高橋秀直「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」
今年亡くなった歴史家の高橋秀直氏の代表的著作は、『日清戦争への道』(東京創元社、1995年)です。書名からもわかるように、高橋氏の代表的著作は明治時代を扱ったものですが、ここ5~6年の高橋氏は、亡くなる直前まで幕末政治史の研究に力を注いでいました。それどころか、幕末政治史研究に新風を巻き起こした状態で亡くなってしまったと言えるかもしれません。
その高橋氏が幕末政治史について、最初に論じた文章が、「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」(『日本史研究』第457号、2000年)という論文(正確には研究ノート)です。この論文は、幕末の最終局面である慶応3(1867)年10月に、徳川慶喜が大政奉還の意向を表明するのと前後して薩長に下された、「討幕の密勅」とは一体何だったのかを検討したものです。高橋氏によれば、「討幕の密勅」の検討は、大政奉還から王政復古クーデターまでの政治過程像に新しい光を投げかけることにつながるそうです。
「討幕の密勅」と言えば、よく話題になるのは、真勅か偽勅かという問題。要するに、本当に天皇(当時の天皇は、まだ幼い明治天皇)の承認を得たものなのか、それとも天皇の知らないところで岩倉具視ら武力討幕派が勝手に作ったものなのかということが、よく議論されるのです。この問題について私は、井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)の分析により、偽勅である可能性が極めて高くなったと言ってしまって差し支えないと思っています。
もっとも、私は未読なのですが、原口清氏が論文「王政復古小考」(『明治維新史学会報』37号、2000年)の中で、「討幕の密勅」は真勅である可能性が高いと主張しているらしいということを付記しておきます。個人的には井上氏の密勅論に全面的に賛成したいところなのですが、原口氏がどんな主張をしているのか、それはそれで気になっています。
しかし、高橋秀直氏の論文の主要論点は、「討幕の密勅」が本物か偽物という問題ではありません。まずは、「討幕の密勅」は何故交付されたのかという問題。そして、高橋氏が注目したのは、討幕の密勅が交付され、大政奉還が行われた後の10月21日に公家討幕派が作成した、密勅の見合わせを命じる沙汰書(以下、「見合わせ沙汰書」と呼称します)です。高橋氏は、幕末政治史研究の中で「見合わせ沙汰書」の分析が軽視されていることを指摘し、「見合わせ沙汰書」の意味を検討することで、「討幕の密勅」の意味も明瞭になるとして、従来の先行研究の問題点を次のように指摘しています(赤文字で引用します)。
この密勅・沙汰書の分析を行うにあたって注意すべきは、公家討幕派(中山・中御門・正親町三条実愛、それに岩倉具視)の問題である。この時期の政治史研究が、武力倒幕論の動きを分析するにあたって、その対象となるのは、何よりも武家、特に薩摩であった。しかし、挙兵の成否をわける宮中掌握においてその工作を実際に担当するのは公家である。そうである以上、彼らの意向は武家にとって容易に無視し得るものではなかった。幕末の武力倒幕派の一連の行動は単に武家だけではなく、公家側の意向も反映しているのである。武家側にとってのみではなく公家にとって密勅そして見合わせ沙汰書は何であったのか、この両者を見ることによって初めて、その意味は十全に理解することができるだろう。(『日本史研究』第457号、30ページ)
上記の引用部分からもわかるように、高橋氏は、公家倒幕派の重要性を訴えています。確かに、武力倒幕という問題を考える場合、薩摩の西郷隆盛や大久保利通について論じられることが多いのは間違いないと思います。そのような指摘をした高橋氏が、「討幕の密勅」および「見合わせ沙汰書」について、どのような結論を導き出したのでしょうか。論文の「おわりに」の部分のほとんどを、以下に引用します。
薩長武力倒幕派は十月中に上方で挙兵(御所の制圧と徳川方拠点への先制攻撃)すべく十月八日までその準備を進めていた。彼らの計画には、挙兵後それを正当化する勅語の獲得も含まれていたが、その奏請は挙兵後になす予定であり、この段階ではまだそれはなされていなかった。
しかし九日、失機改図の情報が到着し挙兵計画は崩れ去った。この状況に薩長討幕派指導部はいったん国元に帰国した上で、兵力を引き連れ再上京することにした。そしてこの新たな方針のもと、挙兵への白紙委任状である討幕の密勅が武家側の要請により公家討幕派によって作成され、帰国する武家側に交付された。公家側は密勅によって薩長を挙兵計画につなぎとめようとしたのである。一方、薩長討幕派にとって密勅は、一、国元の率兵上洛の決意をこれで促す、二、上方での挙兵が不可能となり国元で挙兵する場合、これをその名分にする、という意味を持っていた。
密勅交付の十月十三日、慶喜は大政奉還という予想外の行動にでた。公家倒幕派は大政奉還構想自体には賛成であったが、その実現は困難と判断していた。しかし、大政奉還が十五日に勅許されその実現の可能性が出てくると、彼らは、慶喜の「反正」は真意か否かを見定めるため挙兵は見合わせるべきと考えるようになり、十月二十一日に見合わせ沙汰書を作成した。しかし、大政奉還が実現しない場合に備え薩長兵力の上方集中は必要と考えており、その集中の妨げにならないよう沙汰書は交付されることなく公家側に留め置かれた。
