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2005年11月11日 (金)

坂本龍馬とジョセフ・ヒコ

ジョセフ・ヒコという人物をご存じでしょうか?本来の名前を浜田彦蔵と言って、日本の生まれです。彼は、天保8(1837)年、満13歳のときに漂流し、アメリカ船に助けられてアメリカに行きます。そして、22歳で日本に帰国します。つまり、有名なジョン万次郎と同じような境遇の人なのですが、万次郎と違って、ヒコはアメリカに帰化してアメリカ人のジョセフ・ヒコとして日本に帰国したのです。その後、もう一度アメリカに行った際に、リンカーンとも会っているのです。

そのヒコが、木戸孝允や伊藤博文や井上馨らの長州人や、坂本龍馬と交流があったことはあまり知られていません。ヒコは慶応3(1867)年には長崎にいて、木戸や伊藤と知り合って、長州藩の商務代理人を務めるようになります。龍馬もそのころ長崎にいましたから、木戸を通じて知り合ったものと推測されます。

そんなジョセフ・ヒコと坂本龍馬の関係を考える上で重要な史料があります。慶応3年9月4日付で、木戸孝允が坂本龍馬に宛てた書簡の中に、次のような一文があるのです(青文字の部分)。

大外向之都合も何卒其の御元ひこなどと極内得と被仰談、諸事御手筈専要に是また奉存候(平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社、1978年、613頁)。

文中に「ひこ」と記されているのがわかるでしょうか。この書簡を収録している『坂本龍馬全集』の解説は、「御元ひこは大山彦太郎こと中岡慎太郎」(614頁)と述べていますが、この解説は誤りです。「大外向」とは対外関係のことですから、「ひこ」は中岡慎太郎ではなくて、当時の木戸や龍馬と親しかったジョセフ・ヒコと考えるのが妥当です。私のこの意見は、『ジョセフ=ヒコ』(吉川弘文館、1963年)の著者・近盛晴嘉氏や、歴史家の田中彰氏の見解に触発されています。

また、ヒコは薩摩藩士の五代友厚とも交流があったようです。龍馬も五代とは交流がありましたので、龍馬とヒコの交流はますます密接だったのではないかと想像できます。龍馬関係の諸書には、龍馬とヒコの関係についてはほとんど記されていません。いわば、龍馬研究者の多くが見落としている事実なのです。

田中彰氏は慎重な姿勢を採っていますが、近盛晴嘉氏は、坂本龍馬の「船中八策」にはジョセフ・ヒコの影響が大きいと主張しています。ヒコには「国体草案」という文章があって、それが「船中八策」に影響を与えたのだと、近盛氏は考えているようです。

私は近盛氏のような踏み込んだ見解にはすぐさま賛同できないのですが、ヒコが龍馬の国家構想に何らかの影響を与えていても不思議はないと考えています。繰り返しになりますが、龍馬関係の諸書には、ヒコのことはほとんど出てきません。つまり、従来の龍馬研究者はジョセフ・ヒコの存在を見落としていたのです。しかしながら、このジョセフ・ヒコについての考察を深めることで、坂本龍馬研究に新たな光を差し込むことができるのではないかと思います。田中彰氏の言葉を借りれば、「ヒコと龍馬、ヒコと長州派ないし西南雄藩側の志士たちとの関係におけるヒコの存在は、一八六七(慶応三)年後半の政治情勢下にあって、国家構想をめぐるキー・パーソンの一人であることを示している」(『日本の近世18』369頁)ということになります。

私がここで記した龍馬とヒコの関係について、もっと詳しく知りたい方は、田中彰氏の「新たな統一国家への模索」という論文をお読みください。この論文は、田中彰編『日本の近世18 近代国家への志向』(中央公論社、1994年)という書物に収録され、田中彰氏執筆の学術書『幕末維新史の研究』(吉川弘文館、1996年)に再録されています。

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コメント

どうも初めまして、先日よりチョクチョクROMさせて頂いている松裕堂と申します。
今後とも書き込むがあるかも知れませんので、どぞお見知りおきを。

>龍馬研究者の多くが見落としている事実
田中彰氏の説が発表されて以後、その論を受けてのことと思いますが、近年では菊地明氏や松岡司氏なども件の書簡についてはジョセフ・ヒコを指すものだと指摘しますね。

生憎、龍馬とジョセフ・ヒコの関係については史料不足のゆえもあって、踏み込んだ論を見かけません。「『船中八策』にはジョセフ・ヒコの影響が大きい」という説には、私も賛同はいたしかねますが「国体草案」に龍馬も目をとおしていたという説なら、可能性としては十分ありえそうです。

ところでこの「国体草案」。当時どの程度、志士間に流布されていたんでしょう?
示唆する史料などあるんでしょうかね?

投稿 松裕堂 | 2005年11月11日 (金) 08時02分

>松裕堂さん

コメント、どうもありがとうございます。
松裕堂さんのサイトは何度か拝見したことがあります。また、トラックバックもしていただいたようで、そちらもありがとうございます。
龍馬とジョセフ・ヒコの関係については、確かに史料の不足もあって、推測でしか述べられない部分が多いですよね。踏み込んで論じることができないのももっともだと思います。
ただ、交流があったこと自体は事実のようですので、龍馬がヒコに何らかの影響を受けていても不思議はないと思っています(即座に「船中八策」と結びつけるつもりはありませんが)。
「国体草案」がどの程度流布していたかについては、残念ながら私は存じておりません。誰でも知っているようなレベルのものではなかったとは思います。

投稿 パルティアホースカラー | 2005年11月11日 (金) 23時13分

>松裕堂さんのサイトは何度か拝見したことがあります
それはどうもありがとうございました。なにぶんサイトを開設したのが今から数年もまえのことなので、修正したい文章も今は山ほどあります。
ホント拙いサイトで恐縮です。

>龍馬がヒコに何らかの影響
龍馬の場合、中浜万次郎とも長崎時代に顔をあわせる機会があったので「身近に接する機会だけなら彦蔵よりも万次郎の方が多そうだ」とも思ってしまう私。

その点をふまえたうえで彦蔵からの影響を云々すれば、その軽重についてはチト微妙かとも感じます。現時点では結論のでる話題じゃありませんが。

投稿 松裕堂 | 2005年11月12日 (土) 09時09分

>松裕堂さん

再度、コメントありがとうございます。
「拙いサイト」なんてことはないと思います。龍馬や土佐藩関連についての情報量が豊富で、拙いなんてことはないですよ。

「身近に接する機会だけなら彦蔵よりも万次郎の方が多そうだ」という意見ももっともだと思います。ただ、どちらにしても史料不足などの要因で確かに結論が出せる話ではないですよね。
私の個人的意見では、坂本龍馬という人は、交流のあったすべての人物から知識や意見をどんどん吸収して自己の見識を磨いていった人物だと考えていますので、万次郎にしろ彦蔵にしろ、関わっていたのなら彼らの知識を吸収したり、また彼らの意見に影響を受けた面もあったのではないかと思います。もちろん、その軽重は別問題ですが。

投稿 パルティアホースカラー | 2005年11月12日 (土) 09時38分

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