辞任がなかった。それはなぜか。(中略)本来、将軍の地位と幕府は一対であり、幕府の権限のどこまでが幕府に由来し、どれだけが将軍の地位に基づくのかといった実定法的規定などもちろんある訳ではない。大政を奉還した将軍というこの異常事態を徳川側がどのように認識しているかが、慶喜の意図を理解する上で焦点となる。そしてこれについての彼らの認識は、将軍の地位はもはや「空名」となったというものであった。将軍の名によって幕府がなお実質的に存続しうるのは彼らの理解ではなかったのである。(11ページ)

大久保・西郷の挙兵論は内乱の覚悟ぬきではなしえないもので、徳川氏=慶喜を軍事的に打倒しようというものであった。しかし、こうした慶喜打倒論は彼らの一貫した主張ではなかった。兵庫開港勅許で薩摩が挙兵方針に踏み切る以前の段階における、彼らの主張は五月の西郷意見書に見ることが出来るが、それが目標とするのは、天皇・公議政体の樹立であり、その公議政体に慶喜は当然、参加するものとされていた。天皇・公議政体の平和的樹立に慶喜が応じるとは思われないので、彼らは軍事的方策をとることにしたのであり、慶喜の打倒それ自体が目標であったわけではなかった。したがって、大政奉還により平和的に公議政体が樹立できるなら大久保・西郷にとってもそれは望ましいことであった。要はそれが本当に実現するのか、慶喜の真意如何にあった(17ページ)

十二月初旬、薩摩討幕派がクーデターに賭けていたのは、権力か滅亡かではなく、予想される慶喜もふくめた連合政権での主導権という限定的な問題なのであった。(34ページ)

・クーデター直前、慶喜・薩摩の両者は接近し、クーデターも新政体の樹立までは、会津など徳川保守派の暴発がないかぎりは、軍事的衝突ぬきで達成される状態になっていた。大政奉還以後、政情は大きく変化したのである。この変化の最大の要因は、慶喜の決断により政体論で両者が一致したことにある。すなわち、天皇・公議政体論が徳川保守派をのぞき政界の共通項となったことである。天皇を政体の中心におくべきという主張は桜田門外の変以後、共通認識となっていたが、公議の理念もここで一般化した。ペリー来航以来の政体をめぐる試行錯誤はここで一応、収束したことになる。(36ページ)

気になる記述(賛成できる部分も、そうでない部分も)は他にもまだまだあるのですが、引用はこれぐいらいにしておきます。冒頭でも述べましたが、「王政復古への政治過程」という論文は、高橋秀直氏の幕末政治史の論文第2弾です。幕末政治史を扱った最初の論文、「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」で提示された論点をさらに深く掘り下げて、実証的な分析を行っているのが特徴と言えるでしょう。

個人的には、異論を感じる記述もあるのですが、高橋氏の研究は幕末政治史研究の進展に大きく寄与したことは間違いないだろうと思います。大政奉還から王政復古政変に至る時期の徳川慶喜と討幕派の関係について、高橋氏と同じような認識を抱く研究者も増えているような気がします。

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受信: 2007年1月11日 (木) 00時29分

コメント

 う~ん…、高橋論文の特徴なのですが、読ませるタイプの面白さがあるのですが、観念的な部分が突っ走っているというか、細かい部分で「それってどうよ?」と思うことがしばしばあります。例えば、

>会津など徳川保守派の暴発がないかぎり
(中略)
>すなわち、天皇・公議政体論が徳川保守派をのぞき政界の共通項となったことである。

の「徳川保守派」って一体何?と、思うのですね。家近良樹などによれば、会津は親天皇派なわけです。徳川勢力中における公武合体派の筆頭だったわけです。幕府絶対主義で朝廷よりも幕威の方が上だという認識だったのは江戸の幕閣の一部で、むしろ会津は朝威が幕威より上という考えだったわけですから、この「徳川保守派」というものスタンスは何なのだろう?という疑問が湧くわけです。

 また一方で、慶喜が思い描いていた天皇を中心とした政体構想も、慶喜自身がそれの主導的立場に立とうとしている時点で、大政奉還後に慶喜が徳川宗家を離れて一個人になっているのならともかく、そうではない以上、政治的存在としての徳川家は存続することになるわけです。この存続を西郷・大久保が許容していたというのが高橋論文の核ですが、私はこの部分で違和感を覚えます。
慶喜の政治参加を許すのなら、小御所会議は何だったのか?という疑問が湧きます。

 個人的には、慶喜の動きを見る限り、和戦両方を睨んでいたと思います。大坂以東に徳川勢力をつき返さなかったからです。大坂に留め置いたということが結果的に鳥羽・伏見に繋がっています。この状態を「会津の行動を牽制した」とするのはどうかなぁ?とも思います。

投稿 来栖ムツキ | 2006年5月26日 (金) 01時25分

>来栖ムツキさん

コメント、ありがとうございます。
高橋秀直氏の文章について、

>観念的な部分が突っ走っているというか、細かい部分で「それってどうよ?」と思うことがしばしばあります

という気持ちには同感です。私も、同じような印象を抱いたことがあります。

ただ、「徳川保守派」ということについてですが、私も慶応3年後半の会津藩や桑名藩については、高橋氏と同じように、江戸の幕閣と一括りにして考えている部分があります(「徳川保守派」とまでは言いませんが)。
高橋氏が言う「徳川保守派」というのは、徳川勢力中で大政奉還に反対する気持ちが強い勢力(=公議政体の樹立に反対する勢力)のことでしょう。会津とか、紀州とか、大政奉還に反対の譜代大名や幕臣たちのことでしょう。

