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2006年2月24日 (金)

薩長同盟の新しい研究‐薩長同盟成立を慶応元年九月とする説‐

以前、「「薩長同盟」を「薩長盟約」と言い換える」という記事で、いわゆる薩長同盟(薩長盟約)についての最近の諸研究を簡単に紹介しました。1986年の青山忠正氏の論文、「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』第557号)が薩長同盟の研究を進展させる画期となったことを上記の記事で指摘しました。

青山氏以降、薩長同盟に関する研究は深化し、様々な論者によって、薩長同盟に関する研究が発表されました。それらのすべてではありませんが、主要なものは上記の過去記事で紹介しています。

ここでは、上記の過去記事では紹介できなかった、高橋秀直氏の論文「薩長同盟の展開‐六ヶ条盟約の成立‐」(『史林』第88巻第4号<通号452号>、2005年)を紹介したいと思います。

内容の紹介の前に、高橋秀直氏について述べておきたいと思います。高橋氏は京都大学文学部助教授で、主要著書には『日清戦争への道』(東京創元社、1995年)があり、近年は幕末史に関する重要な論文を次々に発表していた歴史家なのですが…今年、51歳で亡くなられたようなのです。

追悼の意味も込めて、高橋氏が昨年世に問うた論文「薩長同盟の展開」の内容を紹介したいと思います。幸い、論文の冒頭に、「要約」が掲載されているので、この「要約」部分を以下に引用してみたいと思います(引用は青文字で行います)。

慶応二年一月に薩長が結んだ六ヶ条の盟約は通常「薩長同盟」と呼ばれ、武力倒幕を目指す政治・軍事的提携の「成立」とみられてきた。だが同盟は、既に慶応元年九月に成立していた。本稿では六ヶ条盟約を同盟関係の「展開」の一段階と位置づけ、その成立過程を以下のように論証した。同年九月に長州再征勅許が出されたのをうけ、薩摩は再征阻止に向け軍事力行使を決意した。しかし幕府は進軍せず情勢不透明となり、戦略を相談し直すべく、慶応二年一月に木戸孝允・西郷隆盛らの京都会談が実現した。会談で西郷は、事実上の再征撤回を含んだ幕府側の処罰令受諾を勧めたが、木戸は処罰を頑なに拒否した。藩主の方針に矛盾し、他藩も納得し難いこの強引な対応は、木戸が社稷存続を第一義におく藩官僚から、藩を道具としてでも国家的構想に立つ政治家へと脱皮していたためであった。この平行線の状況下に坂本龍馬が到着、その周旋により西郷らは譲歩し、盟約は成立する。六ヶ条盟約とは、薩摩が長州の処罰一切拒否論を承認し、その結果可能性が高まる幕長戦争についても全徳川勢力との決戦を約束する、というものであった。つまり薩長の政治的提携関係は、成立当初より一貫して軍事同盟という性格を帯びていたのである。(『史林』88-4、35ページ)

上記の高橋氏の論文の「要約」で、従来の先行研究と最も異なる部分は、いわゆる薩長同盟が、慶応二年一月に、坂本龍馬立会いのもと、西郷と木戸が会談した時点(その後、木戸が会談内容を六ヶ条にまとめ、龍馬に内容の確認を求めたことで有名)ではなく、それよりも数ヶ月前の慶応元年九月に同盟は成立していたという部分でしょう。

高橋氏によれば、慶応元年九月八日に既に薩長同盟は成立していて、慶応二年一月の六ヶ条盟約成立の際の会談は薩長同盟締結のための会談ではなく、既に薩長同盟が成立している状態で、今後の政治情勢への対応方針・戦略を薩長の代表者が話し合ったものだとのことです。

