龍馬暗殺について~歴史学者(幕末政治史研究者)の意見を参照することのすすめ~
慶応3(1867)年、11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたことは有名です。犯人は見廻組だというのが通説ですが、犯人たちの証言に矛盾も多いため、歴史好きの方々の中には、「犯人、あるいは黒幕は他にいるのではないか」と疑う人も少なくないようです。実際、ネットで検索してみると、色々なところで龍馬暗殺についての話題が議論になっています。
しかし、私がそうした歴史好きな方々の意見を見ていて不思議に思う、あるいは不満に思うのは、龍馬暗殺について議論する方々の多くが、幕末政治史を専門に研究している歴史家(学者)の意見について言及していないということです。まぁ、私が史学科出身で、卒業論文では幕末政治史を扱ったこと、そして、今も自分の周りに歴史学の世界で研究生活を送っている友人・知人・恩師がいるということもあって、学者の研究がないがしろにされている現状に不満です。
私は史実を論じることと、妄想を述べることは、明確に分けるようにしています。史実を論じるときは史料や先行研究に依拠します。史料や先行研究に依拠しない考えは、すべて単なる妄想であって、説ではありません。史料を縦横に駆使して、初めて説ができあがります。そうすることによって、初めて定説も覆せます。妄想では定説は崩せません。
そういうことをゴチャゴチャと言っていたのでは、歴史が面白く語れないと思う人もいるかもしれません。でも私は、歴史学は学問だと思っていますから、妄想よりも、学問的に語ることが、歴史の一番の面白さだと考えています。妄想は排除して、以下、色々と述べていきます。…念のため言っておくと、妄想は妄想で楽しいものです。妄想すること自体、私は否定しません。でも、妄想で史実をあれこれ論じるのはお門違いだと言いたいわけです。そこを分けて考えるべきだと、私は言いたいのです。そして、妄想と研究を最もちゃんと分けて考えている人たちが、学者なのです。
最近は、龍馬暗殺の黒幕が薩摩だとか、薩摩と協力する岩倉具視だとか言う人がいるようですが、幕末史を研究している学者の方々の中で、そのような説を唱えている人を、私は聞いたことがありません。薩摩が黒幕だなどと主張しているのは、一部の作家などの、幕末政治史を研究しているわけではない、非学者の方々です。
では、幕末史の専門家たる歴史学者のみなさんが、龍馬暗殺についてどのように述べているか、少し紹介してみましょう。
『文明開化』(教育社歴史新書、1986年)や『王政復古』(中公新書、1991年)などの著書があり、2002年から2004年にかけて吉川弘文館から出版された『日本の時代史』全30巻の、企画編集委員の一人でもある歴史家の井上勲氏(学習院大学教授)は、最新の論文「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年に所収)の中で、「京都見廻組の佐々木唯三郎とその配下が坂本龍馬の定宿を襲った」(99頁)と述べています。
『明治の海舟とアジア』(岩波書店、1987年)・『横井小楠 増補版』(朝日選書、2000年)・『徳川慶喜 増補版』(中公新書、1997年)などの著書があり、特に勝海舟や横井小楠の研究で知られる歴史家の松浦玲氏(元・桃山学院大学教授)は、古い著書『暗殺-明治維新の思想と行動-』(徳間書店、1966年)の中で、「(龍馬暗殺について)見廻組による暗殺という事実は、もう動かない」(217頁)と述べ、最近の著書『新選組』(岩波新書、2003年)の中でも、「龍馬暗殺では長く新選組が疑われたけれども、明治三年の今井信郎の自供が転換点になって、見廻組が手を下したということに落ち着いて来た」(154頁)と述べています。
『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年)・『調所広郷』(吉川弘文館、1987年)などの著書があり、薩摩藩研究者として知られる芳即正氏(鹿児島歴史資料センター黎明館史料編纂顧問)は、『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年)の中で、「坂本龍馬・中岡慎太郎が幕府見廻組の刃に倒れた」(202頁)と述べています。
以上、ご紹介したように、歴史学者のみなさんの多くは、龍馬暗殺の犯人は見廻組であるという通説を当たり前のように受け入れています。黒幕に薩摩の大久保利通や岩倉具視がいるなどと言っている学者は、恐らく皆無です。
では、幕末政治史研究者と、薩摩・岩倉黒幕説を信じる方々には、どのような違いがあるのでしょうか。それは恐らく、慶応3年の薩摩藩の政治方針、あるいは薩摩藩と大政奉還を提唱した土佐藩の関係、当時の政治状況などについての、認識の違いでしょう。
薩摩や岩倉が龍馬暗殺の黒幕だと言う方々の多くは、「武力討幕をしたい薩摩や岩倉にとって、大政奉還路線を支持する龍馬の存在は邪魔だった。だから、薩摩は龍馬を殺した」と言いたいのではないでしょうか?
しかし、歴史家は、必ずしも、大政奉還が武力討幕の邪魔になるなどとは考えていません。この問題に関しても、歴史家の見解をいくつか紹介してみましょう。
井上勲氏は、かつて、論文「大政奉還運動の形成過程(一)」(『史学雑誌』81-11、1972年)の中で、大政奉還運動(土佐藩の路線)と討幕運動(薩摩藩や長州藩の路線)の二つを固定的に非妥協的運動と看做す発想を批判し、「慶応末年の混迷を極める状況のなかで、各人のとりうべき選択は多岐に渉り、大政奉還運動も討幕運動も、一つの可能な選択でしかなかった」と述べています(25~26頁)。つまり、井上氏の見解によれば、薩摩の討幕路線も土佐の大政奉還路線も、妥協できないほど対立するほどの性格のものではないということです。
『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)や『徳川慶喜』(吉川弘文館、2004年)などの著書があり、特に会津藩分析で知られる歴史家の家近良樹氏(大阪経済大学助教授)は、著書『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)の中で、井上氏と同様の意見を述べています(199~200頁)。
『日清戦争への道』(東京創元社、1995年)などの著書があり、近年、幕末政治史研究において重要な論文を次々に発表している歴史家の高橋秀直氏(京都大学大学院助教授)は、論文「王政復古への政治過程」(『史林』84-2、2001年)の中で、「大政奉還により平和的に公議政体が樹立できるなら大久保・西郷にとってもそれは望ましいことであった。要はそれが本当に実現するのか、慶喜の真意如何にあった」と述べ(17頁)、また、別の論文「『公議政体派』と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41号、2002年)においても、「大政奉還後、11月下旬にいたるまでの薩摩倒幕派の京都における行動は、大政奉還の現実化をめざすものであった」(12頁)と述べています。要するに、高橋氏によれば、討幕派と呼ばれる薩摩藩士たちは、必ずしも大政奉還には反対ではなかったということです。
『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年)・『江戸が東京になった日』(講談社選書メチエ、2001年)などの著書があり、幕末から明治初年にかけての数々の研究を発表している佐々木克氏(京都大学名誉教授)は、最新の著書『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)の中で、「土佐藩新政府案が大政奉還と慶喜の将軍職辞職すなわち幕府の事実上の廃止という現実をふまえて、朝廷・朝政の改革をめざすものであったことは事実である。したがって改革構想である点においては、薩摩藩と土佐藩は同じ路線で運動することができた」と述べています(408頁)。
