野口武彦『新選組の遠景』読了。新選組中心史観への批判
最近購入した、野口武彦氏の著書『新選組の遠景』(集英社、2004年)を読み終わりました。購入する前から立ち読みでだいぶ読んではいたのですが、購入したのは最近になってからでした。野口武彦氏の著書を購入したのも初めてです。『安政江戸地震』(ちくま学芸文庫、2004年)などの著書を何度か立ち読みはしていたのですが。
とりあえず、野口氏の「新選組ファンのあらかたは天動説である。新選組を機軸にして歴史の天空が回転するのだ」(15頁)という意見には、同感です。私も新選組ファンの友人と話をしているときに、その新選組ファンの友人が新選組のことにはものすごく詳しいのに、幕末史のほかの人物・団体や新選組が関わっていない事件などには興味がないか、詳しく知らないということに驚いたことがあります。もちろん、新選組ファンならば新選組のことに詳しいのは当然かもしれませんが、新選組以外のことに興味を示さないのは解せません。野口氏の、「新選組のことは、新選組だけを見ていたのではわからない」(16頁)という意見に耳を傾けてみても良いのではないでしょうか。
野口氏は新選組ファンの歴史観を「新選組中心史観」(150頁など)と呼んでいますが、そのような歴史観では、幕末という時代について正しい理解・認識は不可能だと思います。何故なら、新選組および新選組の隊士たちは、幕末史全体の中での重要度においては、あくまで脇役に過ぎないと思うからです。
実際、幕末史を描いた通史などの歴史書では、新選組はそれほど大きい扱いを受けていません。例えば、歴史家の田中彰氏による一般向けの通史である『日本の歴史⑮ 開国と倒幕』(集英社、1992年)は、ペリー来航前夜から鳥羽・伏見の戦いに至るまでの時期を叙述していますが、新選組は本文には登場せず、登場するのは本文の外のコラム(186~187頁)だけで、巻末の索引にも新選組は全く出ていません。
石井寛治『大系日本の歴史⑫ 開国と維新』(小学館ライブラリー、1993年)は、ペリー来航から西南戦争までを描いた通史ですが、新選組が登場するページ数は全部で5ページで、ページ数で言えば五代友厚と同じです。ちなみに、大久保利通は全部で46ページ、西郷隆盛が31ページ、木戸孝允が32ページ、徳川慶喜が19ページほど登場していますので、新選組はあくまで脇役として描かれているというのがわかるかと思います。ただし、石井氏の著書は田中氏の著書に比べて、新選組の扱いはかなり大きいです。
比較的新しい通史である、井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社、2002年)は、天保年間から慶応3年の王政復古政変あたりまでの時期を描いていますが、新選組はたった一度、池田屋事件の記述で出てくるだけです。さすがに扱いが小さすぎるのではないかと思うぐらい、一言出てくるだけです。
昨年、歴史書専門の出版社・吉川弘文館から刊行された、『日本の時代史』全30巻の一冊である、井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』(吉川弘文館、2004年)の中で、編者の井上勲氏は、幕末政治史の概説として、「開国と幕末の動乱」という文章を載せていますが、新選組の登場は二回だけです。一回目が、京都守護職・松平容保の配下に新選組がいたことの説明で、二回目が池田屋事件の記述です。一方で、例えば島津久光は全部で15ページに登場しています。
以上、ご紹介しましたように、幕末史の通史では、どうしても新選組は脇役になってしまいます。その意味で、私は「新選組中心史観」は正しくないと思うのです。しかしながら、脇役としての新選組を、幕末史の中にどのように位置づけるべきかは非常に重要だと思っています。新選組は脇役だと言っても、宮地正人氏が「一会桑グループ内の有能な政治活動家の中にほかならぬ近藤勇が存在したこと、この点の確認が、今日の歴史学からする新選組論の第一の眼目でなければならない」(『歴史のなかの新選組』岩波書店、2004年、7頁)と主張するように、新選組が幕末史の主役に影響を与えうる位置で活動していたことは事実です。したがって、新選組の研究は有意義だとは思います。私が言いたいのは、「新選組中心史観」は新選組および幕末史を正しく理解する上で適切ではないということだけです。
ちなみに、宮地正人氏が言う「一会桑」とは、禁裏守衛総督兼摂海防禦指揮の一橋慶喜(徳川慶喜)、京都守護職の会津藩主・松平容保、京都所司代の桑名藩主・松平定敬のことです。この、いわゆる一会桑政権は、江戸の幕閣とは別個の権力として京都で活動し、慶応3年のいわゆる討幕の密勅などで打倒対象にされていた三人です。要するに、幕末史を語る上で、決して軽視はできません。その一人である松平容保の配下に新選組がいて、特に近藤勇が活発な政治活動をしていたからこそ、新選組はあくまで脇役ながらも重要な存在だと思うわけです。
ともあれ、現在の状況では、新選組は正しい理解がなされているとは言えないと思います。そのために重要なことは、司馬遼太郎その他が生み出したフィクション(虚像)としての新選組認識から脱却することでしょう。宮地正人氏が、『歴史のなかの新選組』という本を執筆した理由も、新選組認識について、「時代小説的虚構から歴史的真実の方にブレを戻したい」(『歴史のなかの新選組』197頁)ということだったのです。
しかし、野口武彦氏が『新選組の遠景』の「あとがき」で述べている、「歴史学者が長らく一顧だに与えず、正史にまともに登場させなかったからこそ、新選組は稗史小説の世界であれだけ活躍してきたという事実にもっと思いを馳せるべきではあるまいか」という意見はもっともなことです。新選組が「時代小説的虚構」のレベルで認識され、「新選組中心史観」で幕末を認識する人が少なくないことには、歴史学者もある程度の責任があるかと思います。良い意味で、新選組の研究が進むことを願っております。
最後に、野口武彦『新選組の遠景』は面白かったです。歴史家でもなく新選組研究家でもない野口氏による新選組論は、とても新鮮でした。また、内山彦次郎暗殺は新選組によるものではないとする野口氏の意見に、全面的に賛成です。
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