高橋氏が薩長同盟の成立を慶応元年区九月とするのには理由があります。まず、慶応元年七月に、薩摩藩の家老であった小松帯刀が、長州藩の井上馨・伊藤博文に、薩摩は長州のためにあらゆる手段で尽力するつもりという趣旨の話をしたことを、高橋氏は重視します。高橋氏によれば、このときの小松の言葉が、「薩長提携の申し入れ」(同38ページ)ということです。そして、小松の申し入れに応じる形で、長州藩主・毛利敬親と世子の定広が、薩摩藩主・島津茂久とその父・島津久光に、尽力を依頼する親書を送った日付が九月八日で、その日が薩長同盟の成立日だということです。その日が同盟成立日と考えられる理由としては、高橋氏の言葉によれば、「近世社会において藩の意思表示のもっとも重い形式は、藩主の名によるそれである」(38ページ)からです。

高橋氏は他にも、長州処分をめぐる政治情勢・政治方針について、「薩摩の論理」、そして「長州の論理」を詳しく分析しています。その分析を通じて、六ヶ条盟約成立の会談の過程で、西郷隆盛らが木戸孝允に、幕府側の長州処分案を請けることを勧めた理由、そして木戸がそれを頑なに拒んだ理由を説明していて、とても興味深い論点が提示されています。例えば、西郷が木戸に幕府の長州処分案受諾を勧めた理由として、「西郷は、幕府は長州処分を形式に留めるつもりで実際に行う気はないと判断していたのであり、その趣旨で木戸を説得した」(50ページ)という指摘がなされています。

また、最近では薩長盟約六ヶ条の「決戦」の主体が幕府本体(徳川勢力全体)ではなく、あくまで一会桑のみであると主張する研究が増えてきているのですが(例えば、青山忠正『明治維新と国家形成』<吉川弘文館、2000年>、家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』<文春新書、2002年>など)、高橋氏は六ヶ条盟約に記されている「決戦」の主体は一会桑だけではなくて、一会桑を含む徳川勢力全体だと位置づけています。それも、注目される論点でしょう。その理由として高橋氏は、以下のように述べています。

上方に家茂以下幕府軍が駐屯している状態で、一会桑に限定して「決戦」を行えるなどということはあまりに楽観的な想定であり、「決戦」を行う以上は、幕府軍と戦う覚悟が必要であろう。(中略)幕府軍の帰東はありえないことではないが、可能性はけっして高くない。「決戦」の相手として薩摩が覚悟しなければならないのは、一会桑・幕府軍を含めた全体としての徳川勢力なのである。(64ページ)

高橋氏はほかにも色々な論点を提示しているので、興味のある方は、ぜひとも『史林』第88巻第4号<通号452号>(2005年)に収録された高橋氏の論文、「薩長同盟の展開‐六ヶ条盟約の成立‐」をお読みください。高橋氏は今後も幕末史について色々な研究を発表する予定だったようですが、惜しいことに亡くなられてしまいました。ともあれ、高橋氏が生前に提示した様々な論点が、これからの幕末史研究の進展に寄与することを願ってやみません。

なお、近年の薩長同盟研究として、宮地正人氏の論文、「中津川国学者と薩長同盟‐薩長盟約新史料の紹介を糸口として‐」(『街道の歴史と文化』第5号、2003年)もあるのですが、これについては私は未読(未入手)のため、内容を紹介することが現時点ではできません。申し訳ありません。

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受信: 2007年1月11日 (木) 07時23分

コメント

えええええ!!!!!?
お亡くなりになってたのですか!?
この論文が発表されたのは去年の秋ですよね?ということは、この論文執筆後から現在までの間にお亡くなりになったということですか…。非常にビックリです。合掌。

 この論文は史林が出てすぐに読みましたが、刺激的な論文であると思いました。
私の場合、この高橋論文に全面的に頷くには、もう少し自分なりに考える時間が欲しいというのが読後の率直な感想でした。
 というのも、薩長同盟そのものに対する見方が高橋論文のそれと私では若干、違いがあるからです。

投稿 来栖ムツキ | 2006年2月25日 (土) 01時38分

はじめまして。先日、過分なお褒めをいただき恐縮です。

今日はそのことよりも、高橋秀直氏が亡くなられたと知って、驚いています。彼は気鋭の幕末維新史研究者として、もっとも注目していましただけに、大変残念です。心よりご冥福をお祈りします。
でも、もっと書いていただきたかったですね。それはご本人が一番悔しく思っていらしたのではと……。