一方、密勅により薩長の決意は固まり十一月、大兵の出兵が開始された。その目的はやはり上方挙兵の実現であった。しかし、十一月十五日に再上京した大久保は見合わせ沙汰書を示されるとそれに賛成する。この結果、王政復古クーデターは、御所占拠=新政権の強行樹立にとどまり、徳川方への先制攻撃はなされず、戦争の如何は慶喜の出方次第となった。挙兵計画は大きな修正を加えられたのである。王政復古クーデターは大政奉還前の武力倒幕路線の単なる延長ではなく、大政奉還の平和的実現を期待するという見合わせ沙汰書の実行の意味もあったのである。
以上の検討は何を示唆するだろうか。それは、大政奉還より王政復古クーデターにいたる政治過程について、慶喜と討幕論の薩長との対抗という通説的視座と異なる視角で見る必要がある、ということである。大政奉還により、諸勢力の路線は戦術次元ではなく、戦略次元においても変化したのではないだろうか。
(『日本史研究』第457号、41~42ページ)
以上が、高橋秀直氏の論文「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」の、「おわりに」の部分です。慶応3年政治史というと、どうしても「徳川慶喜VS武力討幕派」という単純な図式を最初から最後まで設定しがちですが、そのような枠組を通説どおり肯定するにせよ、高橋氏のように疑問を抱くにせよ、ちゃんと検討しなおしてみるのが必要なのかもしれません。
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吉川弘文館から、今月すでに発売された書籍と、今月発売予定の書籍を1点ずつ紹介しま [続きを読む]
受信: 2007年1月11日 (木) 00時34分



コメント
今、大変、興奮しております。
ひゃー、あんなこと、こんなことが頭の中を駆け巡っている状態です。
ともかく、一日も早く、この論文(研究ノート)を読まねば!という気になりました。この論文を御紹介いただき、大変感謝しています。
このパルティアホースカラーさんの紹介記事を読んだ限りでは、これは明らかに彼がその後書いた「王政復古政府論」(「史林」)などに繋がってくる内容のようですね。
「戦争の如何は慶喜の出方次第となった」「慶喜と討幕論の薩長との対抗という通説的視座と異なる視角で見る必要がある」という部分が、高橋秀直の一貫した主張のように思えます。
投稿 来栖ムツキ | 2006年5月24日 (水) 00時15分
高橋秀直氏の論考はどれも興味深いものばかりですね。
私も以前から疑問に思っていたことがありました。それは、西郷が慶応3年8月の時点で、長州藩士に語った「三都同時挙兵計画」と王政復古政変の落差です。
実際に遂行された王政復古政変は前者よりはるかに規模が小さく、幕府屯所と会津藩邸奇襲がなくなっています。
この違いをどう理解するか、理想と現実は異なるという一般論ではなく、より当時の政治情勢に即して理解すべきではないかと考えていました。おそらく土佐藩など公議政体派への妥協の産物という面が強いのではとも思っていましたが、やはり、高橋氏が指摘するように、大政奉還の衝撃が薩長討幕派に与えた影響が大きく、大久保さえも慶喜の「反正」を確認せざるをえなくなったものと思われます。
ただ、小御所会議において、慶喜の官位褫奪、幕領200万石の収公の提案は薩摩や岩倉が「討幕」=幕府勢力の政権からの排除を諦めていなかったのではとも読めます。
もっとも、官位褫奪はともかく、幕領200万石収公は実際は難しいですね。幕府さえ長州藩から10万石収公しようとして失敗してますから(笑)。
慶喜の「反正」が確認されれば、その中央政界への復帰は自然の流れだったようにも思えます。
それをぶち壊したのは、会津など強硬派だったわけですが。慶喜の落胆の大きさが察せられます(笑)。
高橋氏の幕末維新期についての諸論考、テーマごとにわかりやすく編集したうえで、ぜひ研究書として刊行してほしいですね。
友人の研究者の方々にはぜひ検討していただきたいものです。ご本人の供養のためにも。
投稿 桐野作人 | 2006年5月24日 (水) 10時50分
>来栖ムツキさん
コメント、どうもありがとうございます。
今回紹介した論文は、恐らく高橋秀直氏が最初に書いた幕末政治史の論文です。正確に言えば研究ノートなので、他の論文に比べると少し短めの文章ですが、後の高橋氏の論文で展開されている論点が、すでに提示されています。
読む価値は十分にあると思います。
もしも図書館や書店で『日本史研究』457号が見つからない場合は、バックナンバーを購入できる旨、日本史研究会のサイトに記載されていましたので、そちらを利用されると良いかもしれません。
>桐野作人さん
コメント、どうもありがとうございます。
確かに、「三都同時挙兵計画」と王政復古政変には、落差がありますね。少なくとも前者で語られた計画は、もっと規模の大きいものだったと思います。
王政復古政変について私は、実際に起きたことの規模の大きさ以上に、心理的な影響力が大きかったのではないかとも思いますが、いずれにしても「大久保さえも慶喜の「反正」を確認せざるをえなくなった」結果による措置だと考えることもできるかもしれませんね。
ただ、桐野作人さんが言うように、慶喜排除は決して諦めていなかったと思います。実際、200万石の領地を返せという要求は、幕府にとっては容易に呑めるものではなかったでしょう。その意味で、慶喜排除の意図は明瞭だと思います。でも、もしも慶喜が200万石をすんなり返上したら、「反正」を認めるしかなくなったでしょうね。
高橋氏の論文を研究書としてまとめる考えには、私も賛成です。幕末史研究の発展のためにも、ぜひ実現してもらいたいです。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年5月24日 (水) 23時39分