以上、紹介した通り、学者の皆さんの多くは、大政奉還の路線と薩摩の討幕路線を、必ずしも対立するものだとは捉えていません。薩摩藩と土佐藩は、幕府制度の廃止・公議政体(要するに新政府)の樹立などの共通の目標を持っていたため、共同で行動することができました。慶応3年12月9日の王政復古の政変において、薩摩藩と土佐藩が協力してクーデターを起こせたのも、徳川慶喜の扱いをめぐって意見の相違はあったものの、公議政体(新政府)の樹立という共通の目標があったからです。大政奉還運動を推進した土佐藩の後藤象二郎も、大久保たちのクーデター計画に反対していません。
大久保利通の孫でもある歴史家の故・大久保利謙氏(元・立教大学教授)も、薩摩と岩倉が主導した王政復古の政変によって創設された、総裁・議定・参与の「三職制」について、「土佐藩公議派の上下議事院構想とも符合する」と述べています(大久保利謙『岩倉具視 増補版』中公新書、1990年、207頁)。つまり、「三職制」とは、議定を上院、参与を下院に見立てた、上下議事院構想と形態的には同じ性質のものだと考えられるのです。ちなみに、総裁は、天皇を補佐する役目です(井上勲『王政復古』277頁参照)。
以上のことから考えて、薩摩藩の大久保や岩倉具視が龍馬を邪魔に思うはずはありません。薩摩藩が大政奉還そのものを受け入れているのなら、龍馬暗殺の黒幕は薩摩だなどという説は成り立たないでしょう。それに、いざ討幕の戦となった場合に、薩摩藩としてもなるべく多くの味方を確保しておきたいところです。土佐藩は、その有力な候補です。そんな状況で、わざわざ龍馬を殺すとは考えられません。結論として、薩摩にとって龍馬は、薩長同盟(最近は「薩長盟約」とも呼ばれる。詳しくは、こちら)の恩人であり、公議政体樹立を共に目指す仲間なのです(徳川慶喜への態度や、公議政体に求めているものなどの違いはありますが)。
だからこそ、薩摩藩士の吉井友実(西郷・大久保・小松帯刀に次ぐ、薩摩藩討幕派のリーダー)は、龍馬暗殺犯のことを「暴逆之徒」と呼び(「丁卯日記」慶応3年11月16日条、『再夢紀事・丁卯日記』233頁)、長州藩士の品川弥二郎(当時、薩摩藩の屋敷にいた)は、龍馬が殺されたことを「実ニ相惜事ニ御座候」と述べたのです(慶応3年11月27日付、木戸孝允・広沢真臣・御堀耕助宛品川書簡。青山忠正『明治維新と国家形成』281頁より引用)。品川はこの感想を、武力討幕派の大物である木戸孝允と広沢真臣に述べているのです。品川と広沢は、大久保利通や西郷隆盛と共に、「討幕の密勅」の請書に署名した人物です。
また、吉井友実は、龍馬に対して、用心のために薩摩藩邸に入った方が良いと忠告していたようです(慶応3年10月18日付、望月清平宛龍馬書簡。宮地佐一郎編『龍馬の手紙』講談社学術文庫、2003年、491~492頁参照)。
だからこそ、龍馬暗殺の犯人は、通説どおり、見廻組だと考える方が自然です。薩摩藩や岩倉具視は関係ありません。当時の佐幕派勢力(ここでは便宜上使いましたが、「佐幕派」という言葉は、最近の研究ではあまり使われません)は、大政奉還に反対でした。また、薩摩や長州の動きも憎んでいました。坂本龍馬という人物は、佐幕派勢力から、薩摩や長州の間を怪しく動き回っている人物だと見られていたフシがあります。
慶応3年11月に、土佐藩の中の佐幕派の人々が、連署して藩主に提出した建白書の中では、龍馬のことを、「長州・薩州(薩摩)ノ間ヲ奔走シ居候人物」だと言っています(『保古飛呂比 佐佐木高行日記』2巻、602頁)。そういう理由から、龍馬は見廻組に怪しい奴だと思われて斬られたのではないかと、私は思います。見廻組は、大政奉還にも、討幕にも反対の勢力です。
『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)・『幕末維新/奔流の時代』(文英堂、1996年)などの著書があり、幕末政治史の通説に果敢に挑んでいる歴史家の青山忠正氏(佛教大学教授)も、論文「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」(『佛教大学総合研究所紀要』8号、2001年)の中で、「坂本を暗殺する側にしても、彼が薩長土に結び付けようとした武力集団の力を警戒し、その媒介者として彼を危険視したのではなかったか」と述べています(73頁)。青山氏は、見廻組と明言はしていませんが、龍馬を暗殺したのが幕府側の勢力だと考えていることは明らかです。
以上、長々と文章を書き連ねましたが、歴史学者の方々の見解を見ていると、龍馬暗殺の黒幕に薩摩や岩倉を想定することに、あまり意味が感じられません。当時の政治状況から考えて、ありえないと思われるからです。もちろん、それでも見廻組の単独犯なのか、誰かから命令されたのかなど、はっきりしないことは多いです。しかし、それらについて色々と議論するときに、歴史学の素人の方々の意見ばかり参考にするのではなく、歴史学の専門家である学者の意見、とりわけ幕末政治史の最新の研究成果を取り入れて議論した方が、実りのある結論に達することができるでしょうというのが、私の意見です。
もちろん、学者の意見より素人の意見の方が正しい場合もあるでしょう。また、学者がゴチャゴチャと言っていることは難しくてよくわからないと感じる人もいるかもしれません。でも、そこを我慢して、学者の意見に耳を傾ければ、新たな見識が得られるに違いありません。幕末史は、頭をものすごく使って考えないと、まったくわからないぐらいに複雑なのですから。少なくとも、その複雑な幕末についての、専門の研究者ではない作家の方などの意見を簡単に信用しない方が懸命だと思うのです。やはり、専門の研究者の意見も聞き、素人から見ても間違いだと思う学説については批判する。その方が楽しい気がします。学者の意見も取り入れた上で議論すれば、みんなが納得できるような結論に近づくだろうと、私は思います。学者の言うことも、一つの説に過ぎないのですから。ただし、議論をするときには、学者に負けないぐらい幕末史について調べなければ、とても学者の説を覆すことなどできないということです。
ここまで読んで、まだ見廻組説に不満な方、あるいは実行犯が見廻組でも裏に薩摩がいたと考えている方は、ぜひとも学者と同じ土俵で調べ、研究してみましょう。まずは、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』(光風社、1978年。増補四訂版、1988年)を読むところから、龍馬研究は始まるのです。そして、その他の史料を読み、学者の研究を読み、自説を発表しましょう。
私自身の考えは、「龍馬暗殺事件をめぐって」という記事に、まとめて書いてあります(2008年2月2日追記)。
なお、私はここ数日で以下のブログを拝見させていただき、龍馬暗殺の話題もしくは龍馬の話題について、多少なりとも述べられているのを見ました。また、8/28まで京都国立博物館で「坂本龍馬展」を開催中ということで、それに関するものもあります。
GO.KI.RA.KU
クルマと煙草とZIPPOと珈琲
しょーぐんのぽぽぽ~い日記
■ Shougo.Blog ■
あたしの独り言 育児編
過去への感謝状~今日は何の日?inアメブロ~
strawberryfield
黒猫亭御昼寝便
久坂玄瑞と高杉晋作~on the way~ゆうゆう日記
☆理系院生女の不マジメ生活☆
世古一穂の社会潜望鏡
幕末.net
グルグルな日々
京都に魅せられて
5分で分かる!人生に役立つ武道の教え
▼▼新撰組をめぐる京都の旅▼▼
文豪のつぶやき
映画頭頭
竜馬が行く!
初心者のためのチャンバラ時代劇ガイド
坂本竜馬に憧れて、よさこい高知!
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コメント
こんばんわ。
こんなにも、多くの方が、坂本竜馬暗殺のことを書かれているのですね。
歴史上で起こった事実はひとつでも、人によってさまざまなとらえかたがある。興味深いです。
大変、勉強になりました。
投稿 BOKU笑太郎 | 2005年8月24日 (水) 20時58分
龍馬を斬ったのは誰?
