「歴史好き」と「歴史小説好き」は必ずしもイコールではない
私は誰かに趣味や興味のある物事を聞かれたときに、「歴史が好き」だと答えることが多いです。そのように答えると、「どの時代が好きなの?」とか、「好きな歴史上の人物は?」なんて質問をされることもあります。すると私は、「幕末が好きです」とか、「坂本龍馬とか新選組とか興味があります」などと答えます。しかし、そのように答えると何故か、「『竜馬がゆく』は面白いよね~」とか、「司馬遼太郎の本は結構読んでるの?」とか言われたりします。私はこのようなやり取りに、時折イライラさせられます。
皆さんは、上記のやり取りで私が不思議に思ったり、あるいは不満を感じたりした理由がわかりますか?私は、確かに「歴史が好き」とか「幕末が好き」とか言いました。でも、「歴史小説が好き」とは一言も言っていません。司馬遼太郎氏は作家です。司馬氏は評論なども書いていますが、代表作の『竜馬がゆく』とか『坂の上の雲』とか『新選組血風録』というのは、小説です。小説とは、作者が作り出したフィクションを描いたものです。したがって、いかに歴史上の人物や事件を題材にしていても、小説の中で描かれていることはフィクションであって、史実とは違います。かなり史実に忠実な小説もあるでしょうが、作者の創作部分が皆無な小説など存在しません。創作部分があるから小説なのです。
私が好きだと言っている「歴史」とは、史実とか歴史学(学問としての歴史)のことです。だから、私が「歴史が好き」と話した後で司馬遼太郎氏を始めとする作家が書いた小説の話をされると、困惑します。私は「歴史が好き」な人間ではありますが、必ずしも「歴史小説が好き」なわけではありません。実際、私は司馬遼太郎氏の小説は、『竜馬がゆく』と『新選組血風録』ぐらいしか読んだことがありません(それらについては面白い作品だと思っていますが)。
しかし、何故「歴史が好き」=「歴史小説が好き」だと誤解する人が少なくない(と、私は感じる)のでしょうか?歴史家の中村政則氏は、『近現代史をどう見るか―司馬史観を問う』(岩波ブックレット、1997年)の冒頭で、「司馬遼太郎は国民作家であり、日本人の歴史意識の形成に彼ほど大きな影響を与えた作家はいない」と述べています。恐らく、この意見は正しくて、「歴史を語ること」=「司馬遼太郎を語ること」だと思っている人もいるだろうと私は推測しています。同じように、「坂本龍馬を語ること」=「司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を語ること」だと思っている人もいることでしょう。
しかし、『竜馬がゆく』に出てくる坂本竜馬という人物は、実在の坂本龍馬とは別人です。極端な言い方になりますが、『竜馬がゆく』の坂本竜馬は、実在した坂本龍馬という人物をモチーフにして司馬遼太郎氏が創作した架空の人物です。ですから、私は『竜馬がゆく』について語ることは実在の坂本龍馬について語ることや史実を語ることとは全く違うと思っています。しかし、そういうことを混同している人は決して少なくありません。私の周りにも、「自分は坂本龍馬を尊敬している」と言いつつ、『竜馬がゆく』は史実を描いたものだと誤解している人がいました。だから私は、「坂本龍馬を尊敬している」と言う人の多くは、実在の坂本龍馬ではなく、司馬遼太郎氏が創作した架空の坂本竜馬を尊敬しているに違いないと思っています。「新選組ファンだ」と言う人の多くも、実在した新選組ではなく司馬氏が『新選組血風録』や『燃えよ剣』で描いたフィクションとしての新選組のファンなのではないかと思っています。
歴史家の松浦玲氏は、『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)に収録した論稿の中で、次のように述べていますが、私はこの意見に賛成です。青文字部分が松浦氏の著書からの引用です。
かつての日本人にとっては『平家物語』や『太平記』や『忠臣蔵』が歴史であった。琵琶法師が語って聞かせたり、芝居で演じられたりするお話が「歴史」であった。「歴史」とはそういうものである。それと同じように、今の日本人にとっては司馬さんの『竜馬がゆく』や『翔ぶが如く』や『坂の上の雲』が歴史なのである。(『検証・龍馬伝説』11ページ)
