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2006年2月16日 (木)

三条実美イメージについての笹部昌利氏の問題提起

幕末史についての本や論文を読んでいると、三条実美という人物は頻繁に登場します。そして大抵の場合、長州藩と行動を共にした、朝廷内の尊王攘夷派のリーダーとして描かれることが多いような気がします。

例えば、歴史家の故・大久保利謙氏は、三条実美と姉小路公知のことを、「尊攘派の急先鋒」と評しています(大久保利謙『岩倉具視』増補版、中公新書、1990年、124ページ)。また、他の例を挙げれば、井上勝生氏も、三条・姉小路の両名を、「尊攘運動の先鋒」と評価しています(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』講談社、2002年、278ページ)。

幕末関係の多くの諸書で、三条実美について、大久保利謙氏や井上勝生氏と大差のない評価がなされている場合が多いと思います。尊王攘夷運動で活躍した公家として、三条実美は幕末史を扱った多くの文献に登場しています。

しかし、「尊攘派の急先鋒」としての三条実美イメージに、疑問を呈する研究者も存在します。その1人が、笹部昌利氏です。笹部氏は、『佛教大学総合研究所紀要』第8号(2001年)に掲載された、「幕末期公家の政治意識形成とその転回‐三条実美を素材に‐」という論文の冒頭で、以下のように述べます(笹部氏の論文からの引用はすべて青文字で行います)。

なぜ、実美が「尊攘激派」として評価されるのか。このような実美に対する評価は、半ば意図的に創造されたイメージに対する一面的な解釈からくるものではないか。       (『佛教大学総合研究所紀要』第8号、25ページ)

笹部氏は以上のような疑問を解くために、「幕末期公家の政治意識形成とその転回‐三条実美を素材に‐」という論文で、「三条実美の政治意識と、それが実際の運動としていかに転回されていったのか」(同上)を、詳しく検討しています。ここでは、その結論部分を、以下に引用してみます。

 三条実美の政治意識は、三条家士富田織部と父、三条実万の体制改革意識の影響を受けて形成され、その意識は、文久二年、朝廷内の人事要求や、勅使派遣要求という朝廷政務のありかたを問い直す運動へと転回された。
 また、文久二年九月の「勅使任命」が朝廷内における実美の政治的位置付けに如何なる規定性を有したのかという点に焦点を絞り、検討した。勅使任命が朝廷内のステータスの上昇(従三位中納言)と、朝議に対する発言力の増大(国事御用掛、議奏就任)をもたらしたことは、朝議改革を求める実美の政治運動において有益であった。
 ただ、この勅使が幕府に対して「攘夷」を求めることを任務とした事実は、朝廷内外に、実美を「攘夷の旗手」とする認識を生じさせた。「京都御守衛御用掛」としての実美は、攘夷断行を志向する長州藩毛利家の政治運動によって、より急進的性格を付与され、本来的な実美の政治意識・運動とは異なる存在となった。
 さらに、文久政変により、京都を追われた毛利家に伴い、山口に赴いた実美は、毛利家の「名義」を保つアイデンティティとされた。近代以降、三条実美が「尊攘急進」とともに論じられたのは、毛利家の存在が結果的に時代の「正当」となり、幕末期の毛利家の政治論理である「尊王攘夷」主義が「正当」と認識されたことが起因すると考える。
 われわれは、近代以降の実美イメージをアプリオリに想定し、そのイメージ枠のなかで、実美自身が抱いた問題意識(朝議改革)の検討は捨象され、「尊攘急進的」立場ばかりが、クローズアップされるにいたった。                              
(『佛教大学総合研究所紀要』第8号、42ページ)

笹部氏が言うように、幕末の三条実美のイメージをアプリオリに尊攘攘夷運動と結び付けてしまっている部分は、確かにあると思います。私自身、三条の書いた史料をほとんど読んだことがないにもかかわらず、「三条実美=朝廷内の尊王攘夷派リーダー」という認識がありましたから。また、笹部氏が別の箇所で述べている以下の見解も、個人的に面白く感じた部分です。

