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2006年3月22日 (水)

孝明天皇は毒殺されたのか

幕末史に興味のある方ならば、慶応2(1966)年12月25日に死亡した孝明天皇の死因について、「孝明天皇は病死したのだ」とか、「いや、討幕派によって毒殺されたに違いない」とか、色々と議論されていることはご存じでしょう。この記事では、そのような議論の中から、幕末史の研究史上、重要だと思われるものを簡単に紹介してみたいと思います。この記事の最後に、孝明天皇の死にまつわる問題について考える上で、参考になると思われる主な文献を掲げましたので、興味のある方はそれらをぜひ読んでみてください。それでは、以下、話を進めていきます。

歴史家の原口清氏は、1989年に「孝明天皇の死因について」(『明治維新史学会報』第15号)という論文を発表し、続いて1990年に、「孝明天皇は毒殺されたのか」(藤原彰ほか編『日本近代史の虚像と実像』第1巻、大月書店)という論文を発表しました。これら2つの論文で原口清氏が主張したかったことは、孝明天皇の死因は悪質な紫斑性痘瘡ないし出血性濃疱性痘瘡(両者あわせて出血性痘瘡)だったということです。つまり、原口氏は、孝明天皇は病死だと明確に主張したのです。原口氏の説が発表されたときは、孝明天皇は毒殺されたのだと主張していた研究者が多かったため、原口氏の論文が歴史学会に与えた影響は大きかったようです。

そもそも、毒殺説自体は孝明天皇が死んだ直後から、噂や風説として流れていました。しかし、アジア・太平洋戦争で日本が敗れるまでは、天皇が暗殺された可能性を公然と語れるような時代状況ではなく、孝明天皇毒殺説が活発に議論されることはありませんでした。しかし戦後になると、孝明天皇は毒殺されたのだと明確に主張する研究者が現れます。その代表格がねずまさし氏です。ねず氏は、『歴史学研究』第173号(1954年)に掲載された、「孝明天皇は病死か毒殺か」という論文において、孝明天皇の死に至る経過を分析し、孝明天皇の死因を急性毒物中毒、つまり毒殺だと主張しています。ねず氏のこの論文は、孝明天皇の死因をめぐる議論において言及されることが多く、研究史において大きな影響力を持ちました。

1970年代に入ると、孝明天皇の侍医であった伊良子光順の日記・メモが公開され、伊良子光順の曾孫である伊良子光孝氏が、それらの日記・メモを活用して毒殺説を主張しました。そのような、ねず氏や伊良子氏の研究成果を受けて、孝明天皇毒殺説を主張する幕末史研究者が少なくない状況になりました。毒殺説を主張した研究者の中には、石井孝氏や田中彰氏のような、幕末維新史研究の大家もいたぐらいです。

戦後、毒殺説を主張する研究者が多くなっていった状況の中で、吉田常吉氏や坂田吉雄氏のように、病死説を唱えていた研究者も存在しました。しかし、どちらかと言えば毒殺説の方が有力視されているような状況が、歴史学会では続いていたのです。そこに、原口清氏の論文が登場して、状況は一変します。原口氏の研究成果を受けて、毒殺説から病死説へ主張を転換させた研究者が現れたのです。

原口清氏の研究の登場によって、毒殺説に疑問を抱いた代表格が、佐々木克氏。佐々木氏は1977年の著書『戊辰戦争』(中公新書)においては明確に毒殺説を主張していますが、原口氏の研究成果を受けて見解を180度転換させて、近年の著書である『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫、2005年)と『岩倉具視』(吉川弘文館、2006年)においては、毒殺説を「盲説」だと断言し、明確に病死説を主張しています。

そのほか、石井寛治氏も、著書の『大系日本の歴史12 開国と維新』(小学館)が1989年に刊行されたときは、その中で孝明天皇の死因を毒殺によるものと述べていますが、同書が1993年に小学館ライブラリーに加えられたときに加筆をし、原口氏の論文の登場によって毒殺説が成り立つ可能性が低くなったと述べています。原口清氏の論文は、孝明天皇死因をめぐる議論の研究史において、画期的な意義を持ち、様々な研究者に影響を与えたのです。