私は、松浦氏の意見に同意するのですが、果たしてそのような状態でいいのだろうかという疑問があります。「歴史」を語ることは、小説などの創作物について語ることではなく、史実を語ることだと思うからです。もちろん、史実は確定できない場合もあります。当時の史料が残っていなかったり、史料の解釈が研究者によって分かれている場合があるからです。逆に、「645年 大化の改新」とか「1853年 ペリー来航」というような昔の事実がわかっているのは、その当時の史料がちゃんと残っていて、研究者の解釈もほとんど分かれていないからです。もちろん、史料の読み方・解釈の仕方次第では、どのようにでも意味が取れる史料もあります。そういうものについては、史実を確定できません。そして、それについてアレコレと議論するのが、私は楽しいわけです。
別に、司馬遼太郎氏の小説に出てくる坂本竜馬や新選組を好きになるのは全然問題ないと思います。問題なのは、それら小説に出てくる存在を実在の人物や団体と混同することです。私がかつて実在した新選組について語りたいときに、司馬遼太郎氏の話を持ち出すような人が少しでも減ってほしい…そう思っているだけです。私が語りたいのは史実、あるいは学問としての歴史であって、歴史を題材にしたフィクションではありません。歴史小説は史実と全く関係のないところで、歴史小説だけについて語りたいと思っています。とにかく、史実と歴史小説の区別を明確にして、双方の面白さをそれぞれ別個に語りたいものです。この記事では歴史小説、特に司馬遼太郎氏を中心に話しましたが、大河ドラマや歴史漫画などについても同様です。
小説やら大河ドラマやらに出てくる坂本龍馬や沖田総司や源義経や織田信長は、実在の人物をモチーフにしているものの実在の人物そのものを描いたものでは決してない…それを強く言いたいです。
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コメント
パルティアホースカラーの書かれることは、時として、自分の代弁をしてくれているのではないかと思うことがありますが、今回などは本当にそれで、もう全面的に賛同します。
私は司馬遼太郎の小説で新選組を知ったのですが、実は司馬版新選組はそれほど好きではありません。何故なら、実在した新選組に関する史料・文献およびその考察の方がずっと面白いからです。
小説に限らずフィクションの世界は作者が神として君臨しているせいか、どこかパーフェクトで完結したものになっています。それよりも実際の人物・組織の残したものの方が人間味があり、かつ不完全でスルメのように噛めば噛むほど面白いのです。そして何より、知る喜びがあります。
龍馬にしても、私は彼の残した書簡が一番面白いと思います。
司馬遼太郎の世界は大変美的、かつ解かり易いのですが、解かり易いがゆえに小説を読んだだけで読者を「解かった気分」にさせてしまう傾向があるように思えます。ゆえにそれ以上、探求する気が起きて来ないのかもしれません。また、日本人の傾向として、エライ先生が書いたことだから…と鵜呑みにして、自分で考える事を放棄してしまうというケースですね。そう考えると、つくづくシバリョーは日本的作家だと思いますね。
でも個人的には司馬史観の奴隷のような人物はまだ許容出来るんです。一番ムカつくのは、司馬小説に限らず、フィクションをソースにして実在した新選組を非難する人ですね。しかもこういう人に限って「史実」という言葉が好きなので、本当に困ります。(笑)
投稿: 来栖ムツキ | 2005年11月25日 (金) 01時01分
同感です。
龍馬関係のサイトを運営している都合上、司馬小説好き乃至司馬好きという前提で書き込みをしてくる人もいらっしゃるんですが、正直いささか辟易気味です。
歴史上の人物が登場する作品自体、決して嫌いなわけじゃないんですが、小説で持って中途半端に歴史を語られると「片腹痛い」というか何と言うか。
どうせならフィクションはフィクションとして、割り切って楽しめるようなパロディ的な作品の方が、個人的には抵抗感のしょうじない今日このごろ。
投稿: 松裕堂 | 2005年11月25日 (金) 08時32分
すみません。
上の11月25日 午前 01時01分のコメントの一行目、
>パルティアホースカラーの書かれることは、時として
を
「パルティアホースカラーさんの書かれることは、時として」
に訂正致します。
肝心のところが抜けてました。失礼しました。
投稿: 来栖ムツキ | 2005年11月25日 (金) 19時48分
>来栖ムツキさん
コメント、ありがとうございます。
「さん」が抜けていたことは気になさらないでください。ただでさえ私のハンドルネームは長いので、「さん」ぐらい抜けても仕方ないと思います(笑)。
ともあれ、私の意見に全面的に賛同していただいて、どうもありがとうございます。そのように言っていただけると、私も嬉しいです。