クーデター(文久三年八月一八日政変)により、長州藩毛利家は中央政局から一掃され、政治運動の正当性のより所とした三条実美を、なかば人質として、藩地に向かう。
 幕末期、天皇を「玉」と表することがある。「玉」のありかたを、どのように規定するかが、政治主導権の保持のための絶対条件とされた。実美は、まさに毛利家にとっての「玉」となった。
(『佛教大学総合研究所紀要』第8号、40ページ)

私はこの記事の冒頭で、三条実美は幕末を扱った様々な書物や論文に登場すると述べました。しかし、それはあくまで「登場する」というだけで、必ずしも大きく扱われているわけではありません。『坂本龍馬』とか『徳川慶喜』とか『西郷隆盛』といったタイトルの書物は巷に溢れていますが(非学問的なものも含めて)、『三条実美』と名付けられた書物には滅多にお目にかかれません。書物に限らず、論文でも同じような状況で、幕末期の三条実美を正面に据えた研究はそれほど多くないのです。その意味で、三条実美はもっと検討されてもよい人物なのかもしれません。

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受信: 2006年2月22日 (水) 17時49分

コメント

これは凄い面白い論文ですね!
読後にいろいろな事に考えを巡らせてしまいました。そういう意味では、実に想像力を刺激する論文です。

 特に八・一八の政変、いわゆる「七卿落ち」において、三条実美が毛利家(=長州藩)にとっての「玉」となった、という部分は読んでいて何か軽やかな衝撃を受けましたね。
この「長州と玉」という問題は、この前パルティアホースカラーさんが紹介なさった原口清の論文でも出てきたことですし、いろいろと考えさせられます。
 勿論、長州に限ったことだけでなく、一会桑や薩長同盟など、「玉」が笹部論文にある通り「政治主導権の保持のための絶対条件」である事は疑いようがありませんが、公家が「玉」に成り得るという視点は、自分の想定外でした。

 蛇足ですが、新選組愛好者の私には、この論文が伊東甲子太郎の公卿政権論を検討する上で、何らかのヒントを与えてくれるような印象を受けたことも付記しておきます。

投稿 来栖ムツキ | 2006年2月18日 (土) 01時27分

>来栖ムツキさん

コメント、どうもありがとうございます。
面白いと感じていただけたなら何よりです。
確かに、色々と考えさせてくれる論文ですよね。

「玉」の話は、私にもなかった視点だったので、「これは面白い意見だなぁ」と思って引用した次第です。
記事では引用しなかったのですが、笹部氏は同論文の他の箇所で、以下のように述べています。

毛利家にとっての実美は、家の名義を保つために創られたアイデンティティであり、朝廷との間に繋がれたライフラインであった。実美の福岡移転により、ライフラインを断たれた後、「名義」を失った毛利家は徳川幕府との武力交戦(長州戦争)へと、その矛先を向けざるを得なかったのである。

以上が、記事中では引用しなかった部分です。

伊藤甲子太郎の公卿政権論にまでは、私の考えは及びませんでした!なるほど。確かに公卿政権論を検討する上で何かの参考になるかもしれませんね。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年2月19日 (日) 01時30分

初めまして!

三条公は、七卿落ちのとき、五卿となって、福岡県の大宰府にいたそうです。
ただ、折からの長州征伐と相まって、これら一行を貴人としてではなく、罪人として遇してしまったそうで、でもって、鳥羽伏見以降はてんてこまいだったとか(笑)。

今後とも宜しくお願いします。

投稿 へいたらう | 2006年2月22日 (水) 17時52分

>へいたらうさん

はじめまして。
コメント、ありがとうございます。

三条実美が大宰府にいたことはよく存じております。ただ、その頃の実美のことについては、史料が不足していてよくわかっていないそうですが。

こちらこそ、よろしくお願いします。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年2月22日 (水) 19時54分

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