これは永遠の謎かもしれませんね。
信長を攻め殺した明智光秀のバックには云々という話も後を絶ちませんが、この手の話にはある種ミステリアスな魅力があるんでしょう。
投稿 gokiraku | 2005年8月24日 (水) 22時07分
>BOKU笑太郎さん
コメントをいただいて、ありがとうございます。
巷には、坂本龍馬や幕末に関して書かれた本が、たくさんあります。しかし、幕末は人気のある時代なだけあって、学者だけではなく、作家や自称研究家、その他諸々の人々が色んなことを言っています。
しかし、学者の書いた本は、歴史は好きだけど専門に勉強したことはない人などには、避けられているようにも見えます。
また、学術書や学術論文は、よほどの人でないと読まないでしょう。でも、そういった学者の本や学術論文には、「さすが歴史学の専門家」と思わせる記述がたくさんあります。そういったものを、紹介できればいいなぁと思っています。
>gokirakuさん
コメントをいただいて、どうもありがとうございます。
龍馬は人気があるだけに、議論は尽きないでしょうね。暗殺犯を決定的に確定させる完璧な証拠でも発見されないかぎり、誰かが必ず通説に異論を唱えて、議論は果てしなく繰り返されるような気がします。
そんなときに、専門の学者の方の意見も参考にした上で、議論する皆さんが少しでも幕末の政治状況に詳しくなった上で議論したほうが、有意義な結論が得られると思います。
信長が殺された本能寺の変についても、やはり信長人気があるかぎり、議論は続くのでしょうね。本能寺の変については、龍馬暗殺の場合よりもはるかに多くの学者が色々と言っていますので、それはそれで面白いことになっていると思います。
それについては、谷口克広「本能寺の変をめぐる最近の研究動向」(『歴史評論』632号、2002年)が、色々な説を紹介しています。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年8月24日 (水) 22時48分
はじめまして。
TBありがとうございました。
blogにも書きましたが私は、龍馬が好きです。--が「誰が」暗殺したのかというよりも、「何故暗殺したの」という思いが強いのです。きっと、龍馬が生きていたら困る輩が、たくさん!?いたのでしょうね。
それだけ、影響力のある人物であったのでしょう龍馬は。。
龍馬を暗殺してしまったのは、日本の損失だと思います。
投稿 アメジー | 2005年8月25日 (木) 02時57分
>アメジーさん
コメントをいただいて、どうもありがとうございます。
龍馬は魅力的な人物ですね。私も大好きです。
薩長同盟の仲介に見られるように、龍馬が反幕府勢力の結集に力をそそぎ、龍馬の名前が有名になればなるほど、幕府や幕府制度擁護論者の中に、龍馬を憎む勢力を増やしていったかと思われます。だからこそ暗殺されたのでしょうね。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年8月25日 (木) 11時01分
TBどうもです。
歴史にはロマンがつきものなので(古っ)、歴史学者でない方々は、こうあってほしいという願望も込めて説をとなえたりするのでしょうね。しかし、今現在歴史上の出来事がどのように解釈されているかということは、知っておくべきなんだと思います。勉強になりました。
投稿 某 | 2005年8月25日 (木) 22時39分
>某さん
コメント、ありがとうございます。
歴史にはロマンがつきものだという意見もわかりますよ(笑)私も、それで友人に批判されたことがあります。でも私は、真実を追い求めるのもロマンだと思っています。真実は「こうであってほしい」という自分の願望とは異なる場合も多々あるとは思いますが、そういう事実を知るのもロマンだと思います。
真実を知るために、専門の学者の方の意見に耳を傾けるのは、最も有効な方法なのだろうと思っている次第です。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年8月25日 (木) 23時43分
TBありがとうございました。
龍馬暗殺にこれだけたくさんの諸説があること自体、
彼に魅かれている人が多いということなのかもしれないですね。
謎のままだから、よけい人々を惹きつけるのだろうし。
誰が殺したのかはともかく、
暗殺の背景に政治などが絡んでいれば、それはそれで面白いのでしょうけど、
いろは丸の賠償金絡みとか、単なる怨恨にすぎなかったとしたら…(汗)。
龍馬って何気に色々やらかしてるし~、なんて言ったら怒られますかねぇ?(滝汗)
こんな妄想を広げられるのも、一般人としては面白いんですけどね。
投稿 Aki_1031 | 2005年9月 2日 (金) 15時21分
>Aki_1031さん
コメント、ありがとうございます。
怨恨という可能性も、必ずしもゼロではないとは思いますが…万が一そうだったとしたら、今まで色んな人が色んなことを言ってきたのは、一体何だったんだろうという気もしますね。
恐らく、政治的な理由だとは思いますが。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年9月 2日 (金) 17時41分
トラバありがとうございました。
お書きになった記事、とても興味深く拝読させていただきました。
しかしながら、残念に思うのは歴史学者の方々の『意見』部分だけを紹介なさっていることです。
歴史学者の方々に限らず、『何を論拠にして意見を述べているのか?』ということが何よりも重要なことですよね。
その論拠たる『史料』がどういったものか、それをどのように解釈して意見を述べられているのか、きちんと確認する。
その上でのみ意見を参照すべきだ、と仰ったほうがよいのではないでしょうか。
○○説を唱えている歴史学者が皆無、という事象ではなく、『何故○○説を唱えている歴史学者が皆無なのか?』という理由が大事でしょう。
論拠が抜けて、意見のみが一人歩きしてしまう、という現象は学者の方々にとって不本意なことではないでしょうか。
せっかくの御提言なのに、仰っていることの妥当さが理解されにくいかと思います。
投稿 天牙 | 2005年9月 2日 (金) 22時33分
>天牙さん
コメント、ありがとうございました。
確かに、史料を基礎にした議論が一番いいわけですから、各研究者がどういう史料に依拠して説を述べているのか、そこまで書くのがベストなのは確かだと思います。その点で、私の記事は片手落ちの感は否めません。
私は、この記事を読んだ「歴史には興味あるけど、学者の本や論文は読んだことがない」という類の人が、できれば自分でそれぞれの学者の本に当たっていただければ良いかと思いまして、『何故○○説を唱えている歴史学者が皆無なのか?』という踏み込んだことまで述べるのを避けてしまいました。煩雑になりすぎるかとも思いまして。
天牙さんのおっしゃるとおり、学者の説の論拠までキッチリと書けば、なお良かったかと思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年9月 2日 (金) 23時28分
TBありがとうございました。
竜馬の暗殺の下手人は誰なのか?
今となっては、永遠の疑問という
ことが隔靴掻痒、とてもいらいら
しますネ。
投稿 おGさん | 2005年9月 7日 (水) 13時06分
HP文豪のつぶやきにご訪問くださってありがとうございます。
あなたの竜馬暗殺観に賛成です。
竜馬暗殺に関しては、大岡昇平氏や浅田次郎氏が薩摩藩犯人説をとっていますが、ちょっと賛同できません。
まあ、小説家ですからしょうがないんですが。
私もいくつか資料を読んで想像するに、やはり見廻組ではないかと思います。
歴史とは資料の積み上げの上にある想像力だと思います。
例えば、豊臣秀吉がどういうような人物だったかというのは、五百年前のかれの手紙や着物など、今現存しているものを見て晩年は老耄してしまったんだとか、体は小さかったんだとかを創造するんだと思います。
非常に根気のいる作業ですね。
私にはとても無理です。
竜馬については、改めて土佐藩全体を書く時に触れてみたいと思います。
まあ、私の場合は、史学ではなく小説でもなく、随想みたいなものですが。
こういうHPがあることはうれしい。
少なくとも史学というものの論点の場になるんではないでしょうか。
頑張ってくださいね。
投稿 neruri | 2005年9月 7日 (水) 13時26分
>おGさん
コメントをいただいて、どうもありがとうございます。龍馬は人気がある人物だけに、暗殺の真犯人を知りたいと思う人は多いでしょう。私も見廻組で問題ないと考えてはいるわけですが、史料不足の関係で釈然としない部分もゼロではありません。いつか、誰もが納得できる結論が出ればいいですね。
>neruriさん
コメントをいただいて、ありがとうございます。また、私の意見にも賛同していただけて、嬉しい限りです。
史料の積み上げの上にある想像力が大切だというのは、確かにそうだと思います。作家の方々などは、学者と違って、別に史料を積み上げなくても、想像力を駆使しなくても、自分の書いていることは小説・フィクションだと言い訳できてしまいますので、作家の方々が史実として書いていることでも簡単には信用しない方がいいと思うんですね。もちろん、ちゃんと史料を駆使して学問にプラスになるような研究をしている作家の方もいますが。
neruriさんがおっしゃるとおり、史料を駆使する作業は、非常に根気が必要です。それをやってらっしゃるのが歴史家の皆さんですので、その成果を一般の歴史好きの方々ももっと利用してもいいんじゃないかなぁと感じている次第です。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年9月 7日 (水) 19時13分
龍馬を斬ったのは京都見廻組の佐々木只三郎以外に考えられませんね。
剣技抜群でしかもピストルを持っているかもしれない龍馬を、鉢金・籠手・鎖帷子も着けず襲撃し、一刀にもとに龍馬の急所(脳)を斬り中岡慎太郎を絶命させ、襲撃側は全く手傷を負わず、落し物(鉢巻・印籠など)もせず、風のように立ち去った剣士です。