しかし、原口氏の説に強く反対した研究者がいます。さきほど紹介した石井孝氏です。石井氏は原口氏に猛烈な批判を浴びせ、原口氏もそれに応じて石井氏に反論し、1990年から1991年にかけて、『歴史学研究月報』368、370、372、373号において、石井孝氏と原口清氏の激しい論争が繰り広げられたのです。論争の決着は付いていません。そもそも史料が不足していて、孝明天皇の死因が病死か毒殺か断定するのは難しいようです。ちなみに、論争の決着は付いていないものの、現在の歴史学会では原口氏の説を採用して病死説を主張する研究者が多いような雰囲気です。さきほど紹介した佐々木克氏がその代表格。つまり、病死説が現在では有力視されています。

私自身も実は病死説を支持したい気持ちがあるのですが、自分自身で研究したわけではないため、強く主張するつもりはありません。実際、いくら議論したところで、石井孝氏と原口清氏の論争のように、相互に決め手を欠く結果になると思います。ただし私は、仮に孝明天皇の死因が毒殺だったとしても、その首謀者もしくは黒幕が岩倉具視だったと主張する意見には反対したいところです。

岩倉具視を孝明天皇毒殺の首謀者だと主張する研究者の多くは、佐幕派の孝明天皇が討幕に邪魔だったから、岩倉が宮中の女官を背後から操って孝明天皇を毒殺したのだと言っています。しかしながら、岩倉具視を研究した学者たちは、そのような説に否定的だということに注目すべきでしょう。

『岩倉具視』という著書を今年出したばかりの佐々木克氏、『岩倉具視』(中公新書、1973年。増補版、1990年)の著者である大久保利謙氏、『岩倉具視関係文書』復刻版の編纂者である森谷秀亮氏などは、岩倉が孝明天皇暗殺の黒幕だという説に否定的です。私も、それらの説に賛成で、孝明天皇が亡くなったときの岩倉に、明確な討幕の意志があったとは到底思えないのです。

どうしてそのように思うかと言えば、岩倉が孝明天皇死後の慶応3(1867)年3月に書いた「済時策」という意見書などには、幕府の存在が前提であるかのような記述が見受けられるからです。例えば、岩倉は「済時策」において、「皇国ノ神威ヲ万国ニ輝ス」ために海外に派遣する「勅使」には、「幕府ハ勿論、大小名ヨリモ人材ヲ撰択シテ随行を命ゼラレ」云々と書いていて、幕府の存在を頭から否定しているようには思えません(吉田常吉・佐藤誠三郎校注『幕末政治論集』岩波書店、1976年、496ページ)。

佐幕的志向の強かった孝明天皇が慶応2年末に死んでいなかったら、確かにその1年後に新政府が誕生していた可能性はかなり低かっただろうと思いますが、そればかりを強調して孝明天皇は暗殺されたのだと考えることには反対です。孝明天皇の死によって幕府にも有利になったことがあったことは、これまでの研究で指摘されています。

例えば井上勲氏は、孝明天皇から明治天皇に代わったことで、二条斉敬が関白(廷臣の代表者)から摂政(天皇の代理)になり、幕府にとって好ましい方向に朝廷管理が強化されたことを指摘しています(井上勲『王政復古』中公新書、1991年、102~103ページ)。また、家近良樹氏は、強固な攘夷主義者だった孝明天皇がいなくなったことで、兵庫開港を成功させたい徳川慶喜にとって有利な状況が到来したことを指摘しています(家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』文春新書、2002年、159~160ページ)。

ともかく、結論を述べます。孝明天皇の死因が病死か毒殺かを確定するのは困難です。しかしながら、現在の歴史学会では原口清氏の論文に触発されて病死説を採用する研究者が増えています。また、その問題を考える上で、当時の政治状況や岩倉具視などの動向について正確な認識をしないと、いくら議論しても不毛なものに終わってしまうような気がします。もちろん、正しい政治状況を認識するためにも、議論や研究の積み重ねが必要です。