高橋氏の薩長同盟の新説、私も拝読しました。
なかなか刺激的だと思っております。彼の仮説の最大の根拠は、「近世社会において藩の意思表示のもっとも重い形式は、藩主の名によるそれである」という点だと思います。
ただ、形式を重視するというなら、毛利方の使者だったのが亀山社中の上杉宗次郎だったことをどう理解したらよいのかと考えます。形式重視なら、使者は長州藩士を立てるべきではないかと。
上杉が使者に立ったのは、彼が長崎で薩摩藩を通じて武器・軍艦購入に多大の貢献があったことが理由としか考えられませんので、やはりその御礼の面が強く、薩長同盟締結まで拡大するのはやや苦しいのではと思っておりますが、どうでしょうか?

それはともかくも、高橋氏のご逝去は大変残念です。

今度ともよろしくお願いします。

投稿 桐野作人 | 2006年2月25日 (土) 08時50分

>来栖ムツキさん

コメント、どうもありがとうございます。
私も、高橋氏逝去のニュースには驚きました。
この記事で紹介した論文は、去年の夏に発表されたものですね。その時期にこれほど多彩な論点を提示した論文を発表していながら、今年になって亡くなったというのは、私も信じられません。できれば、私が得た情報が誤りだったということを願いたいぐらいです。

高橋氏逝去のニュースは、三重大学人文学部助教授の山田雄司氏のサイトの「日本史関係情報掲示板」に、山田氏本人が書き込んだコメントを読んで、私も初めて知りました。どうやら一ヶ月前のようです。このサイトの山田雄司氏のコメントに間違いがない限り、高橋氏逝去は事実のようです。非常に残念ですね。

ちなみに、山田雄司氏のサイトのURLは、以下の通りです。
http://onryo.syuriken.jp/

私がこの高橋氏の論文を読んだのはつい最近になってからなのですが、確かに刺激的な内容で、面白い論文ですよね。

しかし、即座に全面的に頷けないという点でも同感です。高橋氏の説の内容があまりに刺激的すぎて、安易に賛成できない感じがします。賛成するにしても反対するにしても、薩長同盟について改めてじっくり考えてからでないと…という感じです。


>桐野作人 さん

はじめまして。先日紹介したご本人様からコメントをいだたけて光栄です。ありがとうございます。

私も、高橋氏の件には驚きました。と同時に、残念です。今回の記事で紹介した論文でも、高橋氏には今後も色々と研究したい部分・発表したいことがあるようなことを書いていますので、それが読めないのが残念ですし、また高橋氏自身も確かに悔しいでしょうね。

確かに、形式重視であれば、藩命を受けた長州藩士が薩摩に赴くのが筋だと思います。もちろん、薩長両藩が提携を望んでいたのは事実でしょうし、また毛利家からの親書が島津家に届いたことによって提携関係が始まったのも事実でしょうが、それを薩長同盟成立と捉えてしまって良いかどうか、疑問です。

上杉が使者になったのは、確かに武器購入のお礼の面が大きいと思います。また、亀山社中が薩摩藩の庇護下にあったことから、薩長提携を模索する上でも、上杉はやりやすかったからかもしれません。しかし、形式を重んずるなら、やはり上杉ではなく長州藩士が薩摩に赴くべきで、この時点で薩長同盟が締結されたと看做すのはやはり苦しいと思います。
せいぜい、薩長同盟締結への重要な第一歩という程度に考えるべきかと思います。

当時の史料や回想史料などを見ても、慶応二年一月の西郷・木戸会談を薩長同盟の成立と捉えている記述が多いですから、やはりこちらを重視すべきなのではないかと思います。

それにしても、できることなら、今後も高橋氏に色々な見解を提示してもらって、その上でこちらも色々と考えてみたかったところです。

ともあれ、桐野作人さん、こちらこそ、よろしくお願いします。コメント、ありがとうございました。

投稿 パルティアホースカラー | 2006年2月25日 (土) 12時28分

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