並みの剣士ではありません。この水準の剣技を持つ剣士は、佐々木只三郎以外には2~3人位しか居なかったでしょう。
「龍馬を斬った男」というより「龍馬を斬れる男」と私は言いたいのです。
皆さんのご意見はいかがですか。
投稿 鈴木 | 2005年10月10日 (月) 21時46分
>鈴木さん
コメント、ありがとうございます。
私も、龍馬暗殺犯は見廻組だと思います。
龍馬は慶応二年一月に、寺田屋でピストルの脅威を見せ付けて、たくさんの捕吏から逃げることに成功しましたね。そういう過去があったからこそ、龍馬暗殺を決断するのは簡単なことではなかったのは確かだと思います。
当時なら、新選組や見廻組あたりでしょうか、そういう決断ができるのは。しかしながら、新選組には関与した形跡が見られないことから、やはり見廻組でしょうね。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年10月12日 (水) 19時39分
コメント、ありがとうございます。
龍馬暗殺についての薩摩藩黒幕説(武力討幕したい薩摩藩にとって、大政奉還路線の龍馬が邪魔になり薩摩は龍馬を殺した)は全く理解出来ませんね。龍馬の居場所を薩摩藩が見廻組に教えた、とでも言うんでしょうかね。
龍馬は以前から幕府探索方に尾行されています。そのうえ龍馬は寺田屋で幕府の捕吏に囲まれたとき至近距離からピストルを乱射し捕吏を射殺して逃げました。要するに人相を知られているのです。その後、龍馬も中岡慎太郎も京都の町を、結構、歩いています。
京都見廻組は幕府の高等秘密警察です。薩摩藩から教えられなくても龍馬の居場所は分かったでしょう。
薩摩藩黒幕説が結構蔓延しているのはNHK「そのとき歴史が動いた」で放映したからでしょう。NHKもいい加減なことを放映して高いお金を取るのでは困りますね。
投稿 鈴木 | 2005年10月12日 (水) 23時10分
>鈴木さん
再度、コメントありがとうございます。
薩摩藩黒幕説には、私も反対です。そもそも、たいていの場合、薩摩藩が黒幕だということを主張する割に、龍馬が死んだ日に西郷は京都にいなかったこととか、基本的な事実を押さえていない人も少なくないような気がします。
…「龍馬の居場所を薩摩藩が見廻組に教えた」と言っている人も見かけたことがあります。絶対にありえないと思いますが。
確かに、龍馬は幕府にだいぶ狙われていたようですね。『尾崎三郎自序略伝』によると、龍馬が入京したとき、「坂本龍馬が海援隊士300人を引き連れて上京した」というような噂が流れたそうですし(この話は尾崎が誇大に言っているような気もしていますが)。でも、龍馬の書簡などを見ると、実際に吉井友実などが身辺の危険を忠告してますね。
中岡慎太郎の陸援隊には新選組からスパイが入り込んでいたぐらいですから、龍馬の居場所ぐらいなら突き止めることができたでしょうね。
NHKの「そのとき歴史が動いた」は結構いいかげんな内容のときもありますね。番組で言っていたことをすべて信じてしまう人も恐らくいるでしょうから、いいかげんな放送はやめてほしいですね。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年10月13日 (木) 18時51分
コメント有難うございます。
薩摩藩黒幕説には「00年0月頃、薩摩藩の誰々が見廻組の誰々に龍馬の居場所を教えたらしい」といった仮説が提示されていないので、反論を論証することが出来ないのです。要するに薩摩藩黒幕説は仮説として提示されていないのです。仮説が提示されず、従って反証が出来ず、反証がないから薩摩藩黒幕説が一人歩きする、のが実情のようです。学問以前の問題です。困ったことですね。
私の立場は佐幕派ですが、「怪しい、臭い」と人格を疑われる薩摩藩がかわいそうになり同情してしまいますよ。
投稿 鈴木 | 2005年10月13日 (木) 23時37分
>鈴木さん
コメント、どうもありがとうございます。
確かに、薩摩藩黒幕説は「説」と呼べるほどのものではないですね。
『改訂肥後藩国事史料』などに、薩摩が関与しているらしいという噂の類は確かに記されていますが、結局は「怪しい」と思われているというだけであって、それ以上に信憑性のある情報もなければ、当時の状況から考えて薩摩がわざわざ龍馬を暗殺しなければならない理由が見当たりませんよね。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年10月13日 (木) 23時55分
コメント有難うございます。
龍馬暗殺に至る史実を整理したいと思います。
慶応2年1月、薩長同盟の直前、龍馬は幕吏の手が身辺に迫っているのを知り、薩摩藩から通行手形を貰います。その直後、龍馬は寺田屋で幕吏の急襲を受け、ピストルで捕吏を射殺して逃げました。
慶応2年6月、第二次幕長戦争で、龍馬は長州藩軍艦ユニオン号を指揮し幕府軍を艦砲射撃で破砕し幕府敗北の原動力となります。
慶応3年11月、龍馬は近江屋で暗殺されます。
龍馬は幕吏から反幕府・薩長側の危険人物と見られて居ました。
ですから龍馬暗殺者は京都見廻組以外に考えられませんけどね。
投稿 鈴木 | 2005年10月23日 (日) 19時21分
>鈴木さん
コメント、ありがとうございます。
また、龍馬暗殺に至る史実を簡潔にまとめていただいて、どうもありがとうございます。
鈴木さんのおっしゃる、「龍馬は幕吏から反幕府・薩長側の危険人物と見られて居ました」という指摘は重要ですね。
実際に、そういう史料がいくつか残っていますからね。
私も鈴木さんの意見に賛成です。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年10月27日 (木) 23時24分
コメント有難うございます。
最近、目にした記事にこういうのがありました。
京都見廻組肝煎桂早之助の御子孫から、京都東山の霊山歴史館に、
京都見廻組与頭佐々木只三郎宛の慶応三年六月付「履歴書」(龍馬暗殺隊のメンバー選考用)と龍馬を斬ったと伝えられる刀が寄贈された。とのことです。
私はこの事実を確認していないのですが、もしこれが本当なら、
龍馬暗殺者は京都見廻組で決定、となる訳ですが・・・。
投稿 鈴木 | 2005年10月28日 (金) 21時50分
>鈴木さん
桂早之助が龍馬を斬ったと伝えられている刀のことは聞いたことがありますが、「履歴書」については初耳です。
とても興味深い記事ですね。
その「履歴書」という史料の内容や信憑性いかんによっては、龍馬暗殺犯=見廻組の決定打になりますね。
期待したいところです。
貴重な情報、どうもありがとうございます。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年10月29日 (土) 01時24分
天牙さんとパルティアホースカラーさんの討論は、実に質が高く真面目な討論ですね。
ご両者とも『相当の達人』とお見受けしました。
私も参加させて下さい。
>天牙さんの御主張(2005年9月 2日)
「歴史学者の方々に限らず『何を論拠に意見を述べているのか』が何より重要です。論拠たる『史料』がどういったものか、どう解釈して意見を述べたか、を確認したうえで意見を参照すべきです。○○説を唱えている歴史学者が皆無という事象でなく『何故皆無なのか』の理由が大事です。論拠が抜けて意見のみが一人歩きする現象は学者の方々にとって不本意なことではないでしょうか」
>パルティアホースカラーさんの御主張( 2005年9月 2日 )
「史料を基礎にした議論が一番いいわけですから、各研究者がどの史料に依拠したか
まで書くのがベストです。その点、私の記事は片手落ちの感は否めません。私は、
『歴史には興味あるけど学者の本や論文は読んだことがない』という人が、できれ
ば自分で学者の本に当たっていただければと思い煩雑になりすぎるかとも思い『何
故○○説を唱えている歴史学者が皆無なのか』ということまで述べるのを避けま
した。天牙さんのおっしゃるとおり、学者の説の論拠までキッチリと書けば、良か
ったかと思います。
私はこう思っているのです。
「学者が史料・物証等の積み重ねによって論証した史実・定説については最大限尊重
すべき、と考えています。しかし、特に高名な大学者にありがちな事なのですが 、
一応、史実・定説を論証した後に、何の論証も立論もなく突然飛躍して『かんがみ
るにコレコレ・シカジカであろう』と感想を述べて結論付けることが多いのです。
私は時々こういう場面に直面し『先生、論理が飛躍していますよ。いかに学会の大
御所といえども、論証なく勝手な感想を述べるのは止めて下さい』と言いたくなる
のです」
天牙さんとパルティアホースカラーさんの討論に私も参加させて頂きました。
投稿 鈴木 | 2005年11月 5日 (土) 22時15分
>鈴木さん
ご意見、ごもっともだと思います。
確かに、結論部分で論理が飛躍している人はいますね。
筆が滑ってしまったのか、論証過程をしっかり書き込むことを最後に怠ってしまったのか、とりあえず結論としてまとまるようなことを最後に述べておこうと思ったのか、単なる思い込みで記述してしまったのか、原因は定かではありませんが、確かに飛躍したことを最後に記述している人は見かけます。
結論に至るまでの論証過程が精密であればあるほど、あるいは途中で提示されている仮説や推論が説得力のあるものであればあるほど、最後に適当なことを言うと、それまでの論証や仮説が台無しになってしまう…ということはありますね。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年11月 6日 (日) 22時53分
コメント有難うございます。
私は次のように考えています。
①確立された史実があるのに、史実を平気で無視する向きがあること。
②高名な大学者が突然飛躍して論証無しの感想を結論とし若い学究が反論しない事。
です。これでは歴史は魅力ないものになると思います。
そうではなく、
「史実を共通のベースとして解釈を競う」
ことが歴史学の発展につながると思うのですが・・・。
如何でしょうか?