とりあえず、この記事で扱った問題を考察する上で参考になるであろう主な文献を、以下に掲げますので、興味のある方はぜひ読んでください(私が未読のものも含みます)。ただし、毒殺説を主張する研究者の本だけ読むとか、病死説を主張する論者の本だけ読むなど、対立する意見の片方だけを読むのはオススメできません。

<孝明天皇の死因などについて考察する上で役立ちそうな文献一覧>

        明田鉄男「孝明天皇怪死事件-病死・毒殺説の周辺-」(『人物探訪 日本の歴史20 日本史の謎』暁教育図書、1984年)

        家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)

        石井寛治『大系日本の歴史12 開国と維新』(小学館、1989年。小学館ライブラリー、1993年)

        石井孝『幕末悲運の人びと』(有憐堂新書、1979年)

        石井孝『近代史を視る眼』(吉川弘文館、1996年)

        井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)

        伊良子光孝「天脈拝診-孝明天皇拝診日記-」1・2(『医譚』第47・48号、1975・1976年)

        伊良子光孝「孝明天皇毒殺説をめぐって」(『歴史と人物』第129号、1975年)

        伊良子光孝「天脈拝診日記」(『滋賀県医師会報』第334号、1976年)

        伊良子光孝「孝明天皇の御死因と御主治医伊良子光順日記」(『図説・日本の歴史』第13巻「月報」、集英社、1976年)

        入交好脩『武市半平太』(中公新書、1982年)

        大久保利謙「岩倉具視を語る」(『講演』第150号、尾崎行雄記念財団、1970年)

        大久保利謙『岩倉具視』(中公新書、1973年。増補版、1990年)

        小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』(中央公論社、1966年。中公文庫、1974年。中公バックス、1984年)

        坂田吉雄「孝明天皇毒殺説に関して」(京都産業大学『産大法学』第14巻第2号、1980年)

        佐々木克『戊辰戦争』(中公新書、1977年)

        佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫、2005年)

        佐々木克『岩倉具視』(吉川弘文館、2006年)

        田中彰『明治維新の敗者と勝者』(NHKブックス、1980年)

        田中彰『日本の歴史15 開国と倒幕』(集英社、1992年)

        蜷川新『天皇』(光文社、1952年。長崎出版、1988年)

        ねずまさし「孝明天皇は病死か毒殺か」(『歴史学研究』第173号、1954年)

        ねずまさし『天皇家の歴史』第3巻(新評論社、1954年)

        ねずまさし「孝明天皇と中川宮」(遠山茂樹編『人物・日本の歴史10 維新の群像』読売新聞社、1965年)

        ねずまさし『天皇家の歴史』下巻(三一書房、1973年)

        原口清「孝明天皇の死因について」(『明治維新史学会報』第15号、1989年)

        原口清「孝明天皇は毒殺されたのか」(藤原彰ほか編『日本近代史の虚像と実像』第1巻、大月書店、1990年)

        原口清「孝明天皇と岩倉具視」(『名城商学』第39巻別冊、1990年)

        福地重孝『孝明天皇』(秋田書店、1974年)

        藤田覚『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年)

        森谷秀亮「解題」(日本史籍協会編『岩倉具視関係文書』第8巻、東京大学出版会、1969年)

        吉田常吉「孝明天皇崩御をめぐって」(『日本歴史』第16号、1949年。吉田常吉『幕末乱世の群像』吉川弘文館、1996年に再録)

ほかの文献として、『歴史学研究月報』368・370・372・373号に載せられた、石井孝氏と原口清氏の論争が参考になる。

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コメント

 孝明天皇の死という事件は、幕末史に興味がある人間なら、色々と考えずにはいられませんよね。

 ただ私の場合、結局、孝明天皇があの時期に死ななかったとしても、日本の歴史はそう大きくは変わらなかっただろうと思っています。
勿論、細かい点では変わるかもしれませんが、大局的に日本という国の進路を俯瞰して見た場合、開国・近代化という路線は孝明天皇が仮に長命であったとしても推し進められたであろうと思います。幕府に対して通商の勅許を出してますし、やがて折れて孝明天皇自身が開港の勅許も出していただろうと推測出来るからです。

