歴史家と歴史小説作家の違い‐松浦玲氏の見解‐
歴史家の松浦玲氏は司馬遼太郎論を積極的に展開していて、それらの論考の多くは松浦氏の著書『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)に収録されています。『検証・龍馬伝説』には、松浦氏の旧稿である「司馬文学と歴史」、および「司馬遼太郎‐脱イデオロギー」という論考が収録され、また、新稿の「あとがきを兼ねた長い補論‐龍馬伝説を検証する」の中でも、司馬遼太郎論を展開しています。
この記事では、『検証・龍馬伝説』には収録されていない、松浦氏の「歴史小説と歴史学は違う 司馬史観を持ち込む愚」(『Ronza』3巻5号、1997年)という論考の中から、松浦氏が歴史家と歴史小説家の違いについて述べた部分を紹介してみたいと思います。なお、引用文はすべて青文字で表記します。
「歴史小説と歴史学は違う 司馬史観を持ち込む愚」という論考の中で、松浦氏は、「歴史家の書く歴史ではなくて巨大な歴史小説作家の作品のほうが人々の『歴史』になるのだという苦い認識」を古くから持っていたと述べています(『Ronza』3巻5号、20頁)。今引用したばかりの松浦氏の文章を読んでピンと来ない方も、いらっしゃるかと思います。松浦氏が苦い認識を感じているのは、まさにそのような方々。歴史家でない私ですら松浦氏と同様の苦い認識を持っているのですから、現に歴史家である松浦氏が感じている「苦さ」は、私とは比べ物にならないほど強烈かもしれません。
松浦氏がどうして「苦さ」を感じるのか、またどのように「苦さ」を感じているのか、それは松浦氏が述べている以下の言葉を読めば、わかる人にはわかっていただけるかと思います。
現在流通している坂本龍馬のイメージの多くは『竜馬がゆく』で創られた。たいていの読者はそれが史実だと信じるから、それは司馬さんの創作ですと指摘しても、なかなか分かってもらえない。大多数の読者は『竜馬がゆく』で坂本龍馬が分かり明治維新が分かった気になっているのである。(『Ronza』3巻5号、21頁)
私自身も経験があるのですが、『竜馬がゆく』の中に書かれていることのすべてが史実なわけではなく、意図的なフィクション(=極端な言い方をすればウソ)もたくさん含まれているといくら指摘しても、理解してくれない人がいます。そういう人は何故か、「歴史小説=史実を書いたもの」と強く信じ込んでいるので、指摘するだけ無駄だと感じるときもあります。それが、松浦氏も感じている「苦さ」ということでしょう。
松浦氏が苦さを感じる原因には、歴史家と歴史小説作家の区別がつかない人が物凄く多いということが、まず第一に挙げられるでしょう。私の経験上、両者の区別がつかないと言うよりも、歴史家=歴史小説作家だと思い込んでいる人すら存在します。そんな人のためにも、両者の違いをわかりやすく説明しなければなりません。まず、松浦氏によれば、「歴史小説作家」もしくは作家の仕事とは、以下の通りです。
作家は作品のできばえがすべてである。史実をどう扱ったか、扱わなかったか、想像や空想をどのように持ち込んだかなどは、みな作家の腕前に属し、読者に明かす必要はない。新発見の史実も小説に効果的に取り込むか否かが勝負で、論文発表の手柄を争うプライオリティー問題は原則として存在しない。(『Ronza』3巻5号、18頁)
続いて、「歴史家」について、松浦氏は以下のように述べています。
歴史家の書くものにも、叙述であるからには腕前の問題がつきまとう。それを避けるわけではない。しかし小説との違いを際立たせて言えば、歴史家は常に論拠・典拠を明らかにすることを迫られている。硬い論文で議論展開の一々について典拠を注記しなければならない場合、一般向けの軟らかい読み物で注を付けない場合、書き方はさまざまだけれども、求められればいつでも論拠を示さなければならない。証拠に裏付けられていない文章を書くことはできない。空想は許されない。推測は許されるけれども想像の羽の長さは無制限ではない。またプライオリティーの問題は、ほかの学問分野と同じである。(『Ronza』3巻5号、18頁)
歴史家と歴史小説作家の違いをちゃんと理解している人にとっては、松浦氏が言っていることは当たり前のことのように感じられるかもしれません。しかし、それを当たり前と感じることのできない人、あるいはなかなか理解してくれない人が少なくないからこそ、松浦氏は「苦さ」を感じるわけです。松浦氏は、歴史家と歴史小説作家の違いをなかなか理解してくれない読者に対して、次のような歎きとも受け取れる文章を書いています。
読者にもさまざまある。歴史小説が歴史だと単純に信じている読者。そこまでは信じないけれども、しかし歴史小説しか知らない読者。歴史家の書くものは歴史小説に比べて読みにくいと、冷たく差をつける読者。両方を読んでくれる奇特な読者でも、歴史家の書くものが歴史小説に比べて読みにくいのは、歴史家が論拠・典拠から離れないからだとまでは気付いてくれないで、文章が下手だと思うのである。それやこれやで、歴史小説は読まれるけれども、歴史家の書くものはあまり読んでもらえない。(『Ronza』3巻5号、18~19頁)