投稿 鈴木 | 2005年11月13日 (日) 15時02分
>鈴木さん
コメント、ありがとうございます。
鈴木さんが提示した①についてですが、私は在野の研究者およびアカデミズムに属する学者の双方に、その傾向が認められると思います。
ただ、本などを読んでいて感じることがあるのですが、その本の執筆者は必ずしも確立された史実を「無視」しているのではなく、ただ単にその分野に疎いために、その史実について知らないだけなのではないかと思えるときがあります。もちろん、それはそれで問題があると思います。
②に関しては、ありがちなことだと思います。
どうも、大学者、特に自分の恩師が唱えている説に納得できなくても、真っ向から反論できない若手研究者がいるようです。それは情けない話ですので、相手が権威ある大学者であろうと恩師であろうと、違うと思ったことについてはしっかりと反論してもらいたいものですね。
確かに、これらが改善されないのは問題だと感じます。
「史実を共通のベースとして解釈を競う」というのは確かに、もっとも必要なことだと思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年11月13日 (日) 22時30分
コメント有難うございます。
>大学者や恩師の説に納得できなくても、反論できない若手研究者がいるようです。
というのは同感ですし、強く同情します。歴史学会はギルド的色彩が強い為です。
同じ社会科学ですが、経済学も昭和20年頃までは大学者が事実(統計)と解釈を独占するギルド制でした。しかし昭和30年頃から「事実(統計)と解釈の分離」が進み、事実(統計)が広く公開され、経済学者は方法論(経済理論)に注力し、解釈は広く門戸開放されました。その結果、官庁エコノミスト・銀行エコノミスト・証券エコノミスト等が登場して解釈を競い、経済学も経済も発展しました。
その後、経済学者から経済閣僚になり政治家になり、やがて大学に戻っていく、マルチ人間が登場したのはご承知のとおりです。
歴史学もギルド制から脱皮して「事実(史実)と解釈の分離」を進め、大いに発展するといいですね。
これを私は「歴史学の楽市楽座」と名付けています。
投稿 鈴木 | 2005年11月19日 (土) 21時43分
>鈴木さん
コメント、ありがとうございます。
なるほど、確かに歴史学の世界にはそのような色彩が強いかもしれませんね。
経済学の世界では、今はそのような色彩が薄くなっているのも納得です。
門戸開放は、やはりどの分野でも必要なんでしょうね。
「楽市楽座」という呼称は言いえて妙ですね。
そのような発展が、果たされるといいですね。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年11月19日 (土) 22時46分
コメント有難うございます。
①戦前の歴史学は大学者が解釈権と人事権を握る完全ギルド制でした。解釈権と人事 権を握るなんて中世の封建領主みたいですね。その結果、歴史学は皇国史観となっ てイデオロギー化してしまいました。
②社会科学に脱皮するには、事実(史実)を広く公開し、解釈を門戸開放して百家争鳴 ・百花斉放の楽市楽座にしなければなりません。
③歴史学も戦後は、戦前の反省に立って、イデオロギー化の払拭に努めた筈なのです が・・・。
④実際には、ギルド制を色濃く残し、再びイデオロギー化への道を歩んでいるように見 えます。
今、歴史学に問われているのは、
甲:歴史学界の秩序を保つため、ギルド制を守り、イデオロギー化への道を歩む。
乙:解釈を門戸開放し、百家争鳴・百花斉放の楽市楽座にして、社会科学への道を歩 む。
いずれかの選択と思います。
如何でしょうか?
投稿 鈴木 | 2005年11月26日 (土) 13時04分
鈴木さん、こんにちは。
戦後の歴史学はマルクス史観という戦前とは違ったイデオロギーに支配された時期がありました。私は、皇国史観もマルクス史観も同じ穴のムジナだと思っています。
解釈を門戸開放し、百家争鳴・百花斉放の楽市楽座にするためには、史料の公開が必須です。しかし、私は現在でも史料公開はそれほど進んでないと認識しています。これには財産権や著作権があるからだと思いますが、デジタル時代なのですから、思い切ってインターネットで誰もが史料を見ることが出来るような方向へ持って行った方が結果的に良い状況になるのではないか?というのが、私の自論です。
投稿 来栖ムツキ | 2005年11月26日 (土) 13時54分
>鈴木さん・来栖ムツキさん
お二人とも、コメントどうもありがとうございます。
私も来栖ムツキさんがおっしゃるように、戦後の歴史学もマルクス主義というイデオロギーに支配されていた時期があると思います。皇国史観とは正反対かもしれませんが、イデオロギーという点では同じだと思います。
ただ、現在はマルクス主義が歴史学界全体を支配しているという状況は払拭されつつあるようですので、その点では昔に比べれば少しは進歩しているのではないかと思います。
しかし、解釈が門戸開放されていないというのは、確かにその通りだと思います。その点でギルド制を残しているという鈴木さんの意見には同意です。そしてまた、「百家争鳴・百花斉放の楽市楽座」という状態になるのが理想だとも思います。
来栖ムツキさんがおっしゃるような史料公開も、「百家争鳴・百花斉放の楽市楽座」のためには絶対に必要だと思います。実際、公開されていない史料、あるいは活字化されていないためになかなかお目にかかることのできない史料も、決して少なくありません。
誰でも気軽に読めるように、あらゆる史料が活字化されて出版されたりするのが理想でしょうが、「売れない」という理由で出版社が史料集の刊行に協力してくれないという場合もあるようです。東大史料編纂所のサイトで『維新史料綱要』が閲覧できるように、ネット上で閲覧できる史料も増えると便利でいいですね。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年11月27日 (日) 00時40分
来栖ムツキさん・パルティアホースカラーさん
お二人とも、コメントありがとうございます。
お二人のご意見に全く賛成です。
>執筆者は必ずしも確立された史実を無視しているのではなく、史実について知らない のではないかと思えるときがあります。
(パルティアホースカラーさん、2005年11月13日)
>解釈を門戸開放し、百家争鳴・百花斉放の楽市楽座にするには、史料の公開が必須 です。しかし現在でも史料公開は進んでないと認識しています。
(来栖ムツキさん、2005年11月26日)
>公開されていない史料、活字化されていないためお目にかかることのできない史料も 少なくありません。誰でも気軽に読めるように、あらゆる史料が活字化され出版され るのが理想でしょう。しかし「売れない」という理由で出版社が史料集の刊行に協力 しない場合もあるようです。
(パルティアホースカラーさん、2005年11月27日)
私は、特に
『売れないという理由で出版社が史料集の刊行に協力しない』
というのが実相だと思います。
要するに、
①売れないとの理由で出版社が史料集刊行に協力しないため、史料の公開が進まず、
②史料の公開が進まないから、解釈が門戸開放されず、百家争鳴・百花斉放の楽市楽 座にならず、
③楽市楽座にならないから、解釈がイデオロギー化して歴史の魅力が薄れ、
④歴史ものが売れない、
という悪循環に陥っていると思います。
この悪循環を何とか断ち切りたい、というのが私の願いなのですが・・・。
投稿 鈴木 | 2005年12月 3日 (土) 15時17分
>鈴木さん
コメント、どうもありがとうございます。
鈴木さんがおっしゃる悪循環を断ち切るのは難しいでしょうね。
出版社としては売れればそれでいいわけでしょうから、難しい史料集の刊行を好まないでしょうね。
そんな史料集を好んで刊行してくれる出版社もありますが、結局は売れないという理由で、そのような本は大きな書店に行かないと置いておらず、多くの人の目に触れない状況がありますね。
悪循環が断ち切れることを、私も願っています。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年12月 3日 (土) 22時07分
トラックバックありがとうございました。
とは言えもう4ヶ月近く経ってしまっていて…。
挨拶が遅れてしまって申し訳ないです。
ところで、私が書いた記事についてなのですが
龍馬暗殺を薩摩陰謀説と考えての内容ではありません。
私の文章力の無さが誤解を与えてしまったのだと思いますが。
近年の作家や歴史研究家ならぬ歴史空想家による”物語”の影響。
それを書いたつもりでした。
私の周りには未だに龍馬暗殺を上記の影響から新撰組が行った事。
そう憶えてしまっている人が沢山います。
これこそが歴史と物語を混同して憶えてしまっている結果。
そう私は感じるのです。
物語としていろいろな説やストーリーを楽しむ事に否定はしませんし
その現場を見た訳ではないので可能性も否定しません。
ただ、それらを読む前や後にでも現在の一般的見解となっている
事柄をきちんと把握しなければ間違った歴史認識が生まれてしまうのでは?