 孝明天皇の死は、日本の近代化の舵取りを誰がやるか?という部分に関しては、影響力をもちましたが、日本の進む道に影響を与えたとは思えません。
そういった意味で、私は孝明天皇が病死でも毒殺でもどっちでもいいや…という、少々投げやりな認識を持っています。

 ですが、あらゆる意味合いにおいて孝明天皇の死は、幕末期における天皇という存在の「重さと軽さ」を教えてくれる事件であると思います。

投稿 来栖ムツキ | 2006年3月23日 (木) 00時20分

きょう内蔵太は35がアジアに人材も病死したかったの♪
しかし小学館と宮中へ復古したよ♪
ないし兵庫へ最後とか開国したかった。
しかし三郎に出血された。
実はきのうは慶応の最後とか研究ー!

投稿 BlogPetの内蔵太 | 2006年3月23日 (木) 14時57分

>来栖ムツキさん

コメント、ありがとうございます。
そうですね、孝明天皇が長生きしたとしても、結局は開国・近代化への道を進むことになっていたと、私も思います。兵庫開港について孝明天皇が色々騒いで紛糾する場面もあったかもしれませんが、最終的には開港を勅許しなければ済まなかったでしょうね。

病死でも毒殺でもどちらでもいいと考えている人は少なくないと思いますよ。研究者であっても。私も、基本的には毒殺か病死かという議論については、自分で史料を分析して医学的な部分まで検討するほど強い興味を抱いているわけではありません。

ですが、仮に毒殺だったとして、その黒幕を岩倉とする議論には反対したいという気持ちが一番強いですね。

いずれにしても、来栖ムツキさんがおっしゃるとおり、幕末期における天皇という存在を考える意味で、重要な出来事ではありますね。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年3月23日 (木) 19時38分

いつも興味深い話題、有難うございます。

本能寺の変、近江屋事件、孝明天皇死去など重要な歴史的事件についての諸説の紹介、とくに論点の手際よい整理は大変勉強になります。

先日、私も孝明天皇の死について雑文をまとめて、原口説のほうがねず説より相対的に説得力があるのではないかと書いたばかりでした。

孝明天皇の死後に起こった重要な変化のひとつは、朝廷内部において反幕派の親王・公家の比重が高くなったことだろうと思います。
それは8/18政変や列参事件に加わった公家たちが天皇死去に伴う大赦で謹慎を解かれて復活したことによるものです。
なかでも、正親町三条実愛や中御門経之、大原重徳ら親薩摩派の公家が議奏など要職に就き、その動向が政局に大きな影響を与えたのではないでしょうか。とくに摂政二条斉敬、中川宮といった慶喜支持派が孤立し、朝廷内に王政復古の気運が高まり、土佐藩の大政奉還運動にも影響を与えたのではないかと思っています。

この点に関しては、たしかに慶喜に不利に働きましたが、大赦は結果論にすぎませんしね。
それに岩倉は謹慎は解かれたけど、まだ洛中滞在は許されなかったのではありませんでしたっけ?

私も岩倉黒幕説には反対です。この点は原口さんの精緻な論証に従うべきでしょう。

投稿 桐野作人 | 2006年3月25日 (土) 17時51分

>桐野作人さん

コメントをいただいて、どうもありがとうございます。
特に研究者というわけではない私の研究史整理・論点整理などで、実際に研究者としても活躍していらっしゃる桐野作人さんの参考になるのでしたら、とても光栄です。
そして、桐野さんも原口説を支持しているという点は、私にも勉強になります。

孝明天皇死後に反幕派の公家たちが一斉に赦免されたことは、確かに疑うまでもなく重要な状況変化だと思います。特に桐野さんもおっしゃるとおり、薩摩と親しい公家たちの影響は大きいでしょうね。
ただ、彼らが大赦されたことが大きく影響して王政復古の実現がなされたことと、孝明天皇の死を安易に結びつけるのはやはり結果論に過ぎないと思います。

岩倉は、入洛は大赦によって許されますが、洛中居住を許されるのは大政奉還後の11月になってからですね。
やはり、岩倉を黒幕とする議論には結果論に頼りすぎる部分が強いですよね。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年3月26日 (日) 00時10分

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