フィクションは確かに、パーフェクトな世界観を構築していますよね。フィクションの場合、史料がなかろうが何だろうが、作者が好き勝手に創作できる分、不完全な部分のない世界観を作り出している気がします。でも、史実のように、不完全な要素を考察して仮説を立てて議論して、それらの行動によって新たな事実を発見したり、より真実に近そうな説にたどり着いたり…というような楽しみはフィクションにはないですよね。
「司馬遼太郎の世界」についての意見にも同感です。
「フィクションをソースにして実在した新選組を非難する人」って、やっぱりいますよね。それも、結局はフィクションと史実の区別が付いていないからなんでしょうね。そういう人に限って「史実」という言葉が好きというのも、よくわかります(笑)
投稿: パルティアホースカラー | 2005年11月26日 (土) 01時13分
>松裕堂さん
コメント、どうもありがとうございます。
賛同していただけて、とても嬉しいです。
松裕堂さんのサイトは龍馬に関する情報量が多い分、訪れる人の種類も色々なのでしょうね。掲示板やゲストブックを拝見させていただいたことがありますが、松裕堂さんが「辟易」している部分もわかるような気がします。
やっぱり、小説を読んだだけでは歴史を語ることは結局のところ無理でしょうからね。
私も、フィクションはフィクションとして割り切って楽しめるタイプの作品の方が、抵抗感がなくて済むと思います。
投稿: パルティアホースカラー | 2005年11月26日 (土) 01時21分
パルティアホースカラー殿、はじめまして。梅痴鴉と申します。
>「歴史好き」と「歴史小説好き」は必ずしもイコールではない
司馬の小説に関しては、あくまでも『司馬史観』というスタンスで読むことに問題はないのですが、かの小説を鵜呑みにして『史実』と解釈するのは問題であるでしょう。
たしかに司馬の書き方というのは切り口が上手ではあるのですが、殊更おもしろく見せるためにフィクションという味付けがなされてしまう。その味付けを気に入ったお客はいつまでも司馬小説を史実と捕らえてしまう。
但し、現状の歴史家が『司馬遼太郎の小説』を超えられるような論文を提示できないのも問題があるやもしれません。
かつて日本史関係の泰斗と言われた人たちは論文もそうですが、坂本太郎氏や宮崎市定氏のようにエッセイも旨く書かれる方もいらっしゃったのですが、昨今の学者さんはどうも視野が狭くなってしまっているようにも見受けられます。
自分は幕末史探求の中で「わしづかみでいい、もっと裾野を広げて世界観を広げた方がいい」と注意を受けたことがあります。司馬の小説を学問としての歴史の中で語るのは論外ですが、司馬の持つ視点と視野の広さは大いに参考にすべきではないかなと考えております。
投稿: 梅痴鴉 | 2005年11月26日 (土) 10時05分
>梅痴鴉さん
はじめまして。
そして、コメントどうもありがとうございます!!
小説を鵜呑みにするのは、やはり良くない傾向ですよね。でも確かに、司馬氏の小説にはフィクションを史実と錯覚させるような面白さがあると思います。元々は歴史に大して興味のない人が司馬氏の小説を読んだら、史実だと信じてしまうかもしれません。
梅痴鴉さんがおっしゃるように、学者が司馬遼太郎の小説を超えられない状況は確かにあると思います。学者が提供する史実より、司馬遼太郎が提供するフィクションの方が歴史をわかった気になり、なおかつ面白い…そういう状態なのでしょうね。
司馬遼太郎氏は「国民作家」とまで言われるほど強い影響力を
持っている人ですから、確かに参考にすべき点は少なくないかもしれませんね。
投稿: パルティアホースカラー | 2005年11月26日 (土) 11時20分
梅痴鴉さん、パルティアホースカラーさん、こんにちは。
>司馬の持つ視点と視野の広さは大いに参考にすべきではないかなと考えております。
この点は非常に賛同致します。
なんだかんだと言っても司馬の物事の核心を掴む能力は他を圧倒的に陵駕していると思います。逆に言えば、物事の核心を読者に対して明瞭に提示するからこそ、司馬作品はわかり易く読み易いのだと思います。
その核心を掴む能力は、広くいろいろなものに触れてきたからこそ得られたのかもしれません。
司馬の場合、まず「世界」があって次に「日本」があるわけで、それは彼の戦争体験によるものなのでしょうが、常に「世界」を意識しながら「日本」を見るというのは、日本史を探求する人間がついつい忘れがちな重要な視点であると思います。
>司馬氏の小説にはフィクションを史実と錯覚させるような面白さがあると思います。