私は歴史家の書いた文章は、それこそ一般向け書籍だけでなく、学術書や学術論文まで趣味で読む人間なので、松浦氏の言いたいことはよくわかります。むしろ、松浦氏の主張を理解できる人は、理解できない人に何とか分かってもらいたいと感じるのではないでしょうか。
松浦玲氏の司馬遼太郎論に興味のある方は、この記事で色々と引用した「歴史小説と歴史学は違う 司馬史観を持ち込む愚」(『Ronza』3巻5号、1997年)、もしくは冒頭で紹介した『検証・龍馬伝説』を読むことをオススメします。
私のこの記事に興味を抱いてくださった方は、もしよろしければ「「歴史好き」と「歴史小説好き」は必ずしもイコールではない」、あるいは「歴史家の仕事」という過去の記事もご覧ください。
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受信: 2006年2月 2日 (木) 02時27分
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受信: 2006年2月 2日 (木) 02時47分
» 坂本龍馬の虚像と実像 [郎女迷々日録 幕末東西]
ってね、どれが虚像でどれが実像か、検証できるほど、龍馬について知っているわけではありません。松浦玲著『検証・龍馬伝説』(論創社)を読んだんです。
司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』を対極において、龍馬の虚像と実像を検証している本なのですけれども。
著者は、勝海舟の研究がメインの歴史家でおられるようです。
雑誌などに書かれたものをまとめて、加筆されたもので、最初と最後の章で司馬文学そのものに言及され、その間は、『竜馬がゆく』そのもの、とい... [続きを読む]
受信: 2006年2月 5日 (日) 15時42分



コメント
内蔵太たちが、明治で松浦玲を流通しなかった。
投稿 BlogPetの内蔵太 | 2006年2月 2日 (木) 16時15分
はじめまして、とても興味深く読ませていただきました。
違いを理解しない受け取り手が多いというのは、私もそのように感じますし、私自身も歴史小説が大好きですから、時折、小説の世界に引きずられてしまい迷路に迷い込むことが多々あります。
一方では「歴史家の書くものが歴史小説に比べて読みにくいのは、歴史家が論拠・典拠から離れないからだとまでは気付いてくれない」というのは、そういう要素よりも歴史家が同業者以外に向けた文章を作る気があるのかと疑いたくなる場合もあります。
”違い”については当然の事として歴史小説家が作った歴史熱をさらに熱いものとしてくれる歴史家の発信力を期待したいところです。
投稿 清正 | 2006年2月 4日 (土) 15時48分
>清正さん
はじめまして。
コメントをくださって、どうもありがとうございます。
私も昔、歴史については学校の授業で習った程度の知識しかなかった頃、歴史小説=史実というような錯覚をしていました。今でも、優れた歴史小説には惑わされそうになることもあります。そんな自分を戒める意味も込めて、この記事を書いた次第です。
清正さんが、「歴史家が同業者以外に向けた文章を作る気があるのかと疑いたくなる場合」もあるとおっしゃっているようなことは、私も疑うことがあります。
それを疑ってしまうぐらいに、歴史家の最新の研究成果というものが一般にはほとんど知られていません。新書などの一般向け書籍をたくさん書いたり、学術雑誌以外の一般雑誌に精力的に文章を載せたりする歴史家もいますが、そうではない歴史家もいます。
私も、歴史家の発信力に期待したいところです。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年2月 4日 (土) 17時03分
はじめまして。
「司馬遼太郎と歴史家と歴史小説家」について調べていてたどりつきました。
最近、国会中継を見ていると国会議員が毎日のように、司馬遼太郎の作品から引用するのを聞いていると、セリフは全部司馬遼太郎が書いた創作なのにという思いが強く、奇妙な感じがしてならないのです。
フィクションと史実は違うということをなぜ混同してしまうのか。
あ。
歴史家に限らず学者の文章が下手、というのは確かにありますよね…。
投稿 ちゅんちゅん | 2006年3月10日 (金) 17時17分
>ちゅんちゅん さん
はじめまして。
コメント、ありがとうございます。
確かに、国会議員の中には司馬遼太郎の小説をもとに話を展開される方がいますね。経済界にも多いような気がします。
そして、そういう方に限って、司馬さんの書いたものは小説で、その中には創作も混じっているということがわかっていない雰囲気がありますよね。奇妙な感じは確かにします。
私はそれ以外にも、司馬さんの小説の話をする政治家などを見ると、「この人は小説以外の、例えば政治とか経済とか歴史とかの本は読まないのかな?政治家なら、ちゃんと勉強してほしい。それとも、司馬さんの小説よりも難しいことは理解できない人なのだろうか?」と思ってしまうことがあります。
それはともかく、文章が下手な学者も少なくないということに同感です。うまい人はうまいですけどね。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年3月10日 (金) 20時19分