その事を端的に書きたかったのです。
長文になってしまいすみません。
分かりにくいブログだった事と併せ、重ねてお詫び申し上げます。
投稿 しょーぐん | 2005年12月10日 (土) 01時16分
>しょーぐんさん
コメントありがとうございます。
TBの挨拶については気にしなくて構いませんよ。
私こそ、しょーぐんさんの意見について誤解がったようなので、お詫びをしなければなりません。
私も数ヶ月前に書いたことですので、そのときの自分が何を考えていたのか、はっきりとは記憶していないのですが、私に誤解があったのだけは確かだと思います。本当に、申し訳ありません。
誤解した私が言うのもなんですが、私もしょーぐんさんのおっしゃる”物語”についてのご意見に賛成です。確かに、一般的見解を知らなければ、間違った認識がさらに間違った認識を生むような悪循環に陥る可能性もありますよね。
ともあれ、コメントをいただいて、どうもありがとうございました。そして、しょーぐんさんの意見を誤解してしまったこと、重ねてお詫びいたします。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年12月10日 (土) 15時22分
お詫びだなんてそんな、どうかお気になさらずに。
私が感じる事は、歴史を把握した上でこそ物語も生きるのでは?そう思うのです。
本当はAと言う答え。でもこの物語ではあえてBと仮定を立てている。
では何故この作家はBと仮定したのだろう?
この部分が今は欠けつつあると感じています。
本来は作家もこのように読んでもらいたいのではないでしょうか?
どんな題材にせよフィクションには事実と虚構を誤認識させる危険性がある。
誤った知識を憶えない為には読む側も勉強が必要。そんなところでしょうか。
投稿 しょーぐん | 2005年12月11日 (日) 19時20分
>しょーぐんさん
再度のコメント、どうもありがとうございます。
誤解の件、お許しいただけるなら嬉しいです。
「歴史を把握した上でこそ物語も生きる」という意見には大賛成です。事実をしっかり把握していた方が、フィクションをより楽しむことも可能ですよね。
読む側も勉強が必要だという意見も、ごもっともだと思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年12月11日 (日) 23時57分
こんにちわ。
歴史学はイデオロギーか?社会科学か? 私は考えあぐねています。
そして、来栖ムツキさんのご意見に共感します。
>戦後の歴史学はマルクス史観という戦前とは違ったイデオロギーに支配
された時期がありました。私は、皇国史観もマルクス史観も同じ穴のム
ジナだと思っています。 来栖ムツキさん 2005年11月26日
戦前の歴史学は皇国史観となってイデオロギー化しましたが、戦後の歴史
学は戦前の反省のもとに社会科学を目指して、マルクス主義に傾斜し、結
局、マルクス・イデオロギーに陥ってしまいました。
また、パルティアホースカラーさんのご意見にも共感します。
>私も来栖ムツキさんがおっしゃるように、戦後の歴史学もマルクス主義
というイデオロギーに支配されていた時期があると思います。皇国史観
とは正反対かもしれませんが、イデオロギーという点では同じだと思い
ます。ただ、現在はマルクス主義が歴史学界全体を支配しているという
状況は払拭されつつあるようです パルティアホースカラーさん 2005年11月27日
私が、パルティアホースカラーさんのご意見と少し異なるのは、マルクス
主義が払拭された後に、リバイバル皇国史観が再登場しているように見える
ことです。
>(マルクス主義が歴史学界を支配する状況は払拭されつつあるので)そ
の点では昔に比べれば少しは進歩しているのではないかと思います。
パルティアホースカラーさん 2005年11月27日
歴史学は、皇国史観イデオロギーからマルクス・イデオロギーへ、そしてリ
バイバル皇国史観へ、イデオロギーの枠内で左右に振れているだけではな
いのか?と思ったりします。
歴史学が目指すものは、社会科学なのか?イデオロギーなのか?
私はすべての歴史学究にお尋ねしたいのです。
投稿 鈴木 | 2005年12月16日 (金) 23時09分
>鈴木さん
コメント、ありがとうございます。
恐らく、歴史研究者の各々が目指しているものは全く異なると思いますので、完全に一つの答えを出すのは無理だと思います。
歴史をイデオロギー的に解釈している研究者もいるでしょうし、あくまで科学の一種として真摯な態度で研究に励んでいる方もいることでしょう。
しかしながら、私が思うに、鈴木さんと同じように歴史学は「イデオロギーの枠内で左右に振れているだけではないのか?」ということを考え、そこからの脱却を明確に意識して研究を行っている研究者も少なくないと思っています(実際に脱却できているかどうかは別として)。
また、皇国史観的な歴史観の復権を唱える研究者もいるかもしれませんが、それはあくまでごく一部の研究者であって、戦前のような皇国史観一色のような状況には決してならないだろうと考えています。
以上のような意味で、私は少しは進歩していると考えている次第です。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年12月17日 (土) 01時51分
>パルティアホースカラーさん
真摯なコメントを有難うございます。
私は、多くの歴史研究者が社会科学として真摯な態度で研究に励んでいる
と信じています。その決意表明を聞きたかったのです。
しかし、社会科学として真摯な研究に励んだ結果が、皇国史観からマルク
ス・イデオロギーへ、そしてリバイバル皇国史観へ、とイデオロギーの枠
内で左右に振れているだけに見えるのも事実です。
研究者の決意とアウトプットのズレという悲劇があるようです。
戦後の歴史学は、戦前の反省のもとに社会科学を目指してマルクス主義に
傾斜し、結局、マルクス・イデオロギーに陥ってしまいました。
この皮肉は、何故、起きてしまったのか?
よく検証してみることが必要だと思います。
歴史研究者の方々には、自分の研究が社会科学になっているか?
イデオロギーに堕していないか?
問い掛けを常に忘れずにいて欲しいのです。
歴史学は、それほど、イデオロギーに堕し易い学問なのです。
投稿 鈴木 | 2005年12月22日 (木) 22時27分
>鈴木さん
コメント、どうもありがとうございます。
鈴木さんのおっしゃるように、「研究者の決意とアウトプットのズレ」というのは確かにあると思います。今後は、そのズレをいかに縮めていくかということが課題でしょう。決して簡単ではないと思います。検証は確かに必要です。
また、「問い掛けを常に忘れずにいて欲しい」ということについては大いに賛同いたします。
問い掛けを忘れてしまったら、そこで学問は終わりですが、問い掛けを忘れない限り、発展する可能性があるということですから。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年12月24日 (土) 00時53分
パルティアホースカラーさん
真摯なコメントを有難うございます。
「歴史研究者が社会科学として真摯な研究に励んだ結果がイデオロギー
に堕っている」
という研究者の決意とアウトプットのズレという悲劇は方法論の欠如が原因と思います。
経済学の分野では、
「イデオロギーに堕した経済学を呪術経済学と呼んで軽蔑し、イデオロギーに堕さないよう」
真剣に議論したものです。学生達は合宿したりして口角泡を飛ばし「方法論」の議論をしました。
教育学の分野でも、
「熱心さあまりイデオロギー教育に堕すことがないよう」
学生達は熱心に議論していました。
しかし歴史学の分野では、
「学生達は先生の指導のもと真面目に古史料解読に取り組んでいる」
という感じで熱心に議論している姿を私は目にしたことがありません。
歴史学がイデオロギーに堕し易いのは「心構え」の問題ではなく、
「社会科学への方法論」
の欠如によるのではないか、と思うのですが・・・。
投稿 鈴木 | 2005年12月27日 (火) 21時28分
>鈴木さん
コメント、どうもありがとうございます。
歴史学の分野で、「学生達は先生の指導のもと真面目に古史料解読に取り組んでいる」という状況があるのは、ある意味で仕方ないかなと思います。やはり、時代・分野を問わず、史料をある程度読めることが、歴史を議論する上での前提になると思うからです。
しかし、史料をそれなりに読む能力を身に着けている人が集まる場では、歴史について様々な議論が展開されていると、私は感じています。その議論の中には、方法論に関するものもあるでしょう。
ただ、私は経済学や教育学の議論の場を見たことがありませんので、もしかしたら私が有益な議論を展開していると感じる歴史学の議論の場が、経済学や教育学の立場の人から見たら陳腐に見えるということも、あるいはあるかもしれません。
また、方法論について議論していると言っても、決して方法論が確立されているというわけではないですから、方法論の欠如という指摘は、確かにそうかもしれません。
投稿 パルティアホースカラー | 2005年12月29日 (木) 00時16分
>パルティアホースカラーさん