まさにこの点が司馬作品の問題点ですよね。しかし、この点に関しては、一方的に司馬を責めることも出来ないような気がします。ここのパルティアホースカラーさんのブログでも過去に新選組研究の話題がありましたが、司馬作品に関しても同様で、歴史学の研究者達が無視してきた・・・という側面があるのではないか?と思っています。
学者はアカデミズムの世界でだけ通用することをしていればいい、他業界には茶々を入れずに放っておけ、というようなスタンスが無きにしもあらずだと思うのです。
こういうスタンスは結果的に、誤った「史実」の一般常識化を促すだけでなく、結果的にアカデミズムという存在の価値を低下させるのではないかと思います。「わかる人にだけわかればいい」という意識は自尊心をくすぐりますが、わからない人に向けてわからせる努力を放棄する事は一種の敗北であると思えます。
その点、司馬がわからない人達に向けてわかるような言葉で語りかけていた事は、司馬史観が広まる要因になったと言えるのではないでしょうか。
投稿: 来栖ムツキ | 2005年11月26日 (土) 13時43分
>来栖ムツキさん
コメント、どうもありがとうございます。
司馬氏の歴史観や歴史像に賛成できるか否かは別として、彼の能力の凄さは認めるべきでしょうね。
そして、参考にすべき点は大いにあると思います。
なるほど、確かに司馬氏は「世界」を視野に入れるような視野の広さを持っていると思います。
>学者はアカデミズムの世界でだけ通用することをしていればいい、他業界には茶々を入れずに放っておけ、というようなスタンスが無きにしもあらずだと思うのです。
この点は、私も問題を感じている部分です。
世間で興味をもたれている歴史上の人物・歴史事象と、アカデミズムの世界で興味をもたれていることの乖離が凄まじいと感じることもあります。
世間で興味をもたれていることを真面目に検証するのも、大事な作業だと思いますよね。
そういう作業を怠ると、学者たちは自分自身が興味のあることだけを研究して、世間一般には何も寄与せず、学者たちのただの自己満足で終わってしまうような気がします。
また私が思うに、学者には二通りのタイプがいて、まずは一般の人があまり読まないような学術論文と高価な学術書しか書かない学者。そして、学術論文や学術書で優れた研究を出しつつ、一般向けの新書や文庫なども積極的に出すタイプです。
前者のタイプには、「わかる人にだけわかればいい」という意識の強い人が多いような気がします。こちらのタイプは、「一種の敗北」の例と言えるかもしれません。
新書などの一般向け書籍を出している後者のタイプにも二通りあって、一方は一般向けを意識しつつも内容的には優れている本を書く学者。もちろん、どれだけわかりやすく書けているかは執筆者次第という面もあるのですが、ともかく一般向けだということを意識しつつ、それでいていい加減な内容で済ませたりはしない学者が増えてくれることが、理想なのかなぁと思います。
他方、一般向けの新書では手を抜くタイプの学者も少なからずいるのではないかと思います。要するに、金儲け程度に新書を出している学者もいるのではないかと思うのです。
いずれにせよ、誤った「史実」の一般常識化という状況を危惧して、わからない人たちに向けてなるべくわかりやすく、かつ高度な内容の研究を提供してくれる研究者が増えてくれるといいですね。
投稿: パルティアホースカラー | 2005年11月27日 (日) 01時05分
はじめまして。
トラックバックピープルからこちらに辿り着きました。
私はひとりの小説好きとして司馬ファンであるのですが、と同時に、
>フィクションを史実と錯覚させるような
司馬さんの書き方には弊害があるなあと思ってもいます。
司馬作品は幸か不幸か面白過ぎるので、彼の作品を読むと、他の作家を読まなくてもいいような気になってしまう人がいるように思いますね。
フィクションであっても、何種類も読めば作家によって同じ事件・同じ人物の描き方が様々であることに容易に気付ける訳ですが、ひとりの作家しか読まない、ということになると……。
投稿: 青空百景 | 2005年12月 4日 (日) 11時30分
>青空百景さん
コメント、ありがとうございます。
司馬さんの作品は、確かに面白いですね。
他の作家では真似ができないような面白さがあると思います。
それだけに、「他の作家を読まなくてもいいような気になってしまう」ということが起こるのでしょうね。
その結果、小説を史実と誤解するという事態に…。確かに、それは複数の小説を読めば防げることだと思います。青空百景さんのご意見に賛成です。
投稿: パルティアホースカラー | 2005年12月 4日 (日) 22時20分