大政奉還前後の時点で、公議政体の樹立に賛同していないという意味で会津・桑名や他の譜代大名・幕臣たちを一括りの勢力として考えているのは、私も高橋氏と同様です。

しかし恐らく、一会桑政権時代の孝明天皇に信頼されていた頃の会津藩については、高橋氏も「徳川保守派」と呼称することはないと思います。

高橋氏の意見によれば、西郷・大久保は慶喜の新政府参加は認めるけれど、主導権まで慶喜に握らせるわけにはいかないというスタンスだったと言えるかもしれません。
高橋氏は辞官・納地問題について、慶喜から謝罪するという形式にすることで、それまでの幕府政治=悪政史観の公認になると言っていますし。

私も、慶喜は和戦両様の構えだったと思います。でも、高橋氏は次のようなことを言っていますね。
慶喜は公議政体の樹立という点で薩摩と意見が一致していて(会津とは意見が相違)、薩摩を含む諸藩と協調して平和的に公議政体を樹立させようとしていた。だから、長州復権も認めた。それについて会津が文句を言おうものなら、自分が会津を討つとまで公言していた(これが、高橋氏の言う「牽制」です)。その上で、樹立された公議政体の中で自分の勢力拡大に努める。これが慶喜の真意。

高橋氏は王政復古政変前後の慶喜について、上記のような認識をしているそうです。その高橋氏の考えを認めた上で、会津を国元に帰さなかった理由を説明しようとしたら、慶喜が新政府内で勢力拡大をするためにも薩長への圧力として会津が必要だったのでしょうか。これについては、高橋氏は詳しく語っていないので、よくわかりませんが。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年5月26日 (金) 21時02分

いつも興味深く読ませてもらっています。
今回もまた面白いですね。

慶喜は大政奉還を決断した時点で、完全に公議政体論に乗り移ったと見てよいでしょうね。慶喜から見たら、会津藩や幕府内の幕権回復派は頭の切り替えが遅いということになるでしょうし、逆に会津藩などから見たら、慶喜の豹変、無節操だということになりますね。とくに、あれだけ強硬に長州再征を唱えながら、孝明天皇や尹宮からも反対されたにもかかわらず、勅許を反古にしたやり方にはついていけないという思いがあったでしょうね。

ちなみに、慶応3年後半の会津藩について、私は公議政体論に反対し、あくまで幕府の統治権を手放さないという意味で、「幕権回復派」とでも呼んだらどうかなと思っております。

後藤が王政復古政変を起こすことを事前に慶喜に通告していたというあたりに、事の真相は潜んでいるように思います。
いわば、この政変は出来レースというか、八百長、あるいは官製談合ともでもいうべきか、ひとり会桑だけが談合からはずされていたといえそうですね。

>高橋氏の意見によれば、西郷・大久保は慶喜の新政府参加は認めるけれど、主導権まで慶喜に握らせるわけにはいかないというスタンスだったと言えるかもしれません。

この点について、高橋氏はこの論文だったか別の論文かで、たとえ慶喜が朝廷の下につくられた新政体に参加できたとしても、一諸侯として徳川800万石に比例した地位と勢力を得られるとは限らない、諸侯のワンノブゼムにすぎなくなるのではないかと書かれていましたね。こういう高橋氏のとらえ方が新鮮でした。

もっとも、高橋氏の諸論考に対しては、権力闘争史観で語りすぎるのではという批判もあるそうですが、従来の研究者が書いてくれなかったことを大胆に問題提起したという意味では大変意義あることと思います。
幕末維新期の抗争は当然、権力闘争の側面をもっていますから、そのリアリズムを動的に表現してくれたことは好感がもてます。初めて読んだとき、こんな史観による幕末史の切り方を待っていたよというのが率直な感想でした。

ちなみに、前回の龍馬の議論に関連して、龍馬暗殺についての拙稿を今月発売された歴史読本に掲載しました。ご覧いただければ幸いです。

投稿 桐野作人 | 2006年5月26日 (金) 21時32分

>桐野作人さん

こちらこそ、いつもコメントありがとうございます。

慶応3年末の慶喜と会津藩の関係については、桐野作人さんのおっしゃる通りのような気がします。
それから、「幕権回復派」という呼称はいいですね。少なくとも、高橋氏のように「徳川保守派」と呼ぶよりは、私はしっくりする感じがします。

越前藩を通じて慶喜に政変の計画を告げた後藤の思惑は、「政変によって樹立された公議政体には慶喜も当然参加するわけだから、慶喜にもちゃんと知らせておかなければ」という感じのものだったのではないでしょうか。
もちろん、その計画を「幕権回復派」が事前に知っていたら、大変な騒ぎになっていたでしょう。だから、慶喜は何も行動を起こさず、政変が実行されるのを黙認した。…「幕権回復派」から見れば、慶喜の態度は八百長や談合以外の何物でもなかったかもしれませんね。

高橋氏の論文に、権力闘争史観が色濃いというのは、私も感じていました。そのあたり、最初は少し違和感を感じる部分も私はあったのですが、それにも増して新鮮さを感じましたね。桐野作人さんと同様、今までにない切り口だと思ったのです。

『歴史読本』の最新号は未チェックでした。ぜひ読ませていただきます。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年5月26日 (金) 22時28分

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