真摯なコメントを有難うございます。
私は「歴史学究の方々が先生の指導のもと真面目に素直に古史料解読に
取り組んでいる」ことに敬意を持っています。
しかし、
「真面目で素直な人ほどイデオロギーに陥り易い」
のも事実なのです。
「歴史研究者が社会科学として真摯な研究に励んだ結果がイデオロギー
に堕っている」という研究者の決意とアウトプットのズレの悲劇はそこ
あると思います。
ですから方法論の議論は、歴史学の入り口の段階、例えば大学1年生・
大学院1年生のところでやるほうがよいのではないか、と思います。
>史料をそれなりに読む能力を身に着けている人が集まる場では、歴史
について様々な議論が展開されていると、私は感じています。その議
論の中には、方法論に関するものもあるでしょう。
「歴史イデオロギーへの警戒」は歴史学の入口で学ぶべきと思います。
私がこんなことを言っているのは、皇国史観イデオロギーの放棄が、
「学界内部からの内在的批判によって超克されたものでなく、戦争に負
けたから教科書に墨を塗る」
という暴力的(戦争は暴力の一種です)方法によって行われた、およそ
学問としては恥ずかしい結果になっているからなのです
投稿 鈴木 | 2005年12月31日 (土) 23時29分
>鈴木さん
コメント、どうもありがとうございます。
確かに、皇国史観は学会内部からの内在的批判によって超克されたわけではないと思います。しかしながら、学会内部には皇国史観と対立する意見(それもイデオロギーの一種には違いないでしょうが)もかなりあったと思います。そのような意見の持ち主が、戦前には皇国史観に勝てなかったというのは事実ですが、決して戦前の学会は皇国史観一色に染まっていたわけではないということを、私は重視したいです。
もちろん、鈴木さんがおっしゃるように、皇国史観と対立していた人たちも強いイデオロギー色があります。その意味で、方法論の議論が必要だとの意見ももっともだと思います。
多分、そのように考えるのは鈴木さんのみならず、学会の内外で増えていて、歴史学の方法論について教える授業が必修科目になっている大学も今は少なくありません。それも、大学一年生の必修科目です。
ですから、鈴木さんが考えていることも、少しずつでしょうが良い方向に向かっているはずだと、私は思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年1月 2日 (月) 23時45分
>パルティアホースカラーさん
コメント、どうもありがとうございます。
歴史学方法論が大学一年生の必修科目になっているのはとても嬉しいです。
昔はなかったことですので・・・。
>そう考えるのは学会内外で増えていて、歴史学の方法論について教える授
業が必修科目になっている大学も今は少なくありません。それも大学一年生
の必修科目です。
私は、皇国史観イデオロギーは朱子学イデオロギーの一種と考えています。
ですから、皇国史観イデオロギーと朱子学イデオロギーを内在的議論によっ
て超克し、一緒に破棄するなら論理が一貫して問題無い訳です。
ところが、皇国史観は敗戦という外圧によって破棄し、最近、近隣から朱子
学イデオロギーの受容を要求されると、外交配慮上、朱子学イデオロギーを
受け入れようという動きがあります。
そうなら日本の歴史は外圧に翻弄され、知的一貫性がズタズタになり、外圧
次第の御都合主義に陥って学問として立ち行くことが出来なくなります。
「歴史学からイデオロギー性を排し社会科学としての方法論を確立すべき」
という私の危機感はこのためです。
投稿 鈴木 | 2006年1月 4日 (水) 21時28分
>鈴木さん
コメント、どうもありがとうございます。
内在的議論が大事なのは私も同感ですが、最近の外交配慮上云々の問題については、必ずしも歴史学に責任を帰すべきではないと私は思っています。
色々なことに警鐘を鳴らしている研究者は、歴史学の世界にたくさんいますが、多くの場合、それらは無視されているような気がしますので。むしろ、私は、警鐘を鳴らしている研究者の意見をまともに聞こうとしない人々ではないかと思います。
投稿 パルティアホースカラー | 2006年1月 5日 (木) 21時26分
学者の方々はなぜ簡単に見廻組の犯行という通説を当たり前のように受け入れておられるのでしょうか?
学者の方の性質として、人を納得させやすい無難な方向で物事をまとめようとする、官僚主義というか、長い物にまかれる主義というか、分かりやすく言えば言い方悪いですが、なんか卑怯な大人っぽく感じました。
竜馬は、前年伏見寺田屋にて遭難の際、幕吏を殺傷して、いわば指名手配中の身でしたので、実動部隊の見廻組にとっては竜馬の暗殺は大義名分があり、勲章ものといえます。
竜馬が薩長連合や大政奉還に奔走した事を見廻組が知っていたかどうかは別としても、海援隊を組織して、武器弾薬の斡旋、運輸を手がけていた事は周知の事ですし、竜馬は佐幕派にとっては、武力倒幕の急先鋒に見えたと思いますから、竜馬を要注意人物として普段からマークしていたと思われます。だからこそ、もし見廻組が実行犯なら、すぐに竜馬殺害を喧伝したはずです。なのに何故わざわざ新撰組の仕業に見せかけようとしたりしたのでしょうか?なぜ、竜馬のような危険人物を殺害するのに、大義名分もあるのにわざわざ見廻組は殺害を他人のせいにする必要があったのでしょうか?
見廻組は実行部隊で、暗殺を指示した黒幕が他にいてその人が所属や名前を知られたくなかったのであれば、見廻組が単独で実行した事にしておくようその時に指示しておけば、むしろ大義名分があるので疑われることなく、後世に疑問を残す事無く、黒幕の存在は永久に隠されたままになっていたはずです。
反幕派の仕業に見せかけようとするのならまだしも、新撰組の仕業にしたりするから余計に疑われる結果になっています。当時の日本を左右する知略策略の佳境の場面で見廻組はなぜそのような幼稚な暗殺をしたのでしょうか?
別に薩摩が裏で手引きしたとまでは思いませんが、上記の事から竜馬暗殺は見廻組では無いように思うのですが、如何でしょうか?
投稿 はぎ | 2007年12月11日 (火) 12時17分
>はぎさん
コメント、ありがとうございます。
はぎさんがおっしゃられるように、官僚主義的だったり長いものにまかれる主義の学者もいるであろうことは私も否定はしません。そのような学者は、学者としての己を見直すべきですね。
ただ、幕末を研究している学者の多くが「見廻組の犯行という通説」を受け入れているのには、それ相応の理由があると私は思います。
明治以来、坂本龍馬については色々と研究されています。その地道な研究・議論の中で、見廻組実行犯説は大方の研究者に支持された(見廻組説が妥当だと多くの研究者が考えた)ため通説となったのでしょう。決して、「簡単に」ということではないと思います。
はぎさんが、犯人が犯行を「新撰組の仕業に見せかけようとしたりした」とおっしゃっているのは、殺害現場に残されていた鞘が新選組の原田左之助のものだとされたことを言っておられるのだろうと思います。しかし、現場に鞘が落ちていたのは事実だとしても、その鞘が本当に原田のものだったかどうか、私は疑わしいと思っております。
その鞘が原田のものだと証言したのは新選組から分離した御陵衛士のメンバーですが、彼らは首領の伊東甲子太郎を新選組に殺されたこともあって、新選組を敵視するところ大だったはずです。
一方、土佐藩関係者は事件直後から、犯人は新選組だろうと推測しています。新選組が犯人だとする何らかの根拠があったわけではなく、恐らくは新選組に対するイメージが先行しての推測だったと思いますが、土佐藩関係者はその推測をもとに、御陵衛士たちから「犯人は新選組」との証言を引き出そうとして、御陵衛士もそれに応じて原田の名前を出したものと思われます。
御陵衛士にとっても、土佐藩が新選組に敵意を抱いてくれるのは好都合だったからだと思います。つまり、鞘が本当に原田のものだったのかどうか、実はわからないというのが、私の考えです。ちなみに同じような考えを、菊地明氏が『龍馬暗殺完結篇』の中で述べておられます。菊地氏は、鞘が誰のものであるか、御陵衛士ははっきり特定できなかっただろうとも述べておられます。
ともかく、私は龍馬殺害の実行犯が、犯行を新選組の仕業に見せかけようとしたということはないと考えます。鞘はあくまで偶然落としてしまったもので、意図的なことではなかったと私は考えます…鞘を現場に残してしまったこと自体は幼稚なのかもしれませんが。
はぎさんがおっしゃられるように、犯人が龍馬殺害の事実を公にしなかった理由などははっきりとはわかりませんが、たとえそうだとしても、実行犯が見廻組であるという通説を否定するのは、よほど衝撃的な内容で信憑性も高そうな史料でも出てこない限り、なかなか困難なことではないでしょうか。
投稿 パルティアホースカラー | 2007年12月11日 (火) 21時38分
パルティアホースカラー様
わざわざご回答ありがとうございます。
鞘の件は勉強になりました。
私も恐らく見廻組だとは思うのですが、そうならばただ1点、殺害を公にしなかった事だけが納得いかないのですよ。
実行犯を仮に見廻組としたら、公にしなかった理由として例えばどの様な事が考えられますか?
