幕末の「○○派」という言葉について
一橋派、南紀派、尊王攘夷派、公武合体派、公議政体派、討幕派などなど、幕末史を語る際に、「○○派」という言葉がよく使われます(幕末に限ったことではないかもしれませんが)。これらの言葉は、日本史の教科書などでも、当たり前のように使われていたりします。私も、これらの言葉を普段、何気なく使っているような気がします。
しかしながら、最近では、これら「○○派」という言葉を安易に使用すべきではないとか、使用する際にはしっかり定義付けした上で使うべきだといった趣旨の主張を提言する研究者が増えているようです。ここでは、そのような主張の例として、佐々木克・高木不二・高橋秀直・井上勲といった諸氏(いずれも幕末史を研究している歴史家)の見解を紹介してみたいと思います。なお、諸氏の見解を引用する際には、文字の色を変えるようにします。
まず、佐々氏克氏は、著書『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)において、文久3年8月18日の政変にふれて、以下のように述べています。
辞典などにも見られる一般的理解は「公武合体派が、長州藩を中心とする尊攘派を、京都から追放した事件」というものである(中略)政変は薩摩藩士が会津藩に働きかけて、藩主松平容保以下の同意を得、両藩士が朝彦親王と近衛忠煕・忠房父子を説得し、朝彦親王が孝明天皇を説いて決行となった。しかし政変が成功したのは、鳥取藩主池田慶徳、岡山藩主池田茂政、米沢藩主上杉斉憲、徳島藩世子蜂須賀茂韶らの在京有力諸侯とその藩兵の協力があったからである。彼等を一様に「公武合体派」と色分けすることは無理であり、たとえば鳥取藩主池田慶徳は、通説的理解(文部省『維新史』など)では「尊攘派」に属する人物・藩である。この理解によると「尊攘派」が長州藩「尊攘派」を追放したことになってしまうのである。そもそも「公武合体派」や「尊攘派」の用語そのものが、あいまいな概念であり便宜的な用語なのである。(『幕末政治と薩摩藩』4~5頁)
また、佐々木氏は同書の別の箇所で、次のようにも述べています。
本書では幕末史の常套用語である「尊攘派」「公武合体派」「倒・討幕派」「公議政体派」を、引用部分以外には一切用いていない。これらの用語は「派」と「派」の対立を説明する時は、イメージ用語として便利かもしれないが、協力関係を説明する時には、かえって邪魔になる。それになりよりも「尊攘派」や「倒・討幕派」の用語には、ある種のイデオロギー(新旧の)がこめられているのであり、避けたかった。幕末史は対立・抗争の構図だけでは描けないのであり、この点は本文で強調した点である。いわゆる「尊攘派」といえども「公武合体」の実現を否定するものではなかったのである。(『幕末政治と薩摩藩』10頁)
佐々木氏は、『幕末政治と薩摩藩』の叙述において「○○派」という類の用語を一切使わないという点で、徹底しています。特に、「いわゆる「尊攘派」といえども「公武合体」の実現を否定するものではなかった」という視点は、「○○派」という用語云々以前に、幕末史を考える上で重要な視点です。
さて、続いては高木不二氏が著書『横井小楠と松平春嶽』(吉川弘文館、2005年)において述べている次の見解を引用してみます。
考えてみれば、公武合体派あるいはその政治理念としての公武合体論という用語自体きわめて曖昧である。朝廷との融和政策を和宮降嫁というかたちで実現しようとした幕府の政策も公武合体をめざしたものとされ、春嶽らの幕府改革をめざした動きも公武合体をはかったものといわれる。もちろん両者を同一のものとして論ずるわけにはいかない。(中略)思うに「公武合体論」という用語はもはや変革期の分析概念として、現在の使用に耐えるものではなくなっているのではなかろうか。したがって本書では、本文中「公武合体論」あるいは「公武合体」という用語は用いないことにする。(『横井小楠と松平春嶽』3~4頁)
高木氏は「○○派」という用語自体よりも、「公武合体」という用語の使用そのものに疑問を抱いているわけですが、「公武合体」という用語の意味内容が曖昧だから使わないということであれば、「公武合体派」という用語も当然使えません。確かに高木氏が言うように、「公武合体」には様々な内容が含まれていて曖昧で、わかりにくいと言えばわかりにくい気もします。
次は、高橋秀直氏が、論文「『公議政体派』と薩摩倒幕派‐王政復古クーデター再考‐」(『京都大学文学部研究紀要』第41号、2002年)で述べている意見を引用してみたいと思います。今度は、慶応3年の話です。高橋氏は、王政復古クーデターに薩摩藩と一緒に参加した土佐・越前・尾張・安芸などの諸藩の指導者たちを「公議政体派」と規定した上で、次のように述べています。
もっともこの「公議政体派」という呼称には、問題がある。この慶応三年後半の時期において、公議政体、正確には天皇・公議政体を樹立しようという考えは、一般的なものとなっていた。とくに大政奉還以後においては会津・桑名など徳川保守派以外はすべて公議政体論者と言っていい状況であり、特定勢力の呼称としてこれを用いるのは、あまり適切ではないのである。しかし、彼らが公議政体の樹立にとくに熱心であったのは事実であり、またすでに研究史において市民権を得ている呼称なので、ここではこれを使うことにする。(「『公議政体派』と薩摩倒幕派」74頁)
高橋氏は、みんな(薩摩藩や長州藩を含む)が公議政体の樹立を考えている状況のときに、土佐の後藤象二郎など、公議政体樹立を考えていた者の一部だけを「公議政体派」と呼称することに問題を感じているわけです。確かに、私も討幕派と言われる人たち(薩摩とか長州とか岩倉具視とか)も、公議政体論者だと思っていますので、高橋氏の主張は理解できます。
次に同じ慶応3年で、「討幕派」という言葉についての井上勲氏の意見を、井上氏の著書『王政復古』(中公新書、1991年)から引用してみたいと思います。
西郷隆盛・大久保利通、そして木戸孝允・広沢真臣、および岩倉具視、これらの人々を総称して武力討幕派と呼ぶことが多い。武力討幕の推進者であったわけだから、このように命名されることは当然だといえるかも知れない。けれども、ことはそれほど単純ではない。一歩ふみ込んで、武力討幕という言葉の意味する内容は何か、派という言葉の指示する範囲はどこまでか、さらに、武力討幕派と形容された者が共有した政治上の資質とは何か、等々、考えておくべきことは少なくはない。(『王政復古』259頁)
井上氏も、意味を曖昧にしたままで安易に「○○派」という言葉を使うべきではないと主張しているわけです。
また、時代が安政期に遡ってしまうのですが、井上氏は論文「開国と幕末の動乱」(同氏編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年)の中で、「南紀派」という用語に疑義を述べています。「南紀派」とは、将軍継嗣が問題になっていた時期に、徳川慶福(のちの家茂)を支持していたとされる人々ですが、井上氏はそのような派閥があったということに疑問を感じています。その部分を、以下に引用します。
徳川慶喜を継嗣に期待した個々人を総称して、一橋派とする。目的が明確であることと言い、構成員が明白であることと言い、行動が持続性を持っていることと言い、ここには派閥の形成があった。これに対して、南紀派と言う派閥が存在していたかと言えば、そうではない。井伊直弼は南紀派の領袖とみなされるけれども、将軍継嗣に慶福個人を望んで行動を起こしたわけではない。譜代門閥の代表として、血脈の正統を重視して、その結果が慶福への期待であった。一橋派への対抗の姿勢はとったけれども、南紀派なる派閥の存在を想定することは出来ないのである。(『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』24頁)
要するに井上氏の主張は、譜代大名たちは譜代として当たり前のように、徳川家康の血を最も濃く受け継いでいる人物が将軍になるべきだと考えていて、それがたまたま徳川慶福(家茂)だっただけだと言うわけです。血統を重視するのは当時としては当たり前ですから、南紀派と呼ばれる人たちは当たり前のことをしていただけであって、特に派閥を作って運動していたわけではないということですね。これも、安易に「○○派」という呼称を使うべきではないという主張の例だと言えるでしょう。
井上氏は同じ論文で、「尊王攘夷派」もしくは「尊攘派」という用語を使っておらず、「尊王攘夷の志士」という言葉を使っています。これも、「○○派」という言葉の使い方に注意した結果かもしれません(明確に主張されてはいませんが)。
ともあれ、幕末の「○○派」という用語、私もかなり安易に使っていますが、使い方に気をつけようと思っている次第です。少なくとも、使うならば自分なりに定義付けをしっかりした上で使うべきなのだろうと思います。
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