投稿 はぎ | 2008年1月15日 (火) 19時00分
>はぎさん
再度のコメント、ありがとうございます。
見廻組が龍馬を殺害したとして、それをなぜ公言しなかったのか、私なりの推測をいくつか述べてみます。まったくの推測なので、正しいかどうかはわかりません。
まず1つ目。見廻組が、龍馬が「土佐藩士」であることを知らず、「浪士」であると思っていたとしたら、どうでしょうか。龍馬は慶応3年のはじめごろ、土佐藩から脱藩罪を許されて海援隊の隊長になるわけですが、見廻組がその事実を、龍馬殺害の後に知ったとしたら、どうでしょうか。「土佐藩士」とは知らず、「不逞浪士」だと思って殺したのではないかということです。
いかに寺田屋での前科があるとは言え、大政奉還を主唱した土佐藩の藩士を殺したとあっては、いささか面倒なことになるので、公言できなかった可能性もありえるのではないでしょうか。見廻組が土佐藩士を殺害したことを知ったら、日和見的態度の諸藩が幕府に不信感を抱く可能性もあるのではないでしょうか。見廻組としても、それは本意ではないでしょう。
また、2つ目の理由。龍馬が大政奉還を主唱していたことは、恐らく幕府首脳部にも知られていたことでしょう。徳川慶喜の側近である永井尚志と、龍馬は懇意にしていたようですから。その龍馬が主唱していた大政奉還を、慶喜は受け入れたわけです。
その状況で龍馬を殺すことは、幕府首脳部、特に慶喜への反逆と言っても差し支えありません。慶喜は腹の内でどのような構想を秘めていたにせよ、当面は土佐藩が建白してきた大政奉還を実行して、土佐藩と協調して行くことが目的です。見廻組は龍馬を殺したいぐらいに思っていたので殺したけれど、それを公言することは、慶喜の方針に真っ向から異を唱えることになるので、公言することを憚られる部分があったのかもしれません。
今のところ、ありうるとしたら、そのあたりかなぁと考えております。正しい保証はありません。
ちなみに、今回の話とは直接関係ありませんが、龍馬殺害事件については下記の記事に詳しくまとめていますので、まだお読みでないようでしたら、お読みください。
http://tosa-toad.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_d7bf.html
投稿 パルティアホースカラー | 2008年1月15日 (火) 20時28分
「龍馬暗殺事件をめぐって」を、大変興味深く拝読いたしました。
そこで、このレスポンスは、前提として、竜馬暗殺の実行犯は誰かという問題ではなく、薩摩藩首脳陣が竜馬を暗殺する動機があったかどうかという点をあくまでも否定されようとしておられるようでしたので、その事について私の思いを書かせて頂きます。
「龍馬殺害の薩摩藩黒幕説というものは、討幕派と公議政体派の相違点ばかりに注目し、共通性を無視してきたがゆえに出てきた考え方です。」とありますが、
討幕派と公議政体派は、それまで続いた幕府独裁体制を失墜させるという共通の考え方が確かにありますが、根本的な相違点として、新権力に徳川家が関わるかどうかという点が挙げられます。倒幕派にとってはこの問題は非常に大きな問題であり、もし新国家の構成単位に徳川家が加われば、やはり諸藩との政治的関係や様々な経済的事情など、あらゆるところに300年来の既得権が介在し、新国家といえども徳川家がアドバンテージを持ってしまい、旧権力が根底に残ったまま、公平性の無い政体が誕生するという可能性に危機感を感じたからこそ、薩摩・岩倉を中心とした倒幕派は、公議政体派(後藤・松平など)を出し抜いたり脅したりした上に、わずか15歳足らずの天皇を手中にして王政復古というクーデターを行ったのではないでしょうか。
このクーデターは言わずと知れた武力討幕や戊辰戦争を強行する事を目的としたものですから、佐幕派と共に公議政体派を壊滅する事を目的にしたものではないでしょうか。
要するに討幕派と公議政体派は「共通性」よりも、絶対に相容れられない大きな「相違点」があり、特に薩摩藩首脳陣はいかなる方法をもってしても公議政体派(の考え方)を断ちたかったのではないかと思われます。
そこで、もし坂本竜馬には後藤象二郎を焚きつけて公議政体論を推し続ける火元となる危険性があったのだとしたら、せっかく大政奉還までこぎ着けたのだから、新国家誕生までにその種火を消火しておきたかったのではないかという薩摩藩首脳陣の動機は考えられると思います。
ただそこで、坂本竜馬には本当に後藤象二郎をそこまで焚きつけ、影響をさせるほどの能力があったのかどうかという事に関しては疑問です。なので、竜馬に本当にその能力があったという証明がなされなければ意味の無い議論となってしまいますが。
投稿 はぎ | 2008年1月16日 (水) 19時01分
>はぎさん
長文のコメント、ありがとうございます。
私も以前は、はぎさんと同じような考え方を持っていました。ですが、最近の研究に触発されたり、あるいは自分なりに検討してみた結果、異なる認識を持つようになりました。
まず私は、はぎさんが武力討幕なり戊辰戦争の強行を目的としていたと見る王政復古クーデターについて、はぎさんとは異なる意見を持っています。結論から言ってしまえば、私は王政復古クーデターが武力討幕の実行や戦争の強行を目的としていたものとは考えていないのです。
確かに、そのクーデターで慶喜は政権から除外されましたが、新政権に慶喜が加わる道が完全に閉ざされていたわけではありません。慶喜がクーデターの首謀者たちの考え方に同調してくるなら(例えば辞官・納地を受け入れるとか)、慶喜は新政権に入れただろうと私は思っています。
もちろん、慶喜がクーデター首謀者たちに反発して挙兵などすれば戦争(あるいは討幕)となってしまいますが、必ずしもそれを最初から目的としたクーデターとは思わないのです。つまり、薩摩藩や岩倉は「何としても武力討幕、戦争に持ち込みたい」と考えていたのではなく、「慶喜の出方次第で、場合によっては武力討幕に至る可能性もありうる」程度の気持ちだったと私は思うのです。
もちろん、薩摩藩に恫喝的な態度が全くなかったとは思いませんが、それでも最初から討幕の戦争に至ることを前提としていなかったからこそ、公議政体派諸藩も消極的ながらクーデターに同意したのだと思っています。
ただ、薩摩藩は慶喜が辞官・納地を受け入れなければ、慶喜を新政権に加える気がなかったのは確かだと思います。公議政体派は辞官・納地がなくても慶喜を新政権に加えたかったわけですから、その点で確かに相違があります。ただ、どちらも慶喜の新政権参加を絶対に否定しているわけではないという意味で、私は根本的な対立とは見なしません。
それに、果たして辞官・納地は慶喜にとって絶対に受け入れ不可能なことだったのか、あるいは薩摩の強硬な主張が新政府内で押し通せない状況になる可能性はなかったのか、両者の間に妥協できる余地はあったのではないかなど、検討すべきだと感じます。
武力討幕派にとっても公議政体派にとっても、何より大事なのはせっかく樹立できた新政権を何とか維持することだったと思います。その意味で、共通性の方が大きいと感じています。
投稿 パルティアホースカラー | 2008年1月16日 (水) 21時06分
パルティアホースカラーさま
何度もお返事ありがとうございました。
なるほど~。
すごく深いですね。
良く調べておられるようで、こんなに手応えのあるやりとりをしたのは初めてです。正直感心させられました。
機会があれば実際にお会いしてお話をしてみたくなりました。
投稿 | 2008年1月17日 (木) 20時32分
↑名前を書き忘れていました。
今後ともよろしく!
投稿 はぎ | 2008年1月17日 (木) 20時34分
>はぎさん
いえいえ、感心したとまで言われると、
私の方が恐縮してしまいます。
もちろん、自分で調べた結果たどり着いた見解もありますが、他の方のご意見を伺って、自分の従来の考えを改めた部分も多いですから。
私がここで述べたことが絶対正しいとか、
間違いないとか断言できるほどのものではありませんので、あくまで1つの考え方として、参考にしていただければ嬉しいです。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします!
投稿 パルティアホースカラー | 2008年1月17日